中大兄皇子2「白村江の戦い」

中大兄皇子2「白村江の戦い」
●この授業は、朝鮮半島が日本にとって非常に大きな戦略的な意味を持っていることを扱っています。この半島が侵略的な勢力に支配されるとき、日本の安全はいちじるしく脅かされます。このテーマは、白村江の戦いに始まり、元寇、日露戦争、日韓併合とくり返し現れ、その意味は現在も変わっていません。歴史を教えるとき、授業者がそうした連続性の自覚を持っていることが重要ではないかと考え、この授業をつくりました。おもしろいと思ったらやってみてください。そうでなければ、やらなくても小学校ではこまらないと思います。


1 朝鮮半島の戦略的な意味
【資料:分割した地図】
File0158.jpg

 地図A/B/Cを貼る・・・『この地図には足りないものがあります。何でしょう?』
 *朝鮮半島である。
*地図「朝鮮半島」を貼る ←→ 取る。

〈朝鮮半島は日本列島と中国大陸を結ぶ(    )である〉
 
『この文の( )に言葉を入れなさい』

発表させる。

〈朝鮮半島は、中国大陸と日本を結ぶ(橋、道、渡り廊下など・・・)である〉

『これまで、この橋を通って、いろいろなものが日本に渡ってきました。何ですか?』

 *米作りや金属をつくる技術、文字、仏教など、中国の進んだ文化や技術

 *戦争、武器

『これらは日本にとってプラスになりましたか?マイナスになりましたか?』

●考えを発表させる。

『見方はいろいろあっていいでしょう。のどかな縄文時代が終わってしまった。美味しいお米を食べるようになった。何よりも日本の国がつくられ発展を始めた。今日は、大化の改新の時代の国際情勢を見ながら、朝鮮半島が日本の運命に対して持っている大きな意味について考えてみましょう」

2 百済が滅びた
【プリント資料「地図①②」】を配る。
『まず①の地図を見てください。唐・高句麗・新羅・百済・日本がある』
File0159.jpg

『中大兄皇子が大和の国のリーダーになった頃、朝鮮には3つの国があり、大和朝廷の日本統一と国づくりに影響されて、それぞれが朝鮮半島の統一をめざしていました。一方、大帝国唐は朝鮮半島を支配したいと考え、3国の中で一番遠い新羅に目をつけて同盟を組びました。唐と新羅の思わくを書いておきましょう』

唐・・・・・朝鮮半島を支配したい
新羅・・・・朝鮮半島を統一したい・・・日本の統一と国づくりに影響されて

●唐と新羅が同盟・・・・・・・・遠交近攻(はさみうち)戦略を教える。

『その結果どうなったでしょう?地図の②を見てください』
File0160.jpg

 659年(33歳)・・・百済がほろぼされた

『長く続いてきた百済の国が消えてしまった。滅びたのです』

3 百済を助けるべき否か?
 ●以下のお話を聞かせる。


 百済は大和の国(日本)とは長いつきあいがありました。仏教を伝えてもらったり、中国の進んだ文化の多くはこの国から入ってきました。その百済が滅びたとき、百済のリーダーたちやその家族がたくさん日本に逃げてきました。その中には、百済の国の王子もいました。王子は中大兄皇子に頼みました。
「かの地には、百済の武将たちがまだ残って戦いの準備をしています。もう一度、百済の国を立て直したいのです。どうか私たちの戦いを助けてください。」


 
『中大兄皇子は、2つの考えの間で真剣に迷いました。皇子の決断はどちらだったでしょうか?』

百済王子の願いに対して、百済を?    A 助ける    B 見捨てる

*AかBに挙手させ、意見分布をとり、それぞれの理由を発表させる。
*皇子の決断「A」を教える。

4 白村江の戦い
『中大兄皇子は百済を助けるという政策を実行に移しました。天智天皇は27000もの大軍を400隻の船に乗せて朝鮮に送りました。』

わが国の軍船400隻と唐の軍船170隻が、朝鮮半島の白村江で激突しました。
どちらが勝ったと思いますか?

*勝ったまたは負けたに挙手させる。

●DVD「白村江の戦い」(NHK「そのとき歴史が動いた」)を見せる。戦いの様子と戦いの後の日本の動き見せます。動画がなければ、おおよそを物語る天智天皇に即位し大津宮に遷都したことなど。

663年:白村江の戦い(37歳)  敗戦
敗戦後、天智天皇は、国の守りを固めた:水城、山城、大津宮

『残念ですが、大敗北でした。百済のリーダーたちの意見の食い違いや、船の構造、作戦などが原因でした。両側からはさみうちされて、わが国の船は次々と燃え上がり、乗っていた多くの兵士は死んで、海は血で真っ赤に染まったと、中国の歴史の本に書いてあります』
【プリント資料「③」】を配る。
File0161.jpg

5 戦後の戦略を考える
【プリント資料「④」】を配る。
File0162.jpg
『どうなりましたか?』
*高句麗が滅びて、唐が朝鮮半島に攻め込んできた。

『668年高句麗が滅ぼされて、新羅が朝鮮半島を統一しました。すると、ここまで新羅を応援してきた唐は、こんどは新羅に攻め込んできました。最後のねらいは、朝鮮半島の征服です』

668年(42歳)  高句麗が滅び、唐と新羅の戦いが始まった

『わが国に両国から使者が来ました。両国とも「応援してほしい」というのです。唐は200隻もの軍船をつらねて来て、おどしをかけました。お得意の「遠交近攻」戦術です』


  天智天皇はどうすべきでしょう。
A:新羅を応援する   B:唐を応援する  C:中立を守る

*ノートに理由を書かせて、発表させる。意見分布をとる。
『中大兄皇子(天智天皇)は中立を守り、守りを固めました。続く天武天皇は新羅を応援しました。そして、大化の改新後の国づくりの改革を強力に進めていきました』

中大兄皇子(天智天皇)・・・・C:中立(城・水城・防人・のろし)
天武天皇・・・・・・・・・・・A:新羅を応援した

2人ともB(唐と組む)だけは、絶対にダメだと考えていました。それはなぜでしょうか?

*挙手発言で言わせる。
『日本海は自然のお堀であり、要塞です。しかし、もし朝鮮半島がなかったら、中国の進んだ文化は入りにくかったかも知れません。だから、これがあるおかげで日本は発展する刺激をもらうことができました。しかし、この橋は日本にとってたいへん危険な橋でもある。ここに、日本の友好国がいてがんばっていれば、大帝国が日本まで攻めてくる危険は少ないといえます。逆に強大で侵略的な国がここを支配たとき、朝鮮半島という橋は危険な軍隊を運ぶ危険な橋になるのです。そういう危険なときが後の歴史に現実になるときがやってきます。それまで、この授業を覚えておいてほしいのです』

6 敗戦と国づくりの発展
さて、白村江の戦いに負けて、わが国はどうなったでしょうか。

A:大敗戦のショックから立ち直れず、発展が止まった。
B:大敗戦をバネにして、国づくりにいきおいがついた。

●正解はBでした。
『天武天皇は天皇中心の国づくりを強力に進めていきました。そしてついに、わが国は正式に「日本」(国号)を名乗るようになります。そして、聖徳太子の大方針を受けついだ大和朝廷の国づくりは、その後40年ほどで完成します』
スポンサーサイト

中大兄皇子1「大化の改新」

中大兄皇子1「大化の改新」
●学習指導要領には42人の歴史人物を教えることが定められています。その人選には異論もありますが、とりあえず小学校の歴史学習の一つの基準として、私はこれに従って授業づくりをしてきました。かなり軽重はつけていますが。ここでは中大兄皇子の大化の改新がまさしく聖徳太子の国づくりの大方針の継承であることを学びます。

1 聖徳太子一族の滅亡
【プリント「聖徳太子一族の滅亡」】を読み、問題を考えさせる。
【資料:石舞台古墳】【資料:遣唐使航路図】【資料:復元遣唐使船】


お話 聖徳太子一族の滅亡
①聖徳太子の死後、再び蘇我氏の一族が実力をふるい始めた。
 とくに蘇我馬子の孫の蘇我入鹿は、唐から帰国した留学生が先生になって日本のリーダーを育てていた塾の中で、一番頭がいいといわれ、朝廷の政治でも実力を出していた。蘇我氏は天皇の宮殿と同じような屋敷を建てて「みかど」とよばせたり、天皇と同じようなぶ古墳をつくらせて「みささぎ」とよばせたりした。「みかど」も「みささぎ」も聖徳太子のころから、天皇にだけ使える言葉だったので、人々は蘇我入鹿の心ををあやしむようになった。
②蘇我氏が力を伸ばしたことをよく思わない豪族たちには、聖徳太子の子である山背大兄皇子に天皇になってもらって、蘇我氏のいきおいをおさえ、聖徳太子の国づくりを受けついでもらいたいと願う者が多かった。
③これではあぶないと考えた蘇我入鹿は「山背大兄皇子を倒せば問題は解決する」と蘇我氏の軍を出して皇子をおそった。六四三年のことである。
 皇子の家来たちは「東に逃げて生きていれば味方はいるのだから必ず蘇我氏を倒すことができます」と皇子を説得したが、皇子はなぜか聞かなかった。そしてこう言って死んだと『日本書紀』に書いてある。
「私がもし兵をひきいて戦えば、その戦いでまた多くの国民の命をうばうことになる。私一人が死んで国がまとまるのなら、それも男子の道といえるのではないか」こう言って、皇子は自殺し、一族の者も後を追って死んだ。こうして、聖徳太子の直接の子孫はいなくなってしまった。

【問題】みなさんは大和朝廷のリーダーです。どちらを選びますか?

A 国がまとまるのなら、蘇我氏中心の国でもかまわない。いや、その時その
 時でいちばん実力のある人が中心になって国をまとめたほうが、日本はよ
 り発展するだろう。ここで蘇我氏を倒す戦いを起こせば、山背大兄皇子が
 聖徳太子の「和」の教えを守って戦いをさけた意味がなくなってしまう。

B 蘇我氏を倒して、天皇家中心の国のかたちを守り、聖徳太子の国づくりの
  方針を受けつぐべきだ。戦いはないほうがいいが、もしこのまま蘇我氏が
 天皇家にかわって国の中心になることを許せば、またいつかは第二、第三
 の実力者が現れて、かえって戦いがくりかえされることになるだろう。


『あなたが当時の日本のリーダーだったら、どちらを選びますか?』

A その時の実力者が国家のリーダーになればよい(中国方式)
B 天皇家の血筋から天皇を選び、国の中心となるべきだ(日本方式)

*ノートに書かせてから発表させる。
 *相互に反論があれば討論させる。
 *Bが勝ったという史実を教え、次に進む。

2 中大兄皇子と中臣鎌足
【肖像画】を貼り、生年を板書する。

*以下を物語る。

①中大兄皇子は626年に生まれた。
父は舒明天皇、母は皇極天皇、賢くて決断力のある若者だった。天皇家の若き皇子として、蘇我氏のやり方に反対だった。そして、聖徳太子の国づくりを受け継いで発展させたいと考えていた。
②中臣鎌足は614年生まれた。
日本の神々をまつることを国の仕事としてつとめてきた家柄だった。蘇我入鹿と同じ塾に通い、同じくらい優秀だった。
③二人は、蘇我入鹿が「天皇中心に国がまとまる」という聖徳太子の大方針を乱して、国を自分のものにしようとしていると考えていた。
④二人は、蹴鞠の会で出会い親友となった。同じ塾に通って勉強しながら、蘇我氏を倒すことを話し合った。
⑤645年6月12日、朝鮮の三国(百済・新羅・高句麗)から使節がやってきたとき、二人は仲間と共に、天皇の前で蘇我入鹿を殺した。
中大兄皇子は天皇に言った。
「蘇我入鹿は、天皇をほろぼし、自分が天皇になろうとしています。許してはなりません」この事件で、それまで蘇我氏を応援していた人々も去り、蘇我入鹿の父も「おまえはやりすぎた。だから恨みをかったのだ」とつぶやき、自ら屋敷に火を放って死んだ。これによって、蘇我氏も滅んだ。

⑥数日後、飛鳥寺の大ケヤキの下に朝廷の役人たちを集めて、中大兄皇子は宣言した。
「天と地の間には、君主は一人しかいない。しかし、君と臣の順序がでたらめになってしまった。そこで、天が私たちに力をかして、道をふみはずした蘇我氏を討たせてくださったのである。
 これからは、一人の天皇を中心にして、臣たるものは天皇に従うようにしなければならない。これにそむくようなことがあれば、必ず天の罰を受けることになるだろう」

⑦皇子は、初めて元号「大化」を定めて、この645年を大化元年と決めた。そして、次々に、聖徳太子の方針を受け継ぐ、国づくりの大改革を実行した。
これを大化の改新という。・・・

『平成まで続いている元号は、大化から平成までいくつあるでしょうか?』

*元号は今にまで続いて247になる。今上天皇は神武天皇から数えて125代目。

3 大化の改新について知る
*【資料「大化の改新って何だ?】を読む。



大化の改新て何だ?

■地方には古墳時代からの「くに」があり、それぞれの「くに」にはリーダーがいた。このリーダーはむかし「王(きみ)」とよばれていたが、大和朝廷が日本を統一して、王という地位を捨てて大和朝廷の支配下に入った(これが豪族)。けれども聖徳太子や中大兄皇子の時代には、まだ地方ごとの「くに」はそのままで、地方ごとに税が集められ、地方ごとに政治が行われていた。
まだ、本当の意味で「国が一つになった」とはいえなかった。聖徳太子の大方針は、これを本当の意味で「天皇の下に一つの国にする(天下)」ことだった。それでなければ、大帝国「隋」や「唐」と対等になることは夢のまた夢だったからだ。

■大化の改新に参加した遣隋使の留学生たちは、ちょうど隋がほろびて唐が天下を取ったときに中国にいて、新しい中国が生まれ変わるところを見てきた。大化の改新は、この唐の国づくりから学んで、日本を本当の意味で「一つの国」にすることだった。
中大兄皇子と中臣鎌足が行った大改革のおもなものは次の通りだ。

①【地方ごとの「くに」をやめて、土地と人民を一つにまとめる】
 地方ごとの「くに」をやめさせて、全国の土地と人民を、天皇のもとに一つにまとめて(国土と国民)、本当の意味で「日本」という一つの国をつくった。

②【地方に国の役人をはけんして、全国で同じ政治を進める】
昔からその土地を支配してきた豪族にかわって、大和朝廷が「国司(こくし)」という役人(いまの知事や市長)を任命し、国の方針どおり地方の政治を進めさせた。

③【税を公平にし、全国民の税を国に集め、大きな政治ができるようにする】
 人民にはあらためて、天皇が公平に土地(田)を与えて、地方ごとにバラバラだった税も、全国公平に集められるようにした。全国の税が国に集まり大きな政治が行えるようになり、りっぱな国の首都(難波京)を造ったり、
全国につながる道をつくったりできるようになった。

④【国を守る軍隊をつくる】
 全国から公平に兵隊を集めて、防人(さきもり)という国の軍隊つくり、いざというときにそなえた。

(注)①のことを公地公民といいます。
③の税は「租・庸・調」などがあった。その内容は資料集を見てください。



『中大兄皇子の大改革を「大化の改新」といいます。中大兄皇子は日本をどんな国にしようとしたのでしょうか?』

*ノートに書かせ、発表させる。

 ●「天皇中心の国」「天皇中心にひとつにまとまる国」

『大化の改新の中には、聖徳太子の大方針がすべて入っています。聖徳太子の国づくりの設計図が受け継がれ、実現し始めたことがわかります。中大兄皇子と中臣鎌足は、聖徳太子の国づくりのバトンを受け継いで実行していった人物だと言えるでしょう』
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
FC2カウンター
ご訪問ありがとうございます!
FC2ブログランキング
ワンクリック!応援よろしく御願いします。

FC2Blog Ranking

人気ブログランキングへにほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる