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佐久間勉

 明治四十三年(一九一〇)四月十五日午前九時半、第六潜水艇は試運転を終え、広島湾を沖へ向かって訓練航行を始めた。
二・五キロほど行ったところで潜航に移ったが、以後再び浮上することはなかった。

 第六潜水艇は、その名の通り日本海軍六番目の潜水艦である。
第五潜水艇まではアメリカ製で、第六潜水艇は初めての国産潜水艦だった(大正八年までは「潜水艇」が正式名称)。

この国産艇は改良型とよばれ、空気を取り込む通風筒があった。
潜水艇は浮上すればガソリンエンジンで進めるが、水中に潜れば酸素が得られないので蓄電池によるモーターで進む。
これは出力が弱く距離も出せない。そこで、通風筒を海面に突き出して空気を取り入れ、ガソリン機関運転で半潜航を行えば潜航距離も増すというアイディアだった。
しかし、半潜航には通風口から海水が侵入する危険がともなった。また、
他の五艇よりも細長くして速力の増加をねらったため、波に弱く故障も多かった。

 母艇による第六潜水艇の最終確認は午前十時五十二分だった。
これまでも七時間ほど潜航していたことがあったので、異変だとして報告されときはすでに午後五時になっていた。
ただちに大規模な捜索作戦が実施されたが、第六潜水艇が発見されたのは、翌日の午後だった。
艇は水深約十六メートルの海底で船尾を泥に埋もれさせて横たわっていた。
引き上げ作業にはさらにもう一日かかった。

 もはや生存者がある可能性はなかった。
だが、捜索に当たった海軍関係者達には、それとは別の思いがあった。
というのも、こうした黎明期の潜水艦事故は西欧諸国でも起きており、それらの遺体発見の様相がいずれも尋常のありさまではなかったからである。

 イギリス海軍の場合も、フランス海軍の場合も、乗組員たちは全員がハッチに殺到した状態で折り重なって死亡していた。
ある場合には、先を争って乱闘さえ起きた様子が歴然としているケースもあった。
海底で閉鎖された空間に閉じこめられ、空気が薄くなり、有毒ガスも発生し、やがて死を目前にするという精神的肉体的な苦痛を思えば、それらは人間のありのままの姿だったのだが、各国海軍の軍人たちからすれば、やはり不名誉な死に様とみなされていたのである。

 しかし、第六潜水艇は、それらのどの場合ともまったく異なっていた。
佐久間勉艇長をふくむ十四名の乗組員全員の遺体は、すべて各自の持ち場で発見されたのである。
足立倫行『死生天明・・・佐久間艇長の遺書』(ウエッジ)によれば次の通りであった。

「佐久間艇長は司令塔の真下、艇の中央部の福原三機曹と岡田一機曹の隣に滑り落ちた形で仰向けになっていた。艇首の魚雷発射管左右には、前後の扉を閉じて海水の侵入を止めようとしたのか、浴山一層と遠藤一水が倒れていた。
原山機関中尉は、海水と電池の電液の混合による致死的な塩素ガスの発生を懸念したのだろう、二次電池の前だった。
 吉原一水、河野三機曹、堤二曹、山本二機曹は手動ポンプの付近に固まっていたから、交代でポンプ排水中にこと切れたのだ。
 長谷川中尉と門田一曹、それに先の岡田は、ガソリンタンクの空気管から噴出するガソリンガスを最後まで防止しようとしたのか、ガソリンタンク前で横臥していた。
檜皮二機曹もタンク前で座ったまま絶命。
『内燃機関の神様』鈴木上機曹は海水につかった配電盤をそれでも何とか直そうと思ったのか、艇尾の近くで仰向けになっていた。

 全員がその職分を守り、息絶えるまで事態改善に努めていたことが一目瞭然だった。」

この事実は捜索に当たった人々に大きな感銘を与えた。

 翌十七日になって、遺品の中から佐久間艇長の手帳が見つかり、そこに長文の遺書が遺されているのがわかった。
佐久間艇長は、空気が乏しくなり、薄れゆく意識の中で、死の直前まで遺書を書き続けていたのだった。次にこの遺書を紹介する(原文はカタカナ)。

「佐久間艇長遺言。小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す、誠に申し訳なし。
されど、艇員一同、死に至るまで、皆よくその職を守り、沈着に事を処せり。

我らは、国家のため職にたおれしといえども、ただただ、遺憾とするところは、天下の士これを誤り、もって将来潜水艇の発展に打撃を与うるに至らざるやを憂うるにあり。

ねがわくは、諸君、益々勉励もってこの誤解なく、将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。
さすれば我れら、ひとつも遺憾とするところなし。

(中略)

 余は、常に潜水艇員は、沈着細心の注意を要すると共に、大胆に行動せざれば、その発展を望むべからず。
細心の余り畏縮せざらんことを戒めたり。

 世の人は、この失敗をもってあるいは嘲笑するものあらん。
されど、我は前言の誤りのなきを確信する。

(これ以下は「公遺言」の表題がある)

 謹んで陛下に申す。わが部下の遺族をして、窮する者無からしめ給わらんことを。
わが念頭にかかるものこれあるのみ。

 左の諸君によろしく(順序不順)
斎藤大臣、島村中將、藤井中將、名和中將、山下少將一、成田少將
(気圧高まり、鼓膜を破らるるごとき感あり) 
小栗大佐、井手大佐、松村中佐(純一)、松村大佐(竜)、松村小佐(菊、小生の兄なり)船越大佐、成田綱太郎先生、生田小金次先生

十二時三十分、呼吸非常くるしい。ガソリンをブローアウトせしつもりなれども、ガソリンに酔うた。

中野大佐
十二時四十分なり」


ここで遺書は終わっている。

数日後には、潜水艦事故と佐久間艇長の遺書は全国に伝えられ、感動の嵐が日本列島を揺るがした。
海外でも日本軍人の使命感、責任感の強さ、精神性の高さが大きく報道された。

またこの話は、「職務を全うする」ことを教える教材として、戦前の小学校修身の教科書に取り上げられ、佐久間艇長の名は日本人の常識だった。
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樋口季一郎と杉原千畝

 1933年、ドイツにナチス政権が成立しユダヤ人に対する迫害が始まった。
祖国を持たない大量のユダヤ人難民が受け入れ国を求めてさまよい出した。ユダヤ人を受け入れてくれる国は少なく、同情的だった英米さえ入国制限をするようなった。日本もユダヤ人難民受け入れの方針を立てる必要に迫られ「ユダヤ人対策要綱」が策定された。

 日本は第一次世界大戦後のベルサイユ会議で「人種平等案」を提案したことがあるように、有色人種の先頭に立って人種平等の精神を主張してきた。ユダヤ人迫害は明らかにこの日本精神に反していた。
「要綱」には、現在居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱うこと、入国するユダヤ人は入国取締規則に基づき公正に対処すること、などユダヤ人を差別しない方針がうたわれた。

1939年ドイツはポーランドに侵攻しヨーロッパは戦場になったため、彼らが逃れる道はもはやシベリア鉄道しか残っていなかった。彼らの多くは日支事変によって日本軍が占領していた上海をめざした。
なぜなら、当時上海だけがビザなしでも難民を受け入れる唯一の都市だったからだ。上海には2万7千人のユダヤ人が移り住んでいた。

1938年12月、満州のハルピンで第1回極東ユダヤ人大会が開かれ、日本を始め東アジアからからたくさんのユダヤ人が集まった。ナチス・ドイツの暴挙を世界に訴えるのが目的だった。
この会の開催を許可したのが、ハルピン特務機関長だった樋口季一郎中将だった。樋口はこの会に来賓として出席し、次のような挨拶をしている。

「ヨーロッパのある国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として追放している。(中略)受け入れ国がないまま追放するのは、刃を加えない虐殺にひとしい行為である。私は個人としてこのような行為に怒りを覚え、心から憎まずにいられない。」

翌年の3月に事件が起こった。
満州国の満州里駅と国境を隔てたソ連領オトポール駅に、約2万人のユダヤ難民が吹雪の中で立ち往生しているというのだ。彼らは日本滞在のビザを持たないので、ウラジオストクから船で日本に渡ることができない。そこで、満州国を経由して陸路上海をめざそうとしたのである。

 樋口はただちに満鉄総裁の松岡洋右に頼んで列車の手配をした。満州国の外務省を飛び越えて動くのは樋口の権限を越えていたが、樋口は「五族協和・王道楽土」という満州国建国の理想を信じたかった。
樋口のおかげで、すべての難民がハルピン駅まで運ばれ医療介護を受けて命びろいをした。多くはその後上海へ向かい一部は満州に入植した。樋口はそのための住居や土地も世話している。

この件について、ドイツ外相から「ドイツ国家と総統の理想に対する妨害行為だ」と、樋口の処分を要求する抗議が舞い込んだ。
樋口は満州国参謀本部参謀長の東条英機に呼び出されたが、次のように主張したという。

「ドイツのユダヤ人迫害という国策は人道上の敵であり、日本満州の両国がこれに協力すれば人倫の道に外れることになります。ヒトラーのお先棒をかついで弱い者いじめをすることを正しいと思われますか。」

 東条は説得され、樋口は処分されないどころか参謀本部第2部長に栄転していった。
別れの時、特急あじあ号の展望デッキに立った樋口を、満州在留のユダヤ人が見送った。ホームにあふれた群衆は、両目に涙をあふれさせながら口々に感謝の声をかけて見送った。

翌1940年7月、ユーラシア大陸の西北端のリトアニアでは、領事の杉原千畝が外務省の訓令を破って6千人のユダヤ人難民に手書きの日本滞在ビザを発給した。
前年にドイツが侵攻したポーランドから逃れてきたのである。
日本通過ビザがなければソ連を通過できず、ゲシュタポに逮捕され、強制収容所に送られ、その多くは虐殺されていただろう。

 杉原千畝は書いている。

「最初の訓令を受理した日は,一晩中私は考えた。考えつくした。訓令を文字どおり民衆に伝えれば,私は本省に対し従順であるとして,ほめられこそすれ,と考えた。(中略)苦慮,煩悶の挙句,私はついに人道博愛精神第一,という結論を得た」

 杉原は、毎日毎日数百枚のビザを手書きで書いた。
 杉原からビザを発給されたユダヤ人はシベリア鉄道を経てウラジオストクに至り、そこから船で日本に渡り、神戸や横浜から上海かイスラエルかアメリカに逃れて生き延びることができた。

 さて、最後に上海のユダヤ人はどうなったのか。
1941年、後に「ワルシャワの虐殺者」とよばれることになるナチス親衛隊のヨーゼフ・マイジンガーが上海にやってきた。彼は上海を管理する日本軍にこう提案した。

「廃船にユダヤ人を詰め込み、洋上で撃沈する。」

 ヒトラーの大虐殺計画をアジアにまで持ち込もうとしたのである。
しかし、日本政府はこの要請を断固として拒否した。ユダヤ人居住区の生活は、戦時中困難を極めたが、ユダヤ人はそれを乗り越えて終戦によって解放された。

 イスラエルの首都エルサレムの丘に高さ3メートルの本を広げた形の黄金の碑が立っている。
ユダヤ民族のために力をかした人々の恩を永久に讃えるために、世界各国のユダヤ人の寄付で造られた。ユダヤ人は歴史上多くの迫害を受けたが、一部の人々から受けた恩を忘れずにこの碑に記してる。 
メンデルスゾーンやアインシュタインなどのユダヤの偉人達にまじって、「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり その次に樋口の部下であった安江仙江大佐の名も刻まれている。

また外交官・杉浦千畝はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられている。

 樋口季一郎と杉原千畝は、現在もなおイスラエル国民および世界のユダヤ人から偉大な人物として顕彰されているのである。

今村均中将とインドネシアの独立

今村均中将とインドネシアの独立

 インドネシアがオランダの植民地になったのは、1605年、わが国の江戸時代が始まったばかりの時だった。それから三百数十年間、インドネシアは、人口わずか0.5%のオランダ人に支配され続けた。
 オランダの支配は過酷だった。
 インドネシア人は全生産額の六五%をオランダ人に収奪され、イスラム教の信仰が禁止された。
 オランダはインドネシア人から物も心もすべてを奪ったのである。
 インドネシア人には教育の機会は与えられなかった。
 だから、ほとんどの人は読み書きができなかった。これを愚民化政策という。教育が独立心を育てることを恐れたのだ。

 また、オランダ人は奪っただけでなく、インドネシア人を下等階級として差別した。
 都市にはインドネシア人が入れない地区があった。スイミングプールの入り口には「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書いてあった。
 オランダだけでなく、イギリスやフランスも、白人たちはみなこれと同様のやり方でアジアを支配した。
 その情け容赦のない圧政は、アジア人にとって避けることのできない運命のように見えた。
 白人はアジア人を支配し、アジア人は白人に支配される。それが世界のゆるぎない現実だった。

 1941年12月、日本はこの世界史の運命をひっくり返す戦争に突入した。
 大東亜戦争である。日本は「自存自衛のために」やむなく立ち上がったのだが、日本人がアジア人であったために、この戦争はおのずから植民地解放戦争という意義を担うことになった。
 とりわけインドネシアの日本統治においては、その意志が明確に示されたのである。



 1942年3月1日、今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千でインドネシアのジャワ島上陸を敢行した。
 攻略は上陸後三ヶ月はかかるだろうと予想されていたが、わずか九日後に、オランダ軍司令官は全面降伏した。 インドネシア人が日本軍を歓迎し、オランダ軍が築いた障害物を撤去するなど、すすんで日本軍の進撃を助けたからである。
 進撃の途中に村の長老が今村中将にたずた。

「この国では何百年も昔から『いつか北方から同じ人種の強い軍団がやってきて、トウモロコシが実をつけるまでに我々の自由を取り戻してくれる』と言い伝えられていますが、あなた方は同じ人種でしょうか。言葉はちがっていますが」

 今村は答えた。
「われわれ日本民族の祖先には、この国から船で日本に渡ってきた人々もいます。みなさんと日本人は兄弟です。われわれは、みなさんに自由をもたらすために戦うのです」

 それはインドネシアに長く言い伝えられたジョヨボヨの予言のことだった。
 日本軍はこの予言を実現するためインドネシアにやって来たのだった。

 今村中将はバタビヤを占領し、そこを現地語のジャカルタに改名した。
 そして、投獄されていた独立運動の指導者スカルノとハッタを解放した。
 日本軍の司令部には過激な独立運動家を解放するのは危険だと反対する声が多かったが、今村は信念に従った。

「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。
 かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事である」

といい、スカルノとハッタに、よりよい政治と福祉を約束した。彼らは軍政に協力することを誓った。
 それから、今村の信念が次々と実行に移された。

 300近い言語をインドネシア語に統一し、民族として団結できる基盤がつくられた。
 イスラム教の信仰を回復し、彼らに誇りを取り戻させた。たくさんの学校をつくり教育に力を入れた。
 教育に対する日本の命令は「オランダ語の禁止、日本語・唱歌・教練を含むこと」だけで、あとはインドネシア人の自由に任された。
 現地人の担当者は、インドネシアの歴史を教えるなど、工夫してインドネシア国民の愛国心を育成した。
 州の長官、副長官など、行政の中枢にも現地人を登用した。州や市の参議会を作り議会運営も習得させた。
 こうしてインドネシア人の行政能力を育成していった。

 さらに極めつけはインドネシア義勇軍(PETA)を編成したことである。
 3万5千ものインドネシア人兵士と将校が育成され、これらの人々が後の対オランダ独立戦争の主役となっていったのである。



 1945年8月15日、日本は連合国に降伏した。
 二日後、スカルノとハッタはインドネシアの独立を宣言した。
 そして、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。
 ところが、オランダは、植民地の復活を図ってただちに行動を起こした。
 彼らは大東亜戦争後も、戦前と同様の植民地支配を続けようとしたのである。

 オランダは、降伏した日本軍に独立運動を阻止するよう命令してきた。
 しかし、今まで日本軍に協力してきた独立運動の幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。
 日本軍の将校や兵士たちはこの願いに協力した。進駐してきたオランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に兵器を渡したのである。
 こうして、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数が、独立軍のものになった。

 すすんでインドネシア軍に身を投じて、独立戦争をともに戦った日本人も多かった。
 インドネシア兵は、日本人によって義勇軍の訓練は受けたが戦闘の経験はなかった。
 実戦に慣れないインドネシア人を率いて、日本人は常に先頭に立って戦った。
 その数は千とも2千とも言われるが、そのうち4百名ほどが戦死し、インドネシアの国立英雄墓地に眠っている。

 オランダとの独立戦争は1949年12月まで、5年5ヶ月も続いた。
 兵士こそ200万人いたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心だった。
 オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、死者80万人、負傷者1千万人ともいわれている。
 長すぎた独立戦争に対して、インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会も撤兵勧告を行った。
 全世界の世論に押されてオランダはようやく再植民地化を諦めたのである。
 こうして、日本は白人たちとの戦争には敗れたが、
「彼らが独立を戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」
 という今村均中将の言葉は実ったのである。

栗林忠道

 栗林忠道は、明治24年、長野県松代のもと郷士の家に生まれた。少年時代の栗林は、並はずれた集中力を持ち頭脳明晰で文才に恵まれていた。

中学校を出た栗林は、陸軍士官学校から陸軍大学校に進み次席で卒業して天皇陛下から軍刀を拝領した。しかし、幼年学校出身ではなかったため、陸軍組織の本流からは外れ、同期生に比べると出世は遅れた。道の平坦ではなかったことが、かえって栗林の強靱な意志力を鍛え、誇り高い人格を形成することになった。

 昭和3年、栗林忠道は陸大次席の報償として、恐慌前の好景気に沸くアメリカに留学した。忠道はここで見聞を広め、持ち前の合理的な思考力に磨きをかけるとともに陸軍きっての米国通になった。

 米国滞在中、栗林はまだ字の読めない息子に沢山の絵手紙を送っている。それは毎回「太郎君へ」で始まり、達者な鉛筆画に語りかけるような平易な言葉が添えられている。栗林の家族思い、子煩悩な人柄を彷彿とさせる挿話である。

このとき妻には「米国は世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いを避けるべきだ」と書いているが、大東亜戦争が始まっても、栗林は政治にはいっさい発言しなかった。
自身の米国観がどうであれ、祖国がいったん興亡をかけた戦争に突入すれば、黙ってこれに処するのが軍人の本分である。それが栗林の変わらぬ信条だった。 

 昭和19年5月、陸軍中将栗林忠道は硫黄島防衛の任務に就いた。硫黄島は、サイパン島を離陸したB29が東京を空襲するための航路に位置している。ここにわが軍が健在なうちは、本土空襲も敵の意のままにはならない。
ここを守り抜くことによって首都東京を大空襲から守ること。それが、日本軍が硫黄島を守りぬこうとした理由である。

着任した栗林師団長は自ら陣頭指揮を執った。
 まず島民800名全員を疎開させ、地下要塞を構築して持久戦に持ち込むという戦術を策定した。

 従来、上陸作戦に対抗するには敵が最も無防備になる水際で撃滅する作戦が常道だった。しかし、栗林は、制空権・制海権を奪われ空爆と艦砲射撃に援護された上陸部隊を水際で迎え撃っても、長くは持ちこたえられないと考えた。
 栗林の目標は明確だった。1日1時間でも長く、首都を、国民を、家族を守り抜く。
 そのためには、敵を上陸させてから、地下要塞を使って神出鬼没のゲリラ戦を展開し、持久戦に持ち込むことだ。
 そして、補給がない以上いずれ全滅が免れないとしても、米軍に大きな損害を与えることが出来れば終戦への道が開けるのではないかと考えていた。米国の政治が世論で動くことを知っていたからである。

 しかし、硫黄ガスが吹き出し、地熱のため40度以上になる地下に、無数の陣地とそれらを縦横につなぐトンネルを掘ることは想像を絶する困難な作業だった。兵士たちはよく耐えて地下10mに全長約18kmにおよぶ地下要塞をつくりあげた。

 さらに栗林は、将兵たちに厳しい軍律を課した。当時の日本軍は敗色が濃くなると「潔く死のう」と抜刀して突撃する例が多かったが、栗林はこれを厳しく禁じたのだ。これは命を粗末にするなということだった。
 そして「敵十人を斃さざれば死すとも死せず」「最後の一人となるもゲリラによって敵を悩まさん」などの敢闘の誓いを守らせた。これは、命を最も有効に使いつくせということだった。

 ここまで厳しい将軍に、2万人の将兵が最後までについてきた。
 栗林には部下と運命を共にするという明確な意志があり、それがすべての兵に伝わっていたからである。兵と同じ食事をとり、兵と同じ一日コップ1杯の水しか使わず、戦いの最後の訓辞で「余は常に諸氏の先頭にあり」と言い切ったように、最後まで率先垂範したからである。

 昭和20年2月、米軍の上陸作戦が始まった。米軍の総兵力はおよそ12万人、栗林の兵力のおよそ5倍だった。しかも空と海を制した圧倒的な物量である。米軍は5日間で占領できると見ていた。

 しかし、白兵戦を交えた死闘は3月26日まで1ヶ月以上続いた。
 米軍の死傷者は28689人(戦死6821人)、日本側の死傷者は20933人(戦死19900人)、死傷者の総数は米軍のほうが多かった。アメリカの新聞は実質的な敗戦ではないかという記事を書いた。

 3月17日、栗林は大本営に「戦局、最後の関頭に直面せり」という決別電報を打ち、辞世「国の為重き務めを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」を遺した。

 兵と共に突撃して死んだ師団長は、陸軍の戦史のなかで栗林のみである。栗林がいかに誇り高い指揮官であったかがわかるだろう。

 栗林は「重き努めを果たし得で」と詠んだが、硫黄島の戦いはアメリカ人の継戦意欲を著しく減少させた。日本の兵士2万を倒すために、米軍兵士の2万8千を死傷させなければならなかったからだ。

 続く沖縄戦でも約5万人の戦死傷者を出したアメリカは、ついに無条件降伏という大方針を撤回してポツダム宣言を発表した。それは日本政府に領土保全等の条件付きで降伏をよびかけたものであった。

 硫黄島の勇戦は終戦への扉を開く第一歩となったのである。栗林忠道の偉大な功績である。



参考文献
・梯久美子『散るぞ悲しき--硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)
・栗林忠道・半藤一利解説『硫黄島からの手紙』(文芸春秋社)
・吉田津由子編『「玉砕総指揮官」の手紙』(小学館文庫)
・別冊宝島編集部編『栗林忠道』(宝島社)

西郷隆盛

 西郷隆盛は、明治維新の最も偉大な英雄である。西郷がいなければ薩長同盟はなく、大政奉還も王政復古もなかった。西郷がいなければ、封建制度を無血のうちに廃止した廃藩置県もなかった。

 また、岩倉遣欧使節団の留守政府で首班を務めた功績も大きい。廃藩置県をやったばかりのまだ不安定な時期に、岩倉・大久保・木戸というトップリーダーたちがそろって洋行してしまった。西郷はそのときの留守政府を見事に治めたばかりか、次々と近代化政策を推進していった。断髪・廃刀の許可や徴兵令(国民皆兵制)などによる封建的身分制度の撤廃、地租改正による近代的な土地制度と税制改革、学制公布による教育制度の確立、鉄道・郵便・電信・太陽暦など西洋文明の導入、戸籍制度や法治主義の確立など、すべてみな西郷政府がやりとげた近代化政策である。

 しかし、使節団帰国後の征韓論争をきっかけに西郷は鹿児島に帰り、もう二度と政府に出仕することはなかった。そして数年後、再び歴史の表舞台に登場したとき、西郷隆盛は明治国家最大の謀反人となっていた。「武士中の最大なる者」が自らが作り上げた新国家に反逆し、「最後の武士」として滅び行く道を選んだのである。

 ここに人は、西郷の謎と矛盾を見る。しかし、明治天皇も勝海舟も国民の多くも、そういう西郷を丸ごと愛してきた。彼らはみな、西郷がしたことをありのままに受け入れて、維新最大の功労者にしてかつ明治国家最大の反逆者となった人物を、敬愛し続けてきたのである。

 西郷隆盛は文政十(一八二七)年、鹿児島城下の下級武士の集落である下加治屋町に生まれた。同じ町内から盟友大久保利通をはじめきら星のごとき明治の偉人たちが出ている。薩摩の青少年は町内の青年団で基礎教育を受けた。これを郷中教育といい、いまの小学生から二十代半ばくらいまでの武士の子弟が参加した。教育の根幹は義を実践できる人物を育てることにあった。最も厳しく求められたのは、「潔く勇敢であれ」「弱い者をいたわれ」「嘘をつくな」だった。最も卑しまれたのは「臆病」であり、弱者や年少者へのいたわりのない者も手厳しく軽蔑された。西郷に限らず維新の志士となった薩摩武士の精神はこの郷中教育で鍛えられたのである。

 西郷はとりわけ信義に篤かった。難局であればあるほど相手の人物との信義を守ろうとした。勝海舟との品川会談がその代表である。東海道と中山道を進んだ官軍にとって、賊軍幕府を討つことは当然のことだった。しかし、西郷はあらゆる反対派を押し切って、徳川慶喜を謹慎に止め、幕臣にも禄を与えるという寛大な処遇で収めた。こうして、将軍は無血のうちに江戸城を天皇に明け渡し、江戸100万の庶民は戦火から免れ、虎視眈々とわが国のほころびをねらっていたフランス・イギリスに介入の隙をあたえなかった。これがまさに旧友勝の信義に応えた西郷流なのである。

 また、西郷は情の深い人物だった。信義に篤いことと情の深さは物事の裏表である。しかし、義はあくまで公のものであり、情は私である。そこに西郷の悲劇がやってくる。

 西郷を慕って鹿児島に帰ってきた士族とは、維新回天の大業に命を捧げてきた勇者たちである。明治日本ができたのは、ほかならぬ彼らのおかげである。しかし、いまその明治政府が彼らの職を奪い、帯刀の名誉を奪い、いままた秩禄まで奪おうとしている。その無念は西郷のよく察するところであり、西郷の情は強く動かされていた。

 しかし、何あろうその政策を実行してきたのはほかならぬ自分である。近代化とは西洋化である。それなくして、日本を西洋の植民地化の危機から救い、彼らと対等に交際できる独立国日本の建設はない。西郷は引き裂かれる思いだったにちがいない。

 ただ、一方で帰郷した西郷の胸にも、自分が成し遂げた革命の現実への疑義が宿っていた。「文明とは正義が広く行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」「何の考えもなく外国のマネをしていたら、国民の道徳心はおとろえて、わが国は救いようのない国になってしまうだろう」(『南洲翁遺訓』)。たとえ日本から武士が消え去っても、国民一人一人の心の中に義に篤い武士の魂を残さなければならぬ。それが西郷の思いであった。

西南戦争の西郷はもはや政治家でも軍人でもない。求道者として最後の武士たちを率いたのである。勝っても負けても、この戦争は日本に武士道を残す戦いになるだろう。「今般政府に尋問の廉あり」という西郷の真意はそこにあった。

 だからこそ、日本人は西南戦争をただの反乱とは見なさなかったのである。勝った側も負けた側も西郷のために黙祷したのである。そして、日本人は日清・日露と次々に国難に遭うたびに西郷の義挙を思い出し、ともに大和魂を生きようとしてきた。おそらく、あの大東亜戦争が終わるまではまだ西郷の伝言は生きていたのである。

 いまも、鹿児島の南洲墓地には西南戦争で死んだ最後の武士たちの墓石が、西郷を中心に堂々たる隊列を組んで桜島を臨んでいる。そして「今般政府に尋問の廉あり」と、いま東京に向かって動き出しても不思議ではないように見える。

 『南洲翁遺訓』には、こんな一節もあるからである。「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は出来ない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果友好的な関係は終わりを告げ、最後は外国に仕えることになるのである」。
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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