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源義経と源平の戦い

源義経と源平の戦い

1 赤旗と白旗

*運動会の紅組と白組の応援旗を見せる。

『この紅組と白組の対決は歴史上のある事件がもとになっています。それは何でしょうか?』

*源氏と平氏の戦い(源平の戦い)
『平氏の旗は赤(紅)旗、源氏の旗が白旗です。全国の武士が二つの武士団に分かれて戦いました』

〈どちらが勝ったのでしょうか?〉

*源氏が勝ち、平氏が滅びた。

『源氏、つまり白組が勝ち、平氏つまり、紅組は負けて滅びてしまいました。平清盛を棟梁とする平氏の繁栄は、およそ20年しかもたなかったのですね』

*平家物語の冒頭を読む。

【解説】小学校で学級担任だったとき、朝の会などで古典の暗唱を日常的にやっていました。『平家物語』冒頭は定番だったので全員で大きな声で暗唱できました。この授業までに暗唱できるようにしておくと楽しいです。

●今日は、運動会の紅組対白組のもとになった歴史的な大事件「源平の戦い」と、この合戦のMVPだった源義経について勉強します。

2 義経と源平の戦い

おもな登場人物を紹介する。肖像を黒板に貼る

平清盛(1118~1181)
平清盛

源頼朝(1147~1199) 兄
源頼朝


源義経(1159~1189) 弟
源義経


*次の板書をする。

1159 平治の乱
平清盛の時代(20年間)
1180 源頼朝(33)が関東の武士団をまとめて立ち上がる。
弟義経(20)と再会する。

*義経(牛若丸)のエピソードを話す。
①鞍馬寺で天狗から武芸の訓練を受けた。
②少年時代、五条橋の上で弁慶をやりこめ家来にした。
③15歳のころ、東北の藤原氏の下に逃れ大事にされる。
 ④その途中で元服し、源九郎義経と名乗る。

『その義経が、兄頼朝から平家打倒の大将に任命され大活躍をしたのが源平の戦いです。有名な戦いは次の三つです。』

*以下を板書し、合戦の場所を教科書で確認する。

1184年2月 一ノ谷(いちのたに)の戦い
1185年2月 屋島(やしま)の戦い
3月 壇ノ浦(壇ノ浦)の戦い →平家の滅亡

*VTR「その時歴史が動いた:義経追討」から上記の合戦場面を見せる。ビデオがなければ紙芝居などで合戦ごとのエピソードを物語りたい。ひよどり越えの逆落とし、那須与一の扇落とし、義経の八艘飛び、などである。

【解説】因幡の白ウサギや八岐大蛇などの神話、京の五条の橋の上の義経弁慶の出会い、この源平合戦、忠臣蔵などなど、これらのお話しはつい最近まではふつうの日本人の常識だった。義務教育としての歴史教育には、そうした近代の日本人がアイデンティティーとして大事だと考えてきた先人の物語を語り伝えることも、大切な役割として求められているのだと考えています。

3 兄と弟の対立

『平家を滅ぼしたMVPは源義経でした。この間、兄の頼朝は本拠地鎌倉で武士たちをまとめる政治を進め戦争には参加していません。義経が勝利の英雄として鎌倉にもどってきました。このとき義経に思いもかけない運命がおそいかかります』

〈頼朝は義経を鎌倉に入れないばかりか、会おうともしませんでした。そして、京都 に追い返してしまいます。そして最後には殺します。どうしてでしょうか?〉

*ヒントの年表を見せて考えさせる。



(1184年)一ノ谷の戦いの後、義経は朝廷から高い位をもらった。義経はこの名誉な出世を頼朝に知らたが、頼朝は怒った。
(1185年)義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした後、京都で貴族の娘と結婚した。この結婚を頼朝は喜ばなかった。



*数名に発言させる。
*プリント「頼朝はなぜ義経を追討したのか?」を読む。



 頼朝はなぜ義経を追討したのか?

■まず、さきほどの年表を見ましょう。

1184年 一ノ谷の戦いの後、義経は朝廷から高い位をもらった。義経
      はこの名誉な出世を頼朝に知らせるが、頼朝は怒った。
1185年 義経は平氏を滅ぼした後、京都で貴族の娘と結婚した。
       この結婚を頼朝は喜ばなかった。

義経は、戦いを進めながら、朝廷の中で出世していきます。戦いに強いのに心は優しい義経は、貴族たちの人気を集めていきます。義経はこのことを源氏一族にとってたいへん名誉なことだと考え、当然頼朝も喜んでくれると考えていたようです。 義経は戦争の天才で、新しい作戦を考えるのが得意でしたが、政治については古い考えをもっていたことがこの年表でわかるのです。

 天皇を中心に国が一つにまとまっています。その下に貴族たちがいて実際の政治を進める政府「朝廷」があります。これが昔からの国の政治の仕組みでした。貴族たちは出世競争をして藤原氏一族が高い地位をひとりじめしました。そして天皇家と親せきになってその地位を守ろうとしました。武士であった平清盛も藤原氏と同じ考えでした。平氏がやったのはまったく藤原氏と同じことでした。そして平氏もいつのまにか貴族のようになってしまい、ついに源氏に倒されたのです。

 何百年続いた国の仕組みをうたがうのはむずかしいことです。義経もまた、源氏一族が朝廷の中で高い地位を得て、源氏が栄えることが、この戦いの目的だと考えていました。もしこの考え方を進めると、源氏もまた藤原氏や平氏のように、出身は武士だがやっていることは貴族と同じという結果になったことでしょう。

 頼朝はまったくちがう考えを持っていたのです。古い仕組みを根本的に変えてしまう新しいアイデアを持っていたのです。

 頼朝は、右の年表のようなできごとから義経の考えを見抜き、義経は自分の考える新しい政治の障害になると考えたのです。義経をこのままにしておけば、いずれは貴族たちに利用されて、自分に戦いをいどんでくると予想したのです。

 こうして、頼朝は追っ手をさし向けて、1189年、東北の平泉で義経を殺させました。

 31歳の若さで亡くなった戦いの天才義経。源氏のために大活躍をしながら、非情で冷酷な兄に殺されてしまった義経。日本人は長い歴史の中で、この悲劇の英雄を愛し続け、たくさんの伝説や物語が生まれました。



●武士としての独自の政権をうち立てようとしていた頼朝にとって、平氏と同様の考え方で朝廷の中に入っていこうとする義経(しかも人気があった)はたいへん危険な存在だった、とまとめる。

4 まとめ
日本のリーダーは日本全体に責任を持たなくてはいけない。頼朝は、母親が違うとはいえ、血のつながりよりも政治を選んだ。当時の武士の考え方で、兄弟や親子で戦うことは珍しくなかった。
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武士の誕生と平清盛

武士の誕生と平清盛
●武士を新しい日本人と呼んで、その誕生のあらましと平清盛を教える授業です。


1 新しい日本人:武士(侍・もののふ)
●絵「武士の館」を読む。
武士の館


『今日は絵を読みます。この絵は10世紀頃の日本のある地方の風景です。よく見て、気付くこと、わかること、思ったことなど、どんなことでもいいですから発表してください。』

●①風景 ②家 ③人 に分けて発表する。

①寺、神社、農村、広がる水田、田植え、馬を洗う、
②板葺き、板敷きの質素なつくり、農民の家よりも大きい、深い堀、高い塀、物見櫓、馬小屋、縁側、
③武器(刀・弓)、よろい、見張り、客、牧狩り、流鏑馬、武芸の訓練、農民に指図する人
『ここに描かれている人々を武士といいいます。今から1000年ほど前、貴族でも農民でもない新しい日本人が現れてきます』
【解説】以前は農民が武装して武士になったと考えられていたが、現在は武士の出自は貴族であるという説の方が有力である。

『この人達は、なぜ武装しているのでしょうか?』

・自分の土地を自分で守るため。
・泥棒や強盗が増えた。
・政府が安全を守れなくなったから、

『8世紀に国が完成して、奈良の大仏を全国の力で作るほどまとまっていた国が、わずか100年から200年でもう崩れてきて、このころの政府は国民の安全と平和な秩序を守れなくなっていたのですね。 どうしてこんなふうなてしまったのでしょうか?』

*貴族が自分の楽しみばかり考えて、国民のための政治を行わなかったから。
*上品な貴族にとって戦いは野蛮なことだからやりたくないと思った。
*血は汚れているから、命をかけて戦うなど、上品な貴族のやることではない。

『盗賊、強盗、海賊、放火など、犯罪が増えて、平和な秩序が失われてしまったので、農民達や、役人として地方にやってきた貴族たちが、自分たちの平和は自分たちで守ると、そのために自ら武器を持ち、武芸に励み、いざという時にそなえるようになったとい うわけです。このようにして、みなさんのご先祖様の中から、貴族でも、農民でもない新しい日本人、武士が生まれてきたのです。平和と安全は戦って守るという考えですね。』

●貴族の館の絵を見せ、都と地方を対比してみせる。


2 武士団の形成

『この時代の地方の風景とちょっと似た風景を、これ以前の時代に見たことがあるのですが何時代だったでしょうか?』

*弥生時代

●環濠集落の絵を見せる。
『高い塀(柵)と堀で囲み、戦う姿勢を見せているムラです。この絵と今日考えた絵のいちばん大きな違いは「国家」があるかないかです。弥生の村は少しずつまとまっていって、やがて統一国家日本が誕生しました。
 いま、国はあるんだが、平安京の中央政府が国内の平和と安全を守れなくなっていると考えればいい。そこで、数百年前と似た風景になっているわけです。でも歴史の流れには似ている所があって、この武士達がしだいに大きなグループを作っていく。このグループを武士団といいます。まとまっていこうとするんだね。そうして、国内の武士達は二つの大きなグループにまとまっていきました』

●この二つの大武士団が「源氏と平氏」です。
 源氏は56代清和天皇の子孫、平氏は50代桓武天皇の子孫を名乗ったグループです。


3 貴族と武士

『さて、いよいよ国が乱れて、国のリーダーである貴族の家にも泥棒が入ったり、政府の役所が海賊に襲われり、武士団の反乱が起きたりしました。貴族たちはどうしたでしょうか?』

*武士を使って守らせた。 
●絵「さぶらう者」を見せる。貴族を護衛するさむらい(『法然上人絵伝』)
File0170.jpg

『この武士が、いつまでも貴族に使われる身分のままでいられるでしょうか』

*939年 源純友の乱:反乱を起こした武士と反乱をおさえようとして戦う武士。
File0168.jpg

*939年平将門の乱:藤原秀郷が反乱をおさえ、平将門の首をかかげて都に帰ったところ。
File0169.jpg


『やがて武士が、貴族を押しのけて、政治の実権を握るようになっていきます』

●最初の人が平清盛
*平清盛の肖像を黒板に貼る。
●プリント「平治の乱と平清盛」を読む。


平治の乱と平清盛
貴族の政治によって国が乱れていくなかで、しだいに武士なしでは国が成り立たなくなっていきました。
 けれども、武士がどんなに働いて貴族の財産や命を守ってやっても、貴族たちは彼らをバカにしていました。血を流して戦うような人は、身分の低い下品な人たちだというわけです。武士たちも、くやしいけれどこの身分のちがいにはなかなかさからえませんでした。
その力関係がついにひっくり返るときがきました。それは京の都(平安京)で起こった戦争がきっかけでした。1159年(平治元年)の平治の乱です。
それは貴族どうしの争いが原因でした。結果は次のようになりました。

貴族のリーダー  武士のリーダー  

【勝者】 藤原信西(戦死) 平清盛  
 
【敗者】 藤原信頼(死刑) 源義朝(死)  
 

「戦いになるとひざががくがくふるえ、顔は真っ青になり、馬にも乗りそこね、顔をすりむき、鼻血を出した」「負けてからは命だけは助けてくれとたのんだ」

 貴族のおくびょうで情けない態度は味方の武士にまで笑われるありさまでした。
 こうして、貴族たちはもう、武士を単なる自分たちの「道具」としてバカにしていられなくなったのです。
 平治の乱の後、平清盛は朝廷の重い役につき、数年後には太政大臣(今の総理大臣)にまで出世しました。低い身分だった武士が、日本のトップの地位になったのです。
そればかりか、平清盛は自分の一族をみな朝廷の高い地位につけ、もはやだれも平氏にはさからえなくなりました。「平氏でなければ人ではない」というくらい、平清盛の一族がおごりたかぶる世の中になったそうです。
 平清盛は中国(宋)との貿易を始め、外国とのつきあいを再開しようとしました。このように、今までの貴族にはない新しいことをやろうとはしたものの、清盛の一番の願いは「朝廷の中で、自分の一族(平氏)が、かつての藤原氏と同じような大きな権力をもつ」ということだったようです。
 またもや、自分の娘を天皇のおきさきにして、自分のまごを天皇にしたのです。藤原道長方式のまねでした。これは武士という「新しい人」をやめて、貴族という「古い人」にもどってしまったのと同じことでした。武士がトップに立ったけれど、やったことは貴族と変わらない。それが平清盛の限界でした。
さて、平治の乱は源氏VS平氏の戦いの一回戦目でした。平清盛は源義朝の一族をみな殺しにはしないで助けました。それが源頼朝と源義経です。頼朝13才(伊豆の蛭が小島)義経1才(鞍馬寺)。この二人の少年がやがて新たな歴史を切り開きます。成長した二人は、源氏VS平氏の戦いの2回戦目を始めることになるからです。



4 まとめ
『平安貴族は日本の伝統文化と天皇制度を守りましたが、国政のリーダーとしては失格だったかもしれません。平安時代の後半は世の中が大きく乱れ、治安も悪化していたからです。しかし、それでも平安時代は400年も続きました。そして、世の乱れと治安の悪化から武士という新しい日本人が生まれ、国づくりは新しい段階に進んでいきます。天皇制度と武士という両輪が、日本の歴史をいっそう独自性のある、世界に誇れる姿にしていくことになります』

平安貴族ディベート

平安貴族ディベート 
●これは、オプション授業です。教科書は支配者(悪)VS被支配者(善)というマルクス主義の階級闘争史観に毒されていました。私たちの異議申し立てで少しずつ変わってきてはいますが、ぜいたくな貴族と虐げられた民衆という対比がいたるところに見られます。
●しかし、世界の歴史は富を特定の階層に集中することによって、いわゆる「人類の偉大な文化」が形成されてきたわけです。大昔から富が平等に分配されていたら、ただ均しく貧しいばかりで文化は生まれなかっただろう。そういう見方も重要であると考えて、貴族のぜいたくが文化を生んだという見方を教える討論をつくってみました。

「平安貴族はリーダー失格」VS「平安貴族はすばらしい」
*資料を読み、どちらかの立場を選ばせる。
*その理由をノートに書く。
*書いたことをもとに話し合いをさせる。



【平安貴族は気に入らない!】

 私は、藤原氏をはじめとする平安時代の貴族が気に入らない。

 第一に、ものすごい財産がある。それはふつうの国民(農民)から取り立てた税だ。それなのに、働いている人たちとの貧しさとくらべると、生活レベルに差がありすぎる。

 第二に、娘を天皇のおきさきにして政治の権力をにぎりながら、奈良時代までのリーダー達とは大ちがいだ。
 外国とのつきあいをやめ、国を守る軍隊までなくしちゃったのだ。
 地方の政治も、いまの警察の仕事もみんな地方の役人にまかせっきりで、政治らしい政治は何にもしていない。しかも、大化改新で国のものになったはずの土地をまた自分のもの(荘園)にしてしまった。
 つまり国のリーダーとしての責任を果たしていないんだ。

第三に、ありあまる財産を自分たちのぜいたくのためにだけ使っている。ごうかな家に住み、きらびやかな着物を着て、遊んでばかりいたことだ。
 貴族がやったのは、けまりやとうけいなどで遊ぶこと、恋をすること、文章や和歌を作ること、神さまのたたりから身を守るおまじない、さまざまな儀式。これだけだ。こんなことでは日本がどうなるのか心配である。

 以上の理由から、私は「平安貴族は気に入らない」という意見である。


【平安貴族はすばらしい!】 

私は平安貴族はすばらしいと思う。

第一に、彼らがぜいたくをしたおかげで、日本の文字(かな)が生まれたことだ。かなは、平安貴族から未来の日本人への最高の贈り物だ。
 漢字とかなを使って日本語を表せるようになったから、日本らしい詩、日本らしい物語、日本らしい学問が生み出せるようになったのだ。私は、漢字だけの教科書を読んで漢字だけの作文を書くなんてまっぴらだ。

 第二に、紫式部の『源氏物語』という大長編小説が生まれた。これはまだ読んだことがないが、世界でいちばん最初の女性が書いた長編小説だ。ほかにも、『枕草子』や『古今和歌集』など日本らしい文化が花開いた。これらの文学は、世界に誇れる私たち日本人みんなの財産になったんだ。

 第三に、貴族の儀式から日本の行事がつくられた。正月・節分・ひなまつり、お盆など、いまに残る日本らしい季節の行事も貴族のぜいたくなくらしのおかげである。

私は、たとえその時代の日本人の多くが貧しくて、貴族が政治らしいことを何もなかったとしても、平安時代の貴族たちのぜいたくのおかげで、世界に誇れる日本文化が生まれたことを喜びたい。

 以上の理由から、私は「平安貴族はすばらしい」という意見である。



【まとめ】
この貴族のありさまはやはり国家のリーダーとしてはたぶん失格でしょうね。もしこの400年の平安時代にどこか強い国が攻めてきていたら、日本はなくなっていたかもしれません。でも、またまた日本は幸運でした。幸運だったからできたことでしょう。
 しかし、一部のリーダー層が贅沢をしていなければ日本の文化というものはなかったでしょう。いまから100年ほど前に身分制度は世界中でなくなりますが、それまでは身分の違い=生活水準のちがいは歴史の常識だった。もし、平安貴族たった150人ほどのぜいたくをやめてみんな平等にしていたら、日本には文化も生まれず、何も残らなかったことでしょう。これは後の武士の時代にもいえることでしょう。
だから、事実だけを見れば、彼らが贅沢をしてくれたおかげで、私たちは日本人の文字をもち、世界に誇れる『源氏物語』を持つことができたということになります。


仮名の発明と日本らしい文化

仮名の発明と日本らしい文化(紫式部と清少納言)
●1000年以上前に女性が文化の最先端にいた文明は日本文明しかありません。わが国の歴史にはそういう驚きに満ちています。この小さな列島の歴史にどうしてそんな奇跡のようなことが起きるのか。子どもたちと一緒に感動したいものです。

1 紫式部と清少納言
『縄文時代には土器の発明、古墳時代には世界最大の前方後円墳、飛鳥時代にはには世界最古の法隆寺、奈良時代には世界最大の銅像「奈良の大仏」と、身分平等の詩集「万葉集」と、こんな小さな島国ですが、私達の先祖が残した文化遺産はすばらしいの一言です。
さて、平安時代にも世界で初めてという素晴らしい文化が生まれました。それは何でしょうか?

●紫式部『源氏物語』
 原稿用紙2000枚の大作。

●紫式部の絵を貼る。板書「紫式部・・源氏物語」
『①これは世界最古の作者のわかっている長編小説(フィクション)。
 ②世界初の女性の文学。
 ③しかも芸術的なレベルが高い。
 世界史の中で、これほど古い時代に女性たちが男性と対等に、男性を超えて活躍し、すぐれた物語や文章や歌を残した国は日本だけなのです』

●清少納言の絵を貼る。板書「清少納言・・・枕草子」
『その女性たちの2大スターがこの二人でした』
*プリントを配り、読んでいく。


紫式部
*藤原道長の娘(彰子)の家庭教師。
長編小説『源氏物語』
●天皇の息子に生まれた「光源氏」が主人公。母が身分の低い源氏だったのふつうの貴族となる。その光源氏の一生とかずかずの恋愛の物語。
●世界で最も古い小説作品。しかも作者が女性。日本が世界に誇る文学。

【書き出し】いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
【現代語訳】 どの天皇の時のことであったか、女性たちが大ぜい天皇におつかえしていた中に、たいして高貴な身分ではないけれど、きわだって天皇に愛されていた女性があった。

【エピソード】紫式部は何事もひかえめで自分の才能をかくそうとした人だった。
「清少納言はえらぶっていて、いかにも利口な女だとみんなに思わせたがるイヤな女だわ。何かというと人と違うことをやって目立とうとしているけど、いつかボロを出すことでしょうね。」(紫式部日記)


清少納言
*藤原道隆の娘(定子)の家庭教師。
随筆『枕草子』
●見たり聞いたりしたこと、考えたことなどの文章が三〇一篇。

【書き出し】春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
【現代語訳】春でいちばん美しいのは夜が明けるときです。すこしずつ明るくなってきて、山のあたりにほのかに光が見え始め、紫色にそまった雲が空に細くたなびいていて見えます。
夏は夜がいいですね。月が出ている夜も素敵ですし、闇夜でも蛍がたくさん飛び交っていたり、わずかに一つ二つの蛍がほのかに光の筋を引いていくのも、なんともいえない味わいがあるものです
【エピソード】清少納言は努力家で自信家、自分の思ったことをズバリ言う人だった。
      「私は何でも一番でなくてはいや。二番、三番なんて死んでもいやなの。」

かな(平仮名)四十七字
●同じ音(よみ)の漢字をくずして、つくられた

以呂波仁保部止 知利奴留遠  和加与太礼曽 川禰奈良武
いろはにほへと ちりぬるを  わかよたれそ つねならむ

宇為乃於久也末 計不己衣天  安左幾由女美之 恵比毛世寸
うゐのおくやま けふこえて  あさきゆめみし ゑひもせす


【いろは歌】色は匂へど 散りぬるを わが世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日超えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

かな(片仮名)四十七字
●同じ音の漢字の一部を省略してつられた

阿伊宇江於 ●「いろは歌」も「五十音図」も天才の作品ですね。
アイウエオ
  加幾久介己 ●「いろは歌」はこんな意味です。
五 カキクケコ    花は色あざやかに咲いていてもいずれは散ってし
十 散之須世曽    まいます。それと同じようにだれの人生も変わら
音 サシスセソ    ないということはありません。深い山道を越えて
図 多千川天止    いくように生きるのだから、はかない夢など見る
  タチツテト    まいよ。酒に酔っているわけでもないのに。
奈仁奴禰乃
ナニヌネノ  
八比不部保
ハヒフヘホ
末三牟女毛
マミムメモ
也●由●与
ヤ●ユ●ヨ
良利流礼呂
ラリルレロ
和井●恵乎
わヰ●ヱヲ


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2 かな文字の発明
世界中が男性中心だった大昔に、どうして日本だけで女性文学が花開いたのでしょうか? 
その理由の一つは・・・・平安時代に偉大な発明があったからでした。
『それは未来の日本人すべてにとっての最高の贈り物となった発明品です。それは何でしょうか?』

*かな文字(ひらかな・片仮名)
*プリントを読む。
*【板書:日本文字完成の説明モデル】
●中国語で書き「青空白雲」、日本語で読む「あおいそらしろいくも」
●仮名(日本文字)で書く・・・①安於以曽良之呂以久毛(万葉仮名)
               ②あおいそらしろいくも(平仮名)
               ③青い空、白い雲(漢字仮名まじり文)  
*【説明】
  ①音読みで日本語の音を表す
②漢字をくずしてつくられた平仮名で表す。
③「漢字の意味の日本語読み(訓)+かな」で表す。(漢字かなまじり文)
のちに、音読みの熟語も使って日本語の意味も広げていくようになる。

*男性の多くは中国語を使えることがエリートだと思いこみ、頭も固かったので、漢字を「真名」、女性が発明した日本文字を「仮名」とよんで馬鹿にした。
*女性は頭が柔らかく、日本の言葉で考え、日本の言葉で気持ち表すことを大切にした。かな文字で思ったことや感じたことを素直に表現する文学をつくっていった。
*その素晴らしさに感動して、男たちも仮名を使うようになっていった。
*貴族の豊かな生活と遊びに女性も参加し、天皇やおきさきにほめられようとして、女性たちもいっしょうけんめい勉強するようになった。

→日本らしい文化が生まれた・・・かな文字・寝殿造り・十二単、大和絵など

『日本が外来の文化をあまり気にしないで、独自に成熟するようになっていきます。しかし、それは紀元前から1000年ちかくも流入を続けてきた中国文化と、それ以前からあるの日本の伝統文化とのみごとな統合があって可能になったものです(例えば、漢字を抜きにして日本人の思考はありません)。しかし、平安時代にいったん中国大陸と切れたことで、あまり外部を意識することなく自然に日本らしさが育っていきます。最も重要なのは武士の誕生です』


藤原道長と貴族の生活

藤原道長と貴族の生活

1 平安時代

*794年(鳴くようぐいす平安京)、桓武天皇によって都が平安京(今の京都)に移さ れた。国の政府が京都にあった時代を平安時代という。平安時代はおよそ400年も続いた。

『894年、日本の国にとってたいへん大きな意味を持つある決定がされました。菅原道真の提案によって遣唐使をやめたのです。834年の19回で遣唐使は終わりました。日本は唐と国としての正式なつきあいをやめたのです。なぜだと思いますか?』

*中国(唐)からはもはや学ぶものがない

『その結果、日本にはどんな変化が起きたでしょうか?』 

●国造りが終わった。中国とも対等になった。しかも、中国はもう危険な国ではなくなっ たようだ。・・・・・政治がやることはなくなった!
中国の政治や文化とは離れて、日本らしい文化をつくっていく時代が来た。

→国風文化(世界レベルの国になったという自信)

資料:平安貴族の館(寝殿造り)


2 藤原道長
*藤原道長の肖像画をはる。(966~1027)
*プリント「お話:藤原道長」を読む。


藤原道長の関白への道
藤原氏という一族はあの中臣鎌足の子孫です。平安時代にもたくさんの貴族の家があったのですが、いつの間にかこの藤原氏が高い位を一人じめにするようになりました。かれらの頭をいつもはなれなかったのは、日本の国づくりというよりも、いかにして競争相手に勝って出世するかということでした。
 だってもう中国にも追いついたし、文化も世界レベルだし、国ができあがってしまったんですからあんまりやることもないというわけなのです。
 ただ国の歴史を書きたしていくことと、法律を世の中の変化に合わせて直していくことは百年ほどやっていましたが、それもやめてしまいます。何しろ世の中は「同じようなこと」のくり返しみたいになっていたからです。
 ぜいたくな暮らしをしていた貴族がおよそ百五十人。その中でも殿上人といって、宮廷に上がれるのはほんの二十人。そのトップが摂政・関白という最高の位でした。

 藤原道長は藤原兼家の五男に生まれました。藤原家の中でもあまり出世ができそうもない家で、しかも五番目の男の子ですから、摂政・関白など夢のまた夢でした。
でも負けずぎらいで勉強もよくする自信たっぷりの青年に育っていきました。二十歳の時、兄弟できもだめしをしたそうです。雨のしとしと降る月のない夜でした。兄たちは「化け物が出た」「ヒヒヒという魔物の声がした」などと逃げ帰りましたが、道長だけは「何事もなかった」とすずしい顔でしょうこの品を持って帰ったそうです。ただ者ではないという評判になったといいます。

道長は二十二歳で結婚して男が五人、女が五人生まれます。

★はい、ここでクイズ①です!★
〈道長は男の子と女の子、どっちが生まれた時に大喜びしたでしょう?〉



●問題①の正解「女の子」
*通い婚、母系制について説明。
*娘を天皇のお后にする。その夫婦に皇子が生まれ、一緒に暮らしたこの皇子が天皇になる。
*道長の娘たちの系図を示し、天皇の外戚として栄華を極めた藤原道長について解説する。
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 その後どういう風のふきまわしか父の兼家が摂政になり、道長も少しは出世していきました。が、どうやっても五番目ですからトップにまで上りつめるなんて夢のまた夢のはずでした。しかし運命とはおそろしいものです。はしかの大流行で兄たちが死んでしまった。こうして最後の競争相手は藤原伊周ただ一人です。
 ときの一条天皇は迷いました。というのも、母が道長の姉さんで、おきさきが藤原伊周の妹だったからなんですね。でも結局お母さんの言うことを聞いて、道長をトップに選びました。

 藤原伊周はあきらめきれずに、道長にいろいろといやがらせを始めました。そしてとうとう島流しにされるような大犯罪を起こしました。


★はい、ここでクイズ②です!★
〈 藤原伊周の大犯罪はどれ?    1 殺人   2 傷害   3 呪い 〉



●問題②の正解「3 呪い」
*平安貴族は後に見るように呪術的な世界に生きており、悪霊の力、神仏の力は現実にあると信じられていた。人に呪いをかけるのは重大な犯罪だった。



 長女の彰子(しょうし)は十二歳で一条天皇のおきさきになり、やがて男の子が生まれました。この皇太子は道長の孫にあたります。母親の家である道長の屋敷ですくすくと育ち、十一歳のとき後一条天皇になりました。そしてこの後一条天皇のおきさきになったのが、またもや道長の三女の威子(いし)でした。天皇が自分の孫でその妻も自分の娘! もうだれも道長にかなう者はいなくなりました。

 道長五十三歳。得意の絶頂にあった道長の歌を紹介しましょう。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

*歌を解説する。

3 貴族の仕事と生活
*プリント「貴族の仕事と生活」を読み。(   )に入る言葉を考える。


平安貴族の生活と考え方
【貴族の一月の仕事】

元旦   天地、東西南北、天皇の祖先などを礼拝する。
 おもな貴族が天皇に新年のあいさつ
二日   新年を祝う宴会(えんかい)
三日   皇后や皇太子と宴会
五日  貴族の出世を決める会議
七日   宮殿の前を白馬をひいて通り、魔物をはらう。終わったら宴会。
八日~十四日 七日間、僧を集めて国のために祈らせる
十五日  七草がゆを食べる
十六日  足をふみならしながら踊り歌う会(神に祈る意味がある)
十七日  弓を射る会
十八日  弓の名人に試合をさせる会
二十一日 学者などをよんで詩を作らせる会  

【貴族の朝のきまり】
・起きたら、自分の(    )を七回となえる。
・次に鏡で顔を見る。
・次に暦を見て今日の(    )を知る。
・次に歯をみがき、西を向いて手を洗う。
・次に(   )と(    )に祈る。
・次に日記をつける。
・次にかゆを食べる。
・次にかみををとかす。ただしこれは三日に一度にする。
・次につめを切る。
・次に体を洗う。ただしこれは五日に一度にする。

【貴族の暦】
●平安時代の科学者「陰陽師(おんみょうじ)」や「天文博士(てんもんはかせ)」が、星空を観察して、暦をつくった。
●暦に書いてあったこと
・凶日
・吉日
・結婚はよいが葬式は良くない日
・悪い方角
・風呂に入っても良い日 
・外出してはいけない日
・帰宅してはいけない日
・一日に体を洗うと(    )する。
・八日に体を洗うと(    )する。
など

【ふだんとちがうことがあったら】
●流れ星があった
●たくさんの鳥が集まっていた
など

 ・悪いことが起こる前ぶれだ

 ・占いでどんな不吉なことが起きるのかを知る。
 ↓
 ・それを防ぐために、神に祈り、おはらいをした。


●(  )の中は、順番に、星の名、吉凶、神、仏、長生き、早死に、が入る。

*国のしくみが完成し、外国と交流・軋轢もなくなる。政治に創造性は求められなくなった。ぜいたくな生活の中で、人間の力ではどうにもならない運命、病気、悪霊などを実感し、ただひたすら神仏にすがっていた。

『平安時代の貴族たちが考えた理想の人物とは?』

*美しい顔や姿、人柄の優しさ、学問や教養、美しさを感じる心、詩や短歌がうまい、舞いが上手など。

4 まとめ「平安時代の日本の変化」
*国が完成して、中国との交際もやめた平安時代の日本
 ①日本の国のかたちができた
  ★国の中心は天皇(国をひとつにまとめ、国の平安を神仏に祈る)
  ★朝廷の実際の政治を動かすのは貴族(たち)
 ②国の政治が変わった
  国づくりの創意工夫や努力が終わり、毎年同じ儀式や行事や遊び(伝統文化)を繰り返すことが貴族の仕事になった。 
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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