鎌倉時代の文化

鎌倉時代の文化
●網羅的でいい授業ではないのですが、自分の好きな鎌倉文化のイメージを伝えようとしています。鎌倉仏教はちょっとむずかしいのでとり上げていません。


1 鎌倉時代の文学

*以下の作品を範読し、解説し、暗唱させる。

●『平家物語』 
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
 驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し
 猛き人もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ

●鴨長明『方丈記』
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまる事なし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し

●『新古今和歌集』
 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮     藤原定家
心なき身にも あはれは しられけり 鴫立つ沢 の 秋の夕暮れ 西行

●『金槐和歌集』(三代将軍・源実朝)
 大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも  
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に浪の寄るみゆ


2 彫刻
●大きく拡大コピーして、以下の図版を見せる。運慶と慶派についてかんたんに説明する。
運慶
無着像
無着

毘沙門天像
毘沙門天

 湛慶
ばす仙人像

雷神像
雷神

 定慶
金剛力士像(興福寺)
金剛力士

金剛力士像(東大寺)

*頼朝の東大寺復興プロジェクトと運慶一派の活躍を話す。
 

3 絵画

*大きく拡大コピーして、以下の図版を見せる。

平治物語絵巻(伝住吉慶恩作)
平治物語絵巻

伝源頼朝像(伝藤原隆信作)
源頼朝

4 鑑賞
*8枚の図版を教室周囲に掲示し、見て回る。
*「一つやると言われたらどれがほしいですか?」と問い、挙手で人数分布を調べてから、それぞれを選んだ理由を発表させる。
 
(まとめ)
『芸術や文化はその時代の精神を映し出しています。武士の時代の武士の文化、たくましさ、はげしさ、無常観と運命の精神、はげしいリアリズム・・・(といった感じでまとめます)』

【解説】ブログでは示せなかったのですが、この授業は迫力のある大判の写真・コピーを用意することが大事です。児童から「ゥオー!」という声が出ます。
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北条時宗と蒙古来襲

北条時宗と蒙古来襲
●わが国が国土を本格的に攻撃されたのは、この時と、大東亜戦争(太平洋戦争)の2回です。硫黄島や沖縄の戦いと同じ比重で、北条時宗と鎌倉武士の戦いを顕彰しなければなりません。児童がおのずから感謝の念を抱かざるを得なくなるような、共感の授業をめざしましょう。


1 フビライの国書

*チンギス=ハン(ジンギス=カン)と板書する。

*モンゴルの伝説で蒼き狼と呼ばれたこの人物が大帝国を築いた。
 歴史上最強のモンゴルの騎馬軍団

*孫のフビライ=ハンの時代にモンゴル帝国は元を国号とした。
*元の版図を見せる。

File0171.jpg

*1231年、朝鮮半島(高麗)が支配された。
「とらえられた男女は20万6600人。殺された者は数知れなかった。」

*板書:1268年、ジンギスカンの息子のフビライから国書が届いた。

*鎌倉幕府のリーダーは執権北条時宗18歳。
■人物写真
北条時宗

■プリントを配り、読む。




【皇帝フビライからの国書】
 

 天のいつくしみをを受ける大蒙古皇帝が、日本の王に書く。

 私の考えでは、おまえのような小さな国の王というものは、
国境を接している大きな国と友好につとめるものだ。
 
 私は、天の命令で、世界を支配している。
だから、まわりの小さな国はみな、私の力をおそれ、尊敬して、したってくれている。
 いまや中国も朝鮮も、私の支配下にある。

 昔から、考え深い者は、世界を一つの家にしたいと願うものである。
 おまえの国も、他の小さな国と同じように、私の国に使いをよこして、仲良くしようと努力すべきではないか。

 わざわざ軍隊を送っておまえたちを征服するようなことは、ほんとうはやりたくはない。
 日本の王よ。
 このことをよく考えて、返事をよこすがよい。


    至元三年(一二六八年) 八月 大蒙古国皇帝フビライ

File0172.jpg




〈みなさんが鎌倉時代の日本のリーダーだったら、この国書を受け取ってどうしますか?

A言うことを聞く  B無視する   C断る

 A~Cの中から、一つ選んで、その理由をノートに書きなさい〉

*意見分布を取り、板書する。それぞれの意見を発表させる。

【解説】仲よくなるのはいいことだという平和主義者もいる、こんな大帝国を敵に回すのは賢くないという現実主義者もいる。が、半数以上は、フビライの見下したような物言い(私がいかにもそういううふうに読むから)がおもしろくない。元に支配されたくないという思いは同じだが、元を相手に戦争になっても大丈夫かという迷いもある。負けたら日本は滅びてしまうだろうと。なかなかおもしろい話し合いになります。
 
*北条時宗の考えはこうだった。
「この手紙は友好を求めているように見えるが、フビライは日本を支配したいのだ。日本の独立を守るためには戦うしかない。返事は出すな」

*使者は4回やってきたが、4回ともこれに返事は出さなかった。

2 文永の役
●地図を示す
*1274年(文永11年)十月、時宗24才。 ついに元の大軍がおしよせてきた。 軍船900  兵士33000人

*その半分は高麗軍(朝鮮)兵士、船も元の命令で高麗が造った。

*「対馬の武士たちは奮戦したが全滅。女たちは掌に穴を空けられて縄を通され、船べりにつながれて連れ去られた」

●「蒙古来襲絵詞」から元の戦法を見せる

〈日本の武士が見たことがなかった戦い方があった。この絵を見て、それを見つけなさい。〉

*集団戦、銅鑼の音、毒矢、てっぽう(ばくだん)

『博多の町は焼かれ、武士たちは大敗北して、南に敗走しました。天智天皇の水城まで退き、夜になって、博多の町が燃え尽きるのを呆然として見ていました。そして、これで日本も終わりかという思いで眠りました。
しかし、その翌朝のことです。海に浮かんでい無数の軍船は1隻残らず消えていまた。』

*「暴風雨で沈んだ」説と「大勝利と判断して帰った」説がある。後者は、「これだけの力の差があれば、日本は元の家来になると判断していったん引き上げた」というもの。

3 弘安の役

*このあとまた国書がきた。
フビライは戦いは圧倒的に優勢だったのだから、簡単に日本は屈服すると考えたらしい。
しかし、時宗は使者を鎌倉の海岸で斬って捨てた。
武士たちに自分の断固たる意志を見せるためだった。

〈北条時宗は必ずもう一度攻めてくると考えて、国を守る備えをしました。国が滅びるかどうかの史上最大のピンチです。どんなことをしたでしょう?〉

*アイデアを発表させてから、北条時宗の対策を教える。

1 朝廷と幕府が団結して神や仏に祈る。
2 上陸させない作戦・・・・・・・・・・博多湾の海岸沿いほぼ全面に石垣(石塁)を築いた。
3 情報収集(スパイ)・・・・・・・・・時宗は、いつ攻めてくるかを知っておいた。

【解説】2は知っている児童がいます。『なぜ石垣を築くけば勝てるのか』と切り返しましょう。騎馬軍団は上陸さえないで海上で戦え、というのが時宗の作戦でした。3は、似たような意見が出てきます。情報戦の重要性を教えましょう。1は児童には思いつきにくい「対策」です。だから、ここで教える必要があります。彼らはしんけんに祈ります。ひたすら祈ることは現実でした。そして天に通じます。

*1281年(公安4年)6月~7月。 弘安の役

*軍船4400  兵士140000人 ■前回との差!!をつかませる。

■6月東路軍が上陸開始。石塁にそって陣をしいた武士達は「一歩も上陸させるな!」と雨のように矢を射った。さらに海上の元船に小舟で押し寄せ、乗船し、勇敢に奮戦して元軍をひるませんた。ついに元軍は船に引き上げた。

■江南軍10万人が到着。しかし、なぜかすぐには攻めかてこなかった。

■7月30日、台風が元軍の大船団を襲った。
大荒れに荒れる海に、ほとんどの船が沈没した。
船同士がぶつかり合って壊れるものもあった。海に投げ出された無数の将兵が海の藻屑と消えた。

■その台風が去った後に、やっとの思い出海岸にたどり着いた元軍に、武士達が襲いかかり全滅させた。

『こうして元軍は「十のうち、生きて帰る者一、二だった」と、元史に記された惨敗でした。』

*勝因は「武士の命がけの働き」と「台風(暴風雨)」だった。
台風の時期まで延びていたのは、鎌倉武士の知恵と勇気の結果であることをおさえる。

4、まとめ 
『弘安の役の3年後、北条時宗は34歳の若さで亡くなりました。18歳で元の国書に決断を下してから、16年間、ただひたすら国を守るために元と戦い抜いた人生でした。日本の恩人です。
 元寇のあと、鎌倉幕府もおとろえていきました。そして50年後に鎌倉幕府は滅びました。
そのいちばん大きな原因は、元寇の恩賞を与えられなかったことでした。
外国の侵略と戦って勝利しても、新しい土地は得られません』

『これが平安時代でなくてよかったね。もし武士の時代になっていなかったら、このとき日本は滅びていたかもしれません。鎌倉武士たちの命がけの戦い、時宗の知恵と勇気、そのおかげで、自然の猛威さえ味方につけられた日本の勝利でした。こうして日本の独立と安全が守られました。
もしこのとき祖国が滅びていたら、いま私たちはここにいないでしょう』

源頼朝と鎌倉幕府

源頼朝と鎌倉幕府

●この授業の最も重要な教育内容は、源頼朝が朝廷(天皇)を守り抜いたことです。
源頼朝は、平氏のように朝廷には拠らず、鎌倉に幕府という新しい武家の政権を樹立しました。
そのとき、頼朝は、朝廷を打倒せず(革命は起こさず)、天皇から征夷大将軍に任命していただいて(天皇によって政権の正統性を承認していただいて)、天皇を国家の中心とした聖徳太子の国づくりの大方針を継承しました。
この後700年ほど続く武士の政治がすべてこの方針を継承したことによって、わが国は世界に類例のない国家のすがたを今日まで伝えることになりました。武力革命を否定した国日本の歴史は頼朝に始まるのです。

1 新しい日本人(武士)の願いにこたえる政治

●「一所懸命」について教える。土地のために命をかけた武士。自分の土地所有を認めてくれる頼りになる権力(新しいリーダー)ががほしかった武士たち。
●頼朝像を黒板に貼る。
●頼朝の新しいアイデアとは、この全国の武士たちの願い「政府から、おまえの土地はおまえのものである」と認めてもらいたいという願いにこたえ、実力で守ってくれる政治、武士による武士のための政治を実現することでした。
頼朝は、そのためには、太政大臣になって朝廷の中で政治を進めるやり方はダメだと考えていました。

【問題】みなさんが頼朝だったら次のどれを選びますか?
 A:朝廷(天皇)を滅ぼし、新しい武士の政府をつくる。
 B:朝廷(天皇)から政治を進めることを認めてもらい、新しい武士の政府をつくる。

『Aは実力で国をまったく新しく作り直してしまうやり方です。古い政権が武力によって打倒され、新しい政権が始まるのは、中国方式(易姓革命という)であり、世界のあらゆる国々の歴史に見られるやり方です。』
『Bは天皇に政治を行ってよいと認めてもらった上で、貴族に替わって武士が政治を進めるという考えです。天皇中心という国の形は変えないやり方です』

【解説】この授業の核心はこの政策選択発問です。
ノートに理由も書かせて、話し合わせます。
もし時間がなくなるようなら、以下の展開はプリントを渡し、さらっと解説して終わってかまいません。
ぜなら、「大化の改新の授業」と同型のこの授業こそ、日本のアイデンティティーである「天皇中心の国」を学ぶ学習だからです。

【解説】政策選択発問は、正解か不正解かを問うものではありません。
AとBという二つの政策の可能性を、これまでの歴史学習(既習事項)をもとにして、学習者の心情や思考によって選ぶことに意味があるからです。
実際の歴史はどう進んだかという一つの答えは出るけれど、別の選択肢が選ばれた可能性はあるのですから、もう一つの答えが間違いだということにはなりません。
ここで自分なりに考えて、選ぶことの価値は、どちらを選んでも等価なのだと話しましょう。
理由を考えて選ぶことに意義があるのだと、しっかり教えましょう。
それこそが歴史的な思考だからです。

●5分ほど時間を与え、ノートに書いたことを発表させます。これまでの授業をもとに考えると、Bが優勢になりますが、Aもけっこうがんばります。おもしろい話し合いになります。

2 政治の天才頼朝のアイディア

●資料「政治の天才・頼朝」を読み、実際はどうだったかを知る。


【お話】政治の天才・源頼朝のアイデア

源頼朝はBを選びました。
 頼朝は、当時の朝廷のリーダーだった後白河法皇にこんな手紙を書いています。

「わたしたちは、朝廷をお守りするために平氏をほろぼしたのです。法皇のご命令にそむくようなことはいたしません。」

 頼朝は、朝廷(天皇)から征夷大将軍という位をもらいました。

 その位は、武士のかしらとして政治を行うことをゆるすぞという意味でした。

 頼朝は、朝廷を武力でほろぼして自分が日本の王になる実力は持っていましたが、聖徳太子がつくった「天皇中心の国のかたち」はこわさないことにしたのです。

 日本国のまとまりの中心はあくまで天皇である。武士はそのご命令でこれから日本の政治を進めていくのだ。それが頼朝の考えでした。

こうして頼朝は1192年に鎌倉幕府という新しい政府を作り、武士による武士のための政治を始めたのです。武士の政府のことを幕府といいます。そしてそのトップが将軍(征夷大将軍)です。
 幕府のあった場所は鎌倉、いまの神奈川県鎌倉市です。この鎌倉に幕府があった時代を鎌倉時代といいます。

 この頼朝のアイディアによって、天皇(朝廷)は国のために祈り、武士が実際の政治を進めるという新しい国のかたちが生まれたのです。

 天皇は日本という国のまとまりの中心であり、実際の政治は武士の幕府が進めるという国の形です。

 世界の歴史では、力のある者が、古い支配者を滅ぼして新しい国をつくるのがふつうでが、わが国の武士たちは「国の中心は天皇である」という考え方だけは変えなかったのです。

政治の天才頼朝のアイデアのおかげで、わが国は大昔から続いてきた「天皇を中心とする日本」としてつながっていくことになったのです。

 そして、天皇と貴族の朝廷は、政治は武士にまかせて、神様に日本の平和を祈ったり、昔から続いた日本の伝統文化や日本らしい行事を守り伝えることをおもな仕事にするようになったのです。

 頼朝が始めた武士の政治はこのあとおよそ七百年も続きました。鎌倉幕府から五百年後、徳川家康は、頼朝に学んで江戸幕府をつくります。源頼朝はその後長く続いた武士の政治のお手本となったのです。



●資料「鎌倉幕府の仕組み」を配り、幕府(将軍、守護、地頭)などについて説明する。
●一所懸命・御恩・奉公について教える。

●しばらくは二重政府状態の日本であるこもを説明したい。
天皇・・・朝廷・・・国司・・・・・・・非御家人・農民(西日本)
天皇・・・幕府・・・守護・地頭・・・・御家人・農民(東日本)

3 その後の鎌倉幕府

1 二代将軍:頼家・・・北条氏によって暗殺された

2 三代将軍:実朝(弟)・・・政治から遠ざかり、和歌や学問の道を好んだ、頼家の子:公暁に暗殺された。政治の実権は執権:北条泰時に移ってた。

3 北条氏が「執権」という役職で政治の実権を握った。その後の将軍は貴族や皇族から選ばれた。

4 承久の乱・・・・後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げさせた。武士にとっては朝廷を滅ぼせる絶好のチャンスだった。いったん兵を率いた北条泰時は、わざわざ引き返して父義時に聞いた。「もし上皇ご自身が兵を率いてこられたらどうすべきか?上皇に弓を引くことになるがよろしいか?」義時は答えた。「もし上皇ご自身が出陣してこられたら、武器を棄てて降伏せよ。しかし、敵が武士だけであれば、あくまで戦って幕府を守ろうではないか」
頼朝の妻、北条政子の言葉「頼朝の殿のご恩に報いよ」も紹介しよう。

5 幕府が勝ち、上皇は隠岐に島流し。朝廷と幕府の二重政府状態は終わり、天皇によって政権を認められた鎌倉幕府による統一国家が成立した。

4 まとめ
*源義経を倒した頼朝は、義経に比べるとあまり人気はない。(ここで判官贔屓の伝統を教えよう)。しかし、非情で冷酷な頼朝の実行力とアイディアがなければ、聖徳太子の国づくりの大方針は受けつがれていなかったかもしれない。頼朝の強さが国のかたちを守り、日本の伝統を守るとともに、新しい政治を創造したのだといえるでしょう。
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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