薩英戦争

薩英戦争
●授業のねらい:生麦事件と薩英戦争のあらましを知り、日本人の尊厳をかけてイギリスと戦った武士がいたことを共感的に理解する。

1 生麦事件

■明治初期の生麦(横浜市鶴見区)の写真を示し問う。
生麦2

生麦1


 いまからおよそ150年前、ペリーの黒船が来てからおよそ10年後、通商条約を結んで5年後のことだ。
  この写真の場所である大事件が起きた。この道は当時の東海道。今の横浜市鶴見区にあたる。
  どんな事件が起きたでしょう?


★列指名で思いつきを言わせる。

■1862年八月の生麦事件の事実経過を物語る.できるだけ具体的に!(4人の英国人、1人死亡、1人負傷)。

■イギリスは幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(28万両)を要求した。薩摩藩には斬った武士の処刑と賠償金2万5000ポンドを要求した。幕府は言われるままに支払った。

 みなさんが薩摩のリーダーだったら、どうしますか?
A:斬った武士をイギリス側に渡し、ばいしょう金も払う。
B:ばいしょう金は払うが、斬った武士は渡さない。
C:賠償金も、斬った武士の引き渡しも断る。


★人数分布をとり、意見を言わせる。

■大久保利通の写真を貼り、その決断が【C】だったことっを教える。
 資料「大久保が藩主の代わりに書いた手紙」を読む。


  大名行列について、わが国法はきびしい。
  無礼な行為があれば、切り捨てるべきであると定めている。
  だから、薩摩の武士は国の法を守った者であり罪はない。
  彼らは犯罪者ではなく、薩摩藩が賠償金を払う義務はない。
  逆に、イギリス人が 日本にいて日本の法を守らず、罪を犯して切られたのである。
  西洋人といえども日本に来たのなら日本の法に従うべきなのはいうまでもない。
  その法は幕府が決めたものなのに、法を守らなかったイギリスに対してあやまり、賠償金を払うことこそまちがっているので ある。





2 薩英戦争

その結果、どうなったかを予想しなさい。

★列指名で、1列指名して言わせる。

■イギリスは幕府と交渉しても、薩摩に言うことをきかせる力がもう幕府にはないことを知った。鹿児島湾に7隻軍艦(89門)で押し寄せ、24時間以内の回答をせまった。

■大久保は「薩摩藩は、攘夷をさけぶ長州藩と、幕府を応援して戦ってきた。その開国派の薩摩藩が、日本の法を守ったせいで、いまイギリスから攻撃を受けようとしている。なんという運命だろうか!」と言ったそうです。

 薩摩藩は、イギリスのおどしに対して、どうしたでしょうか?
 A:戦って滅ぼされるよりも、ここはがまんしてイギリスに従う。
 B:ねばり強く交渉して、なんとかイギリスにあきらめさせる。
 C:だんことして戦う


*意見分布をとり、意見を言わせる。

■絵「薩英戦争」を見せ、戦ったことを告げる。

■資料:薩英戦争を読む。



3 薩英戦争の後始末

 戦いの後、薩摩藩の意見は2つに分裂しました。

 A:早く解決しよう派    B:あくまで戦う派

 戦争の後始末を任された大久保利通の意見は、どちらだったでしょう?


*意見分布をとるだけで正解を教える。

【正解はA】
武士としての意地を見せたことに満足し、イギリスと手をうつことにした。
大久保は、2万5000ポンド(7万両)を払うことにした。
しかし、賠償金ではなく遺族養育料とした。
しかも、それを幕府に払わせた。そのとき大久保がつかった手を教えよう。しぶる老中みこう言ったという。「もし7万両お貸し願えないのなら、やむをえない。やりたくはないがイギリス公使を斬って、自分も切腹する」。
幕府の老中はふるえあがって、金を出したという。



4 攘夷戦争を戦った長州と薩摩

 諸藩の中でいちばん力のあった長州藩と薩摩藩は西洋と戦った。

 戦った結果、両藩と西洋の関係はどうなったでしょうか?

A:さらに悪くなった   B:変わらなかった  C;仲良くなった


*意見分布をとり、理由を言わせる。

【正解はC】

■イギリス人は、堂々と戦う誇り高い武士の精神(長州藩と薩摩藩)を尊敬し、幕府よりも薩摩と長州を応援するようになった(軍艦を売ったり、鉄砲や弾薬を売るなど)。
イギリスは、これからの日本は、幕府ではなく、長州藩と薩摩藩を中心にまとまっていくのではないかと考え、自分たちの将来の利益を考えたのである。

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高杉晋作と国づくりの大方針

高杉晋作の国づくりの大方針

1 高杉晋作の紹介
■高杉晋作の写真を貼る。
高杉晋作

【板書】1839年、長州藩の萩に生まれる。
【説明】黒船=15歳。
    19歳で松下村塾に入る。
    21歳で、松陰が死刑になる。→幕府に対する怒り。
   22歳で結婚(雅子)

2 晋作の国づくりの大方針

■24歳で清国に行く。
■資料「高杉晋作の清国行き」を配り、教師が読む。

なるほどそうだなあと思うところに線を引きなさい。




高杉晋作の見た清国

 高杉晋作は二十四歳のときに、長州藩の命令で、清国に行きました。日本より前に、西洋によって開国させられた清国の様子を見るためです。
 上海(シャンハイ)につくと、晋作はおどろきました。清国に来たはずなのにそこはまるで西洋の国のようだったからです。たくさんの西洋の船や軍艦が港をふさいぐようにとまっています。港町には西洋風の建物がならび、屋根には西洋の国旗をなびかせています。
 さらに町の中を歩いてみるともっと驚くことが見られました。お金をはらわなければ通れない有料の橋があり、しかも、お金をはらっているのは清国人だけで、西洋人はただで通れるのです。アジア第一の大国である清国が、西洋の国に支配されたような国になってしまっていたのです。
 晋作は、日記にこう書いています。
「中国人はまるで西洋人のめしつかいのようだ。イギリス人やフランス人が道を歩いてくると、中国人ははじに寄って彼らに道をゆずっている。上海は中国の領土だが、これではイギリスやフランスの植民地になってしまったのと同じことだ。」
 こうして、晋作は日本の危機の本当の意味がわかったのです。

 清国のひさんな現実を見た晋作はこう考えました。
「世界は弱肉強食の時代になっている。西洋は軍事力にものをいわせて、アジアを支配している。まちがったつきあい方をすると西洋人の思うがままにされてしまうのだ。西洋のめしつかいのような清国のひさんな姿は、明日の日本の姿になりかねない。このままではいけない!」   




*線を引いたところを発表させる。列指名。

帰国した高杉晋作は、国づくりの二大方針を考えました。高杉が考えた方針の(   )に言葉を入れなさい。

【板書】
①開国し、日本を(   )と対等につきあえる強い国にする。
②(    )を倒し、日本を(    )を中心に一つにまとまる国にする。





3 大方針の①を検討する


■①について、意見を発表させる。正解は「西洋(欧米)」→用語「西洋列強・欧米列強」を教える。

①の方針の中で、当時の長州藩の中で、高杉晋作だけがもっていた考えがあります。それは、どの部分でしょうか? 線を引きなさい。

*線を引いたところを発表させる。

■正解は「開国し」の部分。長州藩は攘夷を主張していた。

【説明と板書】1863年5月、下関戦争(長州藩VS英・米・仏・蘭)
*下関戦争についてかんたんに説明する。

このとき、高杉晋作は西洋との戦いには反対だったが、こうなった以上やるだけのことはやろうと考え、藩主に新しい軍隊をつくる提案をしました。「奇兵隊」です。これは高杉晋作らしい新しい考えの軍隊でした。
この奇兵隊にはどんな特徴があったと思いますか?
 ●ヒントは松下村塾です。

*挙手指名で発表させる。
■正解は、武士だけでなく、身分にかかわらず参加できた。条件は「命がけで日本のために働く」ことだった。。
【板書】新しい軍隊「奇兵隊」
【説明】戦争の結果は長州藩の完璧な敗戦。→写真:占領された長州藩の砲台
   日本は初めて、西洋軍隊の武力による上陸をゆるした。

【説明】講和会議の長州藩代表は、高杉晋作。通訳は伊藤博文。彦島の割譲要求を、神話から語り起こして断ったエピソードを語る。



4 大方針の②を検討する。


次に、②の(  )に入った言葉を発表してください。

*列指名で発表させる。
■正解は、前が「幕府」、後ろが「天皇」

多くの維新の志士たちは、①の大目標を実現するには、「天皇中心の国」にしなければならないと考えました。武士の時代が700年、江戸幕府が250年続いてきたのに、武士達はどうしてこんな方針を立てたのでしょうか?

*時間があれば、ノートに書かせて発表させる。

【説明】日本が統一国家ではなく、諸藩に分裂した状態を変えるには、聖徳太子の大方針だった「天皇中心の国づくり」にもどるのがいちばんいい。鎌倉幕府・室町幕府・信長と秀吉・江戸幕府が、武力で朝廷を滅ぼさなかったことが生きてきた。考えてみると、日本は聖徳太子からずっと天皇を中心にやってきた。武家が幕府を開いて政治の実権を行使したのは、天皇から征夷大将軍の地位を与えられたからでした。日本が植民地にされるかもしれないという危機に際して、天皇中心の統一国家になればよいという方針に、日本中の武士たちが賛成したのです(もちろん幕府側の心ある武士たちも)。

しかし、方針②の中で、ぜったいに意見が一致しない部分があった。
 そこに線を引きなさい。


*発表させ、正解に挙手させる。

■正解は「幕府を倒し」の部分。

【説明】1864年、第一次長州征伐。幕府軍・薩摩藩など15000人VS長州藩3000人。戦わずして降参。「幕府を倒す」という方針をやめた。



4 功山寺決起

『高杉は、日本を変えるためには、まず長州藩を変え、あくまで幕府を倒すしかないと考えました。高杉は奇兵隊に、藩を変える戦いに立ち上がることをよびかけました。しかし、長州藩3000の正規軍と戦おうとする者はほとんどいなかった。集まった兵はわずか80人(その一人が若き日の伊藤博文)。大砲わずか一台。3000対80の戦いである。

晋作はどうしたでしょうか? A:戦った B:やめた

*挙手で意見分布をとり板書する。

■正解はA.
【説明】高杉はわずか80人で決起した。決起は成功し、長州藩は、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)たちをリーダーにして、再び「大方針②」にもどった。その2年後、長州藩は幕府による第二次長州征伐に勝利した。歴史を変えた勇気ある決起だった。

【板書】1867年、高杉晋作死す。29歳。
『幕府との戦いに勝って半年後でした。新しい日本は1年後に迫っていました』

吉田松陰

吉田松陰「維新の志士を育てた人」

●吉田松陰を通して、維新の志士とは何かを教えます。いくつもの問いがありますが、扱いに軽重をつけて(クイズとしてさらっと流すものと、少し時間を与えて考えさせるもの)進めます。

1 吉田松陰登場
吉田松陰

【説明】
・1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた。
・5歳、藩の軍学の先生の家、吉田家の養子になる
・11歳、藩主の前で講義をする。
・19歳、藩校の教授になる。
・23歳、江戸で遊学中に、ペリーの黒船事件にあう。



2 藩の政策に反論

黒船が来たとき、長州藩では「江戸のことは幕府にまかせればいい。わが国には責任がないことだ」という意見がほとんどでした。松陰はこの意見に強く反対した人です。どんな反論をしたのでしょう?

【松蔭の反論】
「外国が日本を困らせているときは、幕府も諸藩もない。すべての武士が力を合わせて外国に立ち向かうべきである」

『当時「わが国」といえば自分の藩のことでした。250年もの泰平の世をまったく外国を意識しないできた多くの武士にとって、自分が責任を持つべき国とは自分の藩のことだったのです。全国に藩は300もありました。だから、多くの武士は自分の藩については責任感がありましたが、日本全体のことは幕府の責任だと考えていました。
吉田松陰は、武士ならばだれもが、日本全体に責任がある考えた最初の武士の一人でした。このような考えを持った武士のことを、「志士」といいます。』→板書



3 黒船に行ったわけ

翌年、2度目にペリーの黒船が来たとき、松陰は小舟に乗ってペリーの軍艦に近づきました。午前2時頃のことです。松陰は何をしようとしたのでしょう?

A:ペリーを暗殺する   B:ペリーと話し合う   C:アメリカに行く


『正解はCです。日本とアメリカの軍事力の差はどうしようもないくらい差がある。だから、自らアメリカに行って敵のすべてを研究し、その知識を日本に持ち帰って、日本を西洋に立ち向かえる国にするために働こう。それが松蔭の考えでした。』

『失敗した松陰は、その足で役人のところに行き、これこれしかじか、国法を破ろうとしたが失敗したといさぎよく自首しました。死罪を免れないかもしれないことは百も承知でしたが、そこが松蔭の恐ろしいまでに正直なところです。結局、松蔭は牢屋に入れられました。そのときつくった和歌を教えましょう。』


  【 かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂 】 →板書

*この歌は子供たちと一緒に朗誦しましょう。



4 野山獄の変化


江戸から長州に帰され、松陰は長州藩の野山獄という牢屋に入りました。松陰が入ると、牢屋の中におもしろい変化が起きました。次のどれでが始まったのでしょうか。
   A:勉強   B:物づくり   C:レクリエーション


『正解はAです。生きる希望を失って病人か亡霊のようになっていた罪人たちに、道徳や学問、いま日本が迎えている危機と日本人ならどうすべきか等々を教え、また、彼ら自身にも得意なこと(習字、俳句など)の先生をやらせ、牢屋を生き生きした学校に変えてしまったそうです。生まれながらの熱血教育者なのです。』




5 松下村塾

『やがて、松陰は牢を出され家に帰されました。しかし、罪が許されたわけではなく、家の外には出られず、どこへも行けません。そこで、家の離れで松下村塾という塾を始めました。そして、藩の武士だけでなく、足軽や町人や農民など、身分に関係なく学ぶ意欲があれば塾生にし、月謝も取りませんでした。』

松陰はこの塾で自分のことを「A」とよび、塾生のことを「B」とよびました。 AとBに言葉を入れなさい。
【A=「ぼく」 B=「きみ」】


『武士の塾生は「せっしゃ」「それがし」、農民の塾生は「おら」「あなたさま」などと言い合っていたら、松蔭の理想はかないません。そこで、塾生は皆「ぼく」「きみ」と呼び合うようにさせたそうです。身分で差別しないこの言い方は塾生のあいだにすぐに広まりました。いま、男の子が自分のことを「ぼく」というのは、松下村塾から始まったことなのです。』
『この松下村塾から、日本の新しい国づくりを進めた維新の志士たちがたくさん育ちました。』

*高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、伊藤博文、山県有朋、井上馨などを教える。



5 通商条約の前と後

 松陰が松下村塾で教えているころ、ハリスとの通商条約の交渉が進められてました。松陰はどちらの意見だったでしょうか? 
A:開国  B:攘夷



【正解はA】
『松陰は攘夷の決行を求める朝廷に次のような意見書を出しました。「鎖国を守るという考えは、一時的には無事のように見えるが、一時しのぎのやり方でとうてい日本の今後を考える大方針とはいえない。国内でも自分の藩に閉じこもっているのと全国を歩いているのでは、知識に大きな差が出る。ましてや、いまは世界が相手 になっている。日本のリーダーなら、世界をよく見て知識を広め、西洋と対等につき合える国にするべきだ」。』 →太字を板書


では、松陰は幕府が独断で締結した修好通商条約(開国)に、どんな意見を持ったでしょうか?
A:賛成した   B:中立    C:反対した


【正解はC】
『松蔭はこういいました。「この条約では、日本はアメリカの思うままだ。いずれ条約を結ぶことは必要だが、それは日本の力を強くしてからでなければならない。強いものにへつらい、まるで西洋の家来になったような態度で結ばれた条約には絶対に反対である」。条約締結前の考えと矛盾するようですが、西洋と対等につきあえる日本にならなければならないという考えこそが、吉田松陰の第一の目標でした。』

『こうして、長州藩は幕府が天皇の許しを得ずに結んだこの条約に反対しました。そして、攘夷戦争を決行する→幕府を倒して新しい国づくり→実力をつけてから開国する、という大方針をもって動き始めます。』 →太字を板書



6 吉田松陰の手紙


『吉田松陰は、老中暗殺計画を立てた罪で、幕府によって死刑にされました(安政の大獄)。1867年、江戸時代が終わる1年前のことでした。享年29歳。あまりにも若すぎる!』

『江戸に送られる前、吉田松陰は高杉晋作にだいじな質問を受けていました。松蔭は自分が死刑になる直前に、この質問に答える手紙を書いています。そこには、維新の志士たちすべてが持つことになる死生観(人はいかに生きるべきか?)がつづられています。それを読んで今日の授業を終えましょう。』


●以下をプリントして配り、教師が読む。




吉田松陰の手紙

 高杉晋作君。
 君は質問した。男子の死ぬべき所はどこかと。
 私も昨年の冬、投獄(とうごく)されて以来、考え続けてきた。
 死は好(この)むべきものではないが、また憎(にく)むべきものでもない。
 世の中には、身は生きていても、心は死んだのと同じという人がいる。
 反対に、身はほろびても、たましいは生き続けている人もいる。
 死んで、不朽(ふきゅう=永遠にほろびない)のことが残せるみこみがあれば、いつ死んでもよい。
 また、生きて大業(たいぎょう=大きな仕事)をなしとげるみこみがあれば、どこまでも生きる努力を続けなくてはいけない。
 人間というものは、生死のことなど度外視(どがいし=考えに入れないこと) して、いまじぶんがやるべきことをやるという心がまえが大切なのだ。



■日本の危機に、幕府だけに責任を押しつけていてはだめだ。日本(国)のことを自分のこととして考え行動できる人になれ。そう弟子たちに教えた吉田松陰は、まさに自分自身が教育者として、愛国心を実行した人でした。
 こうして、日本中の若い武士たちが、志士として考え行動するようになっていきました。維新(いしん)の志士とよばれます。維新とは「国を新しくつくりかえる」ことです。
 彼らは、日本という国の危機を自分のこととして受けとめ、命がけで学び、命がけで日本のために働き始めました。まさに我が国が誇る偉大な英雄たちです。

 長州藩・・・木戸孝允(21)、●高杉晋作(15)、●久坂玄瑞(14) ●伊藤博文(13)、●山県有朋(16)
 薩摩藩・・・西郷隆盛(27)、大久保利通(24)、東郷平八郎(7)
土佐藩・・・坂本龍馬(十九)など。

●印は松下村塾で学んだ、吉田松陰の生徒です。(数字)は、ペリーの黒船が来航したときの年齢です。



ペリー来航 後編

ペリー来航 後編

●欧米列強が日本をめざして押しかけてくるのは、植民地になっていない有色人種の国は日本くらいしか残っていなかったからだった。当時の武士たちはみなこの日本の危機をよく理解していた。そして、それぞれの立場から行動を起こしていく。幕末日本に吹いた激しい嵐は、世界の有色人種地域の中で唯一日本にだけ吹いた嵐だった。武士がもっていた公に尽くす倫理と誇り高い精神のゆえである。
こんなキモチでこれからの授業に取り組んでまいりましょう。

1 今度は7隻でやってきた

■板書:1854年2月13日 ペリーと7せきの黒船
 こんどは、七せきの黒船が江戸湾に入ってきた。幕府の返事を開きに来たのである。
 こんどは、いきなり江戸湾の奥まで入ってきて、空砲を打ち続けた。おどしだった。
ペリー
阿部政弘


*阿部正弘の対策を話す。
・大砲の台場を増設し、各藩の江戸湾の防衛分担を決めるなど、いざという場面に備えようとしてきた。

 いよいよ最後の決断をしなくてはなりません。今日は、阿部正弘を議長とする幕府の
 リーダーたちの意志決定会議に参加してもらいます。
 次の、A、B、どちらかの立場を選び、その理由も書きなさい。
  A:開国する    B:鎖国の法を守る(戦争もやむなし)。


*挙手でAとBの人数を確認し板書する。
 ここはA,Bそれぞれ2,3人くらいに発表させて次に進む。

■結論を教える。
【板書】◆1854年、日米和親条約を結ぶ(開国へ)
    ・下田と函館を開港する。
    ・まき・水・食糧などの補給
    ・下田に、アメリカの領事館を置く。
*オランダ、イギリス、ロシア、フランスとも。

*この条約が、「貿易」についてはOKしていないことに気づかせ、阿部正弘のがんばりを確認したい。

◆翌1855年、条約調印の翌年に阿部正弘は死んだ。まだ三十四歳の若さだった。
二十五歳の若さで江戸幕府の中心に立ち、ペリー来航のピンチに必死で取り組み、日本の運命を背負った大仕事のかたがつき、責任を果たして一年後だった。

2 不平等条約

■伊豆の下田にはアメリカ政府の領事館が置かれ、領事ハリスと幕府の間で交渉が持たれました。大老井伊直弼は貿易を始める決断をする。その結果、次のような条約が結ばれました。
井伊直弼



【板書】1858年 日米修好通商条約 
・横浜港、神戸港を開き西洋人が住む町を作る。日・米(アメリカ)が交流し、貿易を進める。
・イギリス(日英)・フランス(日仏)・オランダ(日蘭)・ロシア(日露)とも同じ条約を結んだ。

『この条約で、西洋諸国とつきあいが始まり、貿易が始められることになりました。みなさんは、これで安心と思うかも知れません。けれども、この条約によって日本の危機はさらに深まりました』

*ひとつは、この条約が朝廷の勅許を得ないで幕府の独断で結ばれたことが問題になった。
 もうひとつは、この条約が不平等条約だったことだった。

■資料「不平等条約」



不平等条約

徳川幕府が欧米列強と結んだ「通商条約」はたいへん不平等なものでした。(日米・日英・日仏・日蘭・日露)
 不平等とは次のことです。

 1 日本に関税自主権がない。

 2 欧米列強の治外法権をみとめる。


【1について】
 「関税」とは、貿易の輸入品にかける税金のことです。
 対等な関係の国どうしだったら、関税は自分の国の判断で自由にかけられます。それは、どの国にも、関税をかけないとつぶれてしまうような弱い産業があるからです。
 しかし、この条約では、日本には「関税を自主的に決める権利(関税自主権)」が認められませんでした。
 西洋の安い値段の商品に負けて日本の産業がおとろえれば、貿易でもうけるどころか、その産業がつぶされてしまい、国の力がおとろえていき、いつかは西洋に支配されてしまうかも知れません。

【②について】
開国すると、たくさんの西洋人が日本に入ってきます。なかには日本の法をおかす人もいます。外国人が日本で犯罪をおかしたとき、日本にはその裁判をする権利がなく、その国の領事が裁判をします(領事裁判権)。このように、西洋人には日本の法をあてはめないという約束のことを「外国の治外法権を認める」といいます。

★この二つの不利な条件を日本にだけはあてはめたので、これらの通商条約は不平等条約とよびます。
 開国して貿易を始めた日本と西洋の強国とのつきあいは、大昔の中国と日本の関係のような親分・子分の関係まではいきませんが、それでも国同士に上下関係ができ、日本は西洋より低い立場に置かれたのです。
この条約で、日本は西洋中心の世界につながりを持つことになりましたが、聖徳太子以来の国の独立が危うくなり、武士の誇りも傷つきました。



■板書:不平等条約
    ・日本に関税自主権がない。
    ・欧米列強の治外法権(領事裁判権)をみとめる。


■説明
 日本は西洋の植民地になったわけではありませんが、この条約で上下関係ができ、半独立国という立場になってしまいました。
 日本中の武士たちの多くは、この条約には反対でした。戦わずして負けてしまったのと同じようなものだったからです。日本中の武士たちに、幕府の弱腰を批判する声があふれました。
 朝廷の許しを得ないで決定した、井伊直弼にも批判が集まりました。
日本は次の2つの意見に分裂してしまいました。

 みなさんが幕末の誇り高い武士だったら、どちらの立場に立って行動しますか。
 A:開国派・・・条約を守り、新しい国づくりを進める。
 B:攘夷派・・・条約を廃棄し、西洋と戦って、新しい国づくりを進める。


*ノートに立場と理由を書かせる。挙手で意見分布をたしかめ、はそれぞれの理由を発表させる。

【解説】AかBか、必ずどちらかに手を挙げさせる。発言しなくても、手を挙げることで全員が授業に参加できる。理由は少数派から言わせる。書いたものを読むだけでかまわない。書くことが考えることになる。


3 まとめ

『国内の分裂は、西洋の思うつぼです。日本人同士が戦うようになれば、その戦いに外国が介入してきて、どちらが勝っても日本が支配されてしまう可能性があるからです。
 条約によって、日本はますますピンチになってきました。次回から、この危機の時代に活躍した何人かの人物を取り上げます。』

欧米列強はなぜ日本に開国をせまるのか?

欧米列強はなぜ日本に開国をせまるのか?

●なぜ米国は日本に開国を求めるのか。この授業はそのいみをかんがえる。
欧米列強はあらゆる手段を使って、日本の植民地支配をねらてくる。すべてのアジアできたことが、日本でできないはずはなかろうというわけだ。こうして、日本に亡国の危機が忍び寄ってくる。
ここでは、どのようにしてアジアはことごとく奴隷状態の植民地にされていったのかの事例を学ぼう。
維新の志士たちはその事例から学び、大きな国造りの目標を立て、建設的な決断を積み重ねていく。

1 清国(中国)がイギリスに負けた

■アヘン戦争の絵を見せる。
アヘン戦争

これはペリーの黒船が日本に来る10年前に起こったある事件の絵です。
気づくことを発表しましょう。


*発表させる。
【爆発、遠くに蒸気船(イギリス軍艦)、近くにジャンク船(中国)、戦争、西洋と中国】

◆アヘン戦争について説明する。

 板書:1840~1842 アヘン戦争(イギリス 対 清)

『日本に大きなショックを与えたアヘン戦争とはどんな戦争だったのか、それを説明します』

■児童とやりとりしながら次のことを教える。

1 戦争の原因・・・イギリスが清国に大量に麻薬(アヘン)を密輸したこと。清国に麻薬中毒患者が増え、国内の銀がどんどんイギリスに出て行く。清国人が麻薬患者になっていくことに、イギリス人は何の痛みも感じていない。

2 戦争の経過・・・愛国者林則徐はイギリス商人から、麻薬2万箱を没収して燃やした.その報復のために、イギリスは、軍艦16隻、兵隊14000人を送り、清国を攻撃した。清国の皇帝は、戦うことをおそれて林則徐をクビにしたが、イギリスは清国が降参するまで攻撃をやめなかった。

3 戦争の結果・・・南京条約:多額の賠償金と香港をとられた。5つの港を開港し、清の鎖国が終わった。フランスやアメリカも、中国に圧力をかけて同じような条約を結んだ。

■板書:清国は戦争に負けて開国した(イギリス・フランス・アメリカなど)。
    賠償金と香港をとられた。

『これは明らかに不道徳な戦争だ。麻薬を輸出するなんて、アメリカにもフランスにもやらない。インドにだけこやった。アジア人にあの高貴な「人権思想」を当てはめるつもりは金輪際ないのである。アジア人は、麻薬中毒になって、気が狂って死ねばいいのだ。イギリスがもうかればそれでいい。』

『このように、そのころの西洋諸国の言う「貿易」は今私たちが考える、平和な商売のイメージとはだいぶ違いました。中国や日本は、そういう西洋人の危険を知っていたからこそ鎖国を続け、長い間、自給自足の平和で豊かな国を築いてきたのです。しかし、この時代になると、中国や日本を大砲でおどかしてでも、開国させ、無理矢理にでも貿易をさせようとしました。(砲艦外交)』

西洋諸国は、どうしてこれほどまでに、世界中と貿易をしたがるようになっていたのでしょうか?

*意見を発表させる。

板書:産業革命・・・機械の発明→工場で大量生産

「植民地の安い原料を買って、安い労働力で大量につくり、世界中(植民地も含む)に売って、たくさんもうけて、国を豊かにしたい!(現代のぜいたく病の始まりだ)」

2 西洋諸国はアジア・アメリカ・アフリカを征服してきた。

『5年生の時、日本は貿易をして豊かになってきたことを学びました』

西洋諸国と貿易をした国は、アジアの国はみな豊かになったのだろうか?
A 豊かになった   B 貧しくなった C 支配されてしまった


*人数分布をとり、意見を発表させる。

■資料「ヨーロッパ諸国のアジアの植民地」を見せ、植民地に色を塗らせ、説明文を読む。

植民地(しょくみんち)とは?
イギリス領インドにはインド人が、フランス領インドシナにはベトナム人が、オランダ領東インドにはインドネシア人が、スペイン領フィリピンにはフィリピン人が住んでいた。国もあれば、王様もいた。
そこに西洋人が貿易をしに入ってきた。しかし、いろいろな理由で、さいごは国がのっとられてしまった(植民地)。インドはイギリスの植民地になったが、インド人がイギリス国民になったわけではない。ベトナム人がフランス国民になれたわけでもない。西洋人が大きな農場を経営し、原住民はそこで働くどれいのような立場になった。西洋人が支配者としてよい職業を独占して、原住民は貧しい職業にしかつけなくなった。西洋の文化は入ってきたが、それを学んだり、楽しんだりする立場にはなれなかった。他国に支配されるということは、長い伝統のある国を失い、歴史を失い、人としての誇りを失うことだった。

『植民地がどういう意味かわかりましたか? いま、東南アジアはすべて植民地になってしまいました。アジア諸国が西洋の植民地になったのは、いくつもの原因がありました』

■板書:貿易の競争に負けて植民地になる・・・・産業がない。または、つぶされる。
        戦争に負けて植民地になる・・・・・・・強い軍事力がない
        国内の分裂につけ込まれる。・・・・・・国がまとまっていない


3 まとめ:黒船が来たことの意味を知る

■阿部正弘の写真を貼る。

『ペリーが来たとき、阿部正弘はアジアが支配されていることも、アヘン戦争のこともみな知っていました。しかし、250年の平和を築いてきた日本の生き方をすぐに変えることはとても難しいことでした。その阿部正弘は、ペリーがやってくる来年の春までになんとか結論を出さなければなりません。夜も寝られない日々が続きました』

『前回の授業で、戦って鎖国を守ろうという人もいれば、開国して貿易をすすめようという人もいました。今日わかったことは、鎖国を守っても、戦争をしても、どちらの道も、西洋に支配される可能性があるということです。』

もう一度ききます。みなさんが江戸時代の武士だったら阿部正弘にどんな助言をしますか?
*発表させる。

『今から150年前、みなさんの5代前のご先祖は、まさに日本が滅びるかもしれないというたいへんな危機の時代を生きていました。次回は、2度目にやってきたペリーと阿部正弘の対決のお話です』
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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