中学歴史2年「大日本帝国憲法」の授業

《授業の意図》
・戦後の教育では、日本国憲法が善玉で大日本帝国憲法は悪玉だった。前者は、国民主権・人権尊重・平和主義であり、後者は天皇主権(独裁)・人権制限・侵略戦争というイメージ操作である。
しかし、これは明らかにウソである。
帝国憲法はアジア初の堂々たる立憲制度の確立であり、大正期には議院内閣制を憲政の常道とうたうようになる内実を持った憲法であった。
そろそろわれわれは児童生徒に真実を教える教育を始めたいと思う。この授業は大日本帝国憲法の真実を教え、アジア初の立憲政治を推進した先人の努力に共感できる生徒を育てようとして実践した。(まる2時限はかかりませんが、1時限では終わりませんでした。


1 大久保利通の考え(「政体に関する建白書」)
 
 五箇条のご誓文をどう実現していくかを研究した大久保利通は、西洋列強の政治の仕組みには3つあると書いています。

A・・・立憲君主制(イギリス)、王と国民(議会)による政治
B・・・共和制(フランス)、王は殺されていない、国民(議会)だけによる政治 
C・・・君主専制(ロシア)、王による政治

「大久保はどれが日本の目指す政治だと考えたでしょうか?」
*生徒はAが25人、Bはゼロ、Cが3人でした。Cの生徒の一人は「日本は天皇中心の国だから」と言いました。
*大久保はA(イギリス式)こそめざすべきであり、それが「君民協治」でやってきた日本の伝統にもかなうとし、Bは国のまとまりや秩序が壊れ不安定な政治になる、Cは近代化という世界の大きな流れに合わず時代遅れだと書いています。
*これが西南戦争までの日本をリードした大久保の考えでした。


2 伊藤博文の憲法研究

*伊藤は大久保の後継ぎなので、とうぜんイギリスの政体こそが理想だと考えていました。また、ヨーロッパの君主国の大勢もイギリスを模範としていました(ベルギー憲法など)
*しかし、イギリスには憲法典はありません。また300年かけてゆっくり立憲政治を作り上げてきた国と、40年でそれをやろうとする日本ではあまりにも実情が違います。そこで、日本と同じような統一国家ができて間もないドイツ出学ぶことにしました。グナイスト先生やシュタイン先生について、伊藤は必死に勉強しました。
*伊藤ははじめ、近代憲法の条文をマネすることを考えていました。しかし、シュタイン先生に決定的なことを学ぶことによって、日本の憲法づくりが大きく前進することになりました。それは次のような教えでした。(倉山満氏の憲法講義)

「憲法はその国の歴史と伝統そのものである。日本が昔から継承してきた価値にもとづいた憲法を持つべきです」
*こうして憲法作成の2大方針ができました。

1 日本の歴史と伝統に学ぶ(「古事記」「日本書紀」「十七条の憲法」その他)
  ・天皇中心にまとまる国。
  ・古代から尊重されてきた国民(大御宝)の権利。
  ・独断せず、知恵を出し合い、話し合って決めていく政治。

2 西洋列強の近代思想に学ぶ
  ・立憲政治(憲法に基づく政治)、議会、法、など。


3 グナイスト先生のアドバイスと伊藤の決断

*ところで、グナイスト先生もたいへん重要な提案をしてくれました。
それは、国会(国民が選挙で選ぶ)には権力を与えない方がいいという提案でした。
ここで次の式を教えます。

政治の実行=法律(何のために何をどのようにやるかを決める)+予算(いくら税金を使うか決める)

*政治は法律と予算が決まらなければ何もできません。この両方を国会では決められない憲法にする。法律と予算は政府(内閣)が決められれば、日本がいまやるべき富国強兵の政治をどんどん進めることができる。国民が選んだ議員たちは税金を下げることばかり考えるでしょう。しかしそれでは今日本が目指している国づくりはできないでしょう。日本にはゆっくり話し合っているゆとりなどないのではないですか?・・・こういう内容でした。
*伊藤はなるほどと思う反面、それでは立憲政治ではなく独裁政治ではないだろうかと思いました。グナイストの意見には、日本には立憲政治は無理だろうという上から目線も感じられたのでした。

伊藤博文はどちらを選んだでしょうか?
A 国会(議会)には法律と予算は決めさせない。
B 国会(議会)で法律と予算を決めるようにする(イギリス方式)。


*生徒はAが10人、Bが18人でした。Aは「強い政治をどんどん進めないと、西洋列強と対等になれない」など。
Bは「それでは西洋が国会とは認めないかも。(そうだとすると条約改正ができない)」など。
*伊藤博文は、Bを決断しました。議会に正しい権限を与えない限り選挙をする意味がなく、理想の立憲政治とは言えないと考えたのでした。また、我が日本国民は、国の現状を理解し政府に協力する力があるはずだと信じたのです。


4 アジア初の立憲政治の成立

*こうして、たくさんの難問を解決しながら、伊藤内閣はりっぱに国民へ約束を果たしました。

1889(明治22)年 2月11日(紀元節)  大日本帝国憲法発布

*教科書P179の資料でかんたんに条文を説明する。
第1条「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」これは天照大神から続く天皇中心の国を守りっていくということ。日本の歴史と伝統の根幹を示した者です。
第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」これは、天皇には政治的責任を問わないということ。当時最先端のベルギー憲法にもとづいています。
*1条と3条で天皇は絶対的な存在に見えますが、4条が「天皇の統治権は憲法に基づく」として、立憲君主制であることを明らかにします。また5条「天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う」とあり、「協賛」とは「同意」を含みますから、実際に法律を決めるのは国会であることになり、これが大正時代の議院内閣制の運用になっていきます。
*また、この憲法は国民(臣民)の権利を大きく認めたことでも西洋諸国を驚かせたことを教えます。
*議会の同意がなければ、予算も法律も成立しない、国民の自由・人権も侵すことができないというきわめて民主的な憲法であったことをしっかり教えたい。
*この憲法が「天皇独裁制」のように書いている本があるが、間違いであること、天皇が国家・内閣・裁判所の決定を否定したことはないことを教える。。
*P178の資料で、自由民権派も西洋諸国もこの憲法を賞賛したことを教える。

1890(明治23)年  第一回衆議院議員選挙の実施 → 第一回帝国議会の招集
        
*選挙権は25歳以上、直接税15円以上の男子

*こうしてアジア初の、議会を持つ本格的な立憲国家(欧米以外では無理と言われた)がスタートした。


5 教育勅語

*第一回帝国議会招集に先立ち、天皇の名で「教育に関する勅語(教育勅語)」が発布された。P179に資料。
*孝行、学問、公共心、非常時に国に尽くす心など、国民としての道徳を説いている。これはよい国民なくしてよい立憲政治はありえないからである。
*教育勅語は教育に活用され、日本人の道徳心を高め、日本人生き方に大きな影響を与えたことを教える。


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2年1組 I.さんのノートから

平成26年、2014年の1学期も中間考査に入りました。
授業を書いているゆとりがないので、生徒の感想で4月5月の授業を紹介します。

4月14日「ペリー来航と開国」
*見たこともない黒船が来たとき、私がその場にいたらどうしていただろう。わからない。幕府は知っていた。知っていたのならもっと対策をとっておいたほうがよかったのではないか。阿部さんはすごいと思う。権威を気にするより、国全体を気にした方がよいはず。今の日本があるのはこの人のおかげだと思った。

4月15日「不平等外交とその後」
【攘夷派VS開国派】
私は開国派だ。なぜか。外国にあらがえば植民地化し、今までずっと守り抜いてきた国が無くなってしまうと思ったからである。無理に開国したくはないが、戦争になってたくさんの命がなくなるなら、平和的な解決策を求めなければならない。時間をかけて力をつける!!
*井伊さんの決断はきっぱりしていて決断力があると思った。ちゃんとした答えが必要とされていたので、批判を受けるのはしょうがない。ただ殺し合いになるのはひどいような気がする。いつでも和を大切にしなきゃいけない。

4月21日「吉田松陰」
(感想なし)

4月22日「高杉晋作」
*幕府&薩摩に大敗した長州を、また高杉晋作が乗っ取った。80人から1000人以上になったのは、晋作の素晴らしい考え方や行動にあると思う。藩の軍隊を打ち破ることができたのは、集まった人たちの考えと気持ちがあったからだ。吉田松陰はいろいろな人にたくさんのことを教えてくれていたんだと思った。

4月28日「生麦事件と薩英戦争」
【薩摩藩はどうすべきか?】
私は「B.金は払うが、犯人は渡さない」が一番正しいと思う。
植民地化されたら一番悪いけど、生麦事件は殿様を守ろうとした正当防衛だと思う。今考える殺してしまったのはおかしいと思うが、この時代は大名行列の前を横切るのさえダメで、それが日本のルールだから、悪いのはあっちでだから、犯人は渡さないでいい。だが、戦争になったら怖いので、お金は一応払っておいた方がよいと思う。
*薩英戦争では薩摩はよく戦った。戦力のレベルでは差がありすぎてどうにもならないと思ったが、自分の藩も守れないようじゃ、これからやっていくことはできない。軍事力を体験したことによって、考えを変えることができたと思う。

5月12日「坂本龍馬と徳川幕府の滅亡」
*坂本龍馬の考えを変えた勝海舟さんはそうとうなことを言ったんだと思う。

5月13日「戊辰戦争と明治新政府」
*王政復古の大号令で徳川を外したのは思い切った決断だが、よく考えてあると思いました。天皇中心にするにはそうするほうがよいと思います。
でも、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が賊軍とされたのは、幕府軍としてはつらかったと思いました。
西郷さんと勝さんは国をまとめられるすごいリーダーです!国全体のことを考えられるのは真のリーダーだからです。二人とも、外国の援助を断って植民地化の危険を避けたのがすごい!!自分側が勝つことしか考えられない人とはちがいます。
新政府ができて、日本がどうなっていくか楽しみです!

5月19日「廃藩置県と四民平等」
【廃藩置県、賛成か反対か】
私は反対です。
武士たちが新政府に変えようとがんばって戦ってきたのに、いきなりクビにしてしまうのはおかしいし、ありえません。
武士としては何のために戦ってきたのかわかりません。武士たちが裏切られた気分になるのはまちがいないと思います。誰が国を変える為に命をかけて頑張ったのか思い出すべきです。
恩をあだでかえすようなものにしか思えません。
(感想はなし)

5月20日「明治の三大義務」
*今の制度の元になる事がこの時決められたことがよくわかった。この制度が無ければ、学校で勉強することもなかったと思うとスゴイ。


中学歴史2年6「坂本龍馬と江戸幕府の終わり」の授業

*この授業では坂本龍馬の活躍をやります。一つは薩長同盟、もう一つは大政奉還です。王政復古で新政府が誕生し、鳥羽伏見の戦いが始まったところまでです。龍馬クイズや、勝海舟の話や、西郷と木戸を叱った話などにはいくぶんか「講談」も入っていますが、生徒が喜ぶところですので、偉大な人物の伝説として伝えていきたいと思います。

1 坂本龍馬

*坂本龍馬の写真を黒板にはります。
坂本龍馬

『坂本龍馬は、1835年、大塩平八郎の乱が起きた頃、土佐藩の郷士の家に生まれました。土佐はいまの~? そうです高知県。郷士というのは一番身分低い武士、普段は農民や町民だがいざというときは殿様のために働く。藩士からはとても差別されていました』

*丸バツクイズをやります。丸は両腕で大きな丸をつくる。バツはお顔の前に小さくバツです。
①この人物は、剣術が強かった。答えは丸。江戸の千葉道場で免許皆伝。
②この人物は、少年時代泣き虫だった。答えは丸。いじめられっ子でお姉さん乙女に鍛えられた。
③この人物は、18歳ぐらいまで寝小便をしていた。答えは丸。これも乙女の話。
④この人物は、日本で最初の貿易会社を作った人だ。答えは丸。海援隊。
⑤この人物は、ペリーの黒船を自分の目で見た。当時江戸にいたのでたぶん丸。好奇心が強いから。

*ペリーが来てからおよそ十年後の文久2年3月。龍馬は28歳。土佐藩を脱藩した。尊王攘夷運動が盛り上がっているときで、天下のために何かしたいと考えた。脱藩は重罪で家族も連座する罪だが、土佐で郷士のままでは何もできない終わってしまう。


2 運命の出会い

『江戸に出て、龍馬は幕府のリーダーに会いに行った。斬りに行ったらしい。この人物です』
katukaisyu.jpg

『勝は幕府の軍艦奉行。これも貧乏旗本の息子だが、阿部正弘に取り立てられた。危機だから世に出られた人物。このときこんな話を聞いただろうと思われる。私の創作が入ってますが・・・』 

*資料「勝海舟の話」を読む。
**********************************

勝海舟は坂本龍馬にこう語った

 坂本さん、刀はもうちょっと、引きつけておきな。
そうじゃないと、おれは斬れないよ。
まあ、おれを斬るのはいつでもできるだろうから、今日は、アメリカの話でも聞いてお帰りよ。

 おれは二年前、咸臨丸に乗ってアメリカに行って来た。
何がおどろいたって、あそこじゃ、国の政治は、選挙で選ばれた人物がやるという話だった。将軍家も、殿様(とのさま)もないんだ。だから、上に立つ者はみんな、ひとかどの人物だよ。バカでも身分や家柄がよいというだけで、リーダーになれるような国とは、いきおいがちがうというわけさ。

 おれたちはいま、そんな国を相手にしているんだ。今のように、国内で戦いあっているようじゃ、日本はあぶないよ。どっちが勝ったって、日本全体としてみりゃ、弱っていくばかりなのさ。そんなことをしていたら、西洋の植民地にされちまうかも知れないぜ。
 それでもいいのかい、坂本さん。

 西洋にやられないためには、軍艦だって大砲だっているんだよ。そいつを手に入れるには、西洋とつきあうしかないんだ。大砲も軍艦もない、サムライは藩に分かれていて、国としてまとまった海軍も陸軍もない。こんなことで、どうやって国を守れるっていうんだい。

 国が一つにまとまって、いざとなれば戦うという気力を見せれば、西洋にだって、そうかんたんには、やられやしないよ。
 幕府だ、長州だ、薩摩だと、日本人どうしで、けんかをしている場合ではないということさ。 
どうだい、人殺しなんかやめにして、おれといっしょに海軍をつくる仕事をやらないか。よかったら明日からでも、おれの海軍繰練所(かいぐんそうれんじょ)においで。

***********************************

*龍馬は、勝の話を聞いて、体を電流が流れたように感動してしまった。
*姉の乙女にこんな手紙を書いている。
「日本第一の先生の弟子になった。・・・・」

*勝から学んだことをまとめる。
1 国のリーダーは、実力のある人物を選挙で選ぶ。
2 国内で争い戦っていては国をとられる。
3 中央集権国家を作って、軍備を増強する。


3 薩長同盟

*『龍馬は勝先生に学んで、海軍の勉強をしたり、貿易会社(亀山社中 → 海援隊)をつくったりしながら、日本を変えるために働きました』
*以下の説明をする。

①長州は会津と薩摩に京都から追い出され、朝敵にされ、第1次長州征伐では幕府と薩摩が組んで長州をたたいた。薩摩は長州を嫌い、長州は薩摩を憎んだ。草履の裏に薩摩と書いて踏んづけて歩いていた。

②しかし、勝海舟も坂本龍馬は、日本はもう幕府ではもたないと考えていた。

③薩摩は薩英戦争で方針を変えて「幕府はもうダメだから、長州と手を結びたい」と考え始めているという情報が入ってきた。

④龍馬は「長州と薩摩のけんかをやめさせる」ことを考えた。龍馬は自由の身だから、あちこち飛び回れる。西郷さんと会ったり、桂小五郎さんと会ったりしながら、中岡慎太郎と二人で両方が手を結ぶ話を進めた。

⑤しかし、2人を会わせてもなかなか同盟の話が出ない。お互いに憎み合ってきた過去があるから、自分から同盟の話を出すのはメンツにかかわるというわけだ。

『龍馬は、西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)にこう言って叱ったそうです。

(   )のためでも、(   )のためでもない。(   )のためだ!

(   )にはどんな言葉が入るでしょうか?』

:発表させる。
「薩摩のためでも、長州のためでもない。天下(日本)のためだ」

慶応2年1月(1866年3月) 薩長同盟成立

*6月幕府は2回目の長州せいばつをやったが、薩摩はそれに参加せず幕府側が負けてしまった。薩摩が買った銃や弾薬を龍馬の海援隊が長州に運んだ。海援隊は下関で幕府海軍と戦っている。


4 船中八策

*こうして日本の政局は(幕府)VS(薩摩+長州)となり、倒幕戦争が必死という形成になった。

*坂本龍馬は「船中八策」という国づくりの大方針を書いた。その第1条が有名な「戦争なしで江戸幕府を終わらせる」驚くべきアイディアでした。
*アジアの植民地化では、国内の分裂が列強に乗じられたケースが多々あった(インドやベトナムなど)ことを教える。
*船中八策を読む。

*************************************

船中八策
1.幕府は政権を朝廷に奉還し、朝廷が政治を進める。(大政奉還)
2.上院と下院の議会を設け、議員を選んで、国のためになること(公論)を話し合いで決める。(議会開設)
3.能力の無い役人は辞めさせ、身分に関わらず有能な人材を登用して政治を進める。(官制改革)
4.外国との交際は国のためになるように進め、新たに対等な条約を定める。(条約改正)
5.古代からの律令は止めて、新しく憲法を定める。(憲法制定)
6.海軍をつくる。(海軍の創設)
7.国家の軍隊(陸軍)をつくり国を守る。(陸軍の創設)
8.貿易相手国に有利で日本にとって不利な貨幣制度を改める。(通貨政策)

*************************************

『第15代将軍、徳川慶喜は、龍馬が考えたこの案を実行しました。これを大政奉還といいます。これからは、朝廷を中心に新しい国づくりをしていきましょう、というのが坂本龍間の考えだったのです。こうして、260年続いた徳川幕府が終わりました。1867年10月のことです。』

慶応3年10月(1867年11月)大政奉還、江戸幕府が終わる。
*翌11月15日、京都近江屋で、坂本龍馬は中岡慎太郎と共に暗殺された(幕府見廻組)。
*船中八策は、新しい明治日本の国づくりの大方針になった。

*しかし、大政奉還では、徳川慶喜が新政府内で強い力を持ってしまうことに気づいた、薩摩藩(大久保利通と西郷隆盛)は、明治天皇の許しを得て、徳川家をつぶして新政府を作る策に出た。
慶応3年12月 王政復古の大号令、 徳川氏には辞官納地を命じた。

*あわせて、西郷大久保は江戸で破壊活動を行い、幕府を挑発したため、年が明けて、幕府対薩長の内戦が始まった。
慶応4年1月(1868年) 鳥羽伏見の戦い

*薩長軍は錦の御旗を掲げ官軍となった。
*朝敵になった将軍慶喜は恭順に傾き江戸に逃げ帰った。官軍は東海道と中山道を江戸に向かった。
*明治改元は4月。

中学歴史2年5「尊王攘夷3 生麦事件と薩英戦争」の授業

1 生麦事件

*前回、長州藩の攘夷戦争を学習しましたが、同じ時期の薩摩藩です。
薩摩は「公武合体運動」を推進していました。朝廷と幕府を合体させる。具体的には孝明天皇の妹和宮と将軍家茂の結婚です。
そして幕政を改革して(外様の雄藩の力も導入して)この日本の危機を乗り切ろうという考えです。
つまり、長州藩とは違って、薩摩藩はこの時期徳川幕府の存続を支持していました。
とうよりも、文久4年までは、幕府・会津と組んで長州をつぶそうとしています。

*その薩摩藩の島津義久が軍を率いて江戸に向かいました。朝廷の意志を背景に幕政改革の実を挙げることがねらいでしたが、当時の攘夷派はこれを「倒幕か?」「攘夷の実行か?」などと誤解していたところがありました。

*その誤解が、まるで正解だったかのようになる事件が起き、こんときの薩摩の行動が過激な攘夷運動の先駆けになってしまいます。

■明治初期の生麦村の写真を見せます。
生麦1

『いまからおよそ150年前、ペリーの黒船が来てからおよそ10年後、通商条約を結んで5年後のことです。
 この写真の場所である大事件が起きました。この道は当時の東海道。今の横浜市鶴見区生麦にあたります。
  どんな事件が起きたでしょう?』

・生麦事件

■文久2(1862)年8月21日の生麦事件の事実経過を物語ります。島津義久の大名行列が江戸を出発して東海道を京に上っていく。向こうから馬が4頭やってくる。乗っていたのは開港した横浜に住んでいたイギリス人の貿易商とその友人。そして彼らを訪ねて母国からやってきた友人夫婦の4人。ピクニックの途中だった。4人は薩摩の武士の制止も聞かずにどんどん行列の中に入ってきて、あれよあれよという間に殿様のかご近くまで来てしまった。護衛の藩士はんちもなみちのな抜刀してイギリス人に斬りつけた。一人は即死で落馬した。二人は深手だったが、かろうじて持ちこたえて逃げた。4人目の女性は斬らなかった。3人は横浜に逃げ帰った。(4人の英国人、1人死亡、2人負傷)。

■イギリス領事は香港にいた東洋艦隊を江戸湾に呼び寄せ臨戦態勢を取った。そして、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(28万両)を要求した。千両箱を280箱である。
薩摩藩には斬りつけた武士の引き渡し(処刑する)と賠償金2万5000ポンドを要求した。

■幕府は言われるままに支払った。薩摩藩は次の宿場でどうするか話し合った。

『みなさんが薩摩のリーダーだったら、どうしますか?』

A:要求に従う。
B:賠償金は払うが、斬った武士は渡さない。
C:要求に従わない。


*立場を決めさせ理由をノートに書かせる。
*人数分布をとり、数名に意見を言わせる。

【生徒の意見】
A(6名)
・世界のトップイギリスに逆らってしまうと、いくら日本の雄藩薩摩でも軍事力が圧倒的に違う。断ったら仕返しが来そう。よって、ここはおとなしくきいておいたほうがよいと思います。

・両方断ったら確実に戦争になってしまうのでダメだ。Bかと迷ったが、班員である仲間を渡さず戦争になれば、その何倍何十倍の犠牲者が出てしまう。犠牲がしょうがないというわけではないが、Aが確実に戦争を避ける方法だと思う。

B(13名)
・両方言うことを聞くとイギリスにスキを見せることになる。両方断ると完敗して日本が滅ぼされることになる。金は払うが、やむなく斬ってしまっただけだから、犯人は渡さない。

・お金はきちんと払い相手への敬意をしめす。でも仲間を見殺しには出来ないから引き渡さない。犯人は日本の法律で裁いたと伝える。日本で起きた事件だから。無罪になると思う。


C(8名)
・なぜなら、幕府がもう10万ポンド払っている。謝罪もしている。だからこれ以上賠償金は払わないで良い。犯人といっているが、英人が行列に入ってきて殿様の駕籠の近くまで来たから、殿様を守るために斬った。間違ったことはしていないから罪人呼ばわりされる必要はない。

・行列の中に入って、日本の要人の近くに来て止まりもしないので、藩主の命を守るためにやむなく斬った。忠告したし制止もしたのに、止まらなかったではないか。犯人を引き渡すのは条約とはちがう(日本人は日本の法で裁く)。郷に入れば郷に従えだ。

・仲間を裏切るようなことをする人が、みんなをまとめて明治の日本をきちんとつくれるとは思はない。ずっとイギリスなど外国の言うことを聞いていたら、日本なのに日本じゃなくなってしまうから。

■大久保利通の写真を貼り、その決断が【C】だったことを教える。
gazo-Ookubotosimiti0.jpg

*資料「大久保が藩主の代わりに書いた手紙」を読む。

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大名行列について、わが国法はきびしい。
無礼な行為があれば、切り捨てるべきであると定めている。
だから、薩摩の武士は国の法を守った者であり罪はない。
彼らは犯罪者ではなく、薩摩藩が賠償金を払う義務はない。
逆に、イギリス人が 日本にいて日本の法を守らず、罪を犯して切られたのである。
西洋人といえども日本に来たのなら日本の法に従うべきなのはいうまでもない。
その法は幕府が決めたものなのに、法を守らなかったイギリスに対してあやまり、賠償金を払うことこそまちがっているのである。

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*「考え方はいいと思うが、戦争になってやられることは考えなかったのか?」という質問が出る。
薩摩藩は戦争を覚悟して薩摩に帰りました。世界の超大国だから大砲戦は負けると城下が焼かれることは覚悟していたようだ。しかし、いくら強いといっても海軍だけでは上陸され占領されることはないと見ていた。戦争の勝ち負けよりも、ここはサムライとしての筋を通すことが後々のためにも重要だと考えたのでしょう。


2 薩英戦争

■イギリスは幕府と交渉しても、薩摩に言うことをきかせる力がもう幕府にはないことを知った。鹿児島湾に7隻軍艦(89門)で押し寄せ、24時間以内の回答をせまった。

■大久保は「薩摩藩は、攘夷をさけぶ長州藩と、幕府を応援して戦ってきた。その薩摩藩が、幕府の法を守ったせいで、いまイギリスから攻撃を受けようとしている。なんという運命だろうか!」と言ったそうです。

■お話をプリントして配り、読む。


薩英戦争(さつえいせんそう) 文久3年(7/2) 1863年(8/15)

世界の海を支配するイギリス艦隊は、世界最強の海軍であった。軍艦7せき、大砲の数は全部で89門だった。薩摩の蒸気船は3せきともイギリス艦隊にとらえられてしまった。

 大久保利通は、公武合体派で長州と対立する薩摩が攘夷戦争をやることになった運命の不思議を思った。しかも敵は世界最強の海軍であり、こちらは日本の九州の南端の一つの藩に過ぎないのだ。しかし、もはやしりぞくわけにはいかなかった。

 城下の人々を避難させ、沿岸の十数カ所につくった砲台の準備も整った。
 7月2日。おりから、台風が近づき、暴風雨の中で戦争が始まった。

 薩摩藩の大砲は旧式だったが、ふだんからの訓練がものをいって、命中率が高かった。その一発はみごと敵の旗艦(指揮官の乗っている船)に命中して、イギリス軍艦の艦長と副艦長が戦死した。

 しかし、薩摩藩の砲台はつぎつぎと集中砲火を浴びた。イギリスの大砲は、最新式のアームストロング砲だった。鹿児島の城下町は炎につつまれ、砲台も次々と攻撃力を失っていった。

 戦争は3日間続き、指揮官を失ったイギリス艦隊は、鹿児島から出ていった。

結果はこうだった。
 イギリス軍の戦死13名、負傷者50名。
 薩摩軍の戦死10名、負傷者11名。
 鹿児島城下の五百戸が焼かれ、蒸気船3せきを失い、薩摩藩の西洋式の工場もこわれてしまった。

 どちらが勝ち、どちらが負けたのか、わからない戦争だったが、大久保たち薩摩藩のサムライたちは、この戦争で西洋の真の実力を体験できたのである。

イギリスの新聞は次のように書いた。
「鹿児島は戦争のうまさは日本第一である。 薩摩藩の兵士の勇かんさは、これまで見たアジア人の中で、ぬきんでている。すみやかにもう一度攻撃しなければ、英国のはじとなろう。二人の指揮官を失ったことは大英帝国のはじだからだ。しかし再び攻撃するには、軍艦十二せき、千名の陸軍がいる。準備には八ヶ月が必要だが、その間に、薩摩もじゅうぶんに用意しているだろう」
薩英戦争


3 戦争の後

『戦いの後、薩摩藩の意見は2つに分裂しました。

 A:早く解決しよう派    B:あくまで戦う派

 戦争の後始末を任された大久保利通の意見は、どちらだったでしょう?』


*挙手で意見分布をとるだけにして、すぐに正解を教え、授業のまとめをする。

【正解はA】
■武士としての意地を見せたことに満足し、イギリスと講和することにした。
大久保は、2万5000ポンド(7万両)を払うことにした。
しかし、賠償金ではなく遺族養育料という名目にさせた。
しかも、それを幕府に払わせた。

■そのとき大久保が使った手を教えよう。しぶる老中にこう言ったという。「もし7万両お貸し願えないのなら、やむをえない。やりたくはないがイギリス公使を斬って自分も切腹する」。
幕府の老中はふるえあがって金を出したという。

■長州藩と薩摩藩だけが西洋列強と戦争をした。両方とも、彼らの実力を身をもって知った。そして、真の尊王攘夷というのは「天皇中心にまとまる組を作り、日本を実力を蓄えて、西洋列強に支配されない強い国を作ることだ」という、前時の高杉晋作の方針で固まっていく。

■では、イギリス側はどうだったか。彼らは、戦った薩長を憎まなかった。それどころか、正々堂々と戦う誇り高い武士の精神(長州藩と薩摩藩)を尊敬し、幕府よりも薩摩と長州を応援するようになった(軍艦を売ったり、鉄砲や弾薬を売るなど)。

■そのほうがイギリスの利益になると考えたからだ。
これからの日本は、幕府ではなく、長州藩と薩摩藩を中心にまとまっていくのではないかと考え、自分たちの将来の利益を考えたのである。
イギリスの幕府離れは、競争相手のフランスが幕府の応援を始めたことも原因だった。

中学歴史2年3「尊王攘夷1 吉田松陰と松下村塾」の授業

【授業のねらい】
・吉田松陰の思いと行動を知り、維新の志士とは何か、尊王と攘夷の意義などについて理解を深める。



1 吉田松陰登場

吉田松陰

*肖像を見せ、以下を説明する。
・1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた。
・5歳、藩の軍学の先生の家、吉田家の養子になる
・11歳、藩主の前で講義をする。
・19歳、藩校の教授になる。
・23歳、江戸で遊学中に、ペリーの黒船事件にあう。



2 藩の政策に反論
『黒船が来たとき、長州藩では「江戸のことは幕府にまかせればいい。わが国には責任がないことだ」という意見がほとんどでした。松陰はこの意見に強く反対した人です。どんな反論をしたのでしょう?』

*松蔭の反論はこうでした。

「外国が日本を困らせているときは、幕府も諸藩もない。日本のすべての武士が力を合わせて外国に立ち向かうべきである。いまこそ、みなが日本国に忠義をつくすべき時である」
『当時「わが国」といえば自分の藩のことでした。250年もの泰平の世をまったく外国を意識しないできた多くの武士にとって、自分が忠義をつくすべき国とは自分の藩であり、その殿様のことでした。
全国に藩は300もありました。
だから、多くの武士は自分の藩については責任感がありましたが、日本全体のことは幕府の責任だと考えていました。
吉田松陰は、日本の武士ならばだれもが日本全体に責任がある考えた最初の武士の一人でした。
このような考えを持った武士のことを、「志士」といいます。
明治維新ために働いた武士ですから、維新の志士ですね』→板書

*ここで、武士道の授業を振り返らせ、藩の殿様への忠義とは、殿様個人につくすことではなく、藩(国)という共同体、ひいてはその大多数を占める農民(大御宝)への忠義を含むものだったことにふれる。
この「志士」の武士道とは、日本という国家への忠義ということになる。そうすると、忠義の具体的対象はもはや殿様でも将軍でもなく、天皇だということになる。
これが幕末の武士を動かした「尊王精神」であり、武士道の原理からすればそれは、日本という共同体への忠義であり、ひいてはその大多数である農民(国民)への忠義を含むものでした。

ここで
『志士は、藩の殿様ではなく、だれに忠義を尽くすのが日本のために尽くすことになるのですか?』
と問えば、
生徒全員が「天皇です」と答えられなければならないと思う。
これまで何を教えてきたのかということになる。

*嘉永から安政に移る頃には、各藩の武士も幕臣も、この「尊王」が強弱の差はあっても、共通の精神になっていく。あの井伊直弼でさえ、自分は尊王精神を持っている自信を持っていたのです。



3 黒船に行ったわけ

『翌年、2度目にペリーの黒船が来たとき、松陰は小舟に乗ってペリーの軍艦に近づきました。午前2時頃のことです。松陰は何をしようとしたのでしょう? 』
A:暗殺する   B:説得   C:密航

『正解はCです。日本とアメリカの軍事力の差はどうしようもないくらい差がある。だから、自らアメリカに行って敵のすべてを研究し、その知識を日本に持ち帰って、日本を西洋に立ち向かえる国にするために働こう。それが松蔭の考えでした。』

『失敗した松陰は、その足で役人のところに行き、これこれしかじか、国法を破ろうとしたが失敗したといさぎよく自首しました。死罪を免れないかもしれないことは百も承知でしたが、そこが松蔭の恐ろしいまでに正直なところです。松蔭の世間の常識でははかれない行動を「狂」と評する人もいます。結局、松蔭は牢屋に入れられました。そのときつくった和歌を教えます』


  かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂  

*大意を教え、生徒達と大きな声で朗誦します。



4 野山獄の変化

江戸から長州に帰され、松陰は長州藩の野山獄という牢屋に入りました。松陰が入ると、牢屋の中におもしろい変化が起きました。次のどれでが始まったのでしょうか。
   A:勉強   B:勤労   C:遊び

『正解はAです。生きる希望を失って病人か亡霊のようになっていた罪人たちに、道徳や学問、いま日本が迎えている危機と日本人ならどうすべきか等々を教え、やがて共に日本のために尽くすときが来ると説きました。また、彼ら自身にも得意なこと(習字、俳句など)の先生をやらせ、牢屋を生き生きした学校に変えてしまったそうです。生まれながらの熱血教育者なのです。』



5 松下村塾
『やがて、松陰は牢を出され家に帰されました。しかし、罪が許されたわけではなく、家の外には出られず、どこへも行けません。そこで、家の離れで松下村塾という塾を始めました。そして、藩の武士だけでなく、足軽や町人や農民など、身分に関係なく学ぶ意欲があれば塾生にし、月謝も取りませんでした。』

『松陰はこの塾で自分のことを「A」とよばせ、塾生のことを「B」とよばせました。AとBに言葉を入れなさい』

【A=「ぼく」 B=「きみ」】


『武士の塾生は「拙者」「それがし」「貴殿」、農民の塾生は「おら」「おまえ」「あなたさま」などと話します。これでは松蔭の理想はかないません。そこで、塾生は皆「ぼく」「きみ」と呼び合うようにさせたそうです。志士として身分差のない言い方は塾生のあいだにすぐに広まり、やがて全国の志士に使われ、いまも続いていまも使われています』

『この松下村塾から、日本の新しい国づくりを進めた維新の志士たちがたくさん育ちました。』

*高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、伊藤博文、山県有朋、井上馨などを教える。


5 通商条約

『松陰が松下村塾で教えているころ、ハリスとの通商条約の交渉が進められてました。松蔭は、攘夷決行を求める朝廷に
次のような意見書を出しました』

「鎖国を守るという考えは、一時的には無事のように見えるが、一時しのぎのやり方でとうてい日本の今後を考える大方針とはいえない。国内でも自分の藩に閉じこもっているのと全国を歩いているのでは、知識に大きな差が出る。ましてや、いまは世界が相手になっている。日本のリーダーなら、世界をよく見て知識を広め、西洋と対等につき合える国にするべきだ」


『では、松陰は幕府が独断で締結した修好通商条約(開国)に、どんな意見を持ったでしょうか?』
A:賛成   B:反対

【正解はC】
「この条約では、日本はアメリカの思うままだ。いずれ条約を結ぶことは必要だが、それは日本の力を強くしてからでなければならない。強いものにへつらい、まるで西洋の家来になったような態度で結ばれた条約には絶対に反対である」

*条約締結前の考えと矛盾するようですが、西洋と対等につきあえる日本にならなければならないという考えが吉田松陰の攘夷論でした。

『こうして、長州藩は幕府が天皇の許しを得ずに結んだこの条約に反対するという大方針に立って動き始めます。』



6 吉田松陰の辞世

『吉田松陰は、老中暗殺計画を立てたという罪で、幕府によって死刑にされました(安政の大獄)。1867年、江戸時代が終わる1年前のことでした。享年29歳。あまりにも若すぎる!』

*辞世を教え、みんなで朗唱して授業を終えます。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂




【生徒の感想文】

●吉田松陰がとても好きになりました。正直さ、日本を思う心に感動しました。正直な人でありたいと思いました。

●やはり日本の歴史を動かすような人は、普通の人とどこか違っていると思いました。日本全体のことを考えることが大事だと思いました。

●正直で少し狂っている人物だけど、そういう人は何かしらの才能を持っていると思いました。何事も自分らしく、本当に思ったことを実行し続ける意味を教わりました。大和魂を受け継いで!!

●吉田松陰は他の武士と違いおても日本という国に忠義を持っていることがわかりました。また、大和魂を貫くことをすごいと思いました。

●歴史上に名を残す人物は大和魂があった人だと思った。吉田松陰は頭も良くて自分に正直だから、真面目な人だと思う。生き方について教わった気がします。

●吉田松陰は、自分の意志を強く持ってぶつけていき、実行することが出来る素晴らしい人だと思いました。

●吉田松陰を尊敬しました。今までは阿倍仲麻呂が一番でしたが、今日、吉田松陰に変わりました! 松陰の生き方や和歌に感動しました。私も松下村塾に通いたいです。

●吉田松陰は自分の国のことだけでなく、日本全体のことを考えられる、常識などにとらわれないすごい人だった。密航のことを自首したなんて驚きました。

●正直に生きて失敗することもあったけど、日本のために生きる姿に感動しました。どんな立場におかれても、自分の信念を貫くことの大切さを学ぶことが出来ました。
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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