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聖徳太子4「中国に追いつこう」

聖徳太子4「中国に追いつこう」

●聖徳太子がつくった国家建設の土台をもとに、中国に対して実力でも追いつこうと努力を始めた日本について考える。また、聖徳太子の功績をまとめ死の悲しみを知る。


1 中国に追いつこう
【資料】遣隋使の船の写真と地図を黒板に貼る
復元遣唐使船

*以下、簡単に説明する。
『これは小野妹子が乗っていった船を復元したものです。小野妹子だけが乗っていったのではありません。若い留学生も行きました。これを遣隋使といいます』

『留学生には、国を愛する心を持ち、意志が強く、努力できる人、頭がよく、体が大きく、見た目が立派な人など、日本の代表として優秀な若者が選ばれました。学生たちは何年も掛けて、仏教、法律、政府の仕組み、政治の進め方など、隋の進んだ文化を勉強しました』

『留学生はどんな気持ちでこの船に乗ったと思いますか? 』

*発表させる。
「いっしょうけんめい勉強して国の役に立ちたい」など、エリートらしい志を発表する児童が多い。

『600年に始まった遣隋使は、およそ2年に1回くらい次々と送られました。ところが、612年の第6回で遣隋使は終わりました。どうしてでしょう?』

*挙手発言。
『大帝国隋がわずか40年で滅びてしまったからです。日本と違って中国は滅んだり滅ぼされたりを繰り返すところなんですね。隋を滅ぼして生まれた新しい帝国は「唐」という国でした。これは正真正銘の大帝国で350年くらい続きます』

『わが国はこの唐にも留学生を送ったでしょうか?』
A 送った   B 送るのをやめた

*挙手で意見分布をとる。2名ほど理由を言わせる。
『正解は送ったです。これを遣唐使といいます』

遣隋使(隋が滅びるまで、毎年派遣された)
遣唐使(その後300年近く、およそ10年に1回派遣された)

『このように、聖徳太子の死後もわが国は中国に留学生を送って学び続けました』

『私たちの先祖がこれほど一生懸命に努力して学び続けた目的は何なのでしょうか?』

*ノートに書かせてから、発表させる。

●外交的な対等関係だけでなく、政治や文化の実力でも中国に追いつきたいと願ったとまとめる。

『留学生たちは、国のために必死に勉強し、帰国してからは日本の国づくりのために大きな働きをしました。また、戦乱に明け暮れた中国や、国が滅びてしまった朝鮮から逃げてきたり、移り住んだ人々もいました。彼らの多くはその後日本人になりました。(ラモスや小錦などの例を挙げる)これを帰化人といいます。大和朝廷は、彼らを外国人だからと差別するようなことはなく、彼らの新技術や新知識を国づくりのためにすすんで活かしました』


2 まとめ「聖徳太子の国づくりの大方針」
『ここで、聖徳太子が考え、実行した国づくりの大方針をもう一度まとめておきましょう。』

【聖徳太子の国づくりの大方針】
1 外国の進んだ文化に学び、日本の伝統も守る
2 天皇中心に国が一つにまとまる
3 独立国として、大国中国と対等につきあえる国になる。

*これはノートに書かせる。
『この大方針は、この後大和朝廷にしっかりと受けつがれて古代日本が嘉南制していきます。さらにその後も、この3大方針は、日本の歴史のいくつかの場面で国づくりの方針として現れます。。そのときあらためて聖徳太子の偉大さがわかると思います』


3 法隆寺と太子の死
『では最後に、2つのお話をしておきます』
『17条の憲法の第2条は、仏教を信仰して国づくりを進めるでした。その後日本にもたくさんの寺が造られました。これは聖徳太子が建てたお寺です』
【資料】法隆寺の写真を見せる。
法隆寺

『何という寺ですか?』
*法隆寺

『この寺は、あることで世界一なのです。それは何ですか?』
*木造建築では世界一古い                            

『世界にはそのくらい古い建物はたくさん残っていますがすべて石でできた建物です。
千数百年もの間木でつくられた建物が燃えないで、腐らないでりっぱにのこっているのです。もちろんその時代に建てられたたくさんの寺はすべてなくなってしまいました。世界中の人々が、千年以上も木でできた建物が残っていることを不思議に思っています』

『どうして法隆寺は1000年以上も残ったでしょうか?』

*聖徳太子の偉大さを慕い、みんなが大切に守ってきた。いまも人々の信仰を集めていることを教える。
*聖徳太子はこの寺で人生の後半を本を書いて過ごしました。太子は政治家としてだけではなく、学者としても当時の超一流だったのです。
*以下を板書する。

日本の進歩のために=仏教の研究を進めた→経典の研究書
日本の伝統のために=日本の歴史を書いた→『天皇記』『国記』

『仏教研究は写本が残っていますが、残念なことに、太子が書いた日本の歴史は失われてしまいました。これらの本が燃えてしまう場面はまた授業で取り上げましょう』

『これは法隆寺の中心の仏様です』
*【資料】釈迦三尊像の写真
釈迦三尊

『この仏様の後ろ側に次のような言葉が彫られています』
*【プリント】を配り、釈迦三尊像光背銘と日本書紀の記述を読む。

〈釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)に書かれている言葉〉
「いま仏におたのみするために、太子と同じ大きさの仏像をおつくりしました。どうか私たちの願いを聞きとどけ、太子の病気を治してください。もし寿命だというのなら、どうか太子を仏の国にお召しください。」

『再現・日本史奈良⑤』(講談社)より

〈日本書紀』に書かれている言葉〉
「太子の死をすべての人がなげき悲しんだ。年老いたものは子を失ったかのように若い者は父母を失ったかのように、泣きむせぶ声がみちあふれた。田畑を耕すものは手に持った鋤(すき)をとめ、米をつく女はきねを動かそうともしない。口々に、『太陽も月もかがやきを失い、天地はくずれ落ちてしまったような気持ちです。この後、私たちは何を頼りにして生きていけばいいのでしょうか』とうったるありさまだった」



『実は、聖徳太子は国づくりのための3大方針を示して、それにもとづいて具体的な国づくりの仕事を始めたところで倒れてしまいました。このあとわが国はどうなるのでしょう。これで、聖徳太子の授業を終わります』
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聖徳太子3「遣隋使の国書」



 これは拙著『学校でまなびたい歴史』(産経新聞社 2003)に発表した3本目の授業です。
 私の歴史授業は、聖徳太子の業績によって日本の国柄を教えるという組み立てになっています。
 聖徳太子の事績が後の日本の国づくりの大方針を示しており、それが明治維新という古代に続く第2の国家形成においてもしっかりと受けつがれているからです。
 長くて読みにくいとは思いますが、ぜひ読んでみて下さい。




聖徳太子3「遣隋使の国書」

◆授業づくりの話◆
聖徳太子の授業の一時間目で「仏教伝来」を取り上げ、聖徳太子とは日本の国の設計図を書いた人物だととらえておいた。そして、その偉大な業績の第二、第三を教えていきますと予告した。本書はそのすべてをお見せできないので、ここで聖徳太子の授業のあらましを述べておきたい。
 私は聖徳太子の授業に四時間かける。全六十八時間のうちの四時間だから、これは他の人物とは別格の扱いである。それは前述したように、聖徳太子が日本という国の設計図を書いた人物だからである。言いかえれば、日本の国づくりの骨格となる大方針を示した人物だからである。
 その大方針とは次の三点である。

一、外来文化と伝統の統合
  外来文明に偏見を持たず良いものはよいと積極的に導入するが、わが国の伝統も良い ものはよいとして自覚的に継承し続ける。そして、両者を統合して新たな日本を再構成 していく。
二、天皇中心の国
  天皇の地位は世襲とし、天皇を中心に国家の統合を図る。政治の実権はその時その時 でふさわしい人物(たち)が担い、国家が一つにまとまるための象徴的な権威として、 天皇を位置づける。
三、国家としての自立
  たとえ先進文明を学ぶ側であっても、日本の天皇は隋の皇帝と対等であると宣言し、 それまでのように中国皇帝に「王」として柵封される関係を廃止した。このとき初めて、 天皇は中国皇帝の家臣であることをやめ自立したのである。
  たとえ国力がちがい、文明の質が異なっても、国家と国家の外交関係は上下ではなく、 あくまで対等であるとしたのである。

 この三本の柱は、以後天智天皇から聖武天皇に至る時代の人々によって継承され、奈良時代には古代日本が完成することになる。国家が完成するという言い方はあまり正確ではないかも知れないが、少なくとも建国から聖徳太子に至る日本国草創期の人々が夢に見、思い描いたであろう国の姿に到達したのが天平時代であるととらえたい。
 その後、中国文明と一定の距離を置いた時代が来る。平安時代から江戸幕末までがそうだ。この時代は、わが国が外来文明とは距離を置いて日本独自の文化的な自己形成をとげた時期であったととらえよう。この時期は国際社会との公式な交渉がなくなり「一」は見えにくくなる。しかし、戦国から江戸に至る西洋文明との出会いに際しても「外来文化と伝統との統合」が試みられている。そして「二、天皇中心の国」と「三、国家としての自立」もまた、およそ千年の長い歴史を貫いてたしかに継承されていった。法的に見れば、明治憲法以前のわが国は古代律令国家の継続ととらえるのが正しいからである。
 この長い文化的な自己形成期の次に、明治維新がやってくる。それは、古代国家形成期に続く、わが国の第二次国家形成期である。日本の近代国家の建設は「王政復古」に始まるのだが、明治の先人たちの国づくりの基本方針が聖徳太子のそれとまったく異ならないことに注目すべきである。相違は、かつては中国古代文明の衝撃であったものが、ここでは、欧米の近代文明との衝突であるだけである。
 古代日本が遭遇した世界とは、中華文明を盟主とする東アジア世界であった。しかし、幕末の日本の前には地球上全体が一つの世界として立ち現れてきたのである。そして近代国家日本が完成したときには、もうかつてのような世界と距離を置いた自己形成期は与えられなかった。
 わが国の先人の歩みと功績は、必ず聖徳太子の三大方針のどこかに位置づけることができる。大きな視野で見れば、私の全六十八時間の歴史授業のどこを切っても、この三本の柱が見えてくる。歴史の神もまた細部に宿り給うので、すべての授業がそうだとは言い切れないが、聖徳太子の国づくり三大方針は私の歴史教育の内容構成の指針でもあるのだ。
 以上が、聖徳太子を時間をかけて印象深く教えたいと考える理由である。
 さて、具体的な授業の話である。
 「一、外来文化と伝統の統合」は一時間目の「仏教伝来の授業」で取り上げた。これは前章の通りである。
 「二、天皇中心の国」は、本書には取り上げられないが「十七条の憲法」の授業である。教科書や資料集を見ると「十七条の憲法は役人の心得集のようなもので、今日のいわゆる憲法ではない」という注釈が入っている。が、私は十七条憲法もりっぱな「憲法」であるととらえている。なぜなら、それは「天皇中心の国」というわが国の国柄を初めて明確に示した文書だからである。「天皇中心の国」は、律令・明治憲法・昭和憲法と継承されて今日の日本がある。「いや国民主権だ」などと頓狂なことは言わないでほしい。イギリスやスエーデンなどと同様に、国家を統合する皇室(王室)の働きといわゆる立憲主義=民主主義はりっぱに両立するのである。象徴天皇制度が戦後だけのものではないことは、歴史を虚心に眺めればわかることである。
「三、国家としての自立」がここで紹介する「遣隋使の国書」の授業である。
 この授業には学習の前提となっている授業があり、子供たちもその内容をふまえて考えているので説明しておこう。先行する「弥生時代の王たち」と「卑弥呼の国・邪馬台国」という授業がそれで、中華冊封体制下の日本を取り上げている。前者では志賀島出土の金印「漢委奴国王」を教材に、後者では『魏志』倭人伝を教材に、中国の強いパワーを後ろ盾にして国づくりを始めた日本列島の王たちを取り上げている。
 授業「弥生時代の王たち」の後、一人の児童は次のように書いていた。
 
 ●金印は水戸黄門の印籠みたいだった。それは周りの国々をしたがえるのに役に立っただろう。でも、よく考えるとこの場合は中国の皇帝が「将軍様」ということになり、何かへんだった。弥生時代の日本は中国と親分・子分関係だったことがわかった。
 
 卑弥呼の授業では『魏志』倭人伝を読んだ。魏と邪馬台国の関係も前の授業の奴国と変わらない。子供たちは「邪」や「卑」という文字遣いにはなはだ不満であった。そういう理解と心情をもちながら、子供たちはこの授業「遣隋使の国書」に入ってくるのである。
聖徳太子の授業の四時間目「聖徳太子と国づくりの三大方針」では、太子の生涯とその偉大な業績をまとめた。この授業の最後に、子供たちは日本書紀の太子死去の記事に出会う。当時の人々の悲しみの深さに、子供たちもまた深く心を動かされ、四時間の授業が終わるのである。
 最後に注記を一つ。実は、この授業は安達弘氏(○○小学校教諭)がつくり最初に実践されたものであり、私は氏の詳細な実践記録を追試したのである。安達氏は自由主義史観研究会の共同研究者でもある。授業の構成や資料など変更したところもあるので、ここに示す授業の責任はすべて私にあるが、安達先生の研究がなければこの授業はあり得なかった。ここに謝意を表しておきたい。

◆授業の実際◆

1 遣隋使の国書
 いきなり黒板に次の文を書くことから授業に入る。

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。

『読んでください。読めないところはホニャラと読みましょう』
授業の入り口は誰でも参加できる活動を組むことが多い。絵や写真をなどビジュアルな資料を「読む」ことが多いが、ここでは言葉を読むのである。一年生で習う漢字もあり、誰にでも読める部分があるのだから、子供たちを列で指名して順番に言わせていく。
「ヒデルホニャラ・・・」から始まって、八人が力を合わせて読んだ結果はこうなった。
「ヒノデルショノテンシ、ショヲ、ニチボツスルショノテンシニイタス。ホニャラナキヤ」
わけのわからなさに笑いが起こる。初夏の風が通う教室は和やかな気分に包まれていた。
 たいへんよく読めました。ほとんど正解と言っていいでしょう。とくに「ヒデル」をヒノデル」と読み替えたのは素晴らしいね。『魏志』倭人伝のプリントのように、この時代にはまだかな文字がありません。だから、実際は全部漢字で書いてありました。黒板に書いたのは、たぶんこう読んだに違いないと研究者が直したものです。最初の部分は「日出処天子」となっています。だから「ヒノデル」という読みも正しいといえます。
 では、黒板のように書いた場合のふつうの読み方を教えましょう。
『ヒイズルトコロノテンシ、ショヲ、ヒボッスルトコロノテンシニイタス、ツツガナキヤ』
 教師が先に読み上げ、子供たちに後に続かせる。その後、子供たちだけで声をそろえて二度ほど読ませる。大勢が一斉に読むので、この方法を教室では「斉読」とよんでいる。
『これは、歴史上たいへん有名な手紙の書き出しの部分です。ある意味で日本の歴史の中で最も重要な手紙だと言えるかも知れません。誰が誰に出した手紙でしょう?』
「天照大神が誰かに出した」
『天照大神は神さまです。実在の人物ではありません。神さまと実在した人物を区別できるようなりましょうね』
「聖徳太子からツツガナキヤさんに出した」
『すばらしい。聖徳太子は半分正解です。ですが、ツツガナキヤは人の名前ではありません』
この授業は前述した安達氏のアイディアだが、言葉の意味を前もって解説しないまま進行させる構造になっている。わかる部分からわからない部分を推測しながら、少しずつ謎が明らかになっていく。そして、国書前言の全体の意味が明らかになったとき、その歴史的な意義も明らかになるのである。
 読者は、子供たちがなぜ言葉の意味を質問しないのかをいぶかしく思われるかも知れない。だが、子供たちは最初の「ホニャラ」という指示の時点で、「ああこれは謎解きの授業だな」と直感している。とりあえず先生の指示に従って進むほうが勉強が面白くなるはずだと期待しながら、子供たちは野暮な質問は控えているのである。
 実は、これはこの時代の天皇だった推古天皇が出した手紙です。このとき、聖徳太子は推古天皇(この方は女性の天皇でしたが)の摂政として実際に政治を進めました。摂政というのはいまの総理大臣の立場です。実質的なリーダーは聖徳太子だったわけです。半分正解といったのは、差出人は推古天皇で、実際にこの手紙を書いたのは聖徳太子だったからです。
『実はこの手紙は国書といって、国が国へ出した手紙です。個人的な手紙ではありません。日本の天皇から、どこかの国のトップに出したものです』
「中国だと思います」
『大正解。この国書は推古天皇から中国の皇帝にあてた手紙です。これはその書き出しのところを抜き出したものです』
黒板に次のようにまとめた。

日本(大王)・・・・書いたのは聖徳太子
↓遣隋使「国書」
中国=隋(皇帝)

この手紙が出されたのは西暦六〇八年、七世紀が始まったばかりです。
「大王」と書いたのは、この時にはまだ「天皇」という呼び名はなかったと考えられているからです。
 この国書を出すまで百年ほどの間、日本は中国との直接のつきあいはありませんでした。後漢という大帝国が滅んだあと、中国はいくつかに分裂して争っていたからです。その間、大陸の文化は百済など朝鮮の国から日本に入ってきました。
 ところが、ちょうど聖徳太子の頃、隋という大帝国が中国を統一します。聖徳太子は、仏教を枝のように伸ばして国を発展させると考えたことを実行して、これからは中国から直接進んだ文化を学ぼうとします。そして遣隋使というお使いを中国に送りました。そのその代表が小野妹子です。「妹子」ですがこの人は男性ですよ。たくさんの若者が仏教やその他の中国の進んだ文化を勉強するために中国に渡りました。この国書は、その小野妹子が隋の皇帝に渡したものです。中国の昔の本に記録が残っています。今日の勉強はその記録をもとにしています。
 ここでもう一度斉読しておこう。漢文の歯切れのいいリズムから聖徳太子の強い意志を感じることもできる。それは子供たちの身体にも心地よく響いている。

2 皇帝の怒り
 さて、隋の宮殿に着いた小野妹子は、さっそく皇帝の煬帝に天皇からの国書を渡しました。「すると、皇帝はこの書き出しを読み始めたとたん火のように怒った」と書いてあります。「海に浮かぶちっぽけな国の野蛮人め、許せん!」と、たいへんな怒りようだったそうです。
『この手紙のどこかに、皇帝を怒らせる言葉があったのですね。それはどの言葉でしょう?』
「なんとなくだけど、〈つつがなきや〉」
「つつがなきや」はまったく手がかりがないからね。怪しいと思ったでしょう。でも残念でした。これは「お元気ですか?」という意味です。
「〈処〉だと思います。処刑の処だから、何か悪い意味があるんじゃないか」
よく考えたね。処刑の「処」とは驚きました。熟語から漢字の意味を推理できたのはりっぱです。が、これもちがいます。「処刑」の「処」は、「処理する」とか「処分する」のように、「何かを行う(片づける・始末する)」という意味です。この国書の「処」は、「所」と同じの意味で、場所の「ショ」です。「日が昇るところ」「日が沈むところ」ということですから、「処」で怒ることはありません。
「〈日出る処の天子〉と〈日没する処の天子〉です。なんとなく位を変えろという感じがするから怒ったのではないか」
『すばらしい。それが正解です』 

A 日出る→日没する
B 天子→天子

『隋の皇帝はこのAとBの二つの言葉の組み合わせに怒ったと考えられています。どうしだと思いますか? まずAの方はどうですか?』
「中国が日没するみたいで、暗い感じがする」
「〈日出る〉は日が昇っていくということで、日本の文化がこれから発展していくという感じで、明るい。中国は〈日没する〉で、これから夜になるみたいです」
 ほんとうにそうですね。ふつうの人はそんなこと言われたらまあ、イヤな気持ちになるだろうね。先生も子供の頃はそう教わりました。だから正解とします。でも、これについては、「単に東と西という意味だと考えることもできるから、そんなに気にしなかったのではないか」というのが最近の研究のようです。
『実は、皇帝がいちばん許せなかったのはBのほう、〈天子〉という言葉なのです。この固定の怒りについてはどう考えますか?』
「本当は中国の方が進んでるのに、中国と日本が同じという感じだからです」
「日本の天皇と中国の皇帝が同じえらさになってしまう。だから、そんなことぜったいに許せんって中国は怒ったんだと思いました」
「中国の方が大きくて強いのに、位を同じにされたから怒ったんじゃないか」
「聖徳太子は自分(推古天皇)のことを天子といって、中国の皇帝のことも天子といって、両方が同じ位だと言ってるみたいだから、隋の皇帝は怒ったと思います」
 よく考えましたね。すばらしい。まったくその通りなのです。ここでちょっと復習しておきましょう。
『中国と日本、中国とその周りの国は、これまでずっと親分と子分の関係だった。それが当時の世界だったね。そういう関係のことをなんと言ったかな?』
「册封体制です」
 そうだね。中国が世界の中心で周りの国はその子分の国だった。貢ぎ物を持っていって、国を認めてもらう。おまえが王だと認めてもらう。皇帝がいちばんえらくて、それぞれの国の王は皇帝の家来ということだった。彼らは、中国から「王」という身分をもらったんだね。ところが、この手紙には両方とも天子と書いてある。天子というのは「神さまから政治を任された人」という意味だから 決して悪い意味の言葉ではない。でも皇帝は怒り狂った。「私も天子、あなたも天子とは何ごとであるか」というわけです。たしかにこれじゃ、天皇と皇帝が同じ位になってしまいますね。これまでの上下関係を考えると、許せなかったのでしょう。みなさん大変よく考えました。

3 聖徳太子の考え
さていよいよこの授業の核心の問いに到達した。
『聖徳太子は、どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを書いたのでしょうか? 自分の考えをノートに書きなさい』
その授業でいちばんノーミソを使ってほしいところでは書かせるのがよい。考えることは書くことだからだ。また、書かせることによって、どこまで子供たちがこの授業についてこられたかも把握することができる。
「それって、わざとなんですか?」
『賢い聖徳太子が、言葉の意味もわからないでミスしたとは考えられません。こうするというはっきりした考えと意志があって書いたことなのです』
この質問の後、子供たちは自分のノートに向かって鉛筆を走らせた。静かな教室に鉛筆の音だけが聞こえる。まるで一生懸命考えているノーミソが立てる音のようだ。
 さて、そろそろ約束の時間が来た。挙手している顔ぶれを見渡して、最初の発言者を指名する。
「自分の国が中国の子分みたいだったじゃないですか。それにちょっと不満を持っていて、ぼくも前の勉強でそうだったんだけど、やだなあって。それで日本もだんだん強くなって行くから、もう同じレベルにしたようと考えた」
「それを短く言うんですが、册封体制をなくす」
「国と国のつきあいを平等にしたい」
「これからは、中国と日本の関係を親分子分じゃなくして、日本は独立して中国と同じになる」
「もう中国に従うのじゃなく、自立している国になる」
「いつまでも中国の子分でいたら、日本は成長しない。子どもから大人の国になる」
「いままでは中国に従ってきたけど、これからは日本は日本としてやっていきたい」
「前は中国に従っていたから、邪悪の邪とか、卑しいとか、悪い字を使われていたじゃないですか。そういう関係はイヤだと思った」
「中国の皇帝を怒らせて、日本は中国の子分からはずれる。中国は日本を子分として認めなくなる。それで、中国と日本の関係は上下じゃなくて、平等になる。聖徳太子は、神を幹として仏教を枝として日本を発展させようとした。そのためには、日本が独立してやっていったほうがいいと考えた」
 子供の発言は同じことをくりかえしている。ただ、言い方にそれぞれの個性が出る。言葉を替えたり、何かをつけ加えたり、例示したり、感情をこめたりする。ずばり一言で言いきりたい子もいる。そういう子供一人一人の言葉の違いを大切にすべきである。それが、理解すべき一つのことの陰影や輪郭をより豊かに浮かび上がらせるからである。
 ここで、一人、そんなにうまくいくのかという反論が出て、短い議論が起きた。
「ちょっとみんなに言いたいんですけど。国と国が平等になって独立するのはいいんですけど、日本はこれから中国から文化とかを学んで発展したいんじゃないですか。それなのに、いま親分子分の関係をやめて中国から離れてしまったら、文化や技術を学べなくなっちゃうんじゃないんですか?」
「たしかにそうかもしれないけど、独立して教えてもらうのはいいけど、このまま中国の子分のまま教えてもらったら、日本は中国と同じ様な国になっちゃうからだと思います」
「でも、前に日本の神を幹にして仏教を取り入れてやっていくと言ったじゃないですか。中国と同じような国に近づくのがイヤだったら、幹だけでいいんだから、仏教も取り入れなかったと思う。」
「中国の下にいたら、何でも自由にはできない。それだったら、中国から学べないとしても、独立してやっていく方がいい」
「中国から学んでも、国としては平等になろうということだから、中国にそれを認めてもらえれば、それはできると思います」
「でも、実際に皇帝は怒っているんですよね。うまくいかないと思うんですけど」
 この議論が子供たちの思考に奥行きを与えたのは言うまでもない。
 思わぬ児童がたった一人で思わぬ反論をした。みんなはそういうけれど、それで日本は本当に大丈夫なのかと真剣に心配しているのである。この議論のおかげで片側からわかっていたつもりの風景が、反対側からも見えるようになった。反論が出せる教室は何はともあれ素晴らしい。知的にも道徳的にも素晴らしいのである。
『みんなよく考えました。册封体制から離れて、国として中国と対等の関係になるという意見がほとんどでした。みんな正解です。理由づけもすばらしかったね。それがまさに聖徳太子の考えです。とくに最後の話し合いはたいへん重要です。すばらしい反論でした。たしかに、もしこの政策によって中国からまったく学べないことになったら、留学生を送れなくなったら、聖徳太子の考えた日本の発展はなくなるかもしれません。学べなくても中国の子分のままよりは独立を選ぶという意見もありましたが、実は、聖徳太子にはある読みがあったらしいのです。ある理由があって、日本を独立させるこの計画は必ず成功するという確信が持てた。だから聖徳太子は決断したのです。その理由を説明しましょう』 隋はちょうどその頃、高句麗と戦争中で手こずっていた。その戦争を有利に運ぶために、隋は日本を味方にしておきたいはずだ。そういう聖徳太子の国際情勢についての判断を、地図を使って説明していく。「遠交近攻策」という中国伝統の戦略についても簡単に説明する。この聖徳太子の情勢判断の話で、さらに先ほどの議論の意味が深まっていく。子供たちから「すごいなあ」という嘆声がもれてきた。ここでまとめておこう。
『中国(隋)を先生として尊敬しこれからも学んでいくが、国と国との関係は対等になりたい。中国との親分・子分関係をやめて、国としては中国と対等の関係にしたい。ズバリ言えば自立した国、独立した国になりたいと聖徳太子は考え、この国書でその考えを実行したのです』

4 もう一つの国書
 これで学習は大きな峰を越えた。そろそろ収穫の時である。
 黒板に次の言葉を書いた。

 東の天皇、敬しみて、西の皇帝に白す。

こんどはすぐに読み方を教え、全員で斉読した。
「ヒガシノテンノウ、ツツシミテ、ニシノコウテイニモウス」
 これは、その二年後に、再び隋の皇帝に送った手紙の、やっぱり書き出しの部分です。このときも遣隋使の代表は小野妹子でした。東の国日本の天皇が、西の国隋の皇帝に、心をこめて申し上げる、という意味です。
『聖徳太子は、このときも、中国の册封体制からはずれて独立する、中国と日本を対等な関係にするという大方針を変えませんでした。それが分かる言葉はどれでしょう』
「〈皇帝〉と〈天皇〉だと思います」
その通りです。「皇」という文字は、王様の王と同じ意味ですが中国の皇帝だけが使える特別な文字でした。だから、子分の国の王様には「王」という字を使わせてきたのです。ところが、この手紙で日本の王は「天皇」ですよと言ったわけです。皇帝でも王でもない、天皇です。「これからは日本も〈皇〉の字を使います」という意味もあります。
 天皇には北極星という意味があるそうです。天の星はすべて北極星の周りを回りますね。国のまとまりの中心という感じがよく現れている言葉です。こうなりました。

 天皇(日本)

皇帝(隋・中国)→王(朝鮮などの国々)

『中国の皇帝はまた、怒ったでしょうか?』
「怒ったと思います」
「ゆるせん! という感じです」
 実際はどうだったのか、残念ながら記録がありません。しかし、このあと、日本の国書にはずっと「天皇」が使われるようになり、中国もそれを受け取るようになりました。国書を受け取ったということは、日本が「皇」を使うことを認め、日本の王が「天皇」と名乗ることを認めたということです。ですから、この国書によって日本の自立は完成したと見てよいでしょう。
 また、先ほどの話し合いで出たような心配も解決しました。このあと遣隋使や遣唐使が何度も中国に送られ、たくさんの日本の若者が中国に留学して勉強を続けました。そして、その成果を日本に持ち帰って、日本の発展につくしたのです。
 たぶん聖徳太子の読みが当たったのだと思います。
『聖徳太子は、みごとに ①中国から進んだ文化を学ぶ、②国としては自立し中国と対等につき合う、という二つのねらいを実現したのです』
〈 聖徳太子の国づくりの大方針 その三 〉

 国として自立(独立国)し、中国と対等な関係になる。

◆子供たちが学んだこと◆
●中国と対等につきあえるようになって良かった。聖徳太子のねらいがあたったので、よくそんなことが思いつくなと思った。聖徳太子がいなかったら、もしかしたら今でも日本は中国の家来になってしまっていたのかなと思った。国の大きさや力はちがっても、同じ国々なのだから、対等につきあうのがよいと思った。

●聖徳太子はとてつもなくすごい人だとあらためて思った。随の皇帝を怒らせてまで手紙を書き送った。聖徳太子の方針はすごくいいと思った。「自分の国は自分の足で立つ!」「今までのような日本ではだめだ。」そう気づいたのだと思う。・・・今こうして「日本」という国が独立してやっていけるのも聖徳太子のおかげだと思った。

●皇帝を怒らすような手紙を書いたというので、何か悪いことでもしたのかと思った。が、それは日本は独立しますという手紙だった。これには大賛成だ。しかも、皇帝の「皇」の字は、中国の皇帝しか使ってはいけない字だったが、日本は「天皇」と使って、これでどっちも対等だということを書いて、日本を独立させたのはすごいと思った。

●聖徳太子の隋(中国)と大和(日本)が平等につきあえる国にするという考えは、ふつうの人は思いつかない。私なら、自立したらもうつきあいはないと思ってしまう。天皇は北極星という意味だと知って、中心がよくわかった。独立はつきあいがなくなるわけではない。現在の日本と中国も昔を見習ってほしいと思った。

●聖徳太子はとても勇気のある人だと思いました。ふつうは今までつかえていた国に失礼なことは言えないと思います。でも聖徳太子の判断は正しかったのだと思います。太子がこういう手紙を送りつけて、中国の皇帝が怒ったときもあったけれど、だからこそ日本が独立できたからです。それはとても勇気のいることでした。

●聖徳太子はとても危ない賭けをしたなと、思いました。でも、それは日本を思ってこそできたことです。そのおかげで日本は中国と平等な国になれました。中国が日本の気持ちをわかってくれてよかったと思いました。

●ぼくはみんなとは少しちがって、わざと中国の皇帝を怒らすなんて「何やってるんだよ」と思っていた。自分が聖徳太子だったとしても、こんな危険な賭けはやらなかったと思った。ぼくも日本を独立させたいと思うのはいっしょだけど、もっとちがうやり方を考えたと思う。ただ、聖徳太子が国づくりの天才だということはまちがいない。日本の国に誇り
を持っているのだと思う。

●隋に、日本も隋も平等だという手紙を出した聖徳太子の勇気に感動しました。隋の皇帝に怒られたりどなられたりしたのを耐えた小野妹子も、すごい根性だなと感心しました。聖徳太子は毎度すごいことを考えるなと思いました。日本も「皇」の文字を使えるようになってよかったなと思いました。

●聖徳太子はすごく頭がいいと思う。隋が戦争をしていることを見はからってその手紙を送った。このときがチャンスだとわかったからだ。そしてその読み通りになった。小野妹子のどきょうにもおどろいた。このことがなかったら、日本の天皇はいつまでも皇帝の家来だったかもしれない。ぼくは、「日出る処・日没する処」で怒ったと思ったが「天子」だった。たしかにその方が重要だった。

●聖徳太子が手紙を出すまでは、日本は中国の家来だった。それは少しイヤな気がした。聖徳太子は日本と中国を平等にすることにした。もしこの手紙がなかったら、日本はずっと中国の家来だったかもしれない。だから、この手紙は日本の将来を決めた大事な手紙なのだ。聖徳太子の国づくりの大方針は、どれも大切でほんとうにおどろく。

聖徳太子2「天皇中心の国」

聖徳太子2「天皇中心の国づくり」
●聖徳太子の国づくりの大方針の第2は「国のまとまりの中心は天皇である」という考えである。これを国法として明確に示したのが十七条の憲法であることを学ぶ。

1 お話「聖徳太子」を読む
 まず、プリントしたお話を読みます。


お話「聖徳太子」
 聖徳太子という名前は、太子の死後につけられた名前です。
 母の皇后が馬屋の前で産気づいたので「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」、一度に十人の話を開くことができたので「豊聡耳皇子(とよとみみのおうじ)」などとよばれていました。
 生まれたのは五七四年。父は用明天皇、母は蘇我氏の娘でした。後に妻となる人も蘇我馬子の娘です。このことからわかるように、聖徳太子は天皇家の皇子であるとともに、当時最も実力のあった豪族である蘇我氏の親類でもあったのです。

 聖徳太子には次のような言い伝えがあります。
 ・お釈迦さま(仏教の始め)の骨を左手に握りしめて生まれた。
 ・二歳の時、両手を合わせて東を向き、「南無仏(なむほとけ)」ととなえた。
・七歳の時、百済王の贈り物だった仏教の本をすべて読みつくした。

 聖徳太子は仏教を広めようとしていた蘇我氏のそばで育ったので、幼いころから仏様をおがみ、仏教の教えを学んで育ちました。十四歳の時に起きた蘇我氏と物部氏との戦いには、みずからすすんで参加し、手柄をあげています。仏教は日本の未来のためになると信じていたからです。

 けれども、蘇我馬子のすべてを信じていたわけではありませんでした。蘇我氏は自分の娘を天皇の妻にすることによって、天皇家の有力な親せきになり、いつの間にか天皇にならぶほどの大きな権力をふるうようになっていました。五九二年の冬には、蘇我馬子の家来の手で、崇唆天皇が殺されてしまいました。崇峻天皇は、聖徳太子のおじさん(母の弟)でした。

 大和朝廷の宮殿は、いまの奈良県の飛鳥(あすか)にありました。そこから見えるなだらかな山々を見つめながら太子は思いました。
「・・・風景は美しいのに、人の世はみにくい。思えばずいぶんたくさんの血がながされた。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。仏さまは、『命ある者はたがいに愛さなければいけない』と教えている。それなのに・・・・。大和朝廷(天皇)を中心にせっかくひとつにまとまった日本をもっともっとりっぱな国にしたい。それは馬子の力を利用できる立場にある私のつとめではないか・・。」

 そのチャンスは思いのほか早くやってきました。崇唆天皇の姉であり敏達天皇のおきさきでもあった「かしきや姫」が、次の天皇に選ばれたからです。推古天皇です。日本の歴史上はじめての女性の天皇でした。

 聖徳00太子は、推古天皇にかわって政治をする役目である「摂政(せっしょう)」になったのです。今の総理大臣のような役目です。太子二十歳のときでした。
 日本をりっぱな国にするために、私は何をすべきだろうか? 太子は考えました。



『今日は、聖徳太子が理想の国づくりのためにどんな政策を実行したか勉強していきましょう』

2 国際情勢を知る
『聖徳太子は、政治家として、つねに国際情勢をしっかりと見すえて考えていました。太子が15才(589年)のとき、漢(220年)の滅亡以来初めて、隋が中国を統一し、大帝国となりました。300年以上の混乱していた中国が、強大な帝国として統一されたのです。
 再び、強大な中国のパワーが世界におよび、中国(皇帝)中心の国際社会が生まれました。
 百済、高句麗、新羅の朝鮮の国々は、ただちに、隋に朝貢して、隋の皇帝の家来になりました。
聖徳太子も摂政になって数年後の、26才(600年)のときに隋に使節を送り(遣隋使)、隋の強大さを知りましたが、朝鮮の国々のようにすぐには家来になりませんでした。そして、まず何よりも、国のまとまりを強して、大和朝廷(天皇)の政治の力を高めようとしました』

3 聖徳太子の政治課題と実行

『聖徳太子は、隋の強大な力を前にして、国のまとまりを強くし亡ければならないと考え、まず603年に、次に604年に、その考えを実行しました。年表を見て答えなさい』

冠位十二階と十七条の憲法であることを確認する。

◆教師がかんたんに説明する。
 603年・・・官位十二階(天皇が役人の位を決め、位をさずける)徳(紫)・仁(青)・礼(赤)・信(黄)・義(白)・智(黒)の6つの位をそれぞれ大と小に分け、全部で12の位を定めたこと。これまでは家柄上下によってリーダーや役人を選んできたが、これからは、人物の実力を見極めて、天皇が役人(政治のリーダーたち)を選ぶようにした。
 
 604年・・・十七条の憲法(国の最高のきまりを定めた)

4 17条の憲法を予想する 
『摂政の聖徳太子は、どんなに実力のあるリーダーを集めても、天皇の下で実際に政治を進めるリーダーたちに、政治の正しい考え方や心構えを教え、守らせなければ、太子が理想とする政治は実現できないと考えました。聖徳太子はまず国のリーダーたちがりっぱでなければ、日本は立派な国になれないと考えたのです。こうして作られたの決まりがが17条憲法です。太子29歳、604年のことでした』


 みなさんはいま国づくりを進める摂政です。強大な隋中心の世界で国造りを進めるために、実力で選んだリーダー達にどんなことを要求しますか?
 次のような言葉づかいで、ノートに箇条書きにしなさい。「~を守りなさい」「~を進んでやりなさい」「~はやってはいけない」「~に気をつけなさい」
 どうしてそうすべきなのか、理由も書けたら素晴らしい!!



5分与えて書かせる。

5 17条の憲法を知る
*資料「17条の憲法」を配布する


聖徳太子「十七条の憲法」  ●わかりやすく直して短くしたもの●
一  和を尊び(仲よく助け合い)人と争うことがないようにしなさい。そうすれば政治が正しく進められます。

二  仏(仏教)の教えを大切にしなさい。そうすれば、正しい政治が行われます。

三  天皇のお言葉には必ず従いなさい。そうすれば国はひとつにまとまって発展できます。

四  リーダーこそ礼儀正しくしなさい。そうすれば下の者がそれにならいます。

五  富める者にも、貧しき者にも、公平な政治を進めなさい。

六  悪をこらしめ、善をすすめる政治をしなさい。それがない国はほろびます。

七  家柄や身分ではなく、その人の実力にふさわしい仕事を与えなさい。

八  国づくりの仕事にはひまがない。朝早く役所に来て、夕方おそくまで仕事をしなさい。

九  口先ではなく、うそいつわりのない真心の政治を進めなさい。

十  意見が対立しても国を思う気持ちは同じです。まず自分がまちがっているのではないかと考え、人の話をしっかり聞いて正しい道を見つけなさい。

十一 手がらを立てたら必ず賞を与え、間違いをおかしたら必ず罰を与えなさい。そのけじめがしっかりすれば国はまとまり発展します。

十二 国の中心は天皇ただ一人です。税は朝廷(天皇)だけが集めるようにしなさい。

十三 リーダーはおたがいの仕事を知り、いつでも代われるようにしなさい。

十四 リーダーは人をうらやんだり、ねたんだりしてはなりません。

十五 国のリーダーは、自分のすべてを国のためにささげなければいけません。

十六 民衆こそ国の宝です。彼らが忙しい時に国の仕事をさせてはいけません。

十七 国の大事は一人で決めてはいけない。おおぜいが話し合えば知恵が集まり、必ずに正しい道が見つかります。


 
 次の指示をする。
『これから先生が読み上げますから、自分の予想と似ているものがあったら○をつけなさい』

*読み上げながら各条に以下のキーワードをつけ、黒板にキーワードのカードをはっていく。

①和 ②仏教 ③天皇中心 ④礼儀 ⑤公平 ⑥善を進め悪を滅ぼす ⑦実力にあった地位【冠位十二階】
⑧勤勉 ⑨信頼 ⑩自己中心をやめ人の意見を聞く ⑪賞罰 ⑫税は国へ ⑬助け合い ⑭しっと心をなくす
⑮国のためにつくす ⑯国民を大切にする  ⑰大事なことは話し合いで決める

*1条ごとに、○がついた人数を調べ、1~2名発表させ、「偉大な聖徳太子と同じ考えだったね」とほめるながら、この作業を進めていく。

【解説】このステップが授業の核です。ここでたっぷり時間をとるために、前段階はさっさと進めましょう。小学生が考える理想の政治が、十七条の憲法にかなり追いつけることに驚きます。日本人なのですね。そして1つでも聖徳太子に近い考えがもてたら、本気でほめてやりましょう。児童は「聖徳太子と同じだった!」とびっくりし感激します。

*「憲法」のねらいを『十七条の憲法は、天皇中心に国を一つにまとめ、リーダー全員が、仲良く助け合って(和の精神)、国のために全力でつくすことを定めたものです。立派な国には立派なリーダーが必要だと、太子は考えたのですね』

6 太子の国づくりの大方針2
*冠位十二階と十七条憲法の共通点をまとめるかたちで、両者が、天皇中心に一つにまとまる国をつくろうとしたものであるとまとめる。
「冠位十二階」・・・天皇が位を決めさずける(天皇が国の中心であり、最高の位である)
「十七条の憲法」・・・リーダーたちは、天皇の言葉に従い、理想の政治を進める。

 聖徳太子の国づくりの大方針②をまとめる
『十七条の憲法の第三条と第十二条が、聖徳太子の国づくりの第2の大方針だと考えられます』

 【国づくりの大方針 2】 「天皇中心に一つにまとまる国」

聖徳太子1「仏教伝来」



 これは拙著『学校でまなびたい歴史』(産経新聞社 2003)に発表した2本目の授業です。
 私の歴史授業は、聖徳太子の業績によって日本の国柄を教えるという組み立てになっています。
 聖徳太子の事績が後の日本の国づくりの大方針を示しており、それが明治維新という古代に続く第2の国家形成においてもしっかりと受けつがれているからです。
 長くて読みにくいとは思いますが、ぜひ読んでみて下さい。



聖徳太子の授業1「仏教伝来」

◆授業づくりの話◆
この授業は『日本書紀』の欽明紀にもとづいている。 *
 冬十月、聖明王は西部姫氏達率怒啾斯致契(せいほうきしたつそつぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏(しゃかほとけ)の金銅像一躯(かねのみかたひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論(きょうろん)若干巻をたてまつった。
 別に上表し、仏を広く礼拝する功徳をのべて「この法は諸法の中で最も勝(すぐ)れております。解り難く入り難くて、周公(しゅうこう)・孔子(こうし)もなお知りたまうことができないほどでしたが、無量無辺(むりょうむへん)の福徳果報(いきおいむくい)を生じ、無情の菩提を成し、譬(たと)えば人が随意宝珠(ずいいほうしゅ・物事が思うままになる宝珠)を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。遠く天竺(てんじく・インド)から三韓(みつのからくに)に至るまで、教(みのり)に従い尊敬されています。それゆえ百済王の臣明(やつがれめい)は、つつしんで侍臣を遣わして朝(みかど)に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏が述べられてことを果たそうと思うのです」といった。
 この日天皇はこれを聞き給わって、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)され、使者に詔(みことのり)して「自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども自分一人で決定はしない」といわれた。群臣に一人一人尋ねられ「西の国から伝わった仏の顔は、瑞麗の美を備え、まだ見たこともないものである。これを祀るべきかどうか」といわれた。
 蘇我大臣稲目宿禰(そがのおおおみいなめのすくね)が申すのに
「西の国の諸国はみな礼拝しています。豊秋(とよあき)の日本だけがそれに背くべきでしょうか」と。
物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)・中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)が同じく申すには
「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社稷(あまつやしろくにやしろ)の百八十神(ももあまりやそがみ)を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて蕃神(あたしくにのかみ・仏)を拝むことになると、おそらく国つ神の怒りをうけることになるでしょう」と。
 天皇はいわれた。「それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう」と。

               (日本書紀(下)現代語訳 宇治谷孟*講談社学術文庫)

 わが国は、中国の先進文化の強い影響下で国家を形成し始めた。水田稲作を入れ、金属器の技術を入れ、文字を入れた。大和朝廷が統一国家を築いたのには、帰化人の技芸が大いに貢献している。そうしていま、外来の新宗教が海を渡ってきたのである。
 天皇は仏の像を見て「きらぎらし」と感嘆の声を上げられたという。そして「礼拝すべきか否か」を群臣に諮ったのである。
 革新派の蘇我氏は国際社会の趨勢から仏教の導入を主張し、物部氏と中臣氏はその職掌から、外来の神を拝んで伝統の神々を祀らない危険を述べた。
 天皇は蘇我氏に仏教の礼拝を許し、ひとまずは個人の自由だというかたちで収めたようだ。やがて崇仏排仏論争は蘇我氏対物部氏の武力抗争に発展し、排仏派の旗頭であった物部氏は滅びた。しかし「仏さまか、神さまか」という激しい抗争はそれで終わったわけではない。その後も解決の方途の見えないまま争いは続いたのである。
 この六世紀を揺るがした大問題を解決した天才が聖徳太子であった。
 欽明紀の論争からおよそ半世紀後、聖徳太子は推古天皇の摂政になる。当時の日本で難解な仏教の教義を最もよく理解していたのが聖徳太子であった。太子は四天王寺・法興寺等を次々と建立し、大和朝廷の仏教導入という大事業を推進した。こうして、外来の新宗教であった仏教は、大和の国に根をおろしていったのである。
 しかし、同じ日本書紀の推古朝には次のように書かれている。

(推古十五年春、二月)九日詔して、「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心をつくしてよく神祇を拝するように」と言われた
 十五日、皇太子と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された。

 これを敬神の詔という。推古十五年は西暦六〇七年のことだ。
 推古天皇は、先祖の信仰を継承して伝統の神々を祀り続けることを誓ったのである。この詔の起草者が聖徳太子であることはいうまでもない。それを受けて、太子と蘇我馬子という仏教推進派の二大巨頭が、わざわざ朝廷の全役人を集めて、日本の神々を祀る行事を盛大に行ったのである。
 朝廷は新たに外来の仏さまを祀るが、それは日本の神々への信仰を捨てることではない。ともに大切にしていくのだという大方針を内外に明らかにしたのである。
 こうして、およそ半世紀の抗争は決着した。わが国は仏教も神ながらの道も共に尊重して、国づくりを進めることになったのである。
 異質な宗教の衝突は、洋の東西を問わず「あれかこれか」問題になるほかはない。仏さまを信じるのなら、国つ神には去ってもらうほかないというのが世界の常識である。前述した蘇我氏や物部氏の物言い見ても、彼らがそれを二者択一問題としてとらえていることがわかる。キリスト教はオリンポスの神々やゲルマンの神々を滅ぼした。イスラム教が広まるときも同様であった。それら新時代の理念宗教に席巻された地域では、土着の自然宗教はことごとく滅びていったのである。
 もしそうなっていたら、わが国の国柄は大きく変わっていたと思われる。大和朝廷は、神々を祖先にもつ王家であることに王権の正統性を見いだしていた。もし、その神々を追放すれば、天皇家は大和の国に君臨する正統性を失っていたはずである。そうなれば、次の天皇がその皇太子である必然性はない。国を治める真の実力があるかないかだけが問題を決定するだろう。結果的に、日本も中国のように姓の異なる王朝が交替し続ける国になっていたと思われる。武力抗争で王朝交替をくり返す不連続の国柄になっていたかも知れないのである。
 聖徳太子の天才は、宗教の衝突を「あれもこれも」という日本らしい解決法で乗り切った。仏教派の先覚者として導入の先頭に立った聖徳太子が、同時に日本の国柄を構想する政治家として「敬神の詔」を発し、仏教導入後も、従来通り伝統の神々を祀り続けることを誓ったのである。
 この文明戦略は、以後わが国が外来文明を導入する際の自覚的な方法となって継承されていく。外来文化と日本の伝統文化を統合しながら、日本の伝統を再構成し続けるという道である。宗教でそれができるなら、他の技術や知識でできないことはない。外来のものであれ、日本古来のものであれ、「良いものは良い」「ダメなものはダメだ」という、偏見を持たない、時代に即応した取捨選択が可能になったのである。
 ここに記した仏教伝来の教材観は、堺屋太一『日本を創った十二人』(PHP新書)に依拠している。私はこの本の「第一章、聖徳太子」から激しい衝撃を受け、日本という宿命の原型を見た思いがした。この授業は、本書に触発されて生まれたものである。
 「あれもこれも」という構えは、ときに私たちを縛る足かせのように見えることがある。しかし、その大方針がなければ日本の歴史はなかったのである。私には、それがよかったか悪かったかといったような他人事の議論はできない。私たちは今もなお、聖徳太子が直面したのと同様の宿命を生きているのだと思えるからである。


◆授業の実際◆

1 仏教伝来という問題
この授業は、黒板に六世紀ころの東アジアの地図を掲示することから始めよう。

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 今から一五〇〇年ほど前の話です。
 そのころ中国は三つの国に分かれていました。三世紀の前半に後漢という大帝国が滅んでから三百年、中国には統一国家はありません。
 朝鮮半島には、百済・新羅・高句麗という三つの国がありました。
 この時代は、東アジアでは日本だけが一つにまとまった国でした。すでに勉強したように、日本は大和朝廷の下に一つにまとまることができたのです。
 西暦五五二年のことです。神武天皇から数えて二十九代目の欽明天皇の時代です。
 その欽明天皇に、朝鮮の百済の王様(名前は聖明王です)からすばらしい贈り物が届きました。それが問題の始まりでした。ひとつの贈り物が、六世紀の日本を大きく揺るがすほどの大問題になっていきます。
 そのプレゼントの実物は残っていません。みなさんに想像してもらうために、たぶんこんな物だったろうという写真を用意しました。
 一五〇〇年前のご先祖たちは、これを見てたいへん驚き、感動したそうですので、みなさんもぜひ感動の声をあげてみてください。
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心やさしい子供たちは、一斉に「ウォー!」とか、「ワー!」とか、感動(?)の声をあげてみせた。こうして子供たちはしだいに一五〇〇年前の大和朝廷の大広間に参入していく。この授業は、子供たちを崇仏排仏論争の現場に連れて行きたいのである。
そうだね。そんなふうに声を上げてしまうほど、初めて見る黄金の像はこの世のものとは思われないほど美しく輝いていました。
『これは仏さまの像、仏像といいます』
 仏さまは外国生まれの〈かみさま〉です。インドで生まれて、中国で育ち、朝鮮を通っていま初めて日本にまでやってきたというわけです。
『この仏さまを信じる宗教のことを仏教といいます』
 さて、聖明王の贈り物は仏像だけではありませんでした。仏さまのありがたい教えが書かれたお経や、仏さまをおまつりするいろいろな道具などもそえられていました。
 聖明王から欽明天皇に宛てたお手紙もありました。読んでみましょう。

「この仏さまは、世界中のさまざまな〈かみさま〉の中で最もすぐれています。仏さまを拝めば、計り知れないほどの恵みがあります。こうしたいと願ったことは何でもかなうほどです。いま中国の国々も、朝鮮の私たちの国・百済も、みなこの仏さまを信じて新しい国づくりを進めています。日本のみなさんも、これからは仏さまを信仰して、大和の国をもっともっと立派な国にしていったらいかがですか」

 これが、歴史にいう「仏教伝来」という大事件の発端であった。


2 日本初の政策討論会
今お話ししてきたことは、みんな『日本書紀』の欽明天皇のところに出てくるお話です。
 欽明天皇は仏像をごらんになって強く感動しました。お手紙をお読みになってより一層心を動かされました。日本書紀にはこんなふうに書いてあります。

 「この日天皇はこのお手紙をお読みになって、おどりあがるほど喜ばれた。そして、百済からの使者にこう言われた『自分は昔からこれまで、このようなすばらしい教えを聞いたことがなかった』と。」

たいへんなお喜びようであったことがわかります。が、ここが日本の天皇らしいところなのですが、続けて次のように書いてあります。

「(欽明天皇は)『けれども自分一人で決定はしない』といわれた。たくさんいる家来の豪族たち一人一人にたずねられ『西の国から伝わった仏の顔は、光り輝き、たいへん美しい。私はこれほどの美しさをこれまで見たことがなかった。さて、私たちは仏さまをまつるべきだろうか。それぞれの考えを教えてほしい』といわれた。」

 この部分はぜひ解説しておきたいところだ。
 欽明天皇は独断専行せずに、事の是非を群臣一人一人に尋ねたというのである。ここには中国皇帝の専制政治とはまったく異質な王の姿がある。私はこれを日本初の政策討論会であったととらえている。後に聖徳太子の十七条憲法に結実する「話し合いによる政治的決定」の具体例がここに記されているといえるのである。それがわが皇室の伝統であったようである。
 水田稲作・金属・文字等、海を渡ってきた新文明の断片に遭遇するたびに、列島の各地では、このような国際派(革新派)と伝統派(保守派)の真剣な議論が長い時間をかけて展開されたのではないだろうか。
さてここでひとつ子供たちに確かめておくことがある。
 欽明天皇はすばらしい教えと美しい仏さまに感動されています。にもかかわらず、仏教を信じようという決定はされませんでした。このエピソードから、大事なことは天皇一人で決めずに、家来たちの考えもよく聞いて話し合った上で決めるという伝統があったことがわかります。ただ、私はそれだけではなく、欽明天皇ご自身もどうしたらいいかそうとう迷われていたのだと思います。
『〈外国のかみさま〉を信じたい。でも、それでいいのかなという大きな悩みがありました。どうして欽明天皇はそれほど悩んだのでしょうか?』
「日本には日本の神様がいるからだと思います」
「日本には縄文時代からずっと神様がいました。弥生時代にもいました。そういう、大昔からつながっている神様を、〈外国のかみさま〉と取り替えていいのかと迷ったのだと思います」
子供たちもまた、日本の神さまたちのことを心配していたことがわかる。
「日本は王様の霊なども信じていて、大きな古墳にまつっていました。それは欽明天皇の先祖でもあるから、いきなり仏教を信じてもいいのかなと、迷ったと思います」
そうですね。みんなの言うとおりです。日本には日本の神様がいました。仏さまを拝むようになったら、そちらはどうしたらいいのだろう? 欽明天皇のいちばん大きな迷いはそこにありました。
 一五〇〇年前ですからね。人の生き死にも、国が発展するのも滅びるのも、みな神様のおかげであり、神さまのお心しだいという時代です。だから、今日の勉強はそういう昔の人々の心の中の、神さまの大きさ、重要性ということをしっかり想像することが大切です。毎朝毎晩、神さまにおすがりしてようやく生きられた時代、喜びも悲しみも何もかもが神さまと共にあった時代なのです。いいですね。そういうご先祖の気持ちをしっかり想像しながら勉強を進めましょう。
『日本にはどんな神様がいましたか?』
「スサノオノミコトです」
 そうです、ヤマタノオロチを退治した勇者ですね。高天原では掟に反する乱暴をして追放されてしまった神さまでした。
「イザナギノミコトと、イザナミノミコトです」
 これは、日本列島をつくってくれた神さまですね。たくさんの神々もお生みになりました。日本のおおもとのご夫婦の神様でしたね。
「アマテラスオオミカミや、ツキヨミもいます」
アマテラスはスサノオのお姉さんですね。後に、天皇家の先祖として位置づけられることになる神様です。
 そういう有名な神様だけでなく、山にも海にも、日本にはたくさんの神様がいらっしゃいます。それから、王様の霊ですね。国のために活躍してくれた王様を古墳に祀り、神として礼拝したことも勉強しました。日本の神々は、ご先祖の神さまと、自然の神さま、土地の神さまなど、たくさんの神さまがいらっしゃいました。
ですから、欽明天皇にはそういう日本伝統の神さまをどうするのかという悩みがあってそう簡単には決められなかったのでしょう。
 天皇の命令で朝廷の大広間に豪族たちが集まり、大討論会が開かれたのです。
『今日はみなさんを、今から一五〇〇年前の大和朝廷に連れて行きます。みなさんもご先祖の一人になったつもりで討論に参加するという勉強です。日本の未来がかかっていますから、いい加減な気持ちでは困りますよ。どうか真剣に勉強してください』
 討論の論題はこうだ。

 わが国が、仏教を国の宗教にすることに、賛成か、反対か。

ここで「宗教とは何ですか?」という質問があった。神様に祈り、神様をおまつりすることであり、人間の道徳のもとになるのが宗教だというふうに教えた。
集められた豪族達の多くはどうしていいかあまりよくわからなかったのではないかと思います。しかし、日本書紀には堂々と意見を述べた人の名前が書かれています。
 賛成派の代表は、蘇我稲目さん。
 反対派の代表は、物部尾輿さん。中臣鎌子さん。
 いつの時代もそうですが、多くの人はどっちにしたらいいかよくわからない。でも必ず、リーダーになる人はいて、勉強もしているし、よく考えている。ここでも、三人のリーダーが、賛成と反対の意見を天皇の前で述べました。その賛成・反対の代表意見をこれからみんなといっしょに読んでみることにします。
 読む前に少し注釈を入れよう。まず、次に示す史料は、日本書紀の記録をもとにして、いろいろな学者の研究も参考にして、その上で、さらに私が大胆に推理して、小学生にも読み取れるように書いてみたものだということ。次に、資料の中に「大王」とあるのは「天皇」のことだということ。大和の国の王が「天皇」と名乗るようになるのは、もう少し後の時代だというのが歴史学者の意見だからだ。欽明天皇は「天皇」と呼ばれることはなかった。大王だったのである。なので、資料の中には「大王」と書いてある。それは「天皇」のことだと思って読んでください。
『さあいよいよ蘇我さんが立ち上がって、立論を始めました。しっかり聞いてください。』


〈賛成派代表:蘇我さんの意見〉
①仏教は、いまや世界の常識です。
 世界の中心である中国には、たくさんのお寺がたちならび、多くの人が美しい仏様をおがんでいます。お隣の朝鮮の国々も同じです。
 強い国、文化の進んだ国はみな仏様を信じて政治を行っています。仏教には新しい時代の理想とパワーがあるのです。
 わが国もこの新しい時代にふさわしい宗教を取り入れるべきです。いつまでもわが国だけに通用する神様にたよっていては、世界の進歩におくれてしまうでしょう。
②中国の文化に学ぶことが国を豊かにします。
 わが国がここまで進歩し、一つの国にまとまることができたのも、米作りや、銅や鉄など新しい技術や知識を中国から取り入れてきたからです。
 中国で発明された文字である漢字や、高級な土器、豪華な着物、新しい学問などの進んだ文化はみな、仏教とともにわが国に入ってきたのです。
 国民みんなが仏教を信じるようになれば、外国の知識もさらにふえ、技術も進歩して、人々の生活はもっと豊かになることでしょう。
③わが国の神様は新しい時代にふさわしくありません。
 わが国の神様は、理想も低く、ルールのきびしさもいいかげんです。そのときそのときで神様のお考えが変わります。そのうえ、ちょっと気に入らないことがあると、すぐにたたりがあります。
 この新しい時代にはもう古くなってしまったのです。
④仏教は人の生き方を教え、国を大きく発展させます。 
 仏様の教えはお経に文で書かれています。良いことと悪いことの区別がはっきりしめされ、人としての正しい生き方を教えてくれます。
 仏教のありがたい教えを大王が守っていけば、人々が大王を尊敬する気持ちも深まり、大王にすすんで従うようになるでしょう。
 仏教こそ、人の生き方を教え、大王のもとに人々がまとまり、国を大きく発展させてくれる大切な教えなのです。
 以上、四つの理由から、私たちは、仏教を国の宗教にすることに賛成します。



 
〈反対派代表:物部さんの意見〉
①ご先祖への感謝を忘れてはなりません。 
 わが国には、たくさんの大切な神様がいらっしゃいます。その中には、大王のご先祖である神々もおられます。この大切な神々を、春夏秋冬におまつりすることこそ、大王の大切なつとめなのです。
 国のリーダーがご自分のご先祖さまをかえりみず、捨ててしまうようでは、神様のたたりはおそろしく、この国はほろびてしまうでしょう。
 ご先祖への感謝を忘れたらわが国の未来はありません。
②外国の宗教にすぐに飛びつくのはあさはかです。 
 宗教は人の心のことですから、知識や技術を取り入れるのとはわけがちがいます。
 いま外国からきらきらした仏様が伝えられたからといって、すぐにそっちに飛びつくのは、いかにもあさはかで見苦しいことです。神様は目に見えないからこそ尊い。それが昔からわが国の伝統ではありませんか。
③わが国の神様には、外国の神様にはない良さがあります。 
 たしかにわが国の神様にはルールのきびしさはありません。でも、私たちが明らかにまちがったときにはきびしく教えてくれます。また、外国の神様とちがって、事情も考えないでルールだけで罰を与えたりはしません。
 神様は森にも川にも、山にも海にもいらっしゃり、私たちをいつもあたたかく見守っていてくれました。いまこうして国があり、私たちが生きられるのも、神様のおかげなのです。
④わが国の神様を信じて、せっかく一つにまとまった国を守るべきです。
 私たち全国の豪族が大和朝廷の大王を中心に一つの国にまとまったのは、わが国の神様が大王のご先祖につながっているからです。もしこの神様を捨ててしまえば、国のリーダーは大王とその子孫でなくてもいいことになってしまいます。そうなったらもう大王も豪族も区別がありません。また昔のように、力の強いものが「私が大王になる」と言い出して戦争になり、せっかく一つにまとまったこの国がまたバラバラになってしまうでしょう。そうなってはもう、国の進歩も発展もありません。
 以上、四つの理由から、私たちは仏教を国の宗教にすることには反対します。



読み終えると子供たちは自分の考えをどちらかに決める。
『両方に「なるほどな」と思ったところがあった人はどれくらいいますか?』
 この問いには、全員の手が挙がる。子供たちは、どちらの立論にも「なるほど」と思いながら、最終的にはどちらかの立場を選ぶのである。
 子供たちは、このような対立のある話し合いが大好きだ。言うだけ聞くだけではすまない真剣勝負の雰囲気がいいのだ。また、対立意見と戦いながら考えるとき、児童のノーミソは最も活発に活動し始める。聞きたくなり、言いたくなり、しかもよくわかり、役に立つのだ。もし自分の立場を決めないで話し合いに参加すれば、どちらの考えも、ちっとも面白くないのである。自分の身にも火の粉が降りかかるような場に立ってこそ、学ぶ意欲も高まり、切実に考えざるを得なくなる。だから、子供たちは必ず自分の立場を決めるのである。また選択肢が「A対反A(B)」であるとき、その中間とか、その他といった第三の立場は認めない。無意味に話を複雑にするだけだからである。
 立場を決めた子供はその理由を簡単にノートに書く約束になっている。ここで少し時間を取る。資料の中から、あるいは資料を超えて、自分の立場の根拠となることがらをメモしておくのである。
 《あんなに激しく言い合って学級の人間関係はだいじょうぶですか?》と尋ねられることがある。話は逆である。知的な対決が日常の人間関係を壊すことはない。お互いの違いがわかり、違う理由が理解でき、そのおかげで自分が触発されたり、考えが深まったりするのだ。
「そんなこと、ぼくは考えもしなかったよ」
「あの反論はすごかったね。ぞくぞくしたよ」
 知的な対立は楽しく、よくわかるという実感を通して、子供たちの人間関係は豊かになり、好ましい変容を見せるのである。大げさに言えばそこには尊敬さえ生まれる。
 みんな同じだから仲良しなのではない。同じでないことはいずれわかる。大事なのはみんな違うから面白いということを、目に見えるようにしてやることだ。実感させることである。口先だけで個性の尊重を教えても役に立たない。
 討論ではお互いが違うからこそ面白い。違うからこそ、与えたり、得たりできるのである。違うことの楽しさを実感できる。人間関係が豊かにならない道理がないのである。

話し合いに入る前に、必ず挙手で意見分布をとる。
 子供たちは手を挙げているメンバーを見て、敵味方を確認する。アイコンタクトをしたり、うなずきあったりして心の準備をしている。その表情がとてもいい。それぞれなりに、きりりと引き締まった風貌になるからである。
さて、今年の子供たちは次のような結果になった。

  賛成派・蘇我氏グループ・・・十八名
 反対派・物部氏グループ・・・十九名

なんと、みごとにまっ二つに割れたのである。
 教室が一瞬息をのんだように思え、ややあって、「よし」という気合いが入った。
『それでは欽明天皇がご覧になっていると思って大いに議論をしていきましょう。歴史に残るような良い話し合いができるといいですね』
さてこの授業のような大きな話し合い学習の場合は、子供たちは互いに指名し合って進めることが多い。発言した子供が次に言う子供を指名するシステムである。子供たちの論点はあっちへ行きこっちに帰り、重複をしたり繰り返されたりしながら進む。授業としての効率よりも、なるべく大勢の児童に発言させることを重視する方法である。この授業では、三十九人中三十二人が自分の出番をつくった。一人で何回も発言する子供もいる。
 そのまま記述したらたいへん読みずらいものになる。そこで、賛成派と反対派のおもな意見を整理して示してみることにする。
 ただし「 」の中の言葉は子供が発言した言葉である。


《賛成派の意見》 

①技術や知識が進歩する
「仏教を取り入れた方が、技術が発達して暮らしが豊かになるからです」
「この国がここまで進歩してきたのは、中国から知識や技術を取り入れてきたからだと思う。米作りや金属を作る技術、文字などを中国からもらっていなかったら、まだ大和朝廷も大和の国を建国できていないと思います。仏教を信仰すれば、もっと進歩すると思います。日本の神ではなく仏教を信じれば、ほかの国の動きや進歩を知ることもできて、知識もたくさん取り入れられると思います」
外来の知識・技術を導入することは大和朝廷の大方針であった。そのパワーが朝廷の日本統一を実現したのだ。まず出てくるのは、その方針上に仏教も取り入れるのは当たり前だという国際派(進歩派)の論点である。この意見が最も多かった。
②国の安全が守れる
「中国は仏教を取り入れています。朝鮮が仏教を取り入れたのは、大きくて強い中国のとなりだからだと思います。周りの国々が仏教グループでまとまって、日本だけが違うのはまずいと思います。もし攻められたら味方がいないからです」
「ほかの国と戦争をしたときに中国が味方についていた方が安全だと思う。物部さんが、国内で戦争が起きるのはまずいみたいに言っているが、中国と対立するようになったらそのほうがあぶないし、国の発展はないと思う」
「ぼくも似ていて、仏教を取り入れるのは、中国を味方にしておくためです。高級な着物とか技術とか、学問とかをこれからどんどん入れて国を発展させるのだから、国内で多少の犠牲が出るのはやむをえないと思う」
 他にも何人か続いたが、これらの意見は内戦のリスクよりも対外的な安全保障を優先して考えている。仏教にはそうするだけの対外的な重要性があると感じているのだ。《弥生時代の王たち》や《卑弥呼》の学習を通して、子供たちは古代世界の力関係にかなり敏感になっている。
③世界の流行に合わせる
「世界中が仏教を信じて政治をしているのに、日本だけが取り入れないのは時代に取り残されてしまうような気がする。おくれた国になりそうで、まずいと思う」
「他の国がみな仏教を取り入れて政治を行っているのに、日本だけがやらないのでは、日本だけが遅れてしまうようで、何となくいやです」
 これらは力関係というよりも、世界の潮流(グローバルスタンダード)に合わせようという意見である。そうしないと遅れるという不安がある。
 子供たちのたくさんの意見は、おおむね以上三点のバリエーションであった。が、そこに収まらない次のような独創的な見解もあった。
④リーダーは血筋ではなく実力主義で選ぶ
「たしかに日本には大王のご先祖である神様がいます。でも日本の未来のためにはここで仏教を取り入れる方が大事です。だから、これからの天皇は先祖である神様と血がつながっていなくても、ほんとうに国をまとめる実力のある人が天皇になればいいのではないですか。神様の子孫を天皇にするというやり方をやめれば、古い日本の神にこだわらなくてもいいんだから、そうすれば、天皇が仏教を信じて日本は発展できると思います」
 この子は、仏教派がクリアしなければならない最も重要な論点をわしづかみにして、他の児童にはない積極的な主張をした。国のリーダーを血筋で選ぶのはおかしいと考え、実力主義を主張しているのである。そうすれば古い神はいらなくなる、と。中国流の王朝交替の国柄を構想しているのである。
 余談だが、この子はその後〈大化改新の授業〉の中で、自分が発明した実力主義リーダー論(易姓革命論)を捨てる。中大兄皇子に共感する学習を通して「日本は、天皇家からトップ(天皇)を出したほうがよくまとまるのだ」と主張するようになったのだった。
⑤仏教で国のまとまりをつくる
「世界が仏教だということが重要で、これについていくことが日本を進歩させます。いまは日本の神でまとまっているからいいと思いますが、いま仏教に変えても、みんなが仏さまを信じるようになれば、それでも国はまとまると思います。そうすれば国もまとまるし、技術も進歩できます」
 これは、グローバルスタンダード論の延長上に新しい論点をつけ加えたものだ。宗教が国をまとめるパワーであることを直感しているのがすばらしい。この時代、神と仏の共通点が鎮護国家であったことはまちがいない。
⑥仏教は宗教のレベルアップだ
「どんな国にも大昔から宗教はあったと思うが、仏教はそういう古い宗教ではなく、新しい時代の新しい宗教で、だから中国のような進んだ国もそれを取り入れて政治をするようになったのだと思う。日本も宗教を新しくすれば、もっと国としてのレベルも上がるんだと思う」
 これも他の児童の意見にはない新しい論点だった。
 たしかに、キリスト教や仏教は新時代の理念宗教であり、日本の神々のような自然宗教の展開型とは異質である。経典(聖書)があり、戒律があり、個人の救済への意志が信仰の拠り所となっている新しいタイプの宗教なのだ。
 中国が仏教を導入し始めたのは、日本が国家形成を始めた一世紀から二世紀にかけてのことである。ちょうど同じ頃ヨーロッパでも『新約聖書』が成立し、キリスト教は猛烈な勢いで広がっていった。大和朝廷が胎動し始めた時代は、ローマ帝国にキリスト教が導入されていった時代でもあるのだ。ウオルター・ペーター『ルネサンス』(富山房)には、欽明天皇が金銅仏に圧倒されたように、黄金のキリスト像の輝きに圧倒されるローマの人々が活写されている。テオドシウス一世がキリスト教を国教と定め、太古からのローマの神々や東方から来た神々を追放したのは四世紀の末のことであった。その後またたく間にヨーロッパの森に息づいて来た土着の神々は滅びていったのである。
 こうしてみると、日本書紀の仏教伝来の記事は、キリスト教がヨーロッパを席巻していくのとほぼ同時代の動きだったのである。それだけに、日本の独創的な問題解決は、世界宗教史にページを割くに値する事件ではないかと思われるほどである。
 こうして賛成派(仏教導入派)の意見発表が終わった。


 《反対派の意見》
①神は目に見えないから尊い
「日本の神様は仏像とちがって目に見えない神様で、それが日本の伝統です。伝統は切らない方がいいと思います」
「きれいな仏像がいいというなら、神様のきれいな像を造ったらどうですか。ぼくは像なんかいりません。目に見えなくても神を信じてきたのが日本だと思います」
 このように、目に見えない(偶像を作らない)という論点にこだわる児童が一定数必ずいる。今回はそれほどでもなかったが、前回は偶像派と反偶像派のかなりシビアな討論が展開された。金ぴかには最初は驚いても長くは続かない、目に見える物は必ず古びていく、神は目に見えないから尊い等といったテツガクが主張されたりもする。
②日本の神を捨てるのは人の道に外れる
「今まで神様が私たちを見守っていてくれました。私たちのご先祖様はつらいときや苦しいときには、いつでも神様にお祈りしていました。それなのに、きれいな仏像が贈られてきたからといって、今まで日本を守り続けてくれた神様を見捨てるのは、神様にとても失礼です。私はそういうのはいやなので、反対です」
「昔からずっと伝えてきたことを、周りの国がみんな仏教になったからといって、簡単に変えてしまったら、ご先祖様や神様に悪いと思います」
「今まではずっと大王の先祖を神として、ずっと祈ってきたのに、今変えてしまえば神様を裏切るようなものです。今まで国をまとめてくれた神様に感謝して神は今まで通り信じていくべきだと思います」
「今までお世話になった神様に失礼だと思います。今までお世話になったお礼として、神様への信仰を守り通すのが人としての礼儀だと思います」
「たたりで国がこわれてしまうかもしれないから、反対です。ご先祖様への感謝を忘れちゃいけないと思います」
このように、保守派のいちばん強い主張は、感謝が足りないという考えである。子供たちの素直な心がストレートに出てくる。「そんなのは人間のすることじゃないと思う」とか「神への裏切りだ」などという強い感情表現が出される。
③天皇中心に国を守ろう
「リーダーが天皇家でなくてもいいと言うことになって、実力者が争いだして国が乱れてしまえば、豊かにはなれません」
「今までは自分の国の神様を信じて国をまとめてきたんだから、仏教を取り入れてしまうと日本の国のリーダーが天皇ではなくてもいいということになってしまって、国が分裂していってしまうと思う。だから仏教は取り入れない方がいい」
「神様が滅びれば、大王の力も弱まり、誰でも力が強ければ国のリーダーになれることになり、日本人同士が戦争を始めます。せっかく統一してまとまった国がまたばらばらになって、日本がなくなってしまいます。どうしてそれが進歩だとか発展だとかになるのか、ぼくにはわかりません。宗教は、金属の道具だとか米作りのような技術とはちがうと思います」
「大王と豪族などの他のリーダーたちとの区別がつかなくなるのはまずいと思います。もう力と力の争いで、みんながおれが大王になると言い出したら、せっかく一つにまとまった日本がまたばらばらです。それは、賛成派が言った『ちょっとの犠牲』なんて甘いことではないと思います」
 このように、日本は大和朝廷がまとめたのだから、これからも天皇を中心にして国づくりをした方が良いのだという意見が多い。実力主義で行けば必ず内戦になり、かえって国力は弱まるだろうというわけだ。
④日本は日本のままでいい
「日本には日本の神様がいる。よその国のマネをすることはない。日本は日本でやっていく方がいいと思います」
 最後はこのように、神様まで外国製に乗り替えることはないじゃないかという意見が保守伝統派の広い支持を得る。外国のものばっかりそんなにありがたがるなよという言い分である。そこには次のような足るを知ればよいという立場もある。
「もっと豊かになりたいという人に言いますが、食べ物に困るというわけではないと思うし、そんなに欲を出さないでもいいと思います」

『賛成と反対のそれぞれにかなり強力な理由があることがはっきりしましたね。さて、もう少し相手に言いたいことがあるという人はいますか?』
 次に子供たちが相互に反論し合った部分を示してみよう。

「反対派に反論します。反対派の人はご先祖様に失礼だと言っているけど、いままで日本は百済や中国からいろいろな文化や技術などを教えてもらって発展してきました。それなのに、せっかくすすめてくれているのに、仏教だけは受け入れないというのは、これまでお世話になった国々に対して失礼だと思います。〈失礼だ〉というのは、両方の意見に当てはまるから、ご先祖さまにだけ失礼だという意見は成り立たないと思います」
 この子はディベートが好きで相手の論点をいかにしてつぶすかという発想で意見を組み立てている。〈失礼だ〉という論点はお互い様だから相殺されると言っているのである。
「賛成の人は、仏教を取り入れると日本は豊かになると言いましたね。でも、この問題は今まで取り入れた技術や知識とはちがって、神様の問題です。天皇の祖先を捨てれば、天皇も捨てることになって、力があれば誰でも日本のトップになれることになって、また戦争でリーダーを決める国になってしまいます。国内で戦争ばかりやって、どうして豊かになれるんですか?」
「たとえば、中国と違ったことをやれば中国と戦争になるかも知れません。そうなったら、圧倒的に中国の方がでかくて強いんだから、戦争には負けるでしょう。日本がなくなってしまうんだから、そうなったら日本の神様もなくなります。仏教を取り入れれば、もし外国と戦争になっても負けることはないと思うので、ぼくはそうすれば日本の神様も守れるんじゃないかと思います」
「仏教を取り入れると、どうしてほかの国との戦争にも負けなくなるんですか?」
「仏教を取り入れれば、強い中国の仲間になれると思うからです」
「反対派は国が豊かにならないと言うけど、仏教を取り入れれば、中国や百済とも交流がふえて、もっともっといろいろなことを学べるし、貿易もできるから、少しくらい国の中で争いがあってもだいじょうぶです」
「賛成派の人にちょっと聞きたいんですが、仏教を取り入れないと、どうして中国と戦争になるかもしれないと考えているんですか?」
「この時代は中国中心の世界なんだから、やはり中国と同じような文化にしないと、逆らっているというようなことになって、攻め滅ぼされる可能性があるんじゃないかと思いまいました」
「仏教を取り入れなければ攻めるというようなことは言ってないと思います。もしそんなことなら、それは強制的に仏教を信じろということだから、そんなことを言われるくらいだったら、ぼくは信じません。その方がいやです。そんな強制されるくらいなら、これからも自分たちの神様を信じていった方がいいと思います」
「百済からの手紙は、信仰してみてはいかがですかという言い方だったのだから、その考えはおかしいです」
「だから、強制ではないんですよね。だったら、日本が攻められる恐れはないと、ぼくは言っているんです」
「わかりました。でも、だからと言って、百パーセント安全ということもない。ぼくは中国の文化に学んで、仏教も取り入れて、中国の味方になっておいた方が、いまのところはより安全なんじゃないかと思います」
 今年の子供たちは、一昨年よりも国の安全保障を意識した考えが強く出た。人数分布もほぼ同数になり、意見の出し合いもより激しく活発だった。
 一昨年の子供たちは、八割が保守派だった。意見の内容も「親や先祖を大事にしたい」「日本の神さまがかわいそうだ」のように、どちらかというと心情的な主張が強く出ていた。そして〈見える神VS見えない神論争〉が中心的な争点になったりした。
 同じ教材を用いて、同じように授業してもこれほどの違いが出てくる。授業は生き物なのである。
 この議論の中に、仏教導入派でありながら日本の神々も残したいと考えている児童(前述の傍点)が出てくる。次のステップの聖徳太子と同じ考えであり、興味深い。
『すばらしい話し合いでしたね。ご先祖もまた、みなさんと同じような真剣な議論をしたのだと思います。そして解決できそうもないたくさんの対立が残りました』
 一五〇〇年後の子孫たちがこんな立派な勉強をしているのを知ったら、きっとご先祖様も喜んでくれることだろう。さて、大和朝廷の討論会の後、欽明天皇はこう言われたと、やはり日本書紀に記されている。

《それでは、まず蘇我稲目にこの仏像と経典を授けて、しばらく礼拝させてみよう》

 蘇我さんの真剣さが解ったのでしょう。信じたい者には仏教を禁じたくはないと、蘇我さんが仏さまを信仰することを許されたのです。しかし、朝廷として、天皇としてこれを信じるべきかどうかは、蘇我さんの信仰の結果を見て考えよう。おそらく、そういうご判断だったのでしょう。こうして一五〇〇年前の討論会はひとまず終わりました。


3 仏教論争を解決した天才=聖徳太子
 しかし、聖明王は仏教を蘇我氏個人に伝えたのではありません。日本に伝えたのです。大和朝廷としてどうするか、日本の国としてどうするかは、大きな問題として残されたままです。
『この大問題を解決してくれたのは、当時の日本のある若いリーダーでした。この人です』
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教室のあちこちから「あ、聖徳太子だ」という声が上がった。
聖徳太子は五七四年に用明天皇の皇子として生まれました。あの仏教伝来からおよそ二十年後に生まれたのです。父は用明天皇、母親は蘇我稲目の娘でした。ですから、聖徳太子は天皇家の皇子であると同時に、蘇我氏の一族でもあったのです。幼い頃から仏さまの貴い教えを学んで育ち、当時の日本では最も深く仏教を理解したと言われます。十四歳の時、蘇我氏対物部氏の戦争に参加して蘇我氏の側で戦いました。
 あの討論のおよそ五十年後のことです。二十歳の聖徳太子は、推古天皇の摂政になりました。今でいえば総理大臣といったところです。朝廷の若いリーダーは、政治のトップになって国づくりを進めました。その第一が、あの「仏さまか、神さまか」問題の解決だったのです。
『さて、この五十年も続いた大問題を、聖徳太子はみごとに解決しました。最終的に、日本は仏教をどうしたと思いますか?』
「仏教を取り入れたと思います」
「賛成です」
『何か証拠がありますか?』
「証拠ではないのですが、蘇我氏と物部氏が戦って蘇我氏が勝ったということを読みました。大和朝廷も信じることになったのだと思います」
『よく勉強しているね。その戦争は本当にありました。物部氏は蘇我氏によって滅ぼされていきます。』
「いまも、仏教を信じている人がいます」
「お寺があります。お寺には仏さまがいます」
 そうですね。いまもお葬式は多くの人が仏教でやっていますね。お坊さんがお経を上げてくれます。亡くなった人の霊が極楽に行けるように拝んでくれますね。日本中、どんな小さな村にもお寺はあります。
『では、日本の神様は捨てられてしまったのですか?』
「捨てないで残したのだと思います」
『そうですね。こちらも証拠がありますか?』
「四年生の時、総合学習で氷川社を調べたことがあるんですが、あそこにはスサノオノミコトがまつられています」
「私は仏教を信じている人と、キリスト教を信じている人を知っていますが、どちらでもない人は、今も日本の神様を信じているんだと思います」
「日本中に神社があって、神社には日本の神様がいます」
「お稲荷様とかもいろいろあって、お稲荷様はきつねですが、それも日本の神様です」
 その通りです。みなさん、お正月には神社に初詣に行くでしょう。神社は仏さまではなく、物部さんが強く主張した日本伝統の神様ですね。こちらも捨てないで、大切に残したのです。神社もまた、日本中どんな小さな村にもあります。
『みんなが考えたように、仏教を取り入れて、日本の神さまも残したというのが、わが国の解決でした』
 聖徳太子は他の人が「仏さまか神さまか」と考えたところを、「仏さまも神さまも両方大事にしよう」と考えそれを実行したのです。こういう言葉でみんなを説得したそうです。

日本の神々を幹として、
仏教を枝として伸ばし、
日本を豊かな国にしていきましょう


 日本を大きな木にたとえています。幹というのはその中心ですね。
 日本の神々を幹とするというのは、日本は神々を祖先に持つ天皇家を中心にひとつにまとまっていきましょうという意味です。それが太い幹です。
 それから、仏教が枝。ここでは仏教を取り入れて、その素晴らしい教えを学んで枝として伸ばしていこうという意味ですね。
 豊かに繁った大きな木のイメージです。
 つまり、両方とも大切にしましょうということなんだね。そうしないと、日本らしさを守りながら、発展していくことはできないと考えたのです。
 両方大切だということは、みなさんの話し合いでよくわかったとおりです。
 国が一つにまとまるためには天皇がいなくてはならない。だから、日本の神様をこれからも大切にしよう。
 だけど、日本はまだ一つにまとまったばかりで、仏教やそのほかにも日本よりも進んだ文化が中国にはまだいっぱいある。それらをしっかり学んで、日本のものにして、日本をもっと豊かな国にしていかなくてはいけない。
 そういうふうに、聖徳太子はお話になって、みんな、ああなるほどその通りだなあということになったのです。
 それ以来、仏さまか神さまかという争いはぴったり終わりになりました。天皇も、豪族達も、みな両方を拝むようになったからです。それで、一五〇〇年後の今も日本にはお寺と神社の両方があって、それぞれ人生の節目節目に、私たちはお世話になっているというわけです。
推古十五年(六〇七年)二月、それまで仏教導入政策を強力に推進してきた聖徳太子が敬神の詔を発表し、大和朝廷がこれまで通り神々を祀り続けることを誓った。これによって仏さまと神さまは共に仲よくこの国を支え続けることが決まったのである。
 太子の命を受けた第一回遣隋使が海を渡ったのは、まさにその年の秋のことであった。たくさんの留学僧を隋に送り出す前に、太子は日本の国柄を確定しておいたのである。
聖徳太子が摂政として行った政策は、どれをとっても重要でないものはない。太子の政策とその精神は、その後今日に至るまで、日本の歴史つらぬく原型となったからである。聖徳太子は日本の国づくりの設計図を書いた人物なのである。
 その設計図はいくつかの大方針からできている。この授業は、その第一である文明戦略の大方針を学んだのである。最後にそれを、次のようにまとめておこう。

《聖徳太子の国づくりの大方針・その一》

「仏教を取り入れ、仏さまと日本の神さまの両方を祀る」

  外国文化の良さに学び、日本の伝統文化の良さも守り、両方を統合する


『聖徳太子という若いリーダーは、日本の国の始まりの頃、大変大きな働きをしました。
今日はその第一を勉強しました。明日からは、その二つ目、三つ目を勉強していくことにしましょう』

◆子供たちが学んだこと◆
■仏さまか神さまかで五〇年も争い続けていた。よっぽど神さまを見捨てたくないという人がいたんだと思いました。そこが日本のよさだと思いました。伝統をしっかり守り、日本をずっと一つにまとめていきたいという気持ちが伝わってきました。それで、仏教も取り入れるけど、神さまも大事にすることになりました。これからは、日本の良さと外国の良さのどちらもが伝統として続いていくのだと思いました。

■ぼくは仏教に賛成だったけど、反対の意見もなるほどなと思いました。このような討論を大昔、大王の前でやっていたのだなあと、なんか感動しました。昔の人はそうとう迷ったと思います。何しろ命より神さまが大切だったような昔だからです。聖徳太子は私たちのために本当にいいことを言ってくれました。

■私は反対派でした。ずっと、仏教か日本の神さまかどちらかしかないと思っていたからです。でも聖徳太子の言葉でわかりました。両方を一緒に守ることもできるんだなと思いました。授業が終わって、私はどうして聖徳太子みたいに考えられなかったのかなあと思いました。

■とてもすごい話し合いだった。何だか大昔のご先祖といっしょに考えているような気がした。ぼくは自分の国が進歩することも大切だし、自分の国の伝統を受けついでいくことも大切だと思い、少しあやふやな気持ちでした。聖徳太子のあの言葉は、みんなの期待にこたえているような、みんなが納得しているような感じがして、とてもうれしかったです。

■聖徳太子の解決にはびっくりしました。仏さまも日本の神さまの一人にしてしまったみたいだからです。

■聖徳太子がどっちも採るというなら、戦争が起きる前に決めてほしかった。そうすれば、物部氏は滅ぼされずにすんだ。百済はなぜ争いになりやすい仏教を日本に伝えようとしたのか、それが疑問だった。

■神さまのことで戦争するのはおかしいと思う。この争いを止めた聖徳太子は神さまのような人だと思った。聖徳太子はもともと仏教派で、仏教を取り入れる方にいたのに、どちらにも公平にできるなんて、もしかしたら神さまの分身かもしれないと思った。もし、どっちかを捨ててしまっていたら、日本は危なかったかもしれない。この人がいたから今の日本があるのだと思った。

■ぼくは仏教には反対だった。でも賛成派の意見を聞いていると「ああそうか」と思うことがたくさんあって、いい勉強だなあと思った。仏教か神かで戦争があったなんて初めて知った。人々はどうして仏教と神を両方とり入れることをしなかったのだろう。外国の良さを学び日本の良さを守る。こういうことは、一五〇〇年後の今でもあることだと思った。
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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