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6年生の歴史を教える先生方へ

歴史の授業を5本書きました。
1本があまり長すぎて、読者はまだわずかですが、めげずに続けようと思っています。
はげましのコメントがありがたかったです。

1本目の「ご先祖様の授業」は授業記録だから、ちょっと長いけれどまあ読み物になっているかと思います。

残りの4本は、私が授業する際のシナリオに当たる「授業案」を投げ出した形(少しは解説を挿入しましたが)で、自分でもとても不親切な文章だなあと思っています。

ただ、すべてをわかりやすい読み物の形で書くのは、たいへんなエネルギーと時間が必要で、私の現状はそれを許しません。
そこで、当座の目的を、4月から小学校6年生を担任される全国の先生方の参考にしていただくという一点にしぼりました。
一部は中学校でも使えると思います。

そういう使い方なら、読者はわずかでも「使える指導案はないかな?」と、
のぞいてもらえるかもしれないからです。
私自身も春からこれをベースに中学校版の授業をつくっていきます。

私は長い間小学校の教員をして、6年生を何回も教えました。
チームを組んだ学年の先生方から
「他の教科はともかく、社会の特に歴史はどう教えていいか分からないんだよね」
という声をよく耳にしました。

それで、これらの教材をそのままやってみてもらったことも多かったのです。
それなりの結果があり、喜んでいただいたことがありました。

なので、もしそういう思いの方がいらっしゃたら、ぜひ追試してみてください。
地域や児童の実態にかかわらず一定の成果が得られると思います。

また、ご批判や、誤りのご指摘をいただいたり、
こうしたらもっとよかったというような修正案のご報告を戴いたりしながら、
この場でよりよい実践をめざしていきたいとも考えています。
どうぞよろしくお願いします。



ここでちょっと5本の授業について少しふり返っておきます。

「ご先祖様の授業」は、歴史の勉強は何か他人事(ひとごと)の知識を覚えるのではなくて、自分の祖先のこと、自分がいまここにある「わけ」にかかわる「わがこと」の勉強なんだなという気持ちを持ってもらうためにつくりました。
だから、このテーマは1年間の授業の中でくり返し立ち戻り、意識させ続けるようにしています。
先人・先祖への感謝の気持ち、国を愛する心情は、そういう背景の中で歴史を学んではじめて育まれると思っています。

縄文時代の授業は1時間なのでおもしろい話をずいぶんそぎ落としたものになっています。
14000年縄文が続いて、それが終わったら、たった2000年で今になったということが大事だと思います。
変化の核心は国家形成です。縄文という、質的な変化のない、気の遠くなるような長い時間で育まれたものが私たち日本人のベースにあります。

その上に弥生以来の「変化の時代」がのっかているというとらえ方が重要だと思います。

縄文の授業は多くの場合、出土品の面白さや、「狩猟と採集」という「どうやって食っていたか」という話にかたよりがちです。

私は、14000年の精神の形成に思いを致すべきだと思います。
日本語の始まり、
自然の豊穣と脅威への祈りと死者への祈りの始まり、
神々の物語の始まり、
それらが縄文のくり返される年月であったことを教えたいと思いました。

なぜなら私たちの歴史は、つい最近まで祈ることしかできない運命に翻弄されてきたからです。
私の兄は、私が生まれる前に、1歳の誕生日を迎える前に亡くなりました。
肺炎で村には病院がなかったからです。
私の両親はただひたすら祈りましたが、かわなかった。
昭和20年代ですらそうなのです。
神々や仏の力、祈る人々の真摯さ、歴史の中のそういった場面に、
正しい敬意をはらえる授業でありたいと思います。

この震災で世界中からたたえられた日本人の精神性、
「冷静さ、自助努力、ゆずりあい、支え合い、調和、不屈さ」等々は、
この14000年の縄文時代に原点があるという直感を持っています。

弥生時代の授業3本について。
巨大な変化の時代の始まりは、すなわち国家形成の始まりであり、歴史の始まりでもあるという考え方です。
そして、わが国の国家形成が、大陸(中国)という外部からのインパクト(人と物と情報文化の流入)によって始まるという点が重要です。
強い危機意識、および、外来文化の受容と伝統文化の保守の共存。両者の統合と再生。

その後のわが国の歴史の原型がここに最初に現れるからです。
歴史上初の外圧は奈良時代まで続き、その危機意識の中で古代日本が完成します。

2番目は元寇、3番目は南蛮、4番目は西洋列強です。
1番目と4番目はほぼ同型の反復で、わが国は2回国家形成をしたというのが私のとらえ方です。
2番目と3番目はその特殊な展開型だと思います。

外部からの圧力が弱まると、わが国の国家意識も弱まります。平安と江戸がその原型です。

弥生時代のもう1つのポイントは、わが国の国家形成が華夷秩序(中華册封体制)という東アジアの国際秩序の下で、漢や魏の周辺国(属国)という状況から始まることです。

この点をしっかり教えないと、聖徳太子による「華夷秩序からの独立」の意義を感動深く学ぶことが出来ません。

種をまき、収穫を喜び、また種をまく。
歴史教育もまたそのくり返しです。

次回から大和朝廷(皇室)の国家:日本(国号はまだ「日本」ではないが)が姿を現します。


最後にひと言。
私の授業づくりは、自由主義史観研究会の仲間との共同作業の結果です。
この研究会は小中高大とすべての学校の先生がそろっていて、とても勉強になります。

リンクをたどってHP「教科書が教えない歴史」(自由主義史観研究会公式ホームページ)も、
ご覧いただければ幸いです。
そこにも、使える授業がたくさん発表されています。



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弥生時代3「邪馬台国の女王卑弥呼」

弥生時代3「邪馬台国の女王卑弥呼」
●この授業の学習内容は、中華秩序の下で国家形成を始めた弥生時代の日本ということで、前時「弥生時代の王たち」と重なります。が、卑弥呼は「小学校学習指導要領」の42人の歴史人物の一人なので1時間やっています。何といっても「魏志倭人伝」という史料は魅力がありますから。冒頭の「卑弥呼をさがせ!」は、本宮先生(千葉県)のアイディアをお借りしました。

1 邪馬台国の女王卑弥呼
・プリント資料「写本コピー:魏志倭人伝」を配る。
・掛図「弥生時代のムラ:吉野ヶ里の想像図」、人物カード「想像画:卑弥呼」を黒板にはる。

『これは大昔の中国の歴史の本『三国志』の『魏志』の中の「倭人伝」をコピーしたものです』
『魏志』倭人伝

『歴史に登場する最初の有名人「卑弥呼(卑彌呼)」を見つけてマークしてみよう』

・教えあってマークする。○回出てきた!

『奴国王の時代から200年たちました。女王卑弥呼も中国の皇帝に金印をもらって、中国(魏・呉・蜀)の家来になったのだろうか? それとも、家来になるのを止めて、中国との親分子分関係(中華册封体制)から離れることができただろうか?」
選択肢から選ばせて、理由をノートにメモさせる。

A:中国の家来になった
B:中国の家来をやめて独立できた

挙手で意見分布をとり、理由を話し合わせる。

「ぼくはB,とくに理由はないんだけど、いつまでも中国の子分なのはいやだから」
「わたしはA,やはり当時の中国は日本よりもずっと先進国だし、強いから、まだ当分は家来のままだと思う」

など。ここはまあ、気持ちのやりとりが強く出るが、それでいい。
こういうステップを踏んで初めて、聖徳太子の偉大さもわかるようになるからだ。

ここで、まれに、邪馬台国の「邪」や卑弥呼の「卑」に気づいて、A説を展開する者が出ることがある。
前時の「倭」や「奴」という文字を使われていることに「かなりアタマにきた子」である。
既習事項を生かして考えられることは何よりも素晴らしいので、過剰なほめ方でほめる。
この後の学習にも積極的に既習事項を生かしていってほしいからだ。

気づく者がいてもいなくても、結論は次のステップで資料に語らせることにしよう。


2 資料「『魏志』倭人伝」を読む
プリント資料「邪馬台国と卑弥呼」を配り、これがさっき「卑弥呼」を探した中国語の本(漢字だけで書かれている)を「魏志倭人伝」を要約して、わかりやすい日本語にしたものであることを説明する。
教師がゆっくり音読する。



邪馬台国と卑弥呼(『三国志』の「魏志倭人伝」より)

 ・・・倭人は中国の東の海にある島々に、国をつくっている。
 もとは100以上の国に分かれていて、いくつかの国は漢の時代にわが皇帝陛下にみつぎ物を持ってきていた。今は30ケ国ほどになっている。
 倭の国に行くには次の国々を通って行く。韓国から狗邪韓国へ。ここではじめて海を渡って対馬国に着く。また海を渡る。一支国に着く。また海を渡る。末廬国に着く。それから伊都国、奴国、不弥国、投馬国を通って邪馬台国に着く。女王の都である。
 邪馬台国では、以前は男の王の時代が70年から80年続いたが、国が乱れ戦争が続いたので、国々の王が相談して一人の女性を王とすることに決めた。この女王の名を卑弥呼という。
 卑弥呼は神さまのお告げを聞くことができると信じられていて、多くの人々は女王のまじないや予言を信じている。
 すでに成人しているが夫はいない。弟が卑弥呼の占いにもとづいて政治を行っている。
 王になってからの卑弥呼を見た者はいない。
 1000人の女が女王の世話をしている。男子は卑弥呼の弟だけが女王の部屋に入ることができ、食事を運んだり女王の言葉を人々に伝える。
 宮殿があり、見張り用のやぐらがそびえ、城柵でかこまれている。いつも番人がいて武器を持って守っている。

 景初2年(西暦239年)、卑弥呼は魏(中国)にたくさんのみつぎ物を持たせて使いを出した。魏の皇帝の家来になるためである。
 その年の12月、魏の皇帝は卑弥呼にこう伝えた。
「おまえが倭の王であることをみとめてやろう。そのしるしとしてこの金印をさずける。」
 こうして使いの者は、倭の王であるしるしとして「親魏倭王」の金印をもらって帰った。
 卑弥呼は、邪馬台国の南にある狗奴国と戦争をした。狗奴国の王は卑弥弓呼という男の王である。
 卑弥呼は魏にその戦いの様子を知らせ応援を求めた。そのとき、魏の皇帝は役人を送って卑弥呼を応援した。卑弥呼の軍隊に応援の手紙や旗などさずけたのである。
 卑弥呼は死んだ。大きな山のような墓が造られた。その大きさ(直径)は歩いて百歩以上もあった。
 あらためて男の王を立てたが国中がこの王にはしたがわなかった。そのために戦いが起きて1000人以上が死んだ。
 そこで、一族の壱与という13歳の少女が王になった。
 この王によって、争いはおさまり、ようやく国中がまとまった。壱与も魏にみつぎ物を持ってきて魏の皇帝の家来になった。

【注意】この本(『三国志』)を書いた陳寿という中国人は日本に来たことはない。
    昔の記録や伝聞をもとにしてこの本を書いた。
    どこまでが事実なのかはわからない。
    『古事記』『日本書紀』という日本人が書いた歴史の本には、ヒミコという人物もヤマタイ国も出てこない。ヤマトならある。



卑弥呼も金印をもらって魏の家来(王)になったことを確認してから、

『資料を読んで強く印象に残ったところを発表しなさい』

列指名で発表させる。
吉野ヶ里遺跡や唐古・鍵遺跡の復元建築や出土品の写真などをいくつか見せる。
例えば、これは唐古・鍵遺跡に復元された楼閣。弥生土器に描かれた絵によって復元された。
卑弥呼の楼閣

行程の記述などを元に、各地に邪馬台国の候補地があり、九州説と大和説で学問の世界も大きく分かれていて、決着が付いていないことも教える。
卑弥呼も中華秩序(冊封体制)の下で国づくりをしていたことをまとめる。
卑弥呼の金印(親魏倭王)はまだ見つかっていない。

3 弥生時代は国家形成の始まり
弥生時代は日本の主食=米の始まりであり、やがて「日本」建国に到る国づくりの始まりでもあった。

小さなムラ→大きなムラにまとまる→クニができる→クニが大きなまとまりになっていく
矢印(→)の部分には、おそらく「戦争」や「交渉」があって、新しいステップに進んでいく。クニのリーダーは日本語では「キミ」などとよばれている。
「王(オウ)」は中国語だ。奴国王や卑弥呼は、シナ大陸の帝国:漢や魏に朝貢して、「王」に冊封された。
100あったクニが、邪馬台国のころには30にまとまってきている。卑弥呼はそれらの国々が支えているリーダーだが、まだ隣国とは戦っていた。
 まだ日本はまとまれていない。
 卑弥呼は死に、壱与があとを継いだ。
戦いは収まったようだが、日本建国はまだだ。
 そもそも、日本の歴史書(『古事記』『日本書紀』)には出てこない「邪馬台国」と2人の女王が日本建国とどうつながっているのか。まだ真相はよくわからない。
いよいよ次回は、日本建国の巻である。

弥生時代2「弥生時代の王たち」

弥生時代2「弥生時代の王たち」
●ムラが統合されていき、クニが生まれる。倭の奴国の王は、漢の皇帝の家臣(王)としてクニをまとめていた。この中国皇帝中心の東アジアの国際秩序を「中華秩序(中華冊封体制)」といい、その周辺にある日本列島でも、この中華秩序の中で国家形成が始まったことをおさえる。

1 縄文のご先祖は新しい変化を受け入れた
・吉野ヶ里遺跡の想像図を黒板に貼る。

環濠集落

『縄文人は中国大陸の大帝国(秦→漢)の強いインパクトによって、米作り・金属・戦争 ・国家・・という新しい文化を受け入れるほかない状況になり、そこから日本の変化が 始まりました。』
*「秦( BC221~206)」「漢(BC202~AD222)」・・・これがほぼ弥生時代
【板書】ムラからクニへ
「海の向こうに大帝国秦ができシナ大陸が大統一される。それが滅んで、大量の難民が日本に流れ着く。混乱期の後でまた大帝国漢ができる。そうした東アジアの動乱に素早く反応して新しい時代を切り開いた、それが弥生時代だといっていいでしょう。今日はもう少しこの時代について考えます」

2 金印の話
【お話】     
(1)今から230年ほど前、天明4年(1784)、いまの北九州の博多湾にうかぶ
 志賀島(しかのしま)(地図を示す)で、百姓甚兵衛さんが水田の水路を直していた。 すると大きな石があったのでそれを取り除いたところ、びっくりするものが出てきた。 縦横高さそれぞれ2.5cmくらいのものです。

『それは何だったでしょうか?』

列指名で言わせえもりあがる。あてずっぽうでいい。知っている者も必ずいる。
正解は黄金の印である。そのレプリカを見せ、観察させる。

金印1
金印2

●純金である  
●文字らしいものが彫られていること  
●持つところは蛇、など。
封蝋に押印する金印の使い方をを教える。

(2)金印は黒田藩の殿様に差し出された。220年大切に保管されて、いま福岡市美術 館のガラスケースの中にある。心がけの良い百姓甚平や、お殿様のおかげで貴重な遺産 が残ったことを教えよう。
 後にそれは弥生時代の物だとわかった。
 はんこを押すと次のような字になる。

【 漢委奴国王 】 「委」=「倭(わ)」、当時の日本列島のこと
            もちろん、日本という名はまだない。

『読んでみましょう。(列指名)』

とにかく読ませてみる。読めない字は「ホニャラ」と読む。
正解は「かんの わの なこくの おう(または、なこくおう)」

『これは誰のはんこでしょうか?』

挙手指名で言わせる。
弥生時代、北九州にあった「奴国の王さま」のはんこであることを教える。
王の想像図を黒板に貼る

『へんだなあおかしいなあと思ったことはありませんか?』

「倭の奴国」がどうして「漢(中国)の」なのか? という大疑問を引き出したい。
いまだったら、「中国の日本の福岡県の県知事」という感じである。
この大疑問の答えも考えさせてみよう。
「昔は日本は中国の一部だったのではないか」「中国が上で倭が下」というふうな意見は思いの外出てくる。出ても出なくても、次のステップでしっかり教えよう。

3 漢の歴史書を検討する
プリント資料「弥生時代の王たち
(1)漢書地理誌(2)(3)後漢書・東夷伝」を配る。


【資料】弥生時代の王たち
・中国の昔の本に、弥生時代の日本のことが出てきます。そこには、日本の歴史の本『古事記』や『日本書紀』には出てこないことが書かれています。みなさんがわかるように書き直しましたので読んでみましょう。

(1)紀元前一世紀ころの日本について『漢書・地理誌』
   東の海に倭人の住む島がある。倭人の国は百ケ国以上に分かれている。
   毎年、漢(そのころの中国)に倭の国々の王の使いがやって来て、みつぎ物をしている。


(2)一世紀ころの日本について『後漢書・東夷伝』
  建武中元二年(西暦五七年)、倭の奴国の王がみつぎ物を持ってきた。
   倭の南のはてにある国である。
   漢の皇帝である光武帝は、ひものついた金印を与え、
   奴国の王であることをみとめてやった。


(3)二世紀ころの日本について『後漢書・東夷伝』
  ・(西暦一〇二年)倭の国王である帥升たちが、みつぎ物を持ってきた。
  ・(西暦一六七年ころ)倭国は大いに乱れた。長い間、国どうしが戦いあって、
             なかなか平和がおとずれなかった。



教師が(2)だけ説明しながら読む。(中国の大昔の本に書いてあった!)

(2)一世紀ころの日本について『後漢書・東夷伝』
  建武中元二年(西暦五七年)、倭の奴国の王がみつぎ物を 持ってきた。倭の南のはてにあ る国である。
  漢の皇帝である光武帝は、ひものついた金印を与え、奴国の王であることをみとめてやった。

後漢書東夷伝


『倭の中に奴国というクニがあって、この人はその王様です。その王様が、どうして、
 わざわざ海の向こうまで出かけていって、よその国(漢)の皇帝に「おまえが奴国王だ」 なんて認めてもらうのでしょうか?』

発表させ、話し合わせる。
【お話】
●当時、世界は東アジアだった。漢はその世界の中心だった。
 周辺の国は独立国ではなかった。中国が親分で、まわりの国は子分の関係だった。
 だから周辺の小国の王は、漢の皇帝にみつぎ物を持ってあいさつに行く。
 そうすると、漢の皇帝も喜んで「おまえが王であることを私が認めよう」となる。
 それがこの東アジアという世界のルールだったんだね。
 この古代東アジア世界のルールを、中華秩序または中華冊封体制(ちゅううかさくほうたいせい)といいま  す。
●王様というと一番偉いという感じですが、この時代の「王」とは「皇帝」の家来を意味します。
 皇帝に「倭の奴国はお前に与えよう」という感じで「王」にしてもらう。
 その証拠が金印だった。
 水戸黄門の印籠みたいに、王は中国皇帝のパワーをバックにして支配地を広げていったのかもしれない。

・皇帝と奴国王の想像図を示して上下関係を説明する。また、中華秩序・中華册封体制の模式図を示す。
漢の皇帝
奴国王
中華册封体制

資料の(1)と(3)を読む。
(1)紀元前1世紀ころの日本について『漢書・地理誌』
 東の海に倭人の住む島がある。倭人の国は100ケ国以上に分かれている。
 毎年、漢(そのころの中国)に倭の国々の王の使いがやって来て、みつぎ物をしている。
(3)2世紀ころの日本について『後漢書・東夷伝』
 ・(西暦102年)倭の国王である帥升たちが、みつぎ物を持ってきた。
 ・(西暦167年ころ)倭国は大いに乱れた。長い間、国どうしが戦いあって、なかなか           平和がおとずれなかった。

こうして、東アジアの中華秩序(中国中心の親分子分関係)のなかで、日本列島は少しずつ1つの国にまとまっていったらしいということがわかります。

●プリントの「倭・奴・夷」の意味を説明し、卑字であることを教える。
「倭」・・・背中の曲がった小人
「奴」・・・どれい、めしつかい
「夷」・・・やばん人
 中国は、まだ漢字を使いこなしていない奴国王に、同じ音の文字の中で悪い意味の字を与えたのだと推測できること。そういう上下関係でもあったようだ。

『これは、まだ日本という国ができる前の私たちの遠い遠いご先祖の話です。

(1)の頃は日本列島に100以上の国があった。
(2)では奴国が大きな国の一つだったようだ。倭国ではなく、倭の奴国だから、まだ倭は一つにまとまってはいないことが推測できる。
(3)では帥升という王がいたことがわかる。長い間、国どうしが戦いあって、なかなか平和が訪れなかった、と書いてあります。
さて、大帝国漢(中国)の子分として出発した弥生時代の倭(日本以前)は、このあとどうなっていくのでしょうか。続きは次回やりましょう。』

弥生時代1「変化の時代が始まる」

弥生時代1「縄文が終わりと巨大な変化が始まる」

●1万数千年の縄文時代を終わらせたものは何かをとらえる。その変化は、大陸から渡って来た人々がもたらした新しい技術や物が原因だった。最も重要なポイントは大規模な農業(水田稲作)の始まりとその定着である。これはまさに日本列島の農業革命である。その様相をとらえ、この農業革命の上に国家形成が始まり、その後の大変化の時代も始まったことをとらえる。最後に、先祖(縄文人)になってみて、「この変化を受け入れるべきか否か」を考えてみる。これが、最初の政策選択発問である。

1 縄文時代が終わり弥生時代が始まった
『1万年以上続いた縄文時代が終わったのはいまから2300年ほど前のことでした。それまでの1万数千年を縄文時代といい、その後の600年間ほどを弥生時代といいます』

2 弥生時代の特徴
●縄文器と弥生土器

弥生土器



縄文土器の技術が受け継がれて、新しい土器が作られるようになります。
 縄文土器と比べてみて、弥生土器の特徴を言いなさい。

「すっきりしている」
「きれいな形」
「あんまり飾りや模様がない」など。
とてもシンプルなデザインが特徴であることを確認します。そして、ろくろの技術によってほぼ完ぺきな円形になっていること、高温で焼く技術によって、縄文土器よりもはるかに薄くて軽くて、しかも固い製品になっていることを教えます。また、明治時代に東京弥生町で発見されたことから、この時代以後の土器を弥生土器とよび、弥生土器がつくられた時代を弥生時代ということも。

�絵「米作りの四季」

米作りの四季


縄文時代との一番大きなちがいをいいなさい。

「稲作」「米作り」
大規模な農業が始まったことをおさえます。これを農業革命といいます。これが弥生時代の変化のいちばんのポイントです。
『弥生土器のシンプルなデザインは、深い森の中の生活から平地に出てきて、大規模な土木工事をやって水を引いて水田を作り、食べるものを計画的に作るようになったこと。自然の一部だった生活から、自然をコントロールできる生活が始まったことと関係があるかも知れません』

水田稲作を始めることによって、ご先祖の社会は大きく変わりました。
 その特徴を教えます。

川から水を引く水路をつくる土木工事、、大量の矢板をつくり田を作る工事、種まき、草取り、水の管理、稲穂刈り、収穫物の管理、収穫物の分配、という1年がかりのプランのもとに大勢の人々が動く、一つの目標のもとに仕事を分担して動く、大勢の人の力が必要になったこと。それは、この組織だった社会をまとめる知恵と技術を持ったリーダー、グループリーダーなども必要になる。これは国や王の始まりだ。また役割のちがいは身分制度の始まりにもなる。
この変化も後の時代につながっていく大きな変化だ。

�想像図「弥生時代の大きな集落」

想像図「環濠集落」


この絵も、弥生時代の新しい変化を教えています。

なぜ、ムラを堀や柵で囲むようになったのでしょう?

「他の村から攻められたときにムラを守る」
「戦いに備えている」
「戦争をするようになった」など。

環濠集落はムラ同士が戦うようになったことを示している。日本列島における戦争の始まりは、米作りと共にやってきた中国の文化であった。水の争い、収穫物(米)の奪い合い、より大きい集団になろうとする争い、など。
ここで、ビデオ「NHK:日本人はどこから来たか」(一部)から、大阪から出土したたくさんの矢じりを身体に受けた人骨、サヌカイトの矢じりの威力を実験した映像や、CGによる弥生の戦争のイメージ、の部分を見せる。

15本の鏃が刺さった人骨


�写真「銅鐸・銅矛・銅鏡・鉄製の農具」

これらの道具も、弥生時代の新しい変化の代表です。これらは人類第2の偉大な発明品といってもいいでしょう。ところで、これらの道具の原料は何ですか?

「銅」「鉄」など。
『その通りです。これらをまとめていうと?』
「金属」
『金属で作られた道具を金属器といいます。岩石に含まれる銅や鉄は、ものすごい高温で溶かして取り出します。それは高度な技術で、これも中国から伝えられたと考えられています』
金属器の3つの使用目的を教えよう。
�祭具、�武器、�農具
ここでは、とくに祭具としての銅鐸や銅鏡について補足し、縄文時代の神話や祭祀の上に、弥生時代の新しい神話や祭祀が生まれてきて、日本のいまにつながる神々が誕生してくると考えられることを教えておこう。
歴史の中で、神々に祈り続けていた先祖の姿をしっかりイメージさせることはたいへん重要である。それは、現在にあっても、天皇陛下の最も重要なご公務である「祭祀」が、遠い先祖からの継承であることを教えることになるからである。

3 海の向こうから来た新しい文化

弥生時代の3つの特徴はすべて、中国大陸から渡ってきた。
�水田稲作(農業革命)
�戦争、クニ(国)
�金属器
海の向こうから来た新しい文化が、縄文時代を終わらせた。

こんなまとめをします。
米と金属を作る技術は海の向こうからやってきました。なぜか。それは水田稲作も青銅器も鉄器も中国文明が先に始めたからであり、戦乱に終われるなど、さまざまな理由から、日本列島に逃げてきた人々が伝えたかである。文字も、政治も、戦争も、国家も、さまざまな道具や観念やシステムが、このときに一緒に日本にもたらされました。
 それらが海を渡って伝わってきた。技術や考え方を持った人々が一緒に来たからです。稲だけが流れるいても一年かけて作る米作りの技術はわかりません。
 これらの見たこともないパワーを秘めた物や技術に、縄文のムラの人々はものすごく驚いたことでしょう。そうとうなショックを受けたはずです。
 彼らとの戦いがあり、交流があり、縄文人はこれらを受け入れました。金属器のようにすぐ受け入れるほかなかったものもあれば、漢字(中国語)のように長い時間をかけて受け入れたものもあります。しかし、いずれにせよ、こうして縄文時代は終わったのです。
 
4 守るべきか、変わるべきか?
最後に、問うておこう。
これはわが国の歴史を考えるときの原点になる問題である。

タイムマシンに乗って2300年前に行きましょう。
みなさんは1万年続いてきた縄文の文化をご先祖様から受け継いできた縄文人です。
いま、海の向こうから新しい米作りや金属の道具が伝わってきました。これを取り入れると、今日勉強したように、大きな変化が起こります。
・今までの自然とともに暮らす生活、
・ムラ同士が助け合って生きる生活、
・ムラにはリーダーがいたでしょうが、ほとんど身分の差もなく、みんなが家族のように くらした生活。
それが終わってしまいます。

あなたはどうしますか、AかBを選んで、その理由をメモしましょう。  
〈A〉新しい文化を受け入れ、より進歩することを選ぶ。
〈B〉新しい文化は受け入れない。今までの暮らしを守る。

挙手で意見分布(Aが○人、Bが□人)をたしかめ(板書します)、理由を言わせます。
これは伝統を保守するか、革新するかという、わが国の伝統的なテーマの原型になります。
縄文時代の学習と今日の学習の受容の仕方(肯定的・否定的のバランスです)が、学習者それぞれでちがうことがわかります。
けっこう半分半分くらいになるからおもしろいです。保守派と進歩派ですね。理由はさまざまです。

こんなうにまとめて授業を終わります。
『皆さんの先祖は、結局、稲作と金属器による発展を求めた。
新しい魅力があったのかもしれない。米はドングリよりうまい!とか、ピカピカする金属は自然界にないからすごいというようにね。
また、戦うならこれを使うしかないなみたいに、仕方なく受け入れた面もあったかもしれない。まあ、実際は分からない。
そうして16000年続いた縄文時代が終わって、わずか2300年くらいで、ビルが建ち並び、高速列車が走り、飛行機が飛び、宇宙にも行く今になった。
 もし、縄文文化を守り続けていたら今も自然に優しい生活と文化が続いていたかもしれない。たとえばちょっと前の太平洋の南の島々のように、つい最近まで縄文時代みたいだった国もある。
 しかし、そんなことしてたら、どこかの国に征服されて、日本も日本人もなくなっていたかもしれない。
 海のむこうからやってくるものと日本は無関係ではいられない。
 大陸からちょうどいい具合の距離に日本列島はあるからです。
 これが私たち先祖の運命だった(太平洋のど真ん中にあったら〈B〉もありえたでしょうね)。
 いろいろな理由があり、きっとたくさん悩んだり迷ったりしながら、最後に、私たちの先祖は変化することを選んだ。それが歴史の事実です。
 こうして気の遠くなるような長い時間だった縄文時代が終わりました。
 弥生時代は、今につながる大きな変化の時代の始まりです』

縄文時代「日本人と日本の心のはじまり」

縄文時代の授業
「長い時間をかけて日本人の土台がつくられる」


●この授業では、縄文時代のイメージをつかむ。わが列島の一万数千年の歴史のうち、縄文時代より後はたった二千数百年にすぎない。その気の遠くなるような長い時間のなかで、私たちの遠い祖先は、美しい土器をつくり、美味いものを食い、豊穣な自然や死者に祈り、日本語の基になった言葉でを話したり物語りしたりした。

1 絵でわかる縄文人のくらし
黒板に絵(縄文時代の生活の想像図)をはって授業に入る。
縄文時代の暮らし

『これは縄文時代のくらしの想像図です。テキトウに画いたものじゃないよ。考古学者が大地から掘り出した遺物をもとに考える。それが検討されてほとんどの学者が認めるようになった説がイラストレーターによって描かれる。それをまた学者がチェックする。それを繰り返してようやくOKが出る。これは、そうやって描かれた想像図です』

【解説】絵や写真から始めるとスッと授業に入れるのがいい。アリスのうさぎ穴みたいです。そのうえ、写真や絵なら誰でも何かを見つけられるのがいい。そのオープンな感じが授業の気分を明るくします。

┌──────────────────────────────────────┐
  絵を見て、気づいたことやわかったことを、ノートに箇条書きにしなさい。
└──────────────────────────────────────┘
時間は3分くらい。「5つ書けたら天才!」などと盛り上げます。
時間になったら、なるべく大ぜいに発表させましょう。列で指名したりして。
「狩りにいって、獲物があった」
「土器を作っています」
「家があんがいちゃんとしている」
「家の中で火を燃やしている」
「ドングリを土器に入れてためてある」
「木の実を拾ってる人がいます」
「海で船に乗っている人がいる」
「魚をとったり、貝をとったりしている」
「ゴミ捨て場がある」などなど。
これらを引き取って縄文土器とか、貝塚とか、竪穴式住居などの用語を教え、狩り(漁)と採集で食料を得て、集団で定住生活をしていることを確認します。また、私は、大人、老人、子供、女性と男性がみんなで助け合っていることにつながる発言があったら、必ず評価するようにしています。自然の恵みだけでなく、自然の脅威と共に生きる暮らしをしっかり想像させましょう。

【解説】小さな気づきでもたくさんほめてやりましょう。「おう!よく見つけたねえ」「人物の姿勢から推理しているところがすごいね!」などです。くり返していくと、短時間で集中して図像を読めるようになります。

2 偉大な発明:縄文土器
┌──────────────────────────────────────┐
この絵の中に「人類初の偉大な発明品」とよばれるものがあります。
  それは何でしょう?
└──────────────────────────────────────┘
「家」「船」「弓」「土器」などが上がります。
正解は「土器」です。
『船は木を切ってくりぬいたもの。家は木を切って骨組みを作り、屋根に草をかぶせる。
弓矢も自然の物を組み合わせてできています。切ったり削ったり形を変えただけですが、土器はちがいます。粘土で形をつくり熱を加えて焼き上げて固くしたものです。自然にある性質を熱で変化させて作られた道具です。自然の性質を変えた所が、他の道具と決定的にちがいます。』

【解説】ちょっとこじつけっぽいけどウソではないよね。この火の利用がやがて金属の発明につながっていくわけだから。ま、列島人は土器で満足してしまって金属には走らなかったけれど、ここで新石器時代の画期となった土器の発明を位置づけておきましょう。

できれば、ここで縄文土器の実物を見せよう。最近の博物館は昔に比べてずいぶんオープンになり手続きさえ踏めば本物を教室に貸し出してくれるようになった。私は縄文土器、縄文土器片(学習者に触らせる)、石斧、縄文の石臼、矢じり、弥生土器などを借りて、授業で使っている。
そこで、以下のような内容を黒板に書いて説明します。

縄文土器1
縄文土器2

〈土器が人類初の偉大な発明品である理由〉
①自然物の性質を火によって変えた人工的道具の始まり。
②料理の始まり。
 煮る→やわらかい、消化がよい、おいしい
 あくぬき→たくさん食べられる、おいしい    
 煮てから乾かす→干し貝などの保存食料、おいしい
③家の中に水をたくわえられるようになった。
こうして(土器だけがその理由ではないけれど)、人口もふえていき、山内丸山遺跡のような人口数百人の集落(縄文都市)が数世紀にわたって反映するようになったことも、復元写真などを見せながら教える。
そして、大切なことをつけ加える。「日本列島から出土した土器が今のところ世界最古!」だということだ。それは、青森県大平山元 (おおだいやまもと) 遺跡出土の縄文土器で、放射性炭素年代から推定すると 約1万6千年前。もしかすると、私たちの先祖が、人類初の偉大な発明品:土器の発明者だったかもしれないのであ~る。

【解説】だがしかし、この記録は塗り替えられてしまった。2009年に、中国湖南省の洞窟(どうくつ)で世界最古となる約1万8千年前の土器が発見されたからだ。ま、日本列島も含む東アジアが土器の世界最古地帯と言いことだろう。


3 黒曜石の切れ味
 ついでに、石斧や矢じりなどを見せながら、縄文人の知恵に感動させたい。私は、黒曜石のでかいやつ(20cmくらいあった)を担任していた児童からもらって持っていたので、これを割って見せて、できた切片で紙を切って見せたりした。スパッという感じできれいに切れて「うぉー!!」となる。
 また、黒曜石が伊豆七島の神津島や信濃の和田峠など、一定の産地があったことから、縄文人が相当広い交易圏をを持っていたことを話す。山内丸山出土の、矢じりの黒曜石は北海道原産、ヒスイの装飾品は越後産など、丸木船で航海した冒険的な縄文人のイメージもつけ加えておく(これについては地図資料を見せて説明したい)

縄文の交易


4 おしゃれな縄文人
想像図「おしゃれな縄文人」を貼る

おしゃれな縄文人
┌──────────────────────────────────────┐
│ これはいろいろな出土品から見た想像図です。どんなことがわかりますか? │
└──────────────────────────────────────┘
「顔に何か塗っている」
「首飾りや腕輪をしている」
「着物に模様がある」
「おしゃれ」など。
縄文人の生活は簡素だが、入れ墨や化粧をしたり、いろいろな装身具を身につけている。それらには呪力があったと考えられているからだが、それは宗教の始まりでもあり、「美」を感じる感受性の始まりでもある。
ここで、土偶の写真を見せる。

土偶1
土偶2

人形にも呪力があった。土偶は、自然の豊穣を祈る形代だったと考えられている。また、自然に「神」を感じるだけでなく、死者を墓に葬ること(死者への畏れ、祈り))も始まったこと、日本語のもとになる言葉が話され、物語が生まれた(神話・伝説)ことも話しておきたい。
 これらの「こころ」は、おそらく今の私たちの心にもつながっているだろう。

5 縄文時代の長さに驚こう
私は、この授業をやるとき教室を取り巻くように、あらかじめ1万2千年の長さを表した紙テープを貼っておくようにしている。これで授業をしめくくるために。
┌──────────────────────────────────────┐
│ 縄文時代はいまから1万6千年前から始まりました。
│  このテープは1000年を1mで表してあるので全長16mです。
  縄文時代がいつまで続いたのか予想してみましょう。
│ このへんで終わったと思えるところに立って指さしてみてください。 │
└──────────────────────────────────────┘
席を離れて「縄文時代の始まり」から「いま」までのどこかに立って、縄文時代が終わったと思われるところを指ささせる。
「今」から2000年と少し(2m余)の場所が正解である。
小学生だとここで「えー!?」となる。
頭では2000年とわかっていても、実感がわかないのだ。
縄文時代のテープの長さはあまりにも長すぎるからである。

・1万数千年以上の長い長い時間、ほとんど変化のない、自然の一部のような暮らしが続いたが、何かの理由でそ の時代は終わった。
・縄文時代が終わってわずか2000年で、今になった。

これを確認して、再び席に着かせよう。
そして、こんな感じの「まとめ」をして授業を終えよう。
『長かった、ほとんど変化のない縄文時代が終わってわずか2m(?)で、電気が光り、自動車が走り、飛行機が飛び、人間が宇宙にまでが出かける時代になってしまいました。縄文時代の終わりは、ものすごい変化の始まりだったのです。この縄文時代にもみなさんの遠い先祖がいたはずです。自然の豊かさや厳しさを感じるとき、自然の力や美しさに感動するとき、私は遠い縄文時代の先祖の心を感じるときがあります。しかし、このテープを見ると、縄文時代はすぐそこにあるとも思えます。長い時間をかけて、少しずつ生まれていった偉大なモノに祈る心や、美しいと感じる心などは、日本語によって今の私たちにつながっていると思います。次の時間は、その大きな変化の始まりを勉強しましょう』

歴史入門「ご先祖様の授業」



 これは拙著『学校でまなびたい歴史』(産経新聞社 2003)に発表した1本目の授業です。
 歴史を教える最初の時間にやります。
 長くて読みにくいとは思いますが、ぜひ読んでみて下さい。



歴史入門「歴史の中にはご先祖様が生きている」

◆授業づくりの話◆
 十数年も前になるが、ある教育研究会に参加したときのことだ。休憩中の雑談の中で先輩教師の一人からおもしろい話を聞いた。
「先祖の人数を計算していくと、とんでもないことが起きるんですよ。鎌倉時代の推定人口よりも、私一人の先祖の数の方が多くなってしまうんです。私たち日本人はみな千年もさかのぼればみな親戚だということなんでしょうね。」
 とくに歴史の授業をテーマにした会ではなかったので話はそれきりになり、すっかり忘れてしまっていた。その話が、数年前歴史入門の教材づくりで途方に暮れていた私に突然よみがえったのである。話の脈絡もそのときほかにどんな話があったかもまったく思い出せないのだが、前述した話の部分だけを思い出したのだ。
 そうだ、歴史とは先祖が歩いてきた道ではないか。そうとらえれば、たんなる物知りをつくるのではない、「国を愛する心情を育てる」歴史教育ができるのではないか。
 先祖の話を思い出しこれは教材になると直感したときには、この授業の構成はほとんどできあがっていたようなものだった。それが歴史入門の授業「歴史の中にはご先祖様が生きている」である。
 この授業を受けた児童は、その後の歴史学習の中で「この時代にも日本列島のどこかに私の先祖が暮らしていたんだな」「この人物の決断は、私の先祖の運命も変えたんだ」というようにとらえられるようになる。歴史上の人物や出来事を、まさに自分自身の遠い来歴として意識するようになるのである。
 それは、先人の働きや国の歩みを「わがこと」として学ぶ姿勢にほかならない。歴史が好きになり、たくさんの知識も身につけるが、それらは決して他人事の知識に終わらない。みないまここに生きている「私」自身のことなのだと、そう思えるようになるのである。子供たちのこの学ぶ姿勢こそが、私の歴史教育の原点である。
歴史の授業をすべて終えた後、子供たちは「日本の歴史を学んで」という感想文を書いた。次の掲げるのはその一部である。

■日本の歴史を学んでいろんな事がわかった。歴史を学ぶ前までは先祖の事なんて考えたこともなかったけど、先 祖のことを学んだ時とても感動した。勉強をして感動するなんてなんか不思議だった。

■私は日本の歴史を学んで、改めてご先祖の努力に感動した。そして、私達も愛国心を持ってこれからの時代を生 き、ご先祖のつくってきた日本という国をさらに発展させていく責任があると思った。さらに、ご先祖が夢見た 平和で豊かな国に住んでいる私達は、次は世界平和への道へと進んでいく必要もあると思った。

全68時間の学習を終えて、半年前の最初の授業を覚えていることもすばらしいが、最初に学んだことがその後の学習の中にも生き続けていたことがわかるのである。


◆授業の実際◆

1 歴史人物を何人知っていますか?
『今日から日本の歴史を勉強していきます。みなさんは日本の歴史の有名人で誰か知っていますか? 知っている名前を教えてください』
 この授業はいきなりこう問うことから始める。
 ほぼ全員の手が挙がるのをたしかめてから、座席の一列を一度に立たせ、前から一人ずつ言わせていく。
「徳川家康」「織田信長」「野口英世」「西郷隆盛」「卑弥呼」「明治天皇」「聖徳太子」「豊臣秀吉」・・・と、次々と答えが返ってくる。こうしておよそ二十人ほどの名前があがった。ここから先は数名の物知りの天下になる。なかにはマニアしか知らないような新撰組の隊士の名を上げ始める者もいる。これは後に新撰組マンガのファンであるとわかったが、ほどほどで切り上げて次に進もう。
『すばらしいね。まだ勉強していない人をよく知っていました。』
 こう言って、42人の人物が書かれた資料と、カード型の年表を黒板に貼る。
 カードは、およそ400年が一枚になる等尺年表である。色分けした「古墳・奈良」「平安」「鎌倉・室町・戦国・安土桃山」「江戸・明治・大正・昭和・平成」の4枚で、大まかにとらえれば、それぞれがおよそ400年(同じ長さになる)仕掛けである。
 わが国は、およそ400年間で古代日本を建設し、その後のおよそ千年で国家と文化の自己形成を成しとげ、最近の200年で近代国家を形成した。これが最も単純化した日本という国の物語であるが、この話はまた後にしよう。
 ここでは主な時代名を書いた年表のどこかに、先ほど子供たちが挙げた人物が位置づくことを示せればいい。
『国ができておよそ1600年です。卑弥呼はこの年表よりも少し前の時代、源頼朝は鎌倉時代・・・というように、歴史上の有名人はそれぞれが日本の歴史の上で大きな働きをしました。歴史の授業では、偉大な人物たちがやりとげた仕事や、その仕事をやりとげたときの心や考えを学んでいきます。出てくる主な人物は、みな日本の国づくりに大きな働きをしました。そのつながりの末に今の日本があります。そのおかげで、私たちがいま日本人として生きられるのですね。これらの人物の働きを通して、日本の国の歩みを学ぶのが今日から始まった歴史の勉強です。
 今日は、歴史を学ぶ心構えをつくる大事な学習です。この授業が終わったとき、みなさんが、なるほどそうかと歴史の勉強にやる気を出してくれるとうれしいです』

2 系図という史料がある
『まずこれを見てください』
黒板に下の資料を貼る。ただし左図の曾祖父の世代の部分は裏に折り返して、しばらく見せないでおく。

系図1

『さて、これは歴史の勉強によく出てくる資料ですが、この資料のことをふつう何といいますか?』
「系図です」
 正解であるとほめて、「系図」と黒板に書く。重ねて次のように問う。
『この系図からわかることを教えてください』
 系図と知っていた子供は数名にすぎないが、この問いには多くの手があがった。それを何とよぶかは知らなくても、図が表している情報は誰にでも理解できるからである。
「齋藤先生の系図です」
「お父さんと、お母さんの名前がわかります」
『そうです、父は元次、母は恒子といいます』
「先生は、元次さんと恒子さん夫婦の子供だということもわかります」
「おじいちゃんやおばあちゃんの名前もわかります」
「親子関係のつながりがわかります」
『はい。そういう親子関係のつながりを表しているのですね。それが系図というものです』
歴史の勉強には、有名な歴史上の人物の系図が出てきます。聖徳太子の系図とか、徳川将軍の系図とか、天皇陛下の系図などです。この齋藤先生の系図は祖父母、父母、私、と三代の血のつながりが表されていますが、いろいろな歴史上有名な人物の系図もこれからの授業の中で見せていきますから、楽しみにしてください。

3 自分の系図を書いてみましょう
 系図とは何かがわかったところで、今度は簡単な作業をさせることにしよう。前掲の系図の四角の中が白紙になったプリントを子供たちに配って次のように言う。

系図2

『こんどは、みなさんが自分の系図を書く番です。まず、プリントの一番下の四角に、自分の名前を書きなさい』
 系図を知らなかった子も、系図は歴史上の有名人のものだと思っていた子も、齋藤先生に系図があるなら私にもあるとわかったはずである。それぞれが自分の名前を書き終わったところで、いったん鉛筆を置かせてから次の指示を出す。
『みなさんも将来は偉大な人物になるかもしれません。自分の系図を書いてみましょう。まず、お父さんとお母さんの名前を、次におじいちゃんとおばあちゃんの名前を四角の中に書きなさい』
 子供たちはさっと鉛筆を動かし始める。しかし、すぐにざわめきが起きてくる。父母の名前は全員が書けるのだが、ほとんどが4人の祖父母の名前すべては書けないからである。
 祖父母と同居している児童は少ない。祖父母の家が遠くて年に何回も会えない家庭が多い。またすでに亡くなられていて接したことのない祖父母もある。いや何よりも、彼らにとって祖父母は「おじいちゃん」「おばあちゃん」なのである。
『自分の系図を書いてみて、どんな感想を持ちましたか?』
「お父さんやお母さんを生んでくれた人なのに、その人の名前を知らないことに気がつきました」
「なんだか、もうしわけないというか、そんな気持ちになりました」
「家に帰ったら、名前を聞いて系図を完成したいです」
 そうですね。ぜひ自分の系図をたしかめてみてください。でも、みなさんがおじいちゃんとおばあちゃんの名前を知らないことはそれほど恥ずかしいことではありませんよ。親しみをこめて、ふだんはそう呼んでいるんですからね。でもこれを機会にお名前を書けるようにするのはとてもいいことです。そのプリントはいったん家に持ち帰って、お父さんやお母さんに聞いて完成させることにしましょう。
 みなさんの中には、将来日本の歴史に名前が残る人もいるかもしれません。もしそうなったら、未来の子供たちがその系図でみなさんのことを勉強することになるでしょう。
 こう話して、黒板に掲示した私の系図の、もう一代前を示す。
 8人いる曾祖父母の名前の一部は「?」にしてある。先生も、ひいおじいちゃんや、ひいおばあちゃんの名前は、もう全部はわかりません。それがふつうの家だと思います。もしかしたら、このクラスにはもっともっと前の先祖までわかる人がいるかも知れません。もし、わかるようだったら調べてみてください。
こうして子供たちは系図とは何かを理解した。人物と人物をつなぐ線がある。横線は夫婦関係を、縦線は親子関係という血のつながりを表すこと。また、どんな人にも先祖=子孫のつながりがあり、たとえまだ書かれていないにせよ自分の系図があることを理解した。それは、子供たち一人一人が「私にもたくさん先祖がいるらしい」と初めて気がついたということなのである。
 ここまでの作業で、子供たちは祖父母の向こうに曾祖父母が、その向こうにそのまた両親が・・・・というふうに、どこまでも続いているに違いない先祖のつながりに気づき始めている。さらにまた、自分たちが生むことになるだろう子や、孫のこと。つまり、自分たちもまた未来の子孫から見れば、先祖の一人になるのだと気づいた子もいる。
こうして、子供たちは「歴史とは何か」の入り口に立つことができた。いよいよこの授業の核心にたどり着いたのである。

4 私のご先祖様は何人いるのだろう?
『さて、みなさんに聞きたいことがあります。その系図で、名前はわからないところもあるけれど、おじいちゃんが2人、おばあちゃんが2人で、合わせて4人いることがわかりましたね』
「はい」
『では、おじいちゃんとおばあちゃんを生んだ両親は、全部で何人いますか?』
「8人です」
『その両親は全部で何人いますか?』
「16人です」
『その両親は?』
「32人です」
『その通りです。系図を一代さかのぼると、みなさんのご先祖様はどのようにふえていきますか?』
「はい、2倍ずつふえていきます」
「かける2をすれば人数がわかります」
『では聞きます。みなさんそれぞれのご先祖様は、全部でいったい何人いるのですか?』
「無限にいると思います」
「数え切れないくらいたくさんのご先祖様がいます」
「ものすごいたくさんの数です」
 子供たちは口々にそう答える。しかし、ここでかんじんなことを問わなくてはならない。わかっていることを論理的な言葉にして確かめておくのである。
『みんなが同じことを考えています。先祖は数え切れないくらいたくさんいるだろうと。本当ですか? どうしてそうだとはっきり言えるのですか?』
 しばらく間があって、数人の手が挙がる。
「両親がいなければ、子供は生まれないから、先祖は2倍2倍にどんどんふえていくからです」
「昔のどこかでご先祖様が一人でもいなかったら、私はいなかったかもしれないからです。もっと昔にもご先祖がいると思います」
「日本は、縄文時代とか、そこ(黒板のカード年表のこと)にない大昔まであるから、(先祖は)どんどんふえていくからです」

5 歴史の中には、たくさんのご先祖様が生きていた
『そうです。たいへんよく考えましたね。これから勉強していく歴史の中には、どの時代にもみなさんのご先祖様がいます。確かめることはできないし、これが先祖だという証拠もないけれども、もし大昔のその先までもご先祖様がいなければ、私たちはいまここにはいられないはずだからです。ただ、なんとなくたくさんいたとか、数えきれないくらいいたというのでは、私は少し落ち着きません。そこで、実際には何人ぐらいいたのかを計算してみることにしました。その資料を配りますから見てください』
 こう言って次の資料を配布し、子供たちとやりとりしながら、それを説明していった。
一世代をおよそ30年間としよう。親が30歳で子供が生まれたと考えてみるのである。そして、いまから30年前に子供たちの両親が生まれたとする。
 こうして、ひとりの「私」の先祖の数を計算してみたのがこの資料である(実際はもう1ページさかのぼる)。

先祖の数

 どんなことがわかるか、詳しく見ていくことにしよう。
 みなさんの祖父母4人が生まれたのは、今からおよそ六十年前だ。日本がアメリカなどを相手に戦った戦争が終わる頃だろう。そのころ、日本列島のどこかにみなさんの祖父母4人が生まれていると考えよう。
 8人の曾祖父母は今からおよ90年前、明治時代が終わり大正時代が始まった頃に生まれている。日本がロシアとの大戦争に勝って世界の大国にまで発展した時代だ。
 ここで、そのころ「東郷平八郎や小村寿太郎が活躍していました」と、二人の肖像写真を見せておこう。8人のご先祖は、この人たちと同じ時代にこの日本のどこかで生きていたのです。
このように、歴史人物の写真や肖像画をフラッシュカードのように見せていくといい。これから教わる偉人たちと一緒に、自分たちの先祖も生きていたのだなという思いを強くするからである。
 では、二倍計算をさらに3回繰り返してみよう。180年前は64人だ。それは日本列島の周辺にロシアやフランスの船が出没して、江戸の長い泰平の世が脅かされ始めた頃のことだ。
 こんどは、そのさらに240年前を見てみよう。ちょうど織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、子供たちもよく知っている武将たちが活躍していた時代である。64人に、2倍を8回くりかえせばいい。すると、今から420年前の西暦1580年頃には、私たち一人一人の先祖が、なんと1万6384一も生きていた計算になってしまう。
 子供たちはこの計算に大変興味を持った。自分たちが先ほど説明した「たくさん」が具体的な数字になって示されていくのである。そしてどんどん増え続けるご先祖の数に驚き、しだいに興奮していくのがわかる。こうして、自分の先祖の誰かが、たしかに歴史上の人物と同じ時代の日本に生きていたはずだということを実感していくのである。
 しかし、読者はもうお気づきだろう。そんなバカな数字はないだろうと。
 その通りである。これらは実際にはあり得ない数字なのである。


6 不思議なことがある
『こうして源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、いまから千年も前には、計算の上では、みなさん一人一人のご先祖が、なんと・・・1億3421万7728人いたことになってしまいます。しかし、こんなことがあり得るのでしょうか? 次の資料を見てください』

日本の人口推移

 これは歴史人口学による推計データである。この資料を見せることはたいへん重要だ。なぜなら、国の人口は過去にさかのぼるほど少ないという史実を示すことだからだ。
このグラフから、日本の人口の移り変わりを読みとっていくのである。
 およそ二千年前、日本が水田で米作りを始めた頃だが、人口はおよそ60万人に過ぎなかったと推定されていることがわかる。現在のさいたま市の人口よりも少ない。
およそ千年前、源頼朝の時代は700万人くらいだったと考えられている。
およそ400年前、江戸時代が始まった頃は1300万人ぐらいだった。
およそ150年前、明治時代が始まった頃は3500万人だったらしい。
 明治時代以後は政府が人口調査を正確にやるようになったので、かなり実態がわかってくる。明治・大正・昭和・平成のおよそ百数十年が、歴史上空前の人口急増時代だったのである。そして、日本の人口が1億人を超えたのは、わずか30年くらい前だということもわかってくる。
『これが事実です。歴史の実際はとても少ないご先祖から少しずつ子孫が増えていって、とくに最近の百年間で急激に増えて今の日本があるのです。そうして、いま日本には1億2000万人以上の子孫が住んでいます。人口は時代が進むほど増えてきたことが、この資料からわかります。それが歴史の真実です。
 だから、ご先祖をさかのぼればさかのぼるほど、その時代の日本人はどんどん少なくなっていくのだと考えなくてはなりません。
 では、私たちが今日考えたことはまちがいだったのでしょうか?
 私はそれももうひとつの真実だと思います。なぜなら、両親がいなければ子供は生まれないからです。どの時代にも、みなさんや私の先祖が、この日本で暮らしていたことはまちがいありません。
 両方真実だとしたら、これをどう説明すればいいのでしょうか。私は、この不思議を大学の先生にたずねてみました。教えていただいたことをみなさんにも教えましょう』

★江戸時代以前は、いまのようにふつうの庶民は自由に住むところを変えない。同じ村やせいぜい隣村の男女が結婚して子供が生まれるという村の暮らしが長く続いた。今ではあまりないが昔は、いとこどうしなど親戚だとわかっている男女が結婚する場合も多かった。そういう村では、村人全員が遠い親戚になってしまう。例えば、お父さんとお母さんの先祖が同じだったら、さっきの二倍計算はできないことになる。このように、時代をさかのぼればさかのぼるほど先祖が重なる場合が多くなるので、実際の先祖の人数は計算のようには増えてはいかないのだ。これが、実際は少数の同じ祖先から現在の多数の子孫が生み出された理由だと考えられるのである。
 弥生時代くらいまでさかのぼれば、日本人の多くは同じ先祖にいきついてしまうことが考えられる。60万人が、およそ2000年後に1億人以上の子孫を生み出す先祖になるからだ。日本は島国で、大規模な人口移動(外国からの大量の人口流入)もなく、国が滅びるということもなかった国だから、弥生時代にも私たちの先祖がいたと信じられる世界でもめずらしい国なのだ。私たち日本人は、みな遠い遠い親戚だといってもいいのかもしれない。

『こういうことだそうです。先祖が重なっているので、実際の人数は計算のようにはいかかないということです。ご先祖の実際の数は時代をさかのぼるほどかえって少なくなるのですが、みなさんのたくさんのご先祖様の誰かが、必ずどの時代の日本もいたことだけは間違いがありません。ここが大切なところです。どの時代にも必ずいた2000年間の先祖を全部合わせれば、やはり「数え切れないほどたくさんいる」と言ってもまちがいではないでしょうね』

7 命のバトン
『この授業をつくったのは四年ほど前のことですが、つい最近私と同じアイディアを詩に書いている人を見つけてとても感動しました。最後にそれを読むことにしましょう』
拡大コピーした次の詩を黒板に貼った。

File0119.jpg

『相田みつをさんという詩人の作品です。読んでみましょう』
 子供たちは五年生の頃から、いくつもの詩や短歌・俳句や古典の名文などを暗唱してきているので、さっと読む姿勢になっている。そして、声をそろえて、リズミカルにこの詩を朗読した。「過去無量」さえわかれば、詩の解釈はかくべつの説明もいらない。
この詩は、今日の授業のテーマをたいへんわかりやすく感動的にうたいあげてくれている。そして、日本の歴史の最先端に生きる子供たちに、「自分の番」という重要なメッセージを伝えてくれたのである。
 おかげで、授業のしめくくりがたいへん印象深いものになった。

 さて、この授業は教師のお話で終わる。バトンは命のつながりだけではないからである。もう一度、冒頭の年表にもどって「国の歩み」と「ご先祖様」をつなげておくことにしよう。
『では、まとめましょう。まず今日心にとめておきたいいちばん重要なことは、これから勉強するどの時代にも、みなさんのご先祖様が生きていたのだということです。歴史を学ぶということは、何かよそごとの知識ではありません。私たち自身のたくさんのご先祖様が歩んできた、その道を、その歩みを学ぶことなのです。
 これから、歴史上の有名人42人について学ぶのは、彼らが日本のために大きな仕事をして、日本という国の運命と大きく関わっていたからです。その人物を学べば日本の歩みがわかるからです。
 しかし、歴史上有名な人物だけでは日本という国は生まれません。ここまでバトンは受けつがれてきません。この日本の過去を生きてくれた数え切れないくらいの日本人がいて、彼らが歴史上の有名人たちと共に歩んだからこの日本があるのです。
 「歴史上の有名人」と「私たちのご先祖様」がいっしょになって日本を守り育ててきた。
 それは「国づくりのバトン」です。
 「国づくりのバトン」が受けつがれてきたおかげで今の日本があるといえます。
 そのおかげでいま私たちがこうして生きられる。
 そういう感謝の気持ちで歴史を勉強することが大切です。歴史はまさに「日本人である私たち自身」についてのお話なのです。
 明日から始まる日本の歴史の勉強が終わったとき、命のバトンだけでなく、日本という国の、歴史のバトンも受け継ごうという気持ちになれるといいですね』


◆子供たちが学んだこと◆ 
 学習を終えた子供たちは、次のような感想文を書いた。最後に、子供たちの心にどんなドラマが起こったのかをごらんいただくことにしよう。

■私は今まで先祖のことを考えたことなどありませんでした。先祖のうちだれか一人がいないと、私はいないのでびっくりしました。自分の先祖が信じられないくらいの人数になることにもおどろきました。それから子孫を残すのも大切だなと思いました。
これからしっかり歴史を勉強していきたいです。
■ご先祖を系図で表したとき、お父さんのお父さんとお母さん、お母さんのお父さんお母さん・・・という感じで先祖がふえていくのがすごくうれしかったです。だってこの人たちが一人でも欠けたら、いまの私はいなかったかもしれないから。でも、本当に先祖はすごいと思う。私たちのような大勢の子孫を残して、自分の一生を終わらせたのだから。だから、私も自分の子孫に感謝されるような先祖になりたいです。
■ぼくはご先祖に感謝しなくてはならないと思った。なぜか。ご先祖がいたから今がある。ご先祖がいたからぼくがいるからです。ぼくは感謝しながらご先祖の時代を覚えて、そして、大人になったら自分の子どもに教えてやる。子どもに正確に教えるために、これから歴史のことをまじめに勉強することにした。
■すごくビックリしました。ぼく一人の先祖だけで、昔の人口よりも多くなったからです。でも、先生が昔に行くほど生きてた時がずれたり、同じ人がだぶったりしたんじゃないかと言ったからなっとくしました。日本はとても歴史のある国だと思いました。
■ぼくの先祖がたくさんいることがわかってとてもびっくりした。もしかしたら、歴史の事件とかにかかわったのかなと思うと、とてもわくわくしてきた。歴史が好きになりそうだ。
■ぼくは日本の歴史がずっととぎれずに残っているなんてすごいなと思った。日本の歴史が残っているということは、ぼくたちの先祖がずっと生きているということなので、とてもすばらしいことだ。これから、ご先祖さまのことを思いながら、がんばって勉強したいと思います。

ブログをはじめました

初めてブログを始めました。
伝えたい内容を考えるとHPのほうが合っていると思ったのですが、
いざとなるとこちらのほうがはるかに易しそうなので。
昨日からマル1日かかってやっとここまできました。
ふう。

わが国の歴史教育は数十年前からおかしいので、
ブログの表題のような歴史の授業を探求してきました。
まだほんの十数年ですが、力およばず実情はなかなか変わりません。

ちなみに、文部科学省発行の「学習指導要領」には、
「わが国の伝統と歴史を大切にし、国を愛する心情を育てる」
と書いてあり、公式にはこれがわが国の歴史教育の大目標なのです。
すなわち、これがわが道というわけです。
というか、私が所属する自由主義史観研究会の道です。

さて、ここでは次のことをやろうかと思っています。

1 授業を紹介した拙著が絶版になってしまいましたので、
  それをここに公開していきます(読みにくいとは思いますが)。

2 1の本には載せられなかった授業も書いてきます。

3 その他、ブログらしい記事もたまには書きたいな。

というわけで、どうか応援してください。


最後に、東日本大震災で尊い命を亡くされたみなさまのご冥福をお祈りいたします。
      また、被災者のみなさまには、心よりお見舞い申し上げます。
      遠藤未希さんの崇高な行為は、このブログを始める強い動機になりました。
      





プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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