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時代区分について

とるものもとりあえず、
奈良時代までの授業のあらましを記しました。

過日カウンターなるものをつけてみて、
30~70人くらいの読者があることが分かりたいへん驚きました。
ありがたいことです。

次回から平安時代に入りますが、ここで私なりの時代区分を示しておきます。



「わが国の歩み」の大きな物語
1 国家以前(民族文化の基層形成)の物語 【縄文時代】
2 中華文明との出会いと古代国家建設の物語【弥生時代・古墳時代・飛鳥時代・奈良時代】
3 中華文明と距離を置いた日本の自己形成の物語【平安時代・鎌倉時代・室町時代・戦国時代・江戸時代】
4 西洋文明との出会いと近代国家建設の物語【幕末から明治時代】
5 世界の中の日本の自己形成の物語【大正時代・昭和時代・平成時代】



1が1万数千年、残りの2~5が2千数百年です。
桁が違いますね。
1で日本語と日本の心の基層が形成されたととらえます。

2と4は国家形成の時代です。
この日本は2回国家形成を成し遂げたというアイディアは、
故坂本多加雄先生から学びました。

3の自己形成の時代は国際社会とは一定の距離を置いた(何度か運命的な軋轢はありましたが)成熟の時代です。

5は一つの世界になった国際社会の中での自己形成で、この時代は現在進行形です。

この現在進行中の祖国の自己形成のために、
義務教育における歴史教育はあるのだと考えています。

もちろん、私の授業はそうした重い課題にとっては限りなく未熟な内容ですが、
志だけはそこをめざして行きたいと考えています。

どうかお力添えください。



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西郷隆盛

 西郷隆盛は、明治維新の最も偉大な英雄である。西郷がいなければ薩長同盟はなく、大政奉還も王政復古もなかった。西郷がいなければ、封建制度を無血のうちに廃止した廃藩置県もなかった。

 また、岩倉遣欧使節団の留守政府で首班を務めた功績も大きい。廃藩置県をやったばかりのまだ不安定な時期に、岩倉・大久保・木戸というトップリーダーたちがそろって洋行してしまった。西郷はそのときの留守政府を見事に治めたばかりか、次々と近代化政策を推進していった。断髪・廃刀の許可や徴兵令(国民皆兵制)などによる封建的身分制度の撤廃、地租改正による近代的な土地制度と税制改革、学制公布による教育制度の確立、鉄道・郵便・電信・太陽暦など西洋文明の導入、戸籍制度や法治主義の確立など、すべてみな西郷政府がやりとげた近代化政策である。

 しかし、使節団帰国後の征韓論争をきっかけに西郷は鹿児島に帰り、もう二度と政府に出仕することはなかった。そして数年後、再び歴史の表舞台に登場したとき、西郷隆盛は明治国家最大の謀反人となっていた。「武士中の最大なる者」が自らが作り上げた新国家に反逆し、「最後の武士」として滅び行く道を選んだのである。

 ここに人は、西郷の謎と矛盾を見る。しかし、明治天皇も勝海舟も国民の多くも、そういう西郷を丸ごと愛してきた。彼らはみな、西郷がしたことをありのままに受け入れて、維新最大の功労者にしてかつ明治国家最大の反逆者となった人物を、敬愛し続けてきたのである。

 西郷隆盛は文政十(一八二七)年、鹿児島城下の下級武士の集落である下加治屋町に生まれた。同じ町内から盟友大久保利通をはじめきら星のごとき明治の偉人たちが出ている。薩摩の青少年は町内の青年団で基礎教育を受けた。これを郷中教育といい、いまの小学生から二十代半ばくらいまでの武士の子弟が参加した。教育の根幹は義を実践できる人物を育てることにあった。最も厳しく求められたのは、「潔く勇敢であれ」「弱い者をいたわれ」「嘘をつくな」だった。最も卑しまれたのは「臆病」であり、弱者や年少者へのいたわりのない者も手厳しく軽蔑された。西郷に限らず維新の志士となった薩摩武士の精神はこの郷中教育で鍛えられたのである。

 西郷はとりわけ信義に篤かった。難局であればあるほど相手の人物との信義を守ろうとした。勝海舟との品川会談がその代表である。東海道と中山道を進んだ官軍にとって、賊軍幕府を討つことは当然のことだった。しかし、西郷はあらゆる反対派を押し切って、徳川慶喜を謹慎に止め、幕臣にも禄を与えるという寛大な処遇で収めた。こうして、将軍は無血のうちに江戸城を天皇に明け渡し、江戸100万の庶民は戦火から免れ、虎視眈々とわが国のほころびをねらっていたフランス・イギリスに介入の隙をあたえなかった。これがまさに旧友勝の信義に応えた西郷流なのである。

 また、西郷は情の深い人物だった。信義に篤いことと情の深さは物事の裏表である。しかし、義はあくまで公のものであり、情は私である。そこに西郷の悲劇がやってくる。

 西郷を慕って鹿児島に帰ってきた士族とは、維新回天の大業に命を捧げてきた勇者たちである。明治日本ができたのは、ほかならぬ彼らのおかげである。しかし、いまその明治政府が彼らの職を奪い、帯刀の名誉を奪い、いままた秩禄まで奪おうとしている。その無念は西郷のよく察するところであり、西郷の情は強く動かされていた。

 しかし、何あろうその政策を実行してきたのはほかならぬ自分である。近代化とは西洋化である。それなくして、日本を西洋の植民地化の危機から救い、彼らと対等に交際できる独立国日本の建設はない。西郷は引き裂かれる思いだったにちがいない。

 ただ、一方で帰郷した西郷の胸にも、自分が成し遂げた革命の現実への疑義が宿っていた。「文明とは正義が広く行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」「何の考えもなく外国のマネをしていたら、国民の道徳心はおとろえて、わが国は救いようのない国になってしまうだろう」(『南洲翁遺訓』)。たとえ日本から武士が消え去っても、国民一人一人の心の中に義に篤い武士の魂を残さなければならぬ。それが西郷の思いであった。

西南戦争の西郷はもはや政治家でも軍人でもない。求道者として最後の武士たちを率いたのである。勝っても負けても、この戦争は日本に武士道を残す戦いになるだろう。「今般政府に尋問の廉あり」という西郷の真意はそこにあった。

 だからこそ、日本人は西南戦争をただの反乱とは見なさなかったのである。勝った側も負けた側も西郷のために黙祷したのである。そして、日本人は日清・日露と次々に国難に遭うたびに西郷の義挙を思い出し、ともに大和魂を生きようとしてきた。おそらく、あの大東亜戦争が終わるまではまだ西郷の伝言は生きていたのである。

 いまも、鹿児島の南洲墓地には西南戦争で死んだ最後の武士たちの墓石が、西郷を中心に堂々たる隊列を組んで桜島を臨んでいる。そして「今般政府に尋問の廉あり」と、いま東京に向かって動き出しても不思議ではないように見える。

 『南洲翁遺訓』には、こんな一節もあるからである。「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は出来ない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果友好的な関係は終わりを告げ、最後は外国に仕えることになるのである」。

奈良時代2「天平文化のかがやき」

天平文化のかがやき

●古代日本の完成を象徴する傑出した芸術群をたたえる授業です。

1 鑑真

*鑑真像(脱活乾漆像)の写真を貼る
鑑真和~1

この像を見て、鑑真という人物がどんな人だったのか想像して、ノートに書きなさい。

*発表させる。
*資料集で、鑑真について調べ発表させる。
*厳しい試練と運命を乗り越えてきた強い意志の持ち主を、穏やかで高貴な姿と盲目の微笑で表現している作者の高い力量を感じ取らせる。
『鑑真は、聖武天皇や光明皇后など多くの人々に仏教の心や決まりを教えました。朝廷はこの高僧のために唐招提寺というお寺を建てました。この像はいまもこの寺にあり、6月6日の前後数日間だけ公開されます。鑑真が日本で過ごした日々は66歳から75歳までの9年間でした。663年、この像の姿のまま祈るようになくなったと伝えられています』


2 天平の仏たち
*鑑真が世界の肖像彫刻の中でも白眉であることを教える。
『奈良時代は文明国としての日本が完成した時代だと、前の時間に勉強しました。今日は、もうひとつの文明国の条件として、奈良時代の芸術について学びましょう。その国の芸術作品はまさにその国の精神のレベルを表すものだからです。奈良時代は、いまも私たち日本人が世界に誇れるたいへん優れたたくさんの芸術を生み出した時代なのです。鑑真像は実在した人物の肖像彫刻として世界に誇れるものですが、この時代はほかにもたくさんの仏像がつくられました。みなさんにその素晴らしさを感じ取ってほしいのです』

*天平美術の至宝(すべて国宝)の写真を掲示し鑑賞させる。
①八部衆立像「阿修羅」(興福寺) 脱活乾漆像
阿修羅

②十大弟子像「富楼那(ふるな)」(興福寺) 脱活乾漆像
富楼那

③「日光・月光菩薩」(東大寺)      脱活乾漆像
日光菩薩
月光菩薩

④四天王像「広目天」(東大寺)      塑像
広目天

⑤十二神将像「伐折羅(ばさら)」「迷企羅(めきら)」(新薬師寺) 塑像
迷企羅

これらの国宝はいまも信仰の対象になっている仏像ですが、いずれも世界のどこに出しても一級の芸術作品です。気に入った仏像を見た感想を発表してください。

*発表させ、世界一級の芸術作品を生み出した奈良時代の達成に共感させる。

3 万葉集

●*板書して説明する。
・『万葉集』全20巻
・8世紀後半に完成した日本最古の詩集

この詩集は、世界に誇れる驚くべき特徴があります。それはどんなことでしょうか?

・天皇や貴族から庶民まで、約4500首の歌(詩)がおさめられている。
→これは「芸術の前での平等」という日本の万葉集だけのすばらしい特徴である。

*すべて漢字で書いてある。・・・・万葉仮名
*プリント資料を配り、以下の4つの歌を音読させる。

①舒明天皇
②持統天皇
③柿本人麻呂
④防人の歌 



【プリント資料】天平文化のかがやき① 
■奈良東大寺の大仏・・・・世界一巨大なブロンズ像
■すばらしい仏像たち
  ①「鑑真和上像(がんじんわじょうぞう)」(唐招提寺)
  ②八部衆立像「阿修羅(あしゅら」(興福寺)
  ③十大弟子像「富楼那(ふるな)」(興福寺)
  ④「日光・月光菩薩(にっこうがっこうぼさつ」(東大寺)
  ⑤四天王像「広目天(こうもくてん)」(東大寺)
  ⑥十二神将像「伐折羅(ばさら)」「迷企羅(めきら)」(新薬師寺)

★①~④は乾漆像(かんしつぞう) ・土でおおまかな形をつくる。・麻布をうるしでかためて形を作る。
・中の土をぬく。・木の粉とうるしで表面をととのえる。
★⑤⑥は塑像(そぞう)・全体を粘土でつくった像

天平文化のかがやき②
■万葉集(まんようしゅう)
   *八世紀の後半にできた、日本最古の詩集(全二〇巻)
    *男性、女性、身分の区別なくすぐれた作品(短歌など)が約四五〇〇首
   *日本語の歌を工夫して漢字で表した・・・万葉仮名(まんようがな)

《舒明天皇》
【原文の表現】山常庭 村山有度 取与呂布 天乃香具山 騰立 国見乎為者
  国原波 煙立龍 海原波 加万目立多津 怜怜国曾 八間跡能国者

【いまの読み方に直すと】
      大和には 群山あれど
      とりよろう 天の香具山
      登り立ち 国見をすれば
      国原は 煙立ち立つ
      海原は かもめ立ち立つ
      うまし国ぞ 大和の国は 

【歌の意味】大和には山々がたくさんあるが、すばらしいのは天の香具山だ。
      そこに登って国を見晴らすと、
      家々のかまどの煙が立ち上り、海にはかもめが飛んでいる。
      すばらしい国だなあ、大和の国は。


《持統天皇》 春すぎて夏来るらし白たえの 衣ほしたり天の香具山

《柿本人麻呂》 東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見ずれば月かたぶきぬ

《防人の歌》 今日よりはかへりみなくて大君の しこのみ盾と 出で立つ我は

4 まとめ
『文明国家として完成した日本は、文化・芸術の面でも世界に誇れる作品をたくさん創り出したのです。』

文明国日本の完成

文明国日本の完成
●指導要領には天武天皇が出てこないので、聖武天皇を1時間で取り上げるのだが、大仏の話だけで終わってしまうのを残念に思っていました。天平時代は、まさに聖徳太子の大方針がかなりの実質をもって完成した時代だといってよいからです。箇条書き的な説明主体の授業ですが、古代国家が完成した喜びを児童と共有することを主たるねらいとしています。そして、そのクライマックスに大仏をおいてみました。この発問のアイディアは、むかし大宮教育サークルの中島優氏から教えていただきました。おそくなりましたが御礼申し上げます。

1 中国と対等な文明国の条件

『唐は巨大な帝国です。日本は小さな島国です。しかも、追いかける立場です。だから、まったく同じ実力を持つことは考えられません。しかし、これだけの条件がそろえば、「文明国」としては中国に追いついたと言える条件がいくつかありました。聖徳太子の設計図をバトンリレーしていった天皇やリーダーたちは、けんめいに努力してこの条件をクリアしていきました』

2 聖徳太子の大方針を受け継いだ人々

『天智天皇・天武天皇・持統天皇・聖武天皇という4人の天皇のバトンリレーで、日本の国造りはすすみ、奈良時代の聖武天皇の時代になって、日本は名実ともに中国と対等な文明国として完成したと言っていいと思います』

『聖徳太子の大方針の③「隋と対等な独立国日本」を実現するための第一歩は、「天皇」という称号を認めさせることでした。が、国の力の内容がそれで対等になったわけではありません。これら4人の天皇は「実力でも、中国に追いつく」ために必要な政治を進めたのです』

みなさんは、中国がただ一つの文明国である世界において、中国と対等な独立国日本(中国の属国ではない)ができあがるためには、何がなければならないと思いますか。当時の国際社会の中で文明国の条件とは何か?を考えてみましょう。作らなければならない物、決めなければならない事など、思いつくものを5つ書いてみましょう。

■発表させ、できるだけ「ありうる」という主旨で評価する。

【解説】この発問は、難しいと言えば難しいが、子どもなりの発想でけっこうおもしろい発言がある。法律を作るとか、軍隊を持つなども出てくる。あるいは、奈良時代までの日本がやったことを調べてみようと、資料集などから列挙させるのもいいと思う。

3 聖徳太子と4人の天皇が実現したもの

●以下のことを資料を示しながら説明していく。

①中国の皇帝と対等な君主=「天皇」・607年の聖徳太子の国書
 「東の天皇、つつしいて、西の皇帝にもうす」

②国をまとめる統一政府がある。・・・・・・645年 大化の改新

③国の政治のもとになる法律がある・・・・・ 701年 『大宝律令』

④税が中央政府に集まる・・・・・・・・・・口分田、租庸調の税制、五畿七道

⑤国を守る軍隊がある・・・・・・・・・・・防人

⑥国の中心にりっぱな首都がある・・・・・・藤原京 → 710年 平城京(奈良の都)

⑦祖国の歴史が本になっている・・・・・・・712年『古事記』720年『日本書紀』

⑧文化の面でも世界レベルになる・・・・・・その代表としての奈良の大仏を次に取り上げる。

4 奈良の大仏  

聖武天皇(701~756)
行基(668~ 749)

●全国に国分寺を建て、その中心として東大寺を建立、世界一の鋳造物を作ったことを説明する。
●大仏建立の詔を読む。


大仏建立の詔(聖武天皇) 「続日本紀」より

天平十五年(七四三年)十月十五日に、大きな願いをたてて大仏の金銅像を造ることにした。
国民を救い、仏の教えによって、わが日本の力をいっそう高めるためである。
国じゅうの銅を使いつくしても、この像をつくるのだ。
そして、大きな山から木を切り出して大仏殿を建てる。
広く世界の人々と共に仏教を信じ、ともに仏さまのご恩にあずかり、人としての正しい生き方をもとめたいと思う。
いま、天下の富と力をあわせ持つのは私である。
だから、この富と力とをもってすれば、私一人でこのとうとい大仏をつくることは、けっして困難ではない。
しかし、それでは、私の真の願いにそわないものとなってしまうだろう。
かえって、人々をただつらいだけの労働に追い立てるだけになってしまい、仏さまのありがたさを感じることができないばかりか、おたがいに悪口を言い合って罪人を生みだすようなことにならないともかぎらない。
(だからこそ、この大仏は全国民の力を集めて作りたいのだ)
もし、一枝の草や、一握りの土でも、たくさんの国民が自分から持ちよって、大仏作りに協力してくれることがいちばん仏の道にかなうものである。そうであってほしい。
国や地方の役人は、この大仏づくりの事業を口実にして、国民の生活をみだし、無理な税を取り立ててはならない。
以上のことを全国に知らせて、このような私の真心を伝えるようにしなさい。

 

何人の人がこの天皇の呼びかけに答えて、銅などの寄付を出したでしょうか?
当時の総人口は600万人、そのうち貴族が1000人いました。

銅や金の値打ちの高さを話し、次のA~Cから選ばせる。

A:1000人以下、  B:1000人くらい  C:1000人以上

実際は、37万2075人の人々が寄付したことを教える。貴族だけでなく、非常に多くの国民が国民がこの大事業を支持し、応援したことを話す。

ここで、私は大仏の作り方を説明したアニメーションを見せている。なければ、図で表すなど出来るといい。

①原型づくり
  木で骨組みを作り,その上に粘土を厚く塗る。鋳型のもとになる像を作る。
②型どり
  原型の像に更に粘土を塗り,型を取り,切ってはずして焼く。
③すき間づくり
  型どりで切り取って焼いた粘土の型を土で覆いながら下から順に組み立てる。
  このとき,原型の像を削ってすき間をつくる。
④流し込み
  現場で熱し,溶かした銅をすき間に流し込む。
⑤鋳造
  8段に分け,下から1段ずつ鋳造していく。最後は大仏は土の山に埋まってしまう。
⑥取り外し・仕上げ
  土と外側の粘土を取り払い,不完全なところをたし,最後に前進に水銀を使って,
  金ぱくをする。戻る

●最後に、大仏開眼供養の様子や、当時の国際社会に強い衝撃を与えた聖武天皇の思いについて話して授業を終える。

中大兄皇子2「白村江の戦い」

中大兄皇子2「白村江の戦い」
●この授業は、朝鮮半島が日本にとって非常に大きな戦略的な意味を持っていることを扱っています。この半島が侵略的な勢力に支配されるとき、日本の安全はいちじるしく脅かされます。このテーマは、白村江の戦いに始まり、元寇、日露戦争、日韓併合とくり返し現れ、その意味は現在も変わっていません。歴史を教えるとき、授業者がそうした連続性の自覚を持っていることが重要ではないかと考え、この授業をつくりました。おもしろいと思ったらやってみてください。そうでなければ、やらなくても小学校ではこまらないと思います。


1 朝鮮半島の戦略的な意味
【資料:分割した地図】
File0158.jpg

 地図A/B/Cを貼る・・・『この地図には足りないものがあります。何でしょう?』
 *朝鮮半島である。
*地図「朝鮮半島」を貼る ←→ 取る。

〈朝鮮半島は日本列島と中国大陸を結ぶ(    )である〉
 
『この文の( )に言葉を入れなさい』

発表させる。

〈朝鮮半島は、中国大陸と日本を結ぶ(橋、道、渡り廊下など・・・)である〉

『これまで、この橋を通って、いろいろなものが日本に渡ってきました。何ですか?』

 *米作りや金属をつくる技術、文字、仏教など、中国の進んだ文化や技術

 *戦争、武器

『これらは日本にとってプラスになりましたか?マイナスになりましたか?』

●考えを発表させる。

『見方はいろいろあっていいでしょう。のどかな縄文時代が終わってしまった。美味しいお米を食べるようになった。何よりも日本の国がつくられ発展を始めた。今日は、大化の改新の時代の国際情勢を見ながら、朝鮮半島が日本の運命に対して持っている大きな意味について考えてみましょう」

2 百済が滅びた
【プリント資料「地図①②」】を配る。
『まず①の地図を見てください。唐・高句麗・新羅・百済・日本がある』
File0159.jpg

『中大兄皇子が大和の国のリーダーになった頃、朝鮮には3つの国があり、大和朝廷の日本統一と国づくりに影響されて、それぞれが朝鮮半島の統一をめざしていました。一方、大帝国唐は朝鮮半島を支配したいと考え、3国の中で一番遠い新羅に目をつけて同盟を組びました。唐と新羅の思わくを書いておきましょう』

唐・・・・・朝鮮半島を支配したい
新羅・・・・朝鮮半島を統一したい・・・日本の統一と国づくりに影響されて

●唐と新羅が同盟・・・・・・・・遠交近攻(はさみうち)戦略を教える。

『その結果どうなったでしょう?地図の②を見てください』
File0160.jpg

 659年(33歳)・・・百済がほろぼされた

『長く続いてきた百済の国が消えてしまった。滅びたのです』

3 百済を助けるべき否か?
 ●以下のお話を聞かせる。


 百済は大和の国(日本)とは長いつきあいがありました。仏教を伝えてもらったり、中国の進んだ文化の多くはこの国から入ってきました。その百済が滅びたとき、百済のリーダーたちやその家族がたくさん日本に逃げてきました。その中には、百済の国の王子もいました。王子は中大兄皇子に頼みました。
「かの地には、百済の武将たちがまだ残って戦いの準備をしています。もう一度、百済の国を立て直したいのです。どうか私たちの戦いを助けてください。」


 
『中大兄皇子は、2つの考えの間で真剣に迷いました。皇子の決断はどちらだったでしょうか?』

百済王子の願いに対して、百済を?    A 助ける    B 見捨てる

*AかBに挙手させ、意見分布をとり、それぞれの理由を発表させる。
*皇子の決断「A」を教える。

4 白村江の戦い
『中大兄皇子は百済を助けるという政策を実行に移しました。天智天皇は27000もの大軍を400隻の船に乗せて朝鮮に送りました。』

わが国の軍船400隻と唐の軍船170隻が、朝鮮半島の白村江で激突しました。
どちらが勝ったと思いますか?

*勝ったまたは負けたに挙手させる。

●DVD「白村江の戦い」(NHK「そのとき歴史が動いた」)を見せる。戦いの様子と戦いの後の日本の動き見せます。動画がなければ、おおよそを物語る天智天皇に即位し大津宮に遷都したことなど。

663年:白村江の戦い(37歳)  敗戦
敗戦後、天智天皇は、国の守りを固めた:水城、山城、大津宮

『残念ですが、大敗北でした。百済のリーダーたちの意見の食い違いや、船の構造、作戦などが原因でした。両側からはさみうちされて、わが国の船は次々と燃え上がり、乗っていた多くの兵士は死んで、海は血で真っ赤に染まったと、中国の歴史の本に書いてあります』
【プリント資料「③」】を配る。
File0161.jpg

5 戦後の戦略を考える
【プリント資料「④」】を配る。
File0162.jpg
『どうなりましたか?』
*高句麗が滅びて、唐が朝鮮半島に攻め込んできた。

『668年高句麗が滅ぼされて、新羅が朝鮮半島を統一しました。すると、ここまで新羅を応援してきた唐は、こんどは新羅に攻め込んできました。最後のねらいは、朝鮮半島の征服です』

668年(42歳)  高句麗が滅び、唐と新羅の戦いが始まった

『わが国に両国から使者が来ました。両国とも「応援してほしい」というのです。唐は200隻もの軍船をつらねて来て、おどしをかけました。お得意の「遠交近攻」戦術です』


  天智天皇はどうすべきでしょう。
A:新羅を応援する   B:唐を応援する  C:中立を守る

*ノートに理由を書かせて、発表させる。意見分布をとる。
『中大兄皇子(天智天皇)は中立を守り、守りを固めました。続く天武天皇は新羅を応援しました。そして、大化の改新後の国づくりの改革を強力に進めていきました』

中大兄皇子(天智天皇)・・・・C:中立(城・水城・防人・のろし)
天武天皇・・・・・・・・・・・A:新羅を応援した

2人ともB(唐と組む)だけは、絶対にダメだと考えていました。それはなぜでしょうか?

*挙手発言で言わせる。
『日本海は自然のお堀であり、要塞です。しかし、もし朝鮮半島がなかったら、中国の進んだ文化は入りにくかったかも知れません。だから、これがあるおかげで日本は発展する刺激をもらうことができました。しかし、この橋は日本にとってたいへん危険な橋でもある。ここに、日本の友好国がいてがんばっていれば、大帝国が日本まで攻めてくる危険は少ないといえます。逆に強大で侵略的な国がここを支配たとき、朝鮮半島という橋は危険な軍隊を運ぶ危険な橋になるのです。そういう危険なときが後の歴史に現実になるときがやってきます。それまで、この授業を覚えておいてほしいのです』

6 敗戦と国づくりの発展
さて、白村江の戦いに負けて、わが国はどうなったでしょうか。

A:大敗戦のショックから立ち直れず、発展が止まった。
B:大敗戦をバネにして、国づくりにいきおいがついた。

●正解はBでした。
『天武天皇は天皇中心の国づくりを強力に進めていきました。そしてついに、わが国は正式に「日本」(国号)を名乗るようになります。そして、聖徳太子の大方針を受けついだ大和朝廷の国づくりは、その後40年ほどで完成します』

良寛

やまかげの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも      良寛

 僧良寛は手鞠をついて日がな一日子供たちと遊んでいる。子供たちとかくれんぼをすれば翌朝までかくれている。竹の子が床下に生えれば床を切り開けて伸ばしてやる。そして、そんなふうにしている自分を少しもあやしまない。苔清水のように清らかに澄みわたった心で、良寛は狭い草庵に住んで托鉢で暮らしている。托鉢とは、信者の家々を巡って生活に必要な最低限の食糧などを乞う修行のことである。乞食行ともいう。

 良寛は越後出雲崎(新潟県)の名主橘屋の長男に生まれた。しかし、この家職をつぐべき若者は十八歳で出雲崎の光照寺に入り剃髪してしまう。家督を弟にゆずり、父母を捨てたのである。「名主の晝行灯息子」と侮られていたというが、確たる事情はわからない。やがて二十二歳で國仙和尚によって受戒して僧良寛になり、大愚と号した。禅僧としての修行の日々は、備中玉島(岡山県)の曹洞宗円通寺で送った。長い修行の末、三十三歳で師國仙和尚の印可を受ける。禅僧としての免許皆伝である。
 國仙和尚が良寛に与えた偈(認可状)に、良寛本来の面目が現れているので大意を記しておく。

「良寛の行道は広々と大らかでゆったりとしている。その騰々としてすべてを天真に任せきっているさまは、他人には到底理解できないのである。よって皆伝のしるしに爛藤の杖を与える。到る処の壁間で昼寝をしている姿は閑である」(加藤僖一『良寛 日本人のこころ』玉川大学出版部)。

 師匠は弟子のその後四十年の生涯を見抜いたようである。ぽっきりと折れてしまうが、良寛にも名主見習いとして努力する若年期があった。ついにはひっそりと庵に入ることになるが、けんめいに学問と修業に打ちこみ、曹洞宗の高僧となるべく努力した青年期もあった。しかし、名主にも高僧にもならなかった。なれなかったと書いてもよい。つまり良寛は、はじめから乞食坊主ではない。天が良寛をつかまえたのである。

 良寛は修行中に両親を亡くした。師匠の國仙が亡くなると西国諸国に行脚の修行に出た。そして三十九歳で越後に帰郷したとき、良寛の心は決まっていた。棄てるべきものはみな棄ててきたのである。良寛は、国上山の五合庵という庵で十数年過ごした後、麓の乙子神社の草庵に十年間住んだ。そして六十九歳の冬に木村家の庵室に移り、そこで七十四年の生涯を終えた。私たちが親しみをこめて「良寛さん」と呼ぶ人物はこの人のことである。

 わたしたちの幸運は、僧良寛がたまたま漢詩や和歌を残してくれたことである。良寛を支えまた良寛に支えられた人々がその人柄を伝えてくれたこともある。おかげで漢詩

「生涯身を立つるに懶く/騰々、天真に任す/嚢中、三升の米/爐邊、一束の薪/誰か問わん、迷悟の跡/何ぞ知らん、名利の塵/夜雨草庵の裡/雙脚、等に伸ばす」

を読めば、良寛の生き方も暮らしぶりもわかるのである。いくつもの漢詩や和歌によって良寛の志も悲憤も、平生の温かい思いやりや感謝の心も、くつろいだユーモアや思いがけない恋情さえ伝わる。俗世の利害得失から離れ、仏道の是非善悪さえ超越し、人を恨むことも羨むこともない。無理は求めず、強いてこだわることなく、あるがままを受け入れて、ひたすら自然体の自分と向き合っている良寛がそこにいる。

 ある書簡に、「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがれる妙法にて候」という一節がある。ある詩には「すべてのことにはすべてそうなるべき結びつきがある」という一節もある。これらがおそらく良寛が行き着いた場所である。

 人にはいかんともしがたい運命があり、それは受け入れるよりほかにない。受け入れるというのはその運命を自ら進んで望んだことだと悟ることなのである。良寛の天真爛漫な清らかさは、すべてを棄ててきた者の強靱な精神に支えられているのだ。それが良寛の潔さであり、多くの日本人が良寛に魅せられてきた理由である。最後にひとつ次のような飾らない詩を読もう。

「浮き世を棄てわが身を棄てて、迷いのない僧となり、月や花を友として残された命を保っている。たちまち雨が晴れ雲も晴れて、あたりの大気もさっぱりした。心がすがすがしくなり、あらゆるものもみなすがすがしい」(松本一壽『ヘタな人生論より 良寛の生き方』)

 いま良寛は学校で教えられず、子供向けの絵本も見られない。が、かつては日本人のだれもが知っていた人物であった。出家などかなわない凡庸な私たちは、ただひたすら働いて家族を養い、ささやかだが夢らしきものを追い求め、やがて現役を引退するときが来る。そんな還暦を過ぎたくらいの頃に、少年時に覚え、長い間忘れていた不思議な老人の話を思い出す。そして、良寛の詩や歌や逸話を読んで、美しい自然に抱かれ苔清水の湧く場所にひっそりと暮らす良寛に、黙って手を合わせたくなる。良寛は、多くの日本人にとって、心のふるさとのような、なつかしい人なのである。

八田與一

 明治28年から昭和20年までの半世紀、台湾は日本だった。日本は責任を引き受けて、けんめいに台湾の近代化を進めた。たくさんの日本人が台湾に渡り、台湾のために尽くした。もちろんそれが国益にもかなっていたからだが、尽くしたことに偽りはない。彼らは台湾で子を産み、一家を養い、台湾を生涯の故郷だと思っていた。八田與一も、そのようなあたりまえの日本人の一人だった。

八田與一は、明治19年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校から東京大学に進み土木工学科を卒業した。「官位や地位のためでなく、一人の技師として、後世の人に恩恵をもたらすような仕事をしたい。」それが八田青年の志だった。卒業後まもなく、24歳で台湾総督府土木局に着任した。それから56歳で亡くなるまでの32年間、八田與一は土木技師として台湾の民生向上のために尽くした。その最も偉大な業績が、嘉南平野15万町歩(ほぼ香川県の面積)の灌漑である。八田與一は、広大な不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変えた設計技師であり、工事の一切を取り仕切った現場責任者だった。それは弱冠35歳に始まり44歳で完結した大仕事であった。

 10年をかけた壮大な工事の核心は、上流の烏山頭に当時東洋一といわれた巨大なダムを築くことと、1万6000キロメートル(万里の長城の約6倍)の給排水路を引くことだった。烏山頭ダムの水量では広大な嘉南平野の三分の一しか潤せないのだが、八田は平野の全域に水路を張りめぐらせた。三年輪作給水法というアイディアがあったからである。平野の各地域を3ブロックに分割し、稲作ブロックには給水、甘藷ブロックには種植期だけ給水、雑穀ブロックは給水なしという形で、一年ごとに輪作するシステムである。「三分の一の農民が豊かになり、残りの農民は貧しいいままでは意味がない。嘉南平野の全農民が豊かになるためにはこの方策しかない」。この発想に表れている均しくいとおしむ心が八田與一の本領である。

 八田のいとおしむ心を偲ばせるさまざまなエピソードがある。たとえば、彼は常に作業着で工事の最前線に立ち、日本人も台湾人も差別しないことを率先垂範して示した。工事の殉難者を顕彰するときも日本人と台湾人をまったく区別していない。また、工事従事者が現場で家族と一緒に暮らすという、当時としては異例の職員施設を建設した。家族で住める宿舎・共同浴場・店・テニスコート・広場・娯楽場(クラブとよんだ)、そして学校まで作った。さらに定期的に映画会や運動会などのレクリエーションも実施している。烏山頭の山奥に、人々が生活を楽しみながら苦労を分かち合う街をつくることによって、あの気宇壮大な大工事を支えきったのである。もうひとつこんな逸話もある。関東大震災の影響で大幅なリストラをしなければならなくなったときのことだ。八田は部下の提案を否定して、「大きな工事では優秀な少数よりも、平凡な多数こそが肝心な仕事をするのだ。また、優秀な者は再就職できるが、逆はない」と言った。八田は優秀な人材から解雇して、全員の再就職を世話したのだという。こうして残った者の志気が高まり、やがて平凡の中から優秀が現れるのである。

 工事の完成は嘉南平野に多大な恩恵をもたらした。まず洪水・干ばつ・塩害という農民の三重苦が解消された。次に三年輪作給水法によって全農民の農業技術が向上した。最後に、農民の生活が一変した。生活が豊かになり、家の増築や子供の教育にお金をかけるゆとりも生まれたのである。

 水利組合の人々や農民たちは感謝の心をこめて八田の銅像をつくった。農民たちは、八田の「えらそうな像はやめてくれよ」という希望を入れ、作業着姿で工事を見守る八田像を作り、台座もなしで堤の上にじかに据え付けた。この含羞もまた、八田のいとおしむ心によく似合っている。

 いまも、その八田與一像と八田夫妻の墓が烏山頭にある。八田は左足を投げ出し右膝を立てて堤に腰掛けている。右手は髪の毛をくるくる丸めるようにいじっている。これは八田が考え事をしていたときのくせだそうだ。日本人の銅像は、戦後すぐに破壊されるなどしてすべて失われたが、ただ一つ八田の像だけは農民たちによって守り抜かれ、昭和51年、再びここに設置することをゆるされた。今でも、八田の命日である5月8日には、毎年墓前祭が行われている。嘉南平野60万の農民たちは、いまも八田與一を嘉南平野の父として慕い、その功績を称えているのである。

 明治日本は、八田のような優れた人材を惜しみなく台湾の近代化と民生向上のために注ぎこんだ。その多くは台湾人を同胞として接し、心血を注いで公に奉ずる使命を果たした。かつて、そのような日本があり、そのような先人がおられたことを、静かに誇りに思いたい。

中大兄皇子1「大化の改新」

中大兄皇子1「大化の改新」
●学習指導要領には42人の歴史人物を教えることが定められています。その人選には異論もありますが、とりあえず小学校の歴史学習の一つの基準として、私はこれに従って授業づくりをしてきました。かなり軽重はつけていますが。ここでは中大兄皇子の大化の改新がまさしく聖徳太子の国づくりの大方針の継承であることを学びます。

1 聖徳太子一族の滅亡
【プリント「聖徳太子一族の滅亡」】を読み、問題を考えさせる。
【資料:石舞台古墳】【資料:遣唐使航路図】【資料:復元遣唐使船】


お話 聖徳太子一族の滅亡
①聖徳太子の死後、再び蘇我氏の一族が実力をふるい始めた。
 とくに蘇我馬子の孫の蘇我入鹿は、唐から帰国した留学生が先生になって日本のリーダーを育てていた塾の中で、一番頭がいいといわれ、朝廷の政治でも実力を出していた。蘇我氏は天皇の宮殿と同じような屋敷を建てて「みかど」とよばせたり、天皇と同じようなぶ古墳をつくらせて「みささぎ」とよばせたりした。「みかど」も「みささぎ」も聖徳太子のころから、天皇にだけ使える言葉だったので、人々は蘇我入鹿の心ををあやしむようになった。
②蘇我氏が力を伸ばしたことをよく思わない豪族たちには、聖徳太子の子である山背大兄皇子に天皇になってもらって、蘇我氏のいきおいをおさえ、聖徳太子の国づくりを受けついでもらいたいと願う者が多かった。
③これではあぶないと考えた蘇我入鹿は「山背大兄皇子を倒せば問題は解決する」と蘇我氏の軍を出して皇子をおそった。六四三年のことである。
 皇子の家来たちは「東に逃げて生きていれば味方はいるのだから必ず蘇我氏を倒すことができます」と皇子を説得したが、皇子はなぜか聞かなかった。そしてこう言って死んだと『日本書紀』に書いてある。
「私がもし兵をひきいて戦えば、その戦いでまた多くの国民の命をうばうことになる。私一人が死んで国がまとまるのなら、それも男子の道といえるのではないか」こう言って、皇子は自殺し、一族の者も後を追って死んだ。こうして、聖徳太子の直接の子孫はいなくなってしまった。

【問題】みなさんは大和朝廷のリーダーです。どちらを選びますか?

A 国がまとまるのなら、蘇我氏中心の国でもかまわない。いや、その時その
 時でいちばん実力のある人が中心になって国をまとめたほうが、日本はよ
 り発展するだろう。ここで蘇我氏を倒す戦いを起こせば、山背大兄皇子が
 聖徳太子の「和」の教えを守って戦いをさけた意味がなくなってしまう。

B 蘇我氏を倒して、天皇家中心の国のかたちを守り、聖徳太子の国づくりの
  方針を受けつぐべきだ。戦いはないほうがいいが、もしこのまま蘇我氏が
 天皇家にかわって国の中心になることを許せば、またいつかは第二、第三
 の実力者が現れて、かえって戦いがくりかえされることになるだろう。


『あなたが当時の日本のリーダーだったら、どちらを選びますか?』

A その時の実力者が国家のリーダーになればよい(中国方式)
B 天皇家の血筋から天皇を選び、国の中心となるべきだ(日本方式)

*ノートに書かせてから発表させる。
 *相互に反論があれば討論させる。
 *Bが勝ったという史実を教え、次に進む。

2 中大兄皇子と中臣鎌足
【肖像画】を貼り、生年を板書する。

*以下を物語る。

①中大兄皇子は626年に生まれた。
父は舒明天皇、母は皇極天皇、賢くて決断力のある若者だった。天皇家の若き皇子として、蘇我氏のやり方に反対だった。そして、聖徳太子の国づくりを受け継いで発展させたいと考えていた。
②中臣鎌足は614年生まれた。
日本の神々をまつることを国の仕事としてつとめてきた家柄だった。蘇我入鹿と同じ塾に通い、同じくらい優秀だった。
③二人は、蘇我入鹿が「天皇中心に国がまとまる」という聖徳太子の大方針を乱して、国を自分のものにしようとしていると考えていた。
④二人は、蹴鞠の会で出会い親友となった。同じ塾に通って勉強しながら、蘇我氏を倒すことを話し合った。
⑤645年6月12日、朝鮮の三国(百済・新羅・高句麗)から使節がやってきたとき、二人は仲間と共に、天皇の前で蘇我入鹿を殺した。
中大兄皇子は天皇に言った。
「蘇我入鹿は、天皇をほろぼし、自分が天皇になろうとしています。許してはなりません」この事件で、それまで蘇我氏を応援していた人々も去り、蘇我入鹿の父も「おまえはやりすぎた。だから恨みをかったのだ」とつぶやき、自ら屋敷に火を放って死んだ。これによって、蘇我氏も滅んだ。

⑥数日後、飛鳥寺の大ケヤキの下に朝廷の役人たちを集めて、中大兄皇子は宣言した。
「天と地の間には、君主は一人しかいない。しかし、君と臣の順序がでたらめになってしまった。そこで、天が私たちに力をかして、道をふみはずした蘇我氏を討たせてくださったのである。
 これからは、一人の天皇を中心にして、臣たるものは天皇に従うようにしなければならない。これにそむくようなことがあれば、必ず天の罰を受けることになるだろう」

⑦皇子は、初めて元号「大化」を定めて、この645年を大化元年と決めた。そして、次々に、聖徳太子の方針を受け継ぐ、国づくりの大改革を実行した。
これを大化の改新という。・・・

『平成まで続いている元号は、大化から平成までいくつあるでしょうか?』

*元号は今にまで続いて247になる。今上天皇は神武天皇から数えて125代目。

3 大化の改新について知る
*【資料「大化の改新って何だ?】を読む。



大化の改新て何だ?

■地方には古墳時代からの「くに」があり、それぞれの「くに」にはリーダーがいた。このリーダーはむかし「王(きみ)」とよばれていたが、大和朝廷が日本を統一して、王という地位を捨てて大和朝廷の支配下に入った(これが豪族)。けれども聖徳太子や中大兄皇子の時代には、まだ地方ごとの「くに」はそのままで、地方ごとに税が集められ、地方ごとに政治が行われていた。
まだ、本当の意味で「国が一つになった」とはいえなかった。聖徳太子の大方針は、これを本当の意味で「天皇の下に一つの国にする(天下)」ことだった。それでなければ、大帝国「隋」や「唐」と対等になることは夢のまた夢だったからだ。

■大化の改新に参加した遣隋使の留学生たちは、ちょうど隋がほろびて唐が天下を取ったときに中国にいて、新しい中国が生まれ変わるところを見てきた。大化の改新は、この唐の国づくりから学んで、日本を本当の意味で「一つの国」にすることだった。
中大兄皇子と中臣鎌足が行った大改革のおもなものは次の通りだ。

①【地方ごとの「くに」をやめて、土地と人民を一つにまとめる】
 地方ごとの「くに」をやめさせて、全国の土地と人民を、天皇のもとに一つにまとめて(国土と国民)、本当の意味で「日本」という一つの国をつくった。

②【地方に国の役人をはけんして、全国で同じ政治を進める】
昔からその土地を支配してきた豪族にかわって、大和朝廷が「国司(こくし)」という役人(いまの知事や市長)を任命し、国の方針どおり地方の政治を進めさせた。

③【税を公平にし、全国民の税を国に集め、大きな政治ができるようにする】
 人民にはあらためて、天皇が公平に土地(田)を与えて、地方ごとにバラバラだった税も、全国公平に集められるようにした。全国の税が国に集まり大きな政治が行えるようになり、りっぱな国の首都(難波京)を造ったり、
全国につながる道をつくったりできるようになった。

④【国を守る軍隊をつくる】
 全国から公平に兵隊を集めて、防人(さきもり)という国の軍隊つくり、いざというときにそなえた。

(注)①のことを公地公民といいます。
③の税は「租・庸・調」などがあった。その内容は資料集を見てください。



『中大兄皇子の大改革を「大化の改新」といいます。中大兄皇子は日本をどんな国にしようとしたのでしょうか?』

*ノートに書かせ、発表させる。

 ●「天皇中心の国」「天皇中心にひとつにまとまる国」

『大化の改新の中には、聖徳太子の大方針がすべて入っています。聖徳太子の国づくりの設計図が受け継がれ、実現し始めたことがわかります。中大兄皇子と中臣鎌足は、聖徳太子の国づくりのバトンを受け継いで実行していった人物だと言えるでしょう』

聖徳太子4「中国に追いつこう」

聖徳太子4「中国に追いつこう」

●聖徳太子がつくった国家建設の土台をもとに、中国に対して実力でも追いつこうと努力を始めた日本について考える。また、聖徳太子の功績をまとめ死の悲しみを知る。


1 中国に追いつこう
【資料】遣隋使の船の写真と地図を黒板に貼る
復元遣唐使船

*以下、簡単に説明する。
『これは小野妹子が乗っていった船を復元したものです。小野妹子だけが乗っていったのではありません。若い留学生も行きました。これを遣隋使といいます』

『留学生には、国を愛する心を持ち、意志が強く、努力できる人、頭がよく、体が大きく、見た目が立派な人など、日本の代表として優秀な若者が選ばれました。学生たちは何年も掛けて、仏教、法律、政府の仕組み、政治の進め方など、隋の進んだ文化を勉強しました』

『留学生はどんな気持ちでこの船に乗ったと思いますか? 』

*発表させる。
「いっしょうけんめい勉強して国の役に立ちたい」など、エリートらしい志を発表する児童が多い。

『600年に始まった遣隋使は、およそ2年に1回くらい次々と送られました。ところが、612年の第6回で遣隋使は終わりました。どうしてでしょう?』

*挙手発言。
『大帝国隋がわずか40年で滅びてしまったからです。日本と違って中国は滅んだり滅ぼされたりを繰り返すところなんですね。隋を滅ぼして生まれた新しい帝国は「唐」という国でした。これは正真正銘の大帝国で350年くらい続きます』

『わが国はこの唐にも留学生を送ったでしょうか?』
A 送った   B 送るのをやめた

*挙手で意見分布をとる。2名ほど理由を言わせる。
『正解は送ったです。これを遣唐使といいます』

遣隋使(隋が滅びるまで、毎年派遣された)
遣唐使(その後300年近く、およそ10年に1回派遣された)

『このように、聖徳太子の死後もわが国は中国に留学生を送って学び続けました』

『私たちの先祖がこれほど一生懸命に努力して学び続けた目的は何なのでしょうか?』

*ノートに書かせてから、発表させる。

●外交的な対等関係だけでなく、政治や文化の実力でも中国に追いつきたいと願ったとまとめる。

『留学生たちは、国のために必死に勉強し、帰国してからは日本の国づくりのために大きな働きをしました。また、戦乱に明け暮れた中国や、国が滅びてしまった朝鮮から逃げてきたり、移り住んだ人々もいました。彼らの多くはその後日本人になりました。(ラモスや小錦などの例を挙げる)これを帰化人といいます。大和朝廷は、彼らを外国人だからと差別するようなことはなく、彼らの新技術や新知識を国づくりのためにすすんで活かしました』


2 まとめ「聖徳太子の国づくりの大方針」
『ここで、聖徳太子が考え、実行した国づくりの大方針をもう一度まとめておきましょう。』

【聖徳太子の国づくりの大方針】
1 外国の進んだ文化に学び、日本の伝統も守る
2 天皇中心に国が一つにまとまる
3 独立国として、大国中国と対等につきあえる国になる。

*これはノートに書かせる。
『この大方針は、この後大和朝廷にしっかりと受けつがれて古代日本が嘉南制していきます。さらにその後も、この3大方針は、日本の歴史のいくつかの場面で国づくりの方針として現れます。。そのときあらためて聖徳太子の偉大さがわかると思います』


3 法隆寺と太子の死
『では最後に、2つのお話をしておきます』
『17条の憲法の第2条は、仏教を信仰して国づくりを進めるでした。その後日本にもたくさんの寺が造られました。これは聖徳太子が建てたお寺です』
【資料】法隆寺の写真を見せる。
法隆寺

『何という寺ですか?』
*法隆寺

『この寺は、あることで世界一なのです。それは何ですか?』
*木造建築では世界一古い                            

『世界にはそのくらい古い建物はたくさん残っていますがすべて石でできた建物です。
千数百年もの間木でつくられた建物が燃えないで、腐らないでりっぱにのこっているのです。もちろんその時代に建てられたたくさんの寺はすべてなくなってしまいました。世界中の人々が、千年以上も木でできた建物が残っていることを不思議に思っています』

『どうして法隆寺は1000年以上も残ったでしょうか?』

*聖徳太子の偉大さを慕い、みんなが大切に守ってきた。いまも人々の信仰を集めていることを教える。
*聖徳太子はこの寺で人生の後半を本を書いて過ごしました。太子は政治家としてだけではなく、学者としても当時の超一流だったのです。
*以下を板書する。

日本の進歩のために=仏教の研究を進めた→経典の研究書
日本の伝統のために=日本の歴史を書いた→『天皇記』『国記』

『仏教研究は写本が残っていますが、残念なことに、太子が書いた日本の歴史は失われてしまいました。これらの本が燃えてしまう場面はまた授業で取り上げましょう』

『これは法隆寺の中心の仏様です』
*【資料】釈迦三尊像の写真
釈迦三尊

『この仏様の後ろ側に次のような言葉が彫られています』
*【プリント】を配り、釈迦三尊像光背銘と日本書紀の記述を読む。

〈釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)に書かれている言葉〉
「いま仏におたのみするために、太子と同じ大きさの仏像をおつくりしました。どうか私たちの願いを聞きとどけ、太子の病気を治してください。もし寿命だというのなら、どうか太子を仏の国にお召しください。」

『再現・日本史奈良⑤』(講談社)より

〈日本書紀』に書かれている言葉〉
「太子の死をすべての人がなげき悲しんだ。年老いたものは子を失ったかのように若い者は父母を失ったかのように、泣きむせぶ声がみちあふれた。田畑を耕すものは手に持った鋤(すき)をとめ、米をつく女はきねを動かそうともしない。口々に、『太陽も月もかがやきを失い、天地はくずれ落ちてしまったような気持ちです。この後、私たちは何を頼りにして生きていけばいいのでしょうか』とうったるありさまだった」



『実は、聖徳太子は国づくりのための3大方針を示して、それにもとづいて具体的な国づくりの仕事を始めたところで倒れてしまいました。このあとわが国はどうなるのでしょう。これで、聖徳太子の授業を終わります』

ご先祖様の授業の感想文

中学2年生は江戸時代から引き継ぐのですが、導入に1年生と同じ授業をやってみました。中2の感想文をいくつか紹介します。



●今日の授業で、自分の命について改めて考えさせられました。僕の命は、たくさんの人たちによってできたんだなということに気づくことが出来ました。命の重さを理解し、これからを生きていきたいと思っています。これからの歴史の授業が楽しみです。

●今日はじめて授業を受けて、今の私たちの命は、ご先祖様のおかげなのだと、改めて思いました。今日教わった二つのバトン(命のバトン・国づくりのバトン)、そして、感謝の心を持って生きたいと思います。

●今日は歴史一日目でしたが、”歴史は深いなあ”と思いました。あまり先祖のことなど考えたこともなかったし、正直あまり歴史に関心を持てずにいたのですが、自分の先祖がその時代にいたと思うと興味が持てます。これから、歴史の深さをたっくさん学んでいきたいと思いました。

●どの時代にも、国のために全力を尽くした人がいて、今の日本は立派に立っているんだと思う。もしかしたら、自分の先祖も国づくりに協力したかもしれない。そして、そういう人がいたからこそ、ずっと国は続いているんだと思う。これからもがんばりたいです。

●”命のバトン、”国づくりのバトン、このどちらのバトンも、こんにゃくのようにフニャヌニャしたものではなく、鉄のようにしっかり、また少し重たいものなのだろうと、私は思いました。先祖がずっと渡してきた物だから、もし実体があるとしたら、手あかがたくさんついているのだろうなぁと思いました。これは汚いとか、ふざけているのではなく、深みのあるものだという意味です。

●今日の授業で、自分の命はムダにしてはいけないことと、日頃から誰に対しても感謝の言葉を忘れてはいけないなということを考えさせられました。初めての授業だったけど、歴史のことだけでなく、人間として大切なことを教えてもらったので、すごく良かったです。

●私の先祖がこんなにたくさんいるということを知り、驚きました。このたくさんの先祖がいたことによって今の私がいる。そう思うと本当にありがたく思います。今まで私はてきとうに生きてきましたが、その先祖の人たちのためにも、また命のバトンをつないでいくためにも、しっかり生きていかなければならないと思いました。

●この授業を受けて、歴史に対しての心構え?みたいなものが変わりました。先祖はこんなに多いんだ!!とか、その多くの先祖が国をつくってきたんだ!!など、多くの驚きを感じました。歴史はただ「日本の昔を学ぶ」ではなく、「先祖の国づくりを学ぶ」ということでもあるんだなあと感じました。

●今まで歴史をなんとなく覚えてきたけれど、今日の授業で考え方が大きく変わりました。私が今学んでいることは、私の先祖が成し遂げたとても立派なことだというのが分かって、私たちは、その先祖の子孫として、このことを学ぶ義務があるのではないかと思いました。そして、後世につなぎ、私たちを生んでくれた先祖のことを知ってもらいたいと思いました。

●東日本大震災で、私たちはより一層協力し合うことと、人の役に立つことの意味がわかりました。歴史の授業では、みんながつながっていて、私たちも今までのことをよく知り、今後につながなければなりません。でも、地震でなくなった若い人たちは、その受け継ぎが出来なくなりました。これをしっかり分かった上で、私たちはその人の文まで受けつぎ、また、このことを海外でも分かってほしいと思いました。

●僕の先祖の一人に身長が180cmの人がいました。その人は、大当たりということで、軍隊の中でも最も特別な白馬に乗って、明治天皇を護衛する部隊に入りました。また、僕の曾祖父は戦死しました。戦死したところはキスカ島というところでした。キスカ島では日本人の大脱出劇があったということで、テレビ番組にも出ていました。この人は戦死してしまいましたが、このことにかかわっていたということを誇りに思います。近い過去だけで、先祖にこれだけすごいことがあったのかと思うと、もっと昔のことが楽しみになります。



ああきりがありませんね。どれもこれも、思春期真っ盛りの少年少女たちの真心が伝わってきて、ありがたいかぎりであります。
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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