栗林忠道

 栗林忠道は、明治24年、長野県松代のもと郷士の家に生まれた。少年時代の栗林は、並はずれた集中力を持ち頭脳明晰で文才に恵まれていた。

中学校を出た栗林は、陸軍士官学校から陸軍大学校に進み次席で卒業して天皇陛下から軍刀を拝領した。しかし、幼年学校出身ではなかったため、陸軍組織の本流からは外れ、同期生に比べると出世は遅れた。道の平坦ではなかったことが、かえって栗林の強靱な意志力を鍛え、誇り高い人格を形成することになった。

 昭和3年、栗林忠道は陸大次席の報償として、恐慌前の好景気に沸くアメリカに留学した。忠道はここで見聞を広め、持ち前の合理的な思考力に磨きをかけるとともに陸軍きっての米国通になった。

 米国滞在中、栗林はまだ字の読めない息子に沢山の絵手紙を送っている。それは毎回「太郎君へ」で始まり、達者な鉛筆画に語りかけるような平易な言葉が添えられている。栗林の家族思い、子煩悩な人柄を彷彿とさせる挿話である。

このとき妻には「米国は世界の大国だ。日本はなるべくこの国との戦いを避けるべきだ」と書いているが、大東亜戦争が始まっても、栗林は政治にはいっさい発言しなかった。
自身の米国観がどうであれ、祖国がいったん興亡をかけた戦争に突入すれば、黙ってこれに処するのが軍人の本分である。それが栗林の変わらぬ信条だった。 

 昭和19年5月、陸軍中将栗林忠道は硫黄島防衛の任務に就いた。硫黄島は、サイパン島を離陸したB29が東京を空襲するための航路に位置している。ここにわが軍が健在なうちは、本土空襲も敵の意のままにはならない。
ここを守り抜くことによって首都東京を大空襲から守ること。それが、日本軍が硫黄島を守りぬこうとした理由である。

着任した栗林師団長は自ら陣頭指揮を執った。
 まず島民800名全員を疎開させ、地下要塞を構築して持久戦に持ち込むという戦術を策定した。

 従来、上陸作戦に対抗するには敵が最も無防備になる水際で撃滅する作戦が常道だった。しかし、栗林は、制空権・制海権を奪われ空爆と艦砲射撃に援護された上陸部隊を水際で迎え撃っても、長くは持ちこたえられないと考えた。
 栗林の目標は明確だった。1日1時間でも長く、首都を、国民を、家族を守り抜く。
 そのためには、敵を上陸させてから、地下要塞を使って神出鬼没のゲリラ戦を展開し、持久戦に持ち込むことだ。
 そして、補給がない以上いずれ全滅が免れないとしても、米軍に大きな損害を与えることが出来れば終戦への道が開けるのではないかと考えていた。米国の政治が世論で動くことを知っていたからである。

 しかし、硫黄ガスが吹き出し、地熱のため40度以上になる地下に、無数の陣地とそれらを縦横につなぐトンネルを掘ることは想像を絶する困難な作業だった。兵士たちはよく耐えて地下10mに全長約18kmにおよぶ地下要塞をつくりあげた。

 さらに栗林は、将兵たちに厳しい軍律を課した。当時の日本軍は敗色が濃くなると「潔く死のう」と抜刀して突撃する例が多かったが、栗林はこれを厳しく禁じたのだ。これは命を粗末にするなということだった。
 そして「敵十人を斃さざれば死すとも死せず」「最後の一人となるもゲリラによって敵を悩まさん」などの敢闘の誓いを守らせた。これは、命を最も有効に使いつくせということだった。

 ここまで厳しい将軍に、2万人の将兵が最後までについてきた。
 栗林には部下と運命を共にするという明確な意志があり、それがすべての兵に伝わっていたからである。兵と同じ食事をとり、兵と同じ一日コップ1杯の水しか使わず、戦いの最後の訓辞で「余は常に諸氏の先頭にあり」と言い切ったように、最後まで率先垂範したからである。

 昭和20年2月、米軍の上陸作戦が始まった。米軍の総兵力はおよそ12万人、栗林の兵力のおよそ5倍だった。しかも空と海を制した圧倒的な物量である。米軍は5日間で占領できると見ていた。

 しかし、白兵戦を交えた死闘は3月26日まで1ヶ月以上続いた。
 米軍の死傷者は28689人(戦死6821人)、日本側の死傷者は20933人(戦死19900人)、死傷者の総数は米軍のほうが多かった。アメリカの新聞は実質的な敗戦ではないかという記事を書いた。

 3月17日、栗林は大本営に「戦局、最後の関頭に直面せり」という決別電報を打ち、辞世「国の為重き務めを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」を遺した。

 兵と共に突撃して死んだ師団長は、陸軍の戦史のなかで栗林のみである。栗林がいかに誇り高い指揮官であったかがわかるだろう。

 栗林は「重き努めを果たし得で」と詠んだが、硫黄島の戦いはアメリカ人の継戦意欲を著しく減少させた。日本の兵士2万を倒すために、米軍兵士の2万8千を死傷させなければならなかったからだ。

 続く沖縄戦でも約5万人の戦死傷者を出したアメリカは、ついに無条件降伏という大方針を撤回してポツダム宣言を発表した。それは日本政府に領土保全等の条件付きで降伏をよびかけたものであった。

 硫黄島の勇戦は終戦への扉を開く第一歩となったのである。栗林忠道の偉大な功績である。



参考文献
・梯久美子『散るぞ悲しき--硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)
・栗林忠道・半藤一利解説『硫黄島からの手紙』(文芸春秋社)
・吉田津由子編『「玉砕総指揮官」の手紙』(小学館文庫)
・別冊宝島編集部編『栗林忠道』(宝島社)
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足利義満と金閣

足利義満と金閣
●足利義満を教える授業です。義満は卑弥呼以後今日まで唯一中国(明)によって册封された人物です。

『今日は室町幕府の三代将軍、足利義満のお話です。』

*足利義満  1358~1408  室町幕府三代将軍
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1 明の家来になった足利義満
『この時代に日本は商業が発展しました。日本の商人たちは、中国との貿易を望んでいました。そこで商人たちは将軍義満に中国とのつきあいを再開してほしいとたのみました。この時の中国は、あのにっくき元が滅びて明の時代です。ところが、明の皇帝は国交のない国の商人とは貿易はしないという方針でした。ここに日本国としては大きな問題がありました。それは大昔から変わらない中国の考え方でした』

〈中国の伝統では周りの国とつきあうためのルールがありました。それはどんなルールでしたか?〉

【解説】ここまでの授業(弥生時代の王たち~聖徳太子)をやっていれば、册封体制についての正解が児童から必ず出ます。

正解は中華册封体制。言葉が出なくても、中国の皇帝の家来になること、中国との親分-子分の関係、など。

『中国は自分が常に世界の中心でなくては気がすまない国なんですね。でも、日本は他の中国の周辺国とは違って、聖徳太子以来、中国と日本は対等だという考えでやってきました』

〈足利義満はどうしたでしょうか?〉
A 中国皇帝の家来になって、貿易を進めた。
B 中国と対等な立場で、貿易を進めた。
C 中国と対等な立場をつらぬいたので、貿易はできなかった。

*かならず挙手させて、A~Cそれぞれが何人ずつか人数分布をとって黒板に書きます。2人くらいずつ理由を言わせます。家来にはなりたくないという意見と、日本のためには貿易して経済を発達させるべきだという意見が対立します。

実際の義満はAを選びました。

*利義満は「遣明使」を送りました。皇帝への国書には貿易をしたいので国交を開きたいと書きました。そして、皇帝にたくさんの贈り物を持っていかせました。

金100両、馬10頭、扇100本、屏風、鎧、剣などばくだいな贈り物

明の皇帝から返事が来ました。


皇帝の国書
日本国王源道義(義満のこと)よ、おまえが私を愛する心を持って使いをよこしたの
ことに感心である。私は、そのほうびとして、おまえを日本国王として認めよう。

義満の返事
 明の皇帝の家来である私、日本国王源(足利義満)からお手紙を差し上げます。



*「国王」というのは、皇帝の家来という意味です。日本国の代表は「天皇」なのですが、おかしなことですね。義満は天皇の家来であることを忘れてしまったのでしょうか?それだけ幕府の権力が大きくなっていたことがわかります。でも、こうして日明貿易が始まりました。

2 勘合貿易と金閣

〈どちらが日本の輸出品だったでしょうか?〉

A(銅・イオウ・金など)     B(銅銭・絹糸・絹織物など)

*正解はAです。
日本から銅を持っていって5倍の値段で売る。その金で生糸を買ってきて日本で20倍の値段で売る。5×20=100倍のもうけになった。お金も輸入していました。日本の政府はお金をつくっていなかったからです。

資料「永楽通宝」

〈永楽通宝はいまいくらで買えるでしょうか?〉

A 200円    B 2万円   C 20万円  D 200万円

*正解はAです。それくらいたくさんあるということ。

*皇朝十二銭・・・・平安時代の終わり頃に最後のお金がつくられた。鎌倉時代頃から中国のお金がたくさん入ってきて商業が盛んになる。それまでは土地を買うのにたくさんのお米で払った。

*資料:勘合符を見せる。勘合符について話す。商人たちは、義満にばくだいなお礼をしました。こうして義満はおおもうけ。そのお金でりっぱな建物を建てました。 これです。

金閣の写真を見せる。
金閣

*1階は貴族風、2階は武家風、3階は禅宗風、全面に黒漆をぬり金箔を貼った。貴族も武士も僧もすべて私の支配下にあるという意味だ。いまのお金で600億円くらいでしょうか。
 
3 天皇になろうとした足利義満

明の皇帝の家来になった義満は、国内では権力をふるいました。

〈義満が人生の最後にやりとげようとしたことはどれでしょうか?〉
A 自分の息子を天皇にする。
B 中国を征服する
C 黄金の大仏をつくる。

*正解はAでした。
足利義満はまるで自分が天皇であるかのようにふるまいました。
天皇にしかゆるされなかった行事をやりました(皇室の儀式、朝廷の位をさずけること)。
天皇を金閣に招いたとき、天皇と同じ服装になり、並んですわった。
次男善嗣(よしつぐ)を皇室にしか許されない地位につかせ、「親王(次の天皇)」としてあつかわせた。

〈足利善嗣は天皇になれたでしょうか?〉

 A 天皇になった    B 天皇にはなれなかった

*正解はBです。
義満の野望は実りませんでした。得意の絶頂にあった51歳の義満が、流行病にかかってあっけなく死んでしまったからです。
善嗣は第4代の将軍にもなれませんでした。第4代将軍になったのは長男の足利義持でした。義持は父の考え方に反対でしたから、父には嫌われていました。その将軍義持は、明の家来であることをやめ、中国と対等であるという日本の地位はもとにもどりました。また、天皇と征夷大将軍の関係も、もとにもどしました。日本の中心は天皇であり、幕府は天皇から将軍という位をいただいて政治を行うという、本来の姿にもどしたのです。

後醍醐天皇と足利尊氏

後醍醐天皇と足利尊氏
●小学校学習指導要領の42人の人物の中には後醍醐天皇も、足利尊氏も楠木正成も新田義貞も出てきません。が、後醍醐天皇や楠木正成、足利尊氏とりあげておきたい人物でした。それに、南北朝時代の特異さも、天皇制度がとりえた一つの重要なエピソードとして教えておきたいことの一つです。

1 後醍醐天皇と鎌倉幕府の滅亡
【解説】この授業はお話し仕立てになっています。途中にクイズのような問いをはさみながら、物語を展開していくという組み立てです。

『元寇の後、鎌倉幕府の力がしだいに衰えていきました。御家人の不満は、元寇の恩賞が少なかったことと、北条氏が守護などの役職を独り占めにしていく傾向にありました。こうした中で、鎌倉幕府を倒そうという動きが出てきます』
 
主人公
〈鎌倉幕府を倒して新しい政治を始めようとした中心人物は次のどれだったでしょうか?〉

A 天皇     B 貴族    C 武士

答えは、96代後醍醐天皇〈肖像画を掲示する〉。
後醍醐天皇

『元寇から40年あまりたったころ、後醍醐天皇が即位されました。
後醍醐天皇は、貴族や武士が政治をする仕組みに強い疑問を持っていました。
日本は天皇中心の国である。
しかし、平安時代の中頃から鎌倉時代にかけてそれは形だけのものになってしまった。
天皇は神に祈り、貴族や武士に位をさずける役割になり、実際の政治は貴族(摂関政治)や上皇(院政)や幕府武士(幕府政治)が進めている。
そればかりか、最近では幕府が次の天皇を決めるほど力を持ってしまった』

【資料】天皇の系図1
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*嵯峨天皇の後、皇統が二分し、この対立を幕府が調停したので、幕府が次の天皇を決めているような具合になった。
幕府は朝廷の力をさらに削ごうとして、これを四つの系統に分けることに成功した。
この段階が、後醍醐天皇の時代です。
このまま幕府の干渉を許せば、朝廷の権威はどんどん弱くなっていくことが考えられる。
あるべき国の姿ではない、と後醍醐天皇は考えた。

〈なぜそこまで幕府のさしずを受けなければならないのか。これはあるべき国のすがたではない。
 私は「天皇中心に国がまとまる」だけでなく「天皇である私自身が政治を進める」ようにしたい〉

『後醍醐天皇は幕府に不満を持つ武士たちに「幕府を倒そう」とよびかけました』

*国のカタチを大昔の「天皇親政」にもどしたい。


陰謀がばれて失敗
『ところが、計画が事前に幕府の知るところとなり、後醍醐天皇も捕らえられてしまいます』

〈幕府は後醍醐天皇をどうしたでしょうか?〉

A 殺した   B 島流しにした   C 軽い罰を与えた

【解説】これまでの学習をもとにすると、「まさか天皇は死刑にはできないだろう」という考えが大勢を占めるようになります。

正解はBです。 隠岐に流してしまったのです。
『太平記』には
「家臣が天皇陛下を島流しにするなどという不思議な話は聞いたことがない。おそれおおく、なげかわしいことだ」と書いています。
 ところがこの天皇は平安時代から鎌倉時代にかけての天皇とはちがって、ねばり強い意志と、新しいアイディアと、たぐいまれな勇気の持ち主でした。
一回失敗したくらいではこりないド根性の人だったのですね。
やがて後醍醐天皇は沖の島脱出して、再び鎌倉幕府に挑戦しました。
二度目には、北条氏の幕府に不満を持つ武士たちが多数天皇に従い戦うようになったのです。
  
*太平記の英雄達をかんたんに紹介する。楠木正成、北条尊氏、新田義貞
*『太平記』の千早城の戦いのエピソードを教える。

『そして、1333年、ついに鎌倉幕府が滅びました』


2 建武の新政と室町幕府

『こうして後醍醐天皇を中心に昔の「天皇親政」にもどされ、全国の武士も朝廷の下にしたがうかたちになりました。「建武の新政」です』

いつまで続いたのか?

〈後醍醐天皇の天皇中心の政治はどのくらい続いたでしょうか?〉

A 3年    B 33年 C 330年

*正解は Aです。
『後醍醐天皇の政治は武士たちの願いに答えられず、鎌倉幕府打倒のために戦った武士たちの間に不満が高まりました。わずか3年で天皇の政治は終わりを迎えました』

みなさんだったらどうしますか?

〈みなさんが武士のリーダーだったらどうしますか〉

A 最後まで後醍醐天皇を守って戦う。
B 後醍醐天皇を裏切り、武士の利益のために戦う。

【解説】この発問は、縄文時代を終わらせるか否か?という発問と似ています。史実にもとづいて考えるわけではありませんが、けっこうおもしろい意見が出ます。Aはある種の理想や理念や人としての心情を大切にする立場であり、Bはある意味の現実主義で、政治的な実効性や社会の秩序、などを大事にする立場です。歴史ではこの両方の立場がいつもせめぎあっていると思います。

Aの考えが、楠木正成と新田義貞でした。
Bの考えが、足利尊氏でした。

そして全国の武士たちの多くは新しいリーダー足利尊氏に味方して、後醍醐天皇を京都から追い出し、その政治を滅ぼしました。

●1338年 室町幕府(京都) 

『足利尊氏は、朝廷(後醍醐天皇以外にも皇族はいらっしゃるので新しい天応が即します)から征夷大将軍に任じられて、京都の室町に新しい幕府を開きました。ここから室町時代が始まります。
しかし、このあとの50年間は日本の歴史の中でとても不思議な時代になります』

不思議な時代
〈この50年間は日本の歴史の中でとても不思議な時代です。次のどれでしょう?〉

 A 天皇が二人いた  B 将軍が二人いた

正解はAです。

『後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れそこに皇居・朝廷をつくりました。
これが南朝です。尊氏は京都の朝廷に残った天皇から征夷大将軍に任命されて、室町に幕府を開きました。
京都の朝廷が北朝です。しばらくの間は、南朝を支持する武士もいて押しつ押されつしました。
 また、尊氏も皇室を尊敬する気持ちは厚く、
「いまは対立してしまったが、後醍醐天皇なくして室町幕府もなかった。後醍醐天皇は大恩人だ」
とそのために天竜寺という大きなお寺をつくったりしました。
尊氏は南朝を攻め滅ぼすことはかんがえなかったのです。
いつか時が解決してくれるという気持ちだったでしょうか』

●南北朝時代
京都の朝廷(北朝)+室町幕府  VS  吉野の朝廷(南朝)
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『この南北朝時代はなんと半世紀以上続きました。しかし、天皇陛下が二人いるというのは、国の中心が二つあるようなもので、正しい国の形ではありません。この異常な二人天皇時代を、話し合いで一つにもどしたのが、室町幕府の第三代将軍足利義満でした。次回は義満のお話です』


 

鎌倉時代の文化

鎌倉時代の文化
●網羅的でいい授業ではないのですが、自分の好きな鎌倉文化のイメージを伝えようとしています。鎌倉仏教はちょっとむずかしいのでとり上げていません。


1 鎌倉時代の文学

*以下の作品を範読し、解説し、暗唱させる。

●『平家物語』 
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす
 驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し
 猛き人もついには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ

●鴨長明『方丈記』
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまる事なし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し

●『新古今和歌集』
 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮     藤原定家
心なき身にも あはれは しられけり 鴫立つ沢 の 秋の夕暮れ 西行

●『金槐和歌集』(三代将軍・源実朝)
 大海の磯もとどろによする浪われて砕けて裂けて散るかも  
箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に浪の寄るみゆ


2 彫刻
●大きく拡大コピーして、以下の図版を見せる。運慶と慶派についてかんたんに説明する。
運慶
無着像
無着

毘沙門天像
毘沙門天

 湛慶
ばす仙人像

雷神像
雷神

 定慶
金剛力士像(興福寺)
金剛力士

金剛力士像(東大寺)

*頼朝の東大寺復興プロジェクトと運慶一派の活躍を話す。
 

3 絵画

*大きく拡大コピーして、以下の図版を見せる。

平治物語絵巻(伝住吉慶恩作)
平治物語絵巻

伝源頼朝像(伝藤原隆信作)
源頼朝

4 鑑賞
*8枚の図版を教室周囲に掲示し、見て回る。
*「一つやると言われたらどれがほしいですか?」と問い、挙手で人数分布を調べてから、それぞれを選んだ理由を発表させる。
 
(まとめ)
『芸術や文化はその時代の精神を映し出しています。武士の時代の武士の文化、たくましさ、はげしさ、無常観と運命の精神、はげしいリアリズム・・・(といった感じでまとめます)』

【解説】ブログでは示せなかったのですが、この授業は迫力のある大判の写真・コピーを用意することが大事です。児童から「ゥオー!」という声が出ます。

北条時宗と蒙古来襲

北条時宗と蒙古来襲
●わが国が国土を本格的に攻撃されたのは、この時と、大東亜戦争(太平洋戦争)の2回です。硫黄島や沖縄の戦いと同じ比重で、北条時宗と鎌倉武士の戦いを顕彰しなければなりません。児童がおのずから感謝の念を抱かざるを得なくなるような、共感の授業をめざしましょう。


1 フビライの国書

*チンギス=ハン(ジンギス=カン)と板書する。

*モンゴルの伝説で蒼き狼と呼ばれたこの人物が大帝国を築いた。
 歴史上最強のモンゴルの騎馬軍団

*孫のフビライ=ハンの時代にモンゴル帝国は元を国号とした。
*元の版図を見せる。

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*1231年、朝鮮半島(高麗)が支配された。
「とらえられた男女は20万6600人。殺された者は数知れなかった。」

*板書:1268年、ジンギスカンの息子のフビライから国書が届いた。

*鎌倉幕府のリーダーは執権北条時宗18歳。
■人物写真
北条時宗

■プリントを配り、読む。




【皇帝フビライからの国書】
 

 天のいつくしみをを受ける大蒙古皇帝が、日本の王に書く。

 私の考えでは、おまえのような小さな国の王というものは、
国境を接している大きな国と友好につとめるものだ。
 
 私は、天の命令で、世界を支配している。
だから、まわりの小さな国はみな、私の力をおそれ、尊敬して、したってくれている。
 いまや中国も朝鮮も、私の支配下にある。

 昔から、考え深い者は、世界を一つの家にしたいと願うものである。
 おまえの国も、他の小さな国と同じように、私の国に使いをよこして、仲良くしようと努力すべきではないか。

 わざわざ軍隊を送っておまえたちを征服するようなことは、ほんとうはやりたくはない。
 日本の王よ。
 このことをよく考えて、返事をよこすがよい。


    至元三年(一二六八年) 八月 大蒙古国皇帝フビライ

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〈みなさんが鎌倉時代の日本のリーダーだったら、この国書を受け取ってどうしますか?

A言うことを聞く  B無視する   C断る

 A~Cの中から、一つ選んで、その理由をノートに書きなさい〉

*意見分布を取り、板書する。それぞれの意見を発表させる。

【解説】仲よくなるのはいいことだという平和主義者もいる、こんな大帝国を敵に回すのは賢くないという現実主義者もいる。が、半数以上は、フビライの見下したような物言い(私がいかにもそういううふうに読むから)がおもしろくない。元に支配されたくないという思いは同じだが、元を相手に戦争になっても大丈夫かという迷いもある。負けたら日本は滅びてしまうだろうと。なかなかおもしろい話し合いになります。
 
*北条時宗の考えはこうだった。
「この手紙は友好を求めているように見えるが、フビライは日本を支配したいのだ。日本の独立を守るためには戦うしかない。返事は出すな」

*使者は4回やってきたが、4回ともこれに返事は出さなかった。

2 文永の役
●地図を示す
*1274年(文永11年)十月、時宗24才。 ついに元の大軍がおしよせてきた。 軍船900  兵士33000人

*その半分は高麗軍(朝鮮)兵士、船も元の命令で高麗が造った。

*「対馬の武士たちは奮戦したが全滅。女たちは掌に穴を空けられて縄を通され、船べりにつながれて連れ去られた」

●「蒙古来襲絵詞」から元の戦法を見せる

〈日本の武士が見たことがなかった戦い方があった。この絵を見て、それを見つけなさい。〉

*集団戦、銅鑼の音、毒矢、てっぽう(ばくだん)

『博多の町は焼かれ、武士たちは大敗北して、南に敗走しました。天智天皇の水城まで退き、夜になって、博多の町が燃え尽きるのを呆然として見ていました。そして、これで日本も終わりかという思いで眠りました。
しかし、その翌朝のことです。海に浮かんでい無数の軍船は1隻残らず消えていまた。』

*「暴風雨で沈んだ」説と「大勝利と判断して帰った」説がある。後者は、「これだけの力の差があれば、日本は元の家来になると判断していったん引き上げた」というもの。

3 弘安の役

*このあとまた国書がきた。
フビライは戦いは圧倒的に優勢だったのだから、簡単に日本は屈服すると考えたらしい。
しかし、時宗は使者を鎌倉の海岸で斬って捨てた。
武士たちに自分の断固たる意志を見せるためだった。

〈北条時宗は必ずもう一度攻めてくると考えて、国を守る備えをしました。国が滅びるかどうかの史上最大のピンチです。どんなことをしたでしょう?〉

*アイデアを発表させてから、北条時宗の対策を教える。

1 朝廷と幕府が団結して神や仏に祈る。
2 上陸させない作戦・・・・・・・・・・博多湾の海岸沿いほぼ全面に石垣(石塁)を築いた。
3 情報収集(スパイ)・・・・・・・・・時宗は、いつ攻めてくるかを知っておいた。

【解説】2は知っている児童がいます。『なぜ石垣を築くけば勝てるのか』と切り返しましょう。騎馬軍団は上陸さえないで海上で戦え、というのが時宗の作戦でした。3は、似たような意見が出てきます。情報戦の重要性を教えましょう。1は児童には思いつきにくい「対策」です。だから、ここで教える必要があります。彼らはしんけんに祈ります。ひたすら祈ることは現実でした。そして天に通じます。

*1281年(公安4年)6月~7月。 弘安の役

*軍船4400  兵士140000人 ■前回との差!!をつかませる。

■6月東路軍が上陸開始。石塁にそって陣をしいた武士達は「一歩も上陸させるな!」と雨のように矢を射った。さらに海上の元船に小舟で押し寄せ、乗船し、勇敢に奮戦して元軍をひるませんた。ついに元軍は船に引き上げた。

■江南軍10万人が到着。しかし、なぜかすぐには攻めかてこなかった。

■7月30日、台風が元軍の大船団を襲った。
大荒れに荒れる海に、ほとんどの船が沈没した。
船同士がぶつかり合って壊れるものもあった。海に投げ出された無数の将兵が海の藻屑と消えた。

■その台風が去った後に、やっとの思い出海岸にたどり着いた元軍に、武士達が襲いかかり全滅させた。

『こうして元軍は「十のうち、生きて帰る者一、二だった」と、元史に記された惨敗でした。』

*勝因は「武士の命がけの働き」と「台風(暴風雨)」だった。
台風の時期まで延びていたのは、鎌倉武士の知恵と勇気の結果であることをおさえる。

4、まとめ 
『弘安の役の3年後、北条時宗は34歳の若さで亡くなりました。18歳で元の国書に決断を下してから、16年間、ただひたすら国を守るために元と戦い抜いた人生でした。日本の恩人です。
 元寇のあと、鎌倉幕府もおとろえていきました。そして50年後に鎌倉幕府は滅びました。
そのいちばん大きな原因は、元寇の恩賞を与えられなかったことでした。
外国の侵略と戦って勝利しても、新しい土地は得られません』

『これが平安時代でなくてよかったね。もし武士の時代になっていなかったら、このとき日本は滅びていたかもしれません。鎌倉武士たちの命がけの戦い、時宗の知恵と勇気、そのおかげで、自然の猛威さえ味方につけられた日本の勝利でした。こうして日本の独立と安全が守られました。
もしこのとき祖国が滅びていたら、いま私たちはここにいないでしょう』

源頼朝と鎌倉幕府

源頼朝と鎌倉幕府

●この授業の最も重要な教育内容は、源頼朝が朝廷(天皇)を守り抜いたことです。
源頼朝は、平氏のように朝廷には拠らず、鎌倉に幕府という新しい武家の政権を樹立しました。
そのとき、頼朝は、朝廷を打倒せず(革命は起こさず)、天皇から征夷大将軍に任命していただいて(天皇によって政権の正統性を承認していただいて)、天皇を国家の中心とした聖徳太子の国づくりの大方針を継承しました。
この後700年ほど続く武士の政治がすべてこの方針を継承したことによって、わが国は世界に類例のない国家のすがたを今日まで伝えることになりました。武力革命を否定した国日本の歴史は頼朝に始まるのです。

1 新しい日本人(武士)の願いにこたえる政治

●「一所懸命」について教える。土地のために命をかけた武士。自分の土地所有を認めてくれる頼りになる権力(新しいリーダー)ががほしかった武士たち。
●頼朝像を黒板に貼る。
●頼朝の新しいアイデアとは、この全国の武士たちの願い「政府から、おまえの土地はおまえのものである」と認めてもらいたいという願いにこたえ、実力で守ってくれる政治、武士による武士のための政治を実現することでした。
頼朝は、そのためには、太政大臣になって朝廷の中で政治を進めるやり方はダメだと考えていました。

【問題】みなさんが頼朝だったら次のどれを選びますか?
 A:朝廷(天皇)を滅ぼし、新しい武士の政府をつくる。
 B:朝廷(天皇)から政治を進めることを認めてもらい、新しい武士の政府をつくる。

『Aは実力で国をまったく新しく作り直してしまうやり方です。古い政権が武力によって打倒され、新しい政権が始まるのは、中国方式(易姓革命という)であり、世界のあらゆる国々の歴史に見られるやり方です。』
『Bは天皇に政治を行ってよいと認めてもらった上で、貴族に替わって武士が政治を進めるという考えです。天皇中心という国の形は変えないやり方です』

【解説】この授業の核心はこの政策選択発問です。
ノートに理由も書かせて、話し合わせます。
もし時間がなくなるようなら、以下の展開はプリントを渡し、さらっと解説して終わってかまいません。
ぜなら、「大化の改新の授業」と同型のこの授業こそ、日本のアイデンティティーである「天皇中心の国」を学ぶ学習だからです。

【解説】政策選択発問は、正解か不正解かを問うものではありません。
AとBという二つの政策の可能性を、これまでの歴史学習(既習事項)をもとにして、学習者の心情や思考によって選ぶことに意味があるからです。
実際の歴史はどう進んだかという一つの答えは出るけれど、別の選択肢が選ばれた可能性はあるのですから、もう一つの答えが間違いだということにはなりません。
ここで自分なりに考えて、選ぶことの価値は、どちらを選んでも等価なのだと話しましょう。
理由を考えて選ぶことに意義があるのだと、しっかり教えましょう。
それこそが歴史的な思考だからです。

●5分ほど時間を与え、ノートに書いたことを発表させます。これまでの授業をもとに考えると、Bが優勢になりますが、Aもけっこうがんばります。おもしろい話し合いになります。

2 政治の天才頼朝のアイディア

●資料「政治の天才・頼朝」を読み、実際はどうだったかを知る。


【お話】政治の天才・源頼朝のアイデア

源頼朝はBを選びました。
 頼朝は、当時の朝廷のリーダーだった後白河法皇にこんな手紙を書いています。

「わたしたちは、朝廷をお守りするために平氏をほろぼしたのです。法皇のご命令にそむくようなことはいたしません。」

 頼朝は、朝廷(天皇)から征夷大将軍という位をもらいました。

 その位は、武士のかしらとして政治を行うことをゆるすぞという意味でした。

 頼朝は、朝廷を武力でほろぼして自分が日本の王になる実力は持っていましたが、聖徳太子がつくった「天皇中心の国のかたち」はこわさないことにしたのです。

 日本国のまとまりの中心はあくまで天皇である。武士はそのご命令でこれから日本の政治を進めていくのだ。それが頼朝の考えでした。

こうして頼朝は1192年に鎌倉幕府という新しい政府を作り、武士による武士のための政治を始めたのです。武士の政府のことを幕府といいます。そしてそのトップが将軍(征夷大将軍)です。
 幕府のあった場所は鎌倉、いまの神奈川県鎌倉市です。この鎌倉に幕府があった時代を鎌倉時代といいます。

 この頼朝のアイディアによって、天皇(朝廷)は国のために祈り、武士が実際の政治を進めるという新しい国のかたちが生まれたのです。

 天皇は日本という国のまとまりの中心であり、実際の政治は武士の幕府が進めるという国の形です。

 世界の歴史では、力のある者が、古い支配者を滅ぼして新しい国をつくるのがふつうでが、わが国の武士たちは「国の中心は天皇である」という考え方だけは変えなかったのです。

政治の天才頼朝のアイデアのおかげで、わが国は大昔から続いてきた「天皇を中心とする日本」としてつながっていくことになったのです。

 そして、天皇と貴族の朝廷は、政治は武士にまかせて、神様に日本の平和を祈ったり、昔から続いた日本の伝統文化や日本らしい行事を守り伝えることをおもな仕事にするようになったのです。

 頼朝が始めた武士の政治はこのあとおよそ七百年も続きました。鎌倉幕府から五百年後、徳川家康は、頼朝に学んで江戸幕府をつくります。源頼朝はその後長く続いた武士の政治のお手本となったのです。



●資料「鎌倉幕府の仕組み」を配り、幕府(将軍、守護、地頭)などについて説明する。
●一所懸命・御恩・奉公について教える。

●しばらくは二重政府状態の日本であるこもを説明したい。
天皇・・・朝廷・・・国司・・・・・・・非御家人・農民(西日本)
天皇・・・幕府・・・守護・地頭・・・・御家人・農民(東日本)

3 その後の鎌倉幕府

1 二代将軍:頼家・・・北条氏によって暗殺された

2 三代将軍:実朝(弟)・・・政治から遠ざかり、和歌や学問の道を好んだ、頼家の子:公暁に暗殺された。政治の実権は執権:北条泰時に移ってた。

3 北条氏が「執権」という役職で政治の実権を握った。その後の将軍は貴族や皇族から選ばれた。

4 承久の乱・・・・後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒の兵を挙げさせた。武士にとっては朝廷を滅ぼせる絶好のチャンスだった。いったん兵を率いた北条泰時は、わざわざ引き返して父義時に聞いた。「もし上皇ご自身が兵を率いてこられたらどうすべきか?上皇に弓を引くことになるがよろしいか?」義時は答えた。「もし上皇ご自身が出陣してこられたら、武器を棄てて降伏せよ。しかし、敵が武士だけであれば、あくまで戦って幕府を守ろうではないか」
頼朝の妻、北条政子の言葉「頼朝の殿のご恩に報いよ」も紹介しよう。

5 幕府が勝ち、上皇は隠岐に島流し。朝廷と幕府の二重政府状態は終わり、天皇によって政権を認められた鎌倉幕府による統一国家が成立した。

4 まとめ
*源義経を倒した頼朝は、義経に比べるとあまり人気はない。(ここで判官贔屓の伝統を教えよう)。しかし、非情で冷酷な頼朝の実行力とアイディアがなければ、聖徳太子の国づくりの大方針は受けつがれていなかったかもしれない。頼朝の強さが国のかたちを守り、日本の伝統を守るとともに、新しい政治を創造したのだといえるでしょう。

源義経と源平の戦い

源義経と源平の戦い

1 赤旗と白旗

*運動会の紅組と白組の応援旗を見せる。

『この紅組と白組の対決は歴史上のある事件がもとになっています。それは何でしょうか?』

*源氏と平氏の戦い(源平の戦い)
『平氏の旗は赤(紅)旗、源氏の旗が白旗です。全国の武士が二つの武士団に分かれて戦いました』

〈どちらが勝ったのでしょうか?〉

*源氏が勝ち、平氏が滅びた。

『源氏、つまり白組が勝ち、平氏つまり、紅組は負けて滅びてしまいました。平清盛を棟梁とする平氏の繁栄は、およそ20年しかもたなかったのですね』

*平家物語の冒頭を読む。

【解説】小学校で学級担任だったとき、朝の会などで古典の暗唱を日常的にやっていました。『平家物語』冒頭は定番だったので全員で大きな声で暗唱できました。この授業までに暗唱できるようにしておくと楽しいです。

●今日は、運動会の紅組対白組のもとになった歴史的な大事件「源平の戦い」と、この合戦のMVPだった源義経について勉強します。

2 義経と源平の戦い

おもな登場人物を紹介する。肖像を黒板に貼る

平清盛(1118~1181)
平清盛

源頼朝(1147~1199) 兄
源頼朝


源義経(1159~1189) 弟
源義経


*次の板書をする。

1159 平治の乱
平清盛の時代(20年間)
1180 源頼朝(33)が関東の武士団をまとめて立ち上がる。
弟義経(20)と再会する。

*義経(牛若丸)のエピソードを話す。
①鞍馬寺で天狗から武芸の訓練を受けた。
②少年時代、五条橋の上で弁慶をやりこめ家来にした。
③15歳のころ、東北の藤原氏の下に逃れ大事にされる。
 ④その途中で元服し、源九郎義経と名乗る。

『その義経が、兄頼朝から平家打倒の大将に任命され大活躍をしたのが源平の戦いです。有名な戦いは次の三つです。』

*以下を板書し、合戦の場所を教科書で確認する。

1184年2月 一ノ谷(いちのたに)の戦い
1185年2月 屋島(やしま)の戦い
3月 壇ノ浦(壇ノ浦)の戦い →平家の滅亡

*VTR「その時歴史が動いた:義経追討」から上記の合戦場面を見せる。ビデオがなければ紙芝居などで合戦ごとのエピソードを物語りたい。ひよどり越えの逆落とし、那須与一の扇落とし、義経の八艘飛び、などである。

【解説】因幡の白ウサギや八岐大蛇などの神話、京の五条の橋の上の義経弁慶の出会い、この源平合戦、忠臣蔵などなど、これらのお話しはつい最近まではふつうの日本人の常識だった。義務教育としての歴史教育には、そうした近代の日本人がアイデンティティーとして大事だと考えてきた先人の物語を語り伝えることも、大切な役割として求められているのだと考えています。

3 兄と弟の対立

『平家を滅ぼしたMVPは源義経でした。この間、兄の頼朝は本拠地鎌倉で武士たちをまとめる政治を進め戦争には参加していません。義経が勝利の英雄として鎌倉にもどってきました。このとき義経に思いもかけない運命がおそいかかります』

〈頼朝は義経を鎌倉に入れないばかりか、会おうともしませんでした。そして、京都 に追い返してしまいます。そして最後には殺します。どうしてでしょうか?〉

*ヒントの年表を見せて考えさせる。



(1184年)一ノ谷の戦いの後、義経は朝廷から高い位をもらった。義経はこの名誉な出世を頼朝に知らたが、頼朝は怒った。
(1185年)義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした後、京都で貴族の娘と結婚した。この結婚を頼朝は喜ばなかった。



*数名に発言させる。
*プリント「頼朝はなぜ義経を追討したのか?」を読む。



 頼朝はなぜ義経を追討したのか?

■まず、さきほどの年表を見ましょう。

1184年 一ノ谷の戦いの後、義経は朝廷から高い位をもらった。義経
      はこの名誉な出世を頼朝に知らせるが、頼朝は怒った。
1185年 義経は平氏を滅ぼした後、京都で貴族の娘と結婚した。
       この結婚を頼朝は喜ばなかった。

義経は、戦いを進めながら、朝廷の中で出世していきます。戦いに強いのに心は優しい義経は、貴族たちの人気を集めていきます。義経はこのことを源氏一族にとってたいへん名誉なことだと考え、当然頼朝も喜んでくれると考えていたようです。 義経は戦争の天才で、新しい作戦を考えるのが得意でしたが、政治については古い考えをもっていたことがこの年表でわかるのです。

 天皇を中心に国が一つにまとまっています。その下に貴族たちがいて実際の政治を進める政府「朝廷」があります。これが昔からの国の政治の仕組みでした。貴族たちは出世競争をして藤原氏一族が高い地位をひとりじめしました。そして天皇家と親せきになってその地位を守ろうとしました。武士であった平清盛も藤原氏と同じ考えでした。平氏がやったのはまったく藤原氏と同じことでした。そして平氏もいつのまにか貴族のようになってしまい、ついに源氏に倒されたのです。

 何百年続いた国の仕組みをうたがうのはむずかしいことです。義経もまた、源氏一族が朝廷の中で高い地位を得て、源氏が栄えることが、この戦いの目的だと考えていました。もしこの考え方を進めると、源氏もまた藤原氏や平氏のように、出身は武士だがやっていることは貴族と同じという結果になったことでしょう。

 頼朝はまったくちがう考えを持っていたのです。古い仕組みを根本的に変えてしまう新しいアイデアを持っていたのです。

 頼朝は、右の年表のようなできごとから義経の考えを見抜き、義経は自分の考える新しい政治の障害になると考えたのです。義経をこのままにしておけば、いずれは貴族たちに利用されて、自分に戦いをいどんでくると予想したのです。

 こうして、頼朝は追っ手をさし向けて、1189年、東北の平泉で義経を殺させました。

 31歳の若さで亡くなった戦いの天才義経。源氏のために大活躍をしながら、非情で冷酷な兄に殺されてしまった義経。日本人は長い歴史の中で、この悲劇の英雄を愛し続け、たくさんの伝説や物語が生まれました。



●武士としての独自の政権をうち立てようとしていた頼朝にとって、平氏と同様の考え方で朝廷の中に入っていこうとする義経(しかも人気があった)はたいへん危険な存在だった、とまとめる。

4 まとめ
日本のリーダーは日本全体に責任を持たなくてはいけない。頼朝は、母親が違うとはいえ、血のつながりよりも政治を選んだ。当時の武士の考え方で、兄弟や親子で戦うことは珍しくなかった。

武士の誕生と平清盛

武士の誕生と平清盛
●武士を新しい日本人と呼んで、その誕生のあらましと平清盛を教える授業です。


1 新しい日本人:武士(侍・もののふ)
●絵「武士の館」を読む。
武士の館


『今日は絵を読みます。この絵は10世紀頃の日本のある地方の風景です。よく見て、気付くこと、わかること、思ったことなど、どんなことでもいいですから発表してください。』

●①風景 ②家 ③人 に分けて発表する。

①寺、神社、農村、広がる水田、田植え、馬を洗う、
②板葺き、板敷きの質素なつくり、農民の家よりも大きい、深い堀、高い塀、物見櫓、馬小屋、縁側、
③武器(刀・弓)、よろい、見張り、客、牧狩り、流鏑馬、武芸の訓練、農民に指図する人
『ここに描かれている人々を武士といいいます。今から1000年ほど前、貴族でも農民でもない新しい日本人が現れてきます』
【解説】以前は農民が武装して武士になったと考えられていたが、現在は武士の出自は貴族であるという説の方が有力である。

『この人達は、なぜ武装しているのでしょうか?』

・自分の土地を自分で守るため。
・泥棒や強盗が増えた。
・政府が安全を守れなくなったから、

『8世紀に国が完成して、奈良の大仏を全国の力で作るほどまとまっていた国が、わずか100年から200年でもう崩れてきて、このころの政府は国民の安全と平和な秩序を守れなくなっていたのですね。 どうしてこんなふうなてしまったのでしょうか?』

*貴族が自分の楽しみばかり考えて、国民のための政治を行わなかったから。
*上品な貴族にとって戦いは野蛮なことだからやりたくないと思った。
*血は汚れているから、命をかけて戦うなど、上品な貴族のやることではない。

『盗賊、強盗、海賊、放火など、犯罪が増えて、平和な秩序が失われてしまったので、農民達や、役人として地方にやってきた貴族たちが、自分たちの平和は自分たちで守ると、そのために自ら武器を持ち、武芸に励み、いざという時にそなえるようになったとい うわけです。このようにして、みなさんのご先祖様の中から、貴族でも、農民でもない新しい日本人、武士が生まれてきたのです。平和と安全は戦って守るという考えですね。』

●貴族の館の絵を見せ、都と地方を対比してみせる。


2 武士団の形成

『この時代の地方の風景とちょっと似た風景を、これ以前の時代に見たことがあるのですが何時代だったでしょうか?』

*弥生時代

●環濠集落の絵を見せる。
『高い塀(柵)と堀で囲み、戦う姿勢を見せているムラです。この絵と今日考えた絵のいちばん大きな違いは「国家」があるかないかです。弥生の村は少しずつまとまっていって、やがて統一国家日本が誕生しました。
 いま、国はあるんだが、平安京の中央政府が国内の平和と安全を守れなくなっていると考えればいい。そこで、数百年前と似た風景になっているわけです。でも歴史の流れには似ている所があって、この武士達がしだいに大きなグループを作っていく。このグループを武士団といいます。まとまっていこうとするんだね。そうして、国内の武士達は二つの大きなグループにまとまっていきました』

●この二つの大武士団が「源氏と平氏」です。
 源氏は56代清和天皇の子孫、平氏は50代桓武天皇の子孫を名乗ったグループです。


3 貴族と武士

『さて、いよいよ国が乱れて、国のリーダーである貴族の家にも泥棒が入ったり、政府の役所が海賊に襲われり、武士団の反乱が起きたりしました。貴族たちはどうしたでしょうか?』

*武士を使って守らせた。 
●絵「さぶらう者」を見せる。貴族を護衛するさむらい(『法然上人絵伝』)
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『この武士が、いつまでも貴族に使われる身分のままでいられるでしょうか』

*939年 源純友の乱:反乱を起こした武士と反乱をおさえようとして戦う武士。
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*939年平将門の乱:藤原秀郷が反乱をおさえ、平将門の首をかかげて都に帰ったところ。
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『やがて武士が、貴族を押しのけて、政治の実権を握るようになっていきます』

●最初の人が平清盛
*平清盛の肖像を黒板に貼る。
●プリント「平治の乱と平清盛」を読む。


平治の乱と平清盛
貴族の政治によって国が乱れていくなかで、しだいに武士なしでは国が成り立たなくなっていきました。
 けれども、武士がどんなに働いて貴族の財産や命を守ってやっても、貴族たちは彼らをバカにしていました。血を流して戦うような人は、身分の低い下品な人たちだというわけです。武士たちも、くやしいけれどこの身分のちがいにはなかなかさからえませんでした。
その力関係がついにひっくり返るときがきました。それは京の都(平安京)で起こった戦争がきっかけでした。1159年(平治元年)の平治の乱です。
それは貴族どうしの争いが原因でした。結果は次のようになりました。

貴族のリーダー  武士のリーダー  

【勝者】 藤原信西(戦死) 平清盛  
 
【敗者】 藤原信頼(死刑) 源義朝(死)  
 

「戦いになるとひざががくがくふるえ、顔は真っ青になり、馬にも乗りそこね、顔をすりむき、鼻血を出した」「負けてからは命だけは助けてくれとたのんだ」

 貴族のおくびょうで情けない態度は味方の武士にまで笑われるありさまでした。
 こうして、貴族たちはもう、武士を単なる自分たちの「道具」としてバカにしていられなくなったのです。
 平治の乱の後、平清盛は朝廷の重い役につき、数年後には太政大臣(今の総理大臣)にまで出世しました。低い身分だった武士が、日本のトップの地位になったのです。
そればかりか、平清盛は自分の一族をみな朝廷の高い地位につけ、もはやだれも平氏にはさからえなくなりました。「平氏でなければ人ではない」というくらい、平清盛の一族がおごりたかぶる世の中になったそうです。
 平清盛は中国(宋)との貿易を始め、外国とのつきあいを再開しようとしました。このように、今までの貴族にはない新しいことをやろうとはしたものの、清盛の一番の願いは「朝廷の中で、自分の一族(平氏)が、かつての藤原氏と同じような大きな権力をもつ」ということだったようです。
 またもや、自分の娘を天皇のおきさきにして、自分のまごを天皇にしたのです。藤原道長方式のまねでした。これは武士という「新しい人」をやめて、貴族という「古い人」にもどってしまったのと同じことでした。武士がトップに立ったけれど、やったことは貴族と変わらない。それが平清盛の限界でした。
さて、平治の乱は源氏VS平氏の戦いの一回戦目でした。平清盛は源義朝の一族をみな殺しにはしないで助けました。それが源頼朝と源義経です。頼朝13才(伊豆の蛭が小島)義経1才(鞍馬寺)。この二人の少年がやがて新たな歴史を切り開きます。成長した二人は、源氏VS平氏の戦いの2回戦目を始めることになるからです。



4 まとめ
『平安貴族は日本の伝統文化と天皇制度を守りましたが、国政のリーダーとしては失格だったかもしれません。平安時代の後半は世の中が大きく乱れ、治安も悪化していたからです。しかし、それでも平安時代は400年も続きました。そして、世の乱れと治安の悪化から武士という新しい日本人が生まれ、国づくりは新しい段階に進んでいきます。天皇制度と武士という両輪が、日本の歴史をいっそう独自性のある、世界に誇れる姿にしていくことになります』

平安貴族ディベート

平安貴族ディベート 
●これは、オプション授業です。教科書は支配者(悪)VS被支配者(善)というマルクス主義の階級闘争史観に毒されていました。私たちの異議申し立てで少しずつ変わってきてはいますが、ぜいたくな貴族と虐げられた民衆という対比がいたるところに見られます。
●しかし、世界の歴史は富を特定の階層に集中することによって、いわゆる「人類の偉大な文化」が形成されてきたわけです。大昔から富が平等に分配されていたら、ただ均しく貧しいばかりで文化は生まれなかっただろう。そういう見方も重要であると考えて、貴族のぜいたくが文化を生んだという見方を教える討論をつくってみました。

「平安貴族はリーダー失格」VS「平安貴族はすばらしい」
*資料を読み、どちらかの立場を選ばせる。
*その理由をノートに書く。
*書いたことをもとに話し合いをさせる。



【平安貴族は気に入らない!】

 私は、藤原氏をはじめとする平安時代の貴族が気に入らない。

 第一に、ものすごい財産がある。それはふつうの国民(農民)から取り立てた税だ。それなのに、働いている人たちとの貧しさとくらべると、生活レベルに差がありすぎる。

 第二に、娘を天皇のおきさきにして政治の権力をにぎりながら、奈良時代までのリーダー達とは大ちがいだ。
 外国とのつきあいをやめ、国を守る軍隊までなくしちゃったのだ。
 地方の政治も、いまの警察の仕事もみんな地方の役人にまかせっきりで、政治らしい政治は何にもしていない。しかも、大化改新で国のものになったはずの土地をまた自分のもの(荘園)にしてしまった。
 つまり国のリーダーとしての責任を果たしていないんだ。

第三に、ありあまる財産を自分たちのぜいたくのためにだけ使っている。ごうかな家に住み、きらびやかな着物を着て、遊んでばかりいたことだ。
 貴族がやったのは、けまりやとうけいなどで遊ぶこと、恋をすること、文章や和歌を作ること、神さまのたたりから身を守るおまじない、さまざまな儀式。これだけだ。こんなことでは日本がどうなるのか心配である。

 以上の理由から、私は「平安貴族は気に入らない」という意見である。


【平安貴族はすばらしい!】 

私は平安貴族はすばらしいと思う。

第一に、彼らがぜいたくをしたおかげで、日本の文字(かな)が生まれたことだ。かなは、平安貴族から未来の日本人への最高の贈り物だ。
 漢字とかなを使って日本語を表せるようになったから、日本らしい詩、日本らしい物語、日本らしい学問が生み出せるようになったのだ。私は、漢字だけの教科書を読んで漢字だけの作文を書くなんてまっぴらだ。

 第二に、紫式部の『源氏物語』という大長編小説が生まれた。これはまだ読んだことがないが、世界でいちばん最初の女性が書いた長編小説だ。ほかにも、『枕草子』や『古今和歌集』など日本らしい文化が花開いた。これらの文学は、世界に誇れる私たち日本人みんなの財産になったんだ。

 第三に、貴族の儀式から日本の行事がつくられた。正月・節分・ひなまつり、お盆など、いまに残る日本らしい季節の行事も貴族のぜいたくなくらしのおかげである。

私は、たとえその時代の日本人の多くが貧しくて、貴族が政治らしいことを何もなかったとしても、平安時代の貴族たちのぜいたくのおかげで、世界に誇れる日本文化が生まれたことを喜びたい。

 以上の理由から、私は「平安貴族はすばらしい」という意見である。



【まとめ】
この貴族のありさまはやはり国家のリーダーとしてはたぶん失格でしょうね。もしこの400年の平安時代にどこか強い国が攻めてきていたら、日本はなくなっていたかもしれません。でも、またまた日本は幸運でした。幸運だったからできたことでしょう。
 しかし、一部のリーダー層が贅沢をしていなければ日本の文化というものはなかったでしょう。いまから100年ほど前に身分制度は世界中でなくなりますが、それまでは身分の違い=生活水準のちがいは歴史の常識だった。もし、平安貴族たった150人ほどのぜいたくをやめてみんな平等にしていたら、日本には文化も生まれず、何も残らなかったことでしょう。これは後の武士の時代にもいえることでしょう。
だから、事実だけを見れば、彼らが贅沢をしてくれたおかげで、私たちは日本人の文字をもち、世界に誇れる『源氏物語』を持つことができたということになります。


仮名の発明と日本らしい文化

仮名の発明と日本らしい文化(紫式部と清少納言)
●1000年以上前に女性が文化の最先端にいた文明は日本文明しかありません。わが国の歴史にはそういう驚きに満ちています。この小さな列島の歴史にどうしてそんな奇跡のようなことが起きるのか。子どもたちと一緒に感動したいものです。

1 紫式部と清少納言
『縄文時代には土器の発明、古墳時代には世界最大の前方後円墳、飛鳥時代にはには世界最古の法隆寺、奈良時代には世界最大の銅像「奈良の大仏」と、身分平等の詩集「万葉集」と、こんな小さな島国ですが、私達の先祖が残した文化遺産はすばらしいの一言です。
さて、平安時代にも世界で初めてという素晴らしい文化が生まれました。それは何でしょうか?

●紫式部『源氏物語』
 原稿用紙2000枚の大作。

●紫式部の絵を貼る。板書「紫式部・・源氏物語」
『①これは世界最古の作者のわかっている長編小説(フィクション)。
 ②世界初の女性の文学。
 ③しかも芸術的なレベルが高い。
 世界史の中で、これほど古い時代に女性たちが男性と対等に、男性を超えて活躍し、すぐれた物語や文章や歌を残した国は日本だけなのです』

●清少納言の絵を貼る。板書「清少納言・・・枕草子」
『その女性たちの2大スターがこの二人でした』
*プリントを配り、読んでいく。


紫式部
*藤原道長の娘(彰子)の家庭教師。
長編小説『源氏物語』
●天皇の息子に生まれた「光源氏」が主人公。母が身分の低い源氏だったのふつうの貴族となる。その光源氏の一生とかずかずの恋愛の物語。
●世界で最も古い小説作品。しかも作者が女性。日本が世界に誇る文学。

【書き出し】いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
【現代語訳】 どの天皇の時のことであったか、女性たちが大ぜい天皇におつかえしていた中に、たいして高貴な身分ではないけれど、きわだって天皇に愛されていた女性があった。

【エピソード】紫式部は何事もひかえめで自分の才能をかくそうとした人だった。
「清少納言はえらぶっていて、いかにも利口な女だとみんなに思わせたがるイヤな女だわ。何かというと人と違うことをやって目立とうとしているけど、いつかボロを出すことでしょうね。」(紫式部日記)


清少納言
*藤原道隆の娘(定子)の家庭教師。
随筆『枕草子』
●見たり聞いたりしたこと、考えたことなどの文章が三〇一篇。

【書き出し】春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
【現代語訳】春でいちばん美しいのは夜が明けるときです。すこしずつ明るくなってきて、山のあたりにほのかに光が見え始め、紫色にそまった雲が空に細くたなびいていて見えます。
夏は夜がいいですね。月が出ている夜も素敵ですし、闇夜でも蛍がたくさん飛び交っていたり、わずかに一つ二つの蛍がほのかに光の筋を引いていくのも、なんともいえない味わいがあるものです
【エピソード】清少納言は努力家で自信家、自分の思ったことをズバリ言う人だった。
      「私は何でも一番でなくてはいや。二番、三番なんて死んでもいやなの。」

かな(平仮名)四十七字
●同じ音(よみ)の漢字をくずして、つくられた

以呂波仁保部止 知利奴留遠  和加与太礼曽 川禰奈良武
いろはにほへと ちりぬるを  わかよたれそ つねならむ

宇為乃於久也末 計不己衣天  安左幾由女美之 恵比毛世寸
うゐのおくやま けふこえて  あさきゆめみし ゑひもせす


【いろは歌】色は匂へど 散りぬるを わが世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日超えて 浅き夢見じ 酔ひもせず

かな(片仮名)四十七字
●同じ音の漢字の一部を省略してつられた

阿伊宇江於 ●「いろは歌」も「五十音図」も天才の作品ですね。
アイウエオ
  加幾久介己 ●「いろは歌」はこんな意味です。
五 カキクケコ    花は色あざやかに咲いていてもいずれは散ってし
十 散之須世曽    まいます。それと同じようにだれの人生も変わら
音 サシスセソ    ないということはありません。深い山道を越えて
図 多千川天止    いくように生きるのだから、はかない夢など見る
  タチツテト    まいよ。酒に酔っているわけでもないのに。
奈仁奴禰乃
ナニヌネノ  
八比不部保
ハヒフヘホ
末三牟女毛
マミムメモ
也●由●与
ヤ●ユ●ヨ
良利流礼呂
ラリルレロ
和井●恵乎
わヰ●ヱヲ


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2 かな文字の発明
世界中が男性中心だった大昔に、どうして日本だけで女性文学が花開いたのでしょうか? 
その理由の一つは・・・・平安時代に偉大な発明があったからでした。
『それは未来の日本人すべてにとっての最高の贈り物となった発明品です。それは何でしょうか?』

*かな文字(ひらかな・片仮名)
*プリントを読む。
*【板書:日本文字完成の説明モデル】
●中国語で書き「青空白雲」、日本語で読む「あおいそらしろいくも」
●仮名(日本文字)で書く・・・①安於以曽良之呂以久毛(万葉仮名)
               ②あおいそらしろいくも(平仮名)
               ③青い空、白い雲(漢字仮名まじり文)  
*【説明】
  ①音読みで日本語の音を表す
②漢字をくずしてつくられた平仮名で表す。
③「漢字の意味の日本語読み(訓)+かな」で表す。(漢字かなまじり文)
のちに、音読みの熟語も使って日本語の意味も広げていくようになる。

*男性の多くは中国語を使えることがエリートだと思いこみ、頭も固かったので、漢字を「真名」、女性が発明した日本文字を「仮名」とよんで馬鹿にした。
*女性は頭が柔らかく、日本の言葉で考え、日本の言葉で気持ち表すことを大切にした。かな文字で思ったことや感じたことを素直に表現する文学をつくっていった。
*その素晴らしさに感動して、男たちも仮名を使うようになっていった。
*貴族の豊かな生活と遊びに女性も参加し、天皇やおきさきにほめられようとして、女性たちもいっしょうけんめい勉強するようになった。

→日本らしい文化が生まれた・・・かな文字・寝殿造り・十二単、大和絵など

『日本が外来の文化をあまり気にしないで、独自に成熟するようになっていきます。しかし、それは紀元前から1000年ちかくも流入を続けてきた中国文化と、それ以前からあるの日本の伝統文化とのみごとな統合があって可能になったものです(例えば、漢字を抜きにして日本人の思考はありません)。しかし、平安時代にいったん中国大陸と切れたことで、あまり外部を意識することなく自然に日本らしさが育っていきます。最も重要なのは武士の誕生です』


プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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