西南戦争

西郷と大久保:西南戦争

1 親友の別れ

◆西郷と大久保の写真を貼る。

◆2人の親友関係の話。
 加治屋町出身、子供の頃からの友人。いっしょに明治維新を進め、大久保は世界を見に行き、西郷は留守政府を守った。命がけで一つのことをやりとげた親友同士。その二人が別れを迎えている。直接には朝鮮外交(征韓論と内治優先論)。真の理由は二人の考え方の違いだった。

◆資料を配って読む。




【西郷隆盛の思い】

これまで、大久保さんといっしょに国づくりを進めてきたが、いまの政府には大きな疑問を持つようになった。
 えらくなった政府のリーダーたちは、ぜいたくな家に住み、ぜいたくなくらしをして、ただえばっているだけという人が多くなった。商人からわいろをもらう政治家もいる。 これは、西洋のまねをして金持ちでぜいたくな国をめざすからではないか。これでは、いざというときに、日本人の戦う元気がおとろえていくのではないかと心配だ。また、出世できなかった士族(もとは武士だった人々)がすべてをうばわれていくのが悲しい。
 私は、西洋の弱肉強食のやり方をまねしたくない。政府は西洋に学ぶというが、お金の力と軍事力で弱い者いじめをするような国をめざすのはおかしいのではないか。日本は西洋よりも道徳的に上の国をめざすべきではないだろうか。そのために、長い伝統のある武士の道徳(武士道)をもう一度とりもどしたいと考えるようになった。だから、私はもう今の政府にはついていけない。鹿児島に帰って、苦しい立場にある士族たちのことを考えたい。


【大久保利通の思い】

西郷さんの理想はわかるが、私たちがちょとゆだんすれば、日本がほろびるというピンチにあることを忘れてはいけない。西洋の豊かさと力を、この目で見てきた私は、力には力で対抗するしかないとかくごを決めた。
 とにかく「西洋と対等につき合える国」という目標に向かって、このきびしい現実を一歩一歩のりこえることだ。 そのためには、西洋に学んで富国強兵の方針をつらぬくしかない。工場を建て、貿易をさかんにし、お金の面でも西洋と対等な国にする。そして、その経済力で西洋と戦っても負けない強い国をつくる。それしか、日本の選べる道はないのだ。士族も一人の国民として、この現実にたえてほしいのだ。
 弱肉強食が世界の現実なら、日本もまたその現実の中で生き残っていくしかないのである。道徳的な国をめざして、国がほろびてしまっては、私たちが明治維新をやりとげた責任が果たせないではないか。
 私は、富国強兵の政治を進めて、責任を最後まで果たしたい。




読み終わってから指示する。

 これから2つのことをやります。
  1 西郷さんか大久保さん、応援をしたい方を選んでマルをつける。
 2 選んだ理由としていちばん「なるほどそうだなあ」と思ったところに線を引く。


*西郷派と大久保派の人数分布をとり黒板に書く。それぞれ線を引いたところを発表させる。



2 鹿児島の士族が立ち上がった

◆資料を配り、読む。




鹿児島の士族たちと西郷隆盛

西郷隆盛が鹿児島に帰ると、東京にいた薩摩出身の政治家や役人の多くも、政府をやめてふるさとに帰っていきました。
「大久保はあまりにも冷たすぎる」
「西郷さんは、もう一度明治維新をやりなおすお考えではないか?」
そんなふうに話し合っていたそうです。

 鹿児島では、士族たちの不満がうずまいていました。
「明治政府をつくったのはわれわれ武士の力なのに、政府のやり方はひどすぎる」
「まず武士の身分がなくなった」
「いままで明治政府から出ていた給料も、もうすぐなくなるそうだ」
「こんどの法律(廃刀令)で、刀を差すことも禁止になるというではないか」
「刀は武士のたましいである。これだけはゆるせない」
「大久保のやり方では、日本の伝統がすべて失われてしまう」
「もう一度、明治維新をやりなおそう」
「西郷さんはきっとわかってくれる。西郷さんに立ち上がってもらおう」
明治十年二月。鹿児島にはめずらしい雪の日のことです。鹿児島の士族たちは、ついに武器を取って政府を変えようと反乱を起こしました。

 西郷は、大久保といっしょに明治維新をやりとげて、もう武士の時代にはもどれないことはよくわかっていました。しかし、士族の苦しさやくやしさには、深い同情をよせていました。
 西郷は愛情の深い人でした。仲間や教え子たちを思う心の深い人でした。西郷自身は、武力で政府を倒そうとすることには反対でしたが、彼らが必死の思いで自分にたよるのを見ては、もうそれをことわることができませんでした。ここで命を捨てなければ、人の道にはずれる、と思ったのです。
 こうして、西郷は、反乱軍のリーダとなって立ち上がったのでした。

(・・・かわいい士族たちを、
      ほってはおけない・・・)




*板書:明治10年(1877年) 2月 西南戦争(鹿児島士族軍VS政府軍)

『明治政府の最高責任者である大久保利通は、ようやく国づくりの土台ができるというときになって、最大の敵を前にしました。その敵は自分のふるさとの士族たち、明治維新をやりとげた仲間でした。しかも、そのリーダーは自分がもっとも信頼 し、共に明治維新をやり遂げた親友でした。

あなたがもし大久保だったら、どちらを選びますか?

  A:だんことして戦い、西郷をたおす。
B:親友である西郷とは戦わない。

AかBを選び、その理由をノートに書きなさい。


*人数分布をとり、話し合わせる。



3 大久保の選択と戦争の結果

◆大久保は断固戦う決意を固め、政府軍を九州に派遣しました。
 それは、Aを選んだ人たちが言ったとおりです。

『政治家というのは、家族や友人のためよりも、国のため、国民のために、やるべきことを優先しなければならないきびしい仕事です。大久保は、日本の新しい国づくりを進めるのは自分の使命だ考え、強い責任感で親友の反乱をたたきつぶしました。両方の戦死者がそれぞれ6000人、けが人を入れると全部で4万人という大戦争でした。西南戦争は日本の歴史最後の国内戦争でした』

◆板書:日本の歴史最後の国内戦争
    9月 政府軍の勝利、西郷は自殺した。→武士が完全に終わった

『この戦争で、士族の反乱はなくなりました。武士という存在が完全に終わったのです。』


4 大久保の死 

◆大久保は、日本という国のために大切な友人を死なせてしまった。先に立ち上がったのは西郷でしたが、大久保は西郷が進んで立ったとは思っていません。愛情の深さからやむを得ず立ったのだと考えていました。
◆末の妹の証言を話す。
『西郷さんの死を知らされた兄は、目にいっぱい涙をためて、だまって家中を歩き回っていました。背の高い兄は鴨居に頭をぶつけても気がつかないようでした』

◆板書:「新しき日本のために、やむをえざる非情」=政治家の責任

『さて、大久保はこの10年で明治の土台ができたと考えました。西郷の死をムダにしないために、次の10年で西洋に追いつく政治をぐんぐん進めていきました』

大久保は西郷が死んだ後、どのくらいで亡くなったでしょうか?

    A:8ヶ月後
    B:8年後
    C:18年後


◆【正解はAの8ヶ月】『大久保は、西郷さんの考えに賛成だった石川県の士族に、大蔵省に出勤する途中で襲われ暗殺されました。西南戦争終結後わずか8ヶ月、これからほんとうの国造りが始まると考えていた大久保はそぞかし無念だったことでしょう。大久保の内ポケットには西郷さんからの手紙が大事そうに入っていました』

板書:明治11年5月14日 大久保暗殺される

『歴史の大きな流れを神様の目から見ると、西郷と大久保は最後まで協力して武士(士族)を終わりにして、一緒に死んでいったのだという人がいます。なぜなら、西南戦争で武士という身分が完全に終り、みんな平等な国民になり、武力による反乱がなくなったからです。ようやく明治日本のしっかりした土台ができたと言えるでしょう。』

◆西南戦争中に木戸孝允も病気で亡くなり、この戦争でこうして維新の三傑がそろっていなくなった。明治日本の土台に家を建てていったのは、大久保利通のバトンを引き継いだ伊藤博文でした。
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大久保利通と岩倉遣欧使節団

大久保利通と岩倉遣欧使節団


1 大久保利通

◆大久保利通の写真を貼る
gazo-Ookubotosimiti0.jpg

┌─────────────────────────────────┐
│ 大久保利通はどんな人に見えますか? 写真の印象を話してください。 │
└─────────────────────────────────┘

●挙手指名で印象を言わせる。

◆資料1を読む。



大久保利通と明治の国づくり

1 大久保利通は薩摩藩の身分の低い武士の家に生まれました。西郷隆盛とは家も近くでした。二人は、子供のころからいっしょに遊び、いっしょに学んだ大の親友として成長しました。
 大久保は父が藩の争いごとにまきこまれて島流しにされたため、若いころから大久保家の長男として家族のめんどうを見なければなりませんでした。貧乏をしながらも、努力して勉強を続け、やがて薩摩藩の大事な仕事をまかされるようになります。そして、幕末の日本の危機のなかで、薩摩藩全体のリーダーになり、西郷さんや木戸孝允(長州藩)らと協力して幕府を倒し、明治政府をつくりました。
 大久保は、青年時代から家族のめんどうをみるという責任ある立場で苦労しながら、現実のきびしさを乗り越えて来た人でした。理想はすぐには実現できないことをよく知っていました。明治のリーダーの中では、いちばん政治家としてのねばり強さと責任感があった人です。
 明治日本の国づくりの目標をやりとげるためには、ただ元気のいいことを言っているだけではダメだ、一歩一歩きびしい現実を乗り越えていく努力と冷静さが大事だと考えていました。そのために、常に人の意見を最後まで聞くようにしていました。対立する意見があれば、両方の意見を十分に聞いてから、自分が正しいと考える決断しました。
 そして、決断したらどんなしょうがいがあっても断固としてやりとげました。だから、大久保は部下や仲間から大へん信頼されていました。大事な会議でそれぞれが勝手なことを言ってさわがしいときでも、大久保がその部屋に入ってくると、何も言わなくても会議室は静かになり、ルールのある話し合いが進められたということです。




2 岩倉使節団

◆資料2を読む



2 明治四年、大久保・木戸・西郷の強力なリーダーシップで、廃藩置県が成功し、日本がほんとうの統一国家になりました。さてこれから「西洋と対等な国」という大目標に向けて急いで新しい政治を進めなくてはならないというときです。岩倉具視を代表として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文などが世界一周の大旅行に出かける計画がつくられました。
 明治政府のほかのリーダーたちは大反対です。
「今すぐやるべき事がたくさんあるのに、なぜ外国に行くのか?」「大久保さん、木戸さんという中心人物が、いまいなくなったら、日本はどうなるのだ」「世界一周なんてのんきすぎる」などです。
しかし、大久保はだんことして言いました。
「今すぐに、私や木戸さんのようなトップリーダーが行かなければならないのだ」




┌───────────────────────────────────┐
│ 大久保は、こんな大事なときにトップリーダーが世界を見てくるべきだと │
│ 言っています。どうしてだと思いますか? │
└───────────────────────────────────┘

●考えを発言させる。
●岩倉遣欧使節団について説明し、その目的が2つあったことを話す。

◆板書:岩倉使節団・・・(1)西洋の現実を見て日本がやるべきことを知る(リーダーが)。
            (2)不平等条約の改正交渉

岩倉遣欧使節団


◆岩倉遣欧使節団の世界一周の旅を地図でたどる。

3 条約改正の失敗

●資料3を読み、まったく相手にされなかった使節団の悔しさを話す。




3 まず、アメリカに渡った大久保たちは、幕府が結んだ不平等条約を改正する交渉を始めました。しかし、これはまったく相手にされませんでした。
憲法も国会もないような日本と対等な条約は結べないと言われてしまったのです。
大久保たちは、欧米列強と対等につき合うという目標の実現はまだまだ遠いことを知りました。






4 イギリスから学んだこと

資料4を読んで、大久保たちがイギリスから学んだことを知る。




4 この旅から大久保が学んだことを考えましょう。
 大久保はまず、イギリスに学びました。親友の西郷にあてた手紙にこう書いています。
「イギリスにあるのは、石炭と鉄だけだ。」
 イギリスも資源のとぼしいことでは、日本と同じ小さな島国でした。
 では、どこがちがうのか。原料を輸入して、それを機械を使った工場で製品に加工する。それを輸出して多くの利益をあげるのだ。これが、イギリスが豊かになった秘密だったのです。
「工場のいきおいは、これまで想像していたどころではない。どこにいっても、工場のえんとつから黒い煙が空にあがっている。大小の工場があちこちにつくられている。これこそ、イギリスの豊かさと強さの理由だ。」
「蒸気機関が発明されてからたった四十年にすぎない。七つの海を支配するイギリスの豊かさは、たった四十年の変化なのだ」



┌────────────────────────────────┐
│ 大久保利通は、イギリスからどんなことを学んだのでしょうか? │
└────────────────────────────────┘

●読みとったことを発表させ、次のようにまとめる。

◆板書A:イギリスから学んだこと*工業をさかんにし、鉄道をしき、豊かな国をつくる。

5 ドイツから学んだこと

●資料5を読む。



5 ロシア(いまのドイツ)では、ビスマルクというリーダーに会い、強く心を動かされました。ビスマルクは言いました。
「ついこのいあだまで、ドイツは、たくさんの小さな国に分かれた弱々しい国でした。だから、フランスやイギリスにばかにされ、おどかされていました。表ではれいぎ正しくつきあうように見えて、世界を動かしているのは、実は弱肉強食のおきてです。」
「彼らは、自分に有利なときは法律や条約を持ち出しますが、いったん不利だとわかれば、法律を無視して、軍事力(軍隊の力)にたよるのです。だから、小国が独立を守るためには国が一つにまとまり、戦争の実力をつけるしかないのです。」
「私たちドイツはこうしたことにくやしい思いをしてきました。ドイツを一つの国にまとめ、軍事力を強くしてきたのです。彼らと対等につきあえるようにと願いながら、愛国心を持って、国力を高める長い努力をしてきたのです。そして、今ようやく数十年のがまんが実ってきたばかりなのです。」
 大久保の心は感動でふるえました。そして新しい勇気がわいてきました。


┌────────────────────────────────┐
│ 大久保利通は、ビスマルクからどんなことを学んだのでしょうか? │
└────────────────────────────────┘

●読みとったことを発表させ、次のようにまとめる。

◆板書B:ビスマルクから学んだこと:弱肉強食の世界。軍隊(海軍と陸軍)を強くすること。
   「ドイツにできたことが日本にできないはずはない。→強い国をつくる

ビスマルク


6 富国強兵の大方針

┌────────────────────────────────────┐
│ AとBから、はっきりした大方針ができました。それをなんと言うでしょう? │
└────────────────────────────────────┘

◆「富国強兵」という国づくりの方針が具体化されたことを教える。


7 まとめ 

『大久保は帰国して政府の中心となって、富国強兵の実現につとめました。
・政治を進める仕組み。・警察のしくみ・たくさんの工場や会社、銀行、産業をおこした。
・鉄道・通信・郵便の仕組み。大きな港や道路をつくり、地図をつくる。
明治日本の土台づくりは、大久保利通がいなければずいぶんちがったものになったかもしれません』

廃藩置県

廃藩置県の授業

◆授業づくりの話◆
黒船来航から王政復古の大号令までの授業には、安部正弘、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、勝海舟、徳川慶喜、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通など、きら星のごとき英雄たちが次々と登場する。幕末の史実をていねいに教えるのは、その後の変革の理由がすべてそこにあるからだ。幕末がわかれば明治がわかる。逆に、ペリー来航以後十数年の日本人がわからなければ、明治の日本はわからないのである。
 王政復古を教えた後、「明治の国づくりの大方針を考える」という授業をする。子供たちが明治政府の一員となって、どんな方針で国づくりを進めるべきかを考える学習である。このテーマで書かせてみれば、幕末の学習で何をどう理解できたのかが表れる。
 子供たちが考えた「国づくりの大方針」は次の四つにまとめられた。
 
 第一、西洋列強と対等につきあえる国をつくる。
第二、天皇中心に一つにまとまる国をつくる。
 第三、西洋の学問や技術のすぐれたところに学び、日本の伝統文化も守る。
 第四、西洋の大砲や軍艦をつくり、西洋に負けない強い軍隊をつくる。

八つの学習班に分かれてプランをつくり、共通するものを取り上げて検討するという授業である。時間が許せばもう少し増えるのだが、各班の方針案を多い順に検討していくと、明治の国づくりの重要な柱はほとんど立っていた。おそるべき子供たちである
 このほかにも、「藩でバラバラになっている国を一つにまとめる」「身分ではなく、実力のある人をリーダーにする」「身分を平等にする」「工業を発展させる」「新しい国のきまりを作る」などがあった。最後に、各自がノートに箇条書きした方針案を、坂本竜馬の「船中八策」や明治天皇の「五箇条の御誓文」と照らし合わせてみた。「似ている!」「あっ、これも同じだ!」という感動の声があがった。
 授業後の感想文に、数人が聖徳太子の名を挙げていたこともうれしい成果だった。
●「今日の授業では国づくりの大方針パート2をやった。パート1は聖徳太子の時だ」
●「日本を西洋と対等にするためにやる事は、聖徳太子の国づくりの方針とほとんどが似ている事に気づいた。やはり国が一つにまとまることが、いつの時代でも重要なのではないか」
●「聖徳太子の時とほとんどいっしょだった。ちがうのは、相手が中国ではなく西洋だということと、今回はすごく武力の差があるということだ。だから、今回は今まででいちばん大きなピンチだと思う。いちばん真けんにならなくてはならない」

 国の歩みの大きな流れをしっかりとつかみ、先人と共に考えていることがわかる。
 明治の授業づくりは、これらの大方針の中から重要なものを一つ一つ取り上げていけばよいのである。
 ここで紹介するのは、「天皇中心に一つにまとまる国を作る」「藩でバラバラになっている国を一つにまとめる」という政策を考える授業である。
 古代の国づくりでいえば、中大兄皇子の大化改新にあたる。古代では在地豪族の、近代では藩の「私」を廃して、国家という「公」を創出し、中央集権国家をつくるという大改革である。
 教材は明治四年七月の廃藩置県。登場人物は大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允の三人。
 この授業も「仏教伝来」と同様の政策検討型の歴史授業である。授業づくりのポイントは、廃藩置県という政策を、賛成派と反対派の意見を通して示すことにある。
 子供たちはまず、賛成派と反対派の両方の主張を読んで、政策の全体像をとらえる。その上で、どちらかの立場を選んで自分を主張する。資料を検討して考え、意見を言い合いながらまた考える。このようにして、廃藩置県という史実が立体的に理解され、知識としても印象深く定着するのである。
 さて、廃藩置県とはそもそも何のことか。詳細は「授業の実際」をごらんいただくとして、ここでは伊藤博文の言葉を示しておこう。廃藩置県が成功して数ヶ月後の十二月二十三日、アメリカ合衆国サンフランシスコ市で岩倉遣欧使節団の歓迎晩餐会が開かれた。その席上でスピーチに立った伊藤博文は、廃藩置県の成功をこう語ったのである。

 今日わが日本の政府および国民の熱望していることは、欧米文明の最高点に達することであります。この目的のために、わが国ではすでに陸海軍、学校、教育の制度について欧米の方式を採用しており、貿易も盛んになり、文明の知識をすすんで取り入れています。
 しかもわが国の進歩は物質文明だけではありません。国民の精神の進歩はさらにいちじるしいものがあります。
 数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年の内に撤廃されました(廃藩置県のこと)。このような大改革を世界の歴史において、いずれの国が戦争をしないでなしとげたでありましょうか。この驚くべき成果は、わが政府と国民の協力によって成就されたものであり、この一事を見ても、わが国の精神的進歩が物質的進歩を凌駕するものであることがおわかりでしょう。
          (泉三郎『堂々たる日本人 知られざる岩倉使節団』祥伝社)


◆授業の実際◆

1 維新の三傑の不安

 前の時間に「明治の国づくりの大方針」を考えました。みなさんは、明治天皇が神々に誓った「五箇条の御誓文」や、坂本竜馬が書いた「船中八策」とほとんど同じ考えを持てました。すばらしい内容でした。
 これから、その国づくりの大方針に、明治維新のリーダーたちがどう取り組んでいったかを勉強していきます。今日はその第一歩です。
『この三人の人物が主人公です』

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木戸孝允
隆盛西郷





この三人はすでに、吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬などを学ぶ中で何度も出てきている。おなじみ顔ぶれだ。
『この三人のことを〈維新の三傑〉と言います。明治維新を成し遂げた三人の英雄という意味です。確かに、この三人がリーダーシップを取って?h摩藩と長州藩を動かせなければ、明治の新しい国づくりは始まらなかったことでしょう』
 いま、二六〇年続いた徳川氏の政府が滅び、明治の新政府ができ、国の首都が東京に移り、明治天皇も江戸城に移ってこられました。最後まで江戸幕府を支持した東北諸藩との戦いも終わりました。
みなさんは、これで国が生まれ変わった、さあ新しい政治が始まるぞ、と期待に胸をふくらませていることでしょう。
 しかし、明治の三傑の思いはそうではありません。
「これはまだ形ばかりの政府だ。徳川幕府を倒しただけでは、国の大きな仕組みは何も変わってはいない。これでは新しい政治を始めることもできない」
 三人はそう考えていたのです。
 「できるだけ早く、国を一つにまとめなければならない」
 それが今日のテーマである「廃藩置県」という政策です。前回の授業でみなさんの中から出ていた「天皇中心に一つにまとまる国」「藩でバラバラになっている国を一つにまとめる」という大改革のことです。
若い志士たちや木戸孝允がプランを立て、大久保利通が強いリーダーシップを発揮して実行し、西郷隆盛がうまくいかなかったときのために政府を守る一万人の軍隊を率いる、という文字通り維新の三傑の共同作業でした。幕府を倒すために協力し合ってきた三人が、今度は、新しい政府のリーダーとして決断したのです。
しかし、三人はその時とてつもない不安の中にいました。
 それは徳川幕府を倒す戦いを進めているときよりもはるかに大きい不安でした。 
 こんどは、数百年続いた武士の国という、日本の国の仕組みをぶちこわして、新しく国民の国に作り直すという大事業です。徳川という一つの敵が相手だったこれまでとは違って、へたをすると、全国の藩の大名とその家来たちすべてを敵に回すことになるかも知れないのです。しかし、古い日本のままでは「西洋と対等につきあえる国」はつくれそうもありません。
「いちかばちか、やるしかない」
 それが、このときの三人の正直な気持ちでした。
『さて、どうなることでしょう』


2 廃藩置県についての意見

『これから、廃藩置県について、二人のリーダーの意見を読んでみます』
 リーダーAは、明治政府の計画に賛成の主張をしています。いわば明治の三傑の宣伝係です。リーダーBは、廃藩置県は日本のためにならないという反対意見です。
 今日みなさんは、先祖代々武士の家に生まれた若者になって、この討論に参加することにしましょう。
『資料をしっかり読んで、どちらの意見に賛成か、自分の考えを決めてください』




【リーダーAの意見】 いますぐ廃藩置県をやりましょう

 徳川幕府が終わり、明治政府ができたのに、新しい政治が行えないのはなぜでしょうか?
 それはいまだに二六〇もの藩がそのまま残っているからです。これは、日本が二六〇の小国に分かれた、バラバラ状態だということです。
 藩にはそれぞれ殿様(大名)がいて、その殿様の家来である武士がいます。こうして明治政府ができたいまも、彼らは、自分の藩の政治は自分たちで進めるのだと考えています。
 彼らが「わが国は・・・」というとき、その国は「日本」であるよりも前に、自分の藩のことなのです。
 そのために、政府の決めたことがなかなか全国にいきわたりません。せっかく明治政府ができたのに、日本がまとまって新しい国づくりを進められないのはそのためです。
 また、税金も江戸時代と同じで藩が集めています。それらのほとんどは、武士の給料になってしまいます。そのため、明治政府の金庫はからっぽです。
 政府にお金がなくては、新しい政治を始められるわけがありません。
このままでは、明治政府とは名ばかりで、「西洋と対等につき合える国づくり」は一歩も前に進めないのです。
 いまこそ、全国の藩をやめて、日本は本当の意味で一つにまとまるべきです。
 そして、日本を新しく県に分け、県のリーダー(県知事)には政府の役人を派遣します。こうして、税金が政府に集まる仕組みを作るのです。
 そうすれば、明治政府は国民の税金を使って新しい政治が行えます。政府が決めたことも、すぐに全国で一斉に実行できるようになるでしょう。
いますぐ廃藩置県をやり、明治政府の強いリーダーシップで日本全体を引っ張っていけるようにすべきです。それをためらっていたら、日本はほろびてしまうでしょう。


【リーダーBの意見】 廃藩置県には反対です

廃藩置県には反対です。なぜかといえば、これをやると、武士(サムライ)の仕事はなくなり、武士はみんな失業してしまうからです。二六〇人の藩の殿様もいらなくなります。税金はみな政府に行ってしまい、かれらの給料が出なくなるからです。
 つまり、廃藩置県とは、武士の身分をいっぺんになくしてしまうという、おそろしい計画なのです。
 徳川幕府を倒して天皇中心の明治政府をつくるために、多くの武士が働きました。武士たちが、命がけで働き、戦ってくれたおかげで、私たちの明治政府ができたのです。
 私たちの考えに賛成していっしょうけんめい戦ってきた武士たちを、やりとげたとたんにクビにするなんて、あんまりひどすぎます。そんなことで、日本がりっぱな国になれるとは思えません。
 私たちの目標は、何よりもまず、日本を西洋に負けない強い国にすることです。そのためにも武士は必要です。
 第一に、武士は戦いの専門家です。戦いの技術を持ち、作戦もわかります。
 第二に、武士たちには、国のために命をかけるという道徳があり、それをやりとげる勇気もあります。
 何百年も戦いとは縁がなかったふつうの国民に、それをもとめるのは無理というものでしょう。武士こそ日本の国を守るいちばん大事な力なのです。
それだけではありません。いま無理して武士をクビにすれば、かならず全国の武士は立ち上がってまた戦争になるでしょう。そんなことになれば、今度こそ本当に国はバラバラになり、きっと日本はほろびてしまうでしょう。




資料を読んだ後、子供たちの意見分布は次のようになった。
 A 賛成派・・・二十五人
 B 反対派・・・十二人
 まず、少数派のBの立場から発言していった。論点はおよそ三つである。
 第一は、手柄のあった人たちを、成功したとたんにクビにするのはおかしいというものだ。確かに、こんなひどい話は世界の歴史にも例がない。
「命がけで明治維新をやりとげたのに、いきなりクビにするのはひどいと思うからです」
「武士が生活ができなくなるのはおかしいと思います。ペリーが来てからめちゃくちゃに なっていた日本を作り直すためにいちばん働いたのは武士の人たちだからです。それに、 これからも武士がリーダーになるのがいいと思います」
「徳川幕府を倒すことに武士たちが賛成して、戦ってきて、明治政府をつくったのは武士 たちだから、それをクビにするのはあんまりひどいと思いました」
第二は、いま内乱が起きて、国内戦争が再開すれば、こんどこそ日本は危ういという意見である。
「いま、無理に武士をクビにしたら、ぜったいに武士はだまっていないと思います。私だ ったらぜったいに反乱を起こすと思います。そんな戦争が起きては困るので、廃藩置県 には反対です」
「せっかく全国の武士が、やりとげたぞ、やったーって喜んでいるときに、いきなりクビ するのはすごく残酷だと思います。さらに、いま戦争になっちゃたら日本は滅びるから。 やめておいたほうがいいです」
「廃藩置県をしたら、全国の武士が明治政府に戦争をしかけてくると思います。そんなこ とになったら、できたばかりの明治政府はもたないと思います。いままで味方だった武 士たちが敵になったら、日本は滅びてしまうかもしれません。だから私は反対です」
「日本の中で意見が分かれていて、戦争になるかもしれないことだとすると、いま急いで やるのは危険だと感じました。西洋と対等な国になることが目的なのだから、国がばら ばらになって争うことはもうやめるべきだと思います」
第三は、西洋に立ち向かおうという時に、戦いのプロ集団をやめさせてどうするんだという意見である。
「日本は今、西洋に負けない強い国をつくろうとしています。それなのに、戦うためにあ る武士をなくすのはおかしいです。戦う専門家がいなくなったら、西洋に攻められたと きに負けちゃうから、ほんとに日本が滅びると思いました」
これで反対派の発言が終わった。
『だいたい3つの理由ですね』と論点を整理した。
 ①手柄のあった武士がかわいそうだ。②国内戦争は危険である。③戦いのプロ集団は必要。子供たちが、資料をしっかり読み取っていることが分かる。

『では次に、賛成派の意見を聞いてみましょう』
第一は、やはり財源確保論である。
「税金が藩に集まってしまって、明治政府にはお金がないというのが決定的にダメだと思 いました。これから、前話し合った目標に向かっていろんな政治をしなくちゃいけない のに、世の中お金がなくちゃ何もできません。明治政府が国づくりをできないのはまず いので、賛成にしました」
「このまま廃藩置県をやらないで、税金が国に集まらないなら、近代国家になって西洋と 対等につきあうなんて夢のまた夢だと思います。つらいこともがまんしないと、こんど のピンチは乗り切れないと思いました」
第二は中央集権型の統一国家論である。
「ここで戦争になってみんながバラバラになっては危ないと言ったけど、いま何もしない でも二六〇の藩に分かれてしまっていて、それは二六〇の小さな国に日本がバラバラに なってるのといっしょなんだから、まず一つの国としてまとまることが大事だと思いま す。日本はこれから軍隊を強くしていかなくてはいけないんだから、武士は兵として働 くようにすればいいと思いました」
「藩があって、藩の政治は殿様とその家来がやるんだとしたら、明治政府の決めたことが 全国で進められないと思います。Bでは明治の新しい政治ができないんだから、ダメで す。ただ私も武士はかわいそうなので、全国の武士を国の軍隊としてあつめて働くよう にしたらいいと思いました」
賛成派の主張はこの二点にしぼられる。が、これらの意見にも見えるように、賛成派の多くも武士に対する思いはそれなりに切実である。この政策の非情さがわかるだけに、反対派への反論のかたちで、こうすれば武士をやめてもだいじょうぶだいう失業対策や、つらいけれども我慢だという精神論をつけ加える意見が多い。
 しばらく彼らの発言に耳を傾けてみよう。
「もし廃藩置県をやらないと、明治政府の金庫は空っぽで政治ができません。廃藩置県を やれば国は一つにまとまって税金が明治政府に集まり、国づくりができます。藩をなく せば武士がなくなるんだとしたら、それはしょうがないんだし、武士はこれから富国強 兵の強兵になって国の役に立てばいいと思います」
「Bの人たちは武士がかわいそうということだと思うけど、もし廃藩置県をやらなければ いつまでたっても西洋に追いつけないんだから、あきらめてほしいです。リストラでか わいそうというけど、かわいそうかわいそう言ってたら歴史は前に進めないと思いまし た。武士の反乱も必ずあるというわけではないし、武士はそれなりにどこかで活躍して もらえばいいと思います」
「武士はいったん藩からクビになって、それから明治政府が雇えばいい。県の役人とか兵 隊など仕事はあると思う」
「Bの人は武士のことを中心に考えているけど、四民平等で、これからは身分もなくなっ てふつうの人が中心になるんだから、もう武士はいらなくなるんだと思いました」
国家の目標はいわゆる階級の利害に優先すべきだというような主張など、資料の内容を超えた判断も見られる。最後に、次のような「反乱はつぶせる」という意見が出た。
「反乱を恐れては何もできないし、もし反乱が起きても、明治政府は薩摩と長州と土佐が 集まってできてるんだから、日本で一番強いし、反乱はつぶせると思います」
この意見は強力だった。たとえ反乱が起きても大丈夫なら、賛成派はそうとう強気になれる。こうして賛成派の発言が終わった。
 そのとき、反対派の一人がこんなふうに話し出した。
「よくわからないことがあるのでいいですか?」
『どうぞ』
「二六〇の藩に分かれているというのは、お互いに戦争をして分かれているのですか?」
『いやそれは戦国時代の話ですね。江戸時代二六〇年は藩どうしの戦いはまったくありませんでした。江戸幕府が強い権力で藩同士の争いを許さなかったから、江戸時代の長い平和があったわけです。それぞれの藩には殿様がいて自分の藩の政治をやっている。徳川幕府は藩の政治は藩にまかせて、外国とのつきあいのこととか、国内の平和な秩序が乱れないようにするとか、国全体のことをまかされていたわけです』
「だったら、誰かが二六〇の藩に分かれていてどうしようもないみたいなことを言ったけど、全部の藩が集まろうとすればいつでも集まれるわけであって、いま国の中で戦争をすれば、集まれるものも集まれないわけだから、おかしいと思います。日本はいま一つにまとまることが大事なんで、戦争になったらまた戦国時代みたいにバラバラになるんだから、それだと、日本は西洋よりも弱い国になっちゃうんじゃないかなと思いました」
 つまり反乱が起きて混乱する危険があるのなら、藩の地方自治はそのままにして、明治政府も江戸幕府のような連邦政府ではいけないのかという意見なのである。
 あくまで比喩としていうのだが、Bを採用したのがイギリスではないだろうか。イギリスは王制も貴族制度も残して近代化を実現した。ゆっくり時間をかけて着実にやった。一方、フランスは、残虐なまでの大手術をやった。国王一家を殺し、反対派の市民や農民を虐殺し、伝統の制度の全体を暴力的に破壊しつくそうとした。
 日本は天皇制度という伝統を重んじたことはイギリスと同じだが、武士階級はいっぺんに廃止するという決断をした。日本にゆっくり変わるゆとりがなかったのは、西洋列強の圧力によって強いられた近代化であったからである。
 この宿命がわが国の歩みに影を落としていることは確かなことだ。例えば武士階級の廃止によって武士道が失われたために、統治者の質が急落していくという見方がある。もし、武士階級を残した、イギリス流の近代化が可能だったら、どんな日本でありえただろうか。子供たちの話し合いを聞きながら、私はそんなことを考えていた。
 思っても見なかった言い分に、こんどは賛成派が頭をかかえる番だった。しかし、明治政府を連邦政府とする国家構想には誰も反論することができなかった。
『たいへんよい話し合いでした。資料をよく読んで自分なりの考えが持てましたね』
 Aを選んだ人もBを選んだ人も、「西洋と対等につきあえる国をつくる」という目標は同じでした。
西洋列強がアジアに押し寄せてきて、日本は歴史始まって以来の大ピンチです。いまやろうとしている廃藩置県は、人間で言えば心臓を丸ごと切り取って、別の心臓と入れ替えるくらいの大手術です。失敗したら、患者は死んでしまうかもしれない。でも、やらなければ病気は少しずつ悪くなる。どうしたらいいんだという悩みと似ています。
 二六〇年平和が続き、それなりに立派な政治をしてきた各藩の大名と全国の武士をまるごとリストラして、藩をなくしてしまおうというわけです。今までリーダーだった人たち、支配者だった人たち全員をクビにするという話ですからね。そう簡単にいくとは誰も思っていません。
 西洋の国々の圧力の中で、日本は必死になって変わろうとしている。変わらなければ、彼らの植民地になってしまうかもしれない。なんとかして国を作りかえて、西洋と対等になりたい。そのためにはこの大改革は避けられない。とにもかくにも、政府に税金が集まらないのでは話は始まらないだろう。これが賛成派の意見でした。
 それに対して反対派の意見は、目標は同じだがもう少しゆっくりやりましょうということかもしれない。ドバーっと血が出るような大手術は避けて、薬でやりましょうという感じです。藩も残して、大名も武士も残して、徳川幕府と同じようなゆるやかな国のまとまり方でも、なんとか西洋に追いつけないかという気持ちです。
 これはそうとう重大な別れ道でした。徳川慶喜はBの可能性を求めて敗れていった一人です。しかし、維新の三傑は、今すぐ、断固とした決意を持って、廃藩置県を実行することを決断しました。
 武士の反乱に備えて、薩摩・長州・土佐の武士たち一万人が集められ、西郷隆盛が指揮をとることになりました。三人はこの改革の「血も涙もない非情さ」をよくわかっていました。自分が逆の立場だったら必ず立つと考えたからこそ、反乱に備えて一万人もの兵力を集めたのです。
 廃藩置県こそが本物の明治維新なのだと考えていたのです。
 

3 武士階級の自己犠牲

 明治四年(一八七一年)七月十四日、明治天皇は廃藩置県の詔を発表されました。
 詔(みことのり)というのは、天皇陛下の名で発表されるた明治政府の命令のことです。この詔によって、明治の三傑の願いが高らかに宣言され実行に移されました。
 思い切ってわかりやすく直すと、それは次のような意味の言葉でした。




廃藩置県の詔

 この変革の時に、国の内では全国民の安全な暮らしを守り、国の外で西洋列強と対等につきあおうとすれば、政府の命令は全国に同じように行われなければならない。
しかし、数百年の古い藩の仕組みがあるために、なかなか政治の実を上げることができない。これでは、とうてい新しい国づくりは前進できない。私はこのことをたいへん残念に思っていた。
 いまここに、これまでの藩をすべて廃止して、県とすることにした。県ごとに政府の役人を派遣して、政府の方針通りの政治が全国で行われるようにするためである。
 どうか、努力して政治のむだをなくし、各地でばらばらな政治が行われるようなことがないようにしていただきたい。全国のリーダーたちは、これをすすんで実行してほしい。




『心配されていた武士の反乱は、このときはまったく起きませんでした』
「えー?」と、まさか信じられないという声が上がった。
『諸藩の大名も武士たちも、黙ってこの大久保さん、木戸さん、西郷さんの政治を受け入れました。それはなぜだったのでしょう?』
ここで、一つの解釈として、次の資料を読むことにした。




【廃藩置県に驚いたアメリカ人・グリフィス】

 当時、日本にいた外国人たちは、こういって大変驚いたそうです。
「ヨーロッパの国で日本の廃藩置県のようなことをしたら、血で血をあらう国内戦争が起きるだろう。それまで数百年もの間、様々な特権を持ち民衆を支配してきた人々が、自分から進んでその身分をすててしまうということはありえないからだ。なぜ、こんなだいたんな改革が、日本では平和のうちに行われたのか。まことに不思議である」
それは、多くの武士たちが、今の日本になぜ廃藩置県が必要なのかをよく理解していたからではないかと考えられています。武士たちの多くは、自分たちの特権や支配者としての身分をすててでも、日本という国全体を救わなければならないと考えたのです。
その実例を一つ見ておくことにしましょう。
このころ、いまの福井県に、若い武士たちを教えていたグリフィスというアメリカ人の先生がいました。
 廃藩置県が行われたとき、ある若い武士がグリフィスに次のように話したそうです。
「これで日本も、あなたの国やイギリスのような国の仲間入りができるでしょう。必ず日本はそうなりますよ。」
 かれもまた、たとえ自分の身分と仕事がなくなっても、国を一つの政府にまとめ、国づくりのための税金を政府に集めなければ、日本が独立した国として生き残ることはできないと考えていたのです。
 グリフィスは生徒達にこう話しました。
「君たちの国日本は、一滴の血も流さずに廃藩置県という大改革をなしとげました。それは君たち武士が国のために自分を犠牲にしてもいいというりっぱな考えを実行したからです。これは、日本が世界に誇れることです。」




『こうして、藩は廃止されて、日本は明治政府のもとに一つにまとまり、政府の命令が全国で一斉に行える仕組みができました。税金も明治政府に集まり、大きな政治が行えるようになりました』
 しかし、藩をなくすことは武士という身分をなくすことでもありました。徳川二六〇年、鎌倉時代からならおよそ千年、多くの特権を持っていた支配階級である武士というグループが消えてなくなりました。武士たちは、それまで支配してきた農民や町人と同じ立場になりました。日本人の中に身分の上下がなくなり、すべての国民が平等な国、近代国民国家が誕生したのです。
ただ、みなさんが一番心配していた武士の給料ですが、武士が自立できるまでの当分の間、明治政府から出すことにしました。生活の補償はしていくことにしたのです。
さて、日本の武士には武士道という道徳がありました。それは藩や国の政治を任されているという誇りにもとづいた道徳です。
 自分たちが、農民の税で暮らし、苗字を持ち、刀を差せるなど、たくさんの特権を持っているのは、リーダーとしての責任を命に替えても果たすという約束があるからだ。国のために命がけで責任を果たすのが武士なのだから、いま国が生まれ変わるために武士がいらなくなるというのであれば、それに従うのが国のために生きる武士の務めである。
 日本のサムライたちの多くが、このような責任感を持っていたからこそ、わが国は、この時代の厳しい運命を乗りこえていくことができたのだと思います。
こうして天皇を中心にすべての国民が平等に一つにまとまり、明治政府の下に県があるという国の大きな仕組みができあがりました。みなさんが考えた重要な方針が実現されていく土台ができたのです。
『しかし、当時の日本の国力では、「西洋と対等につきあえる国」という目標は、はるか彼方の夢のようなものでした。しばらくはまだ、明治の日本人の血のにじむような我慢と努力の歩みが続きます』



◆学習を終えて◆

■また今日もなやんだ。これからの日本に大きく影響する問題だったから真剣に考えた。まず何を始めるのにも一つにまとまるのが大事だと思った。それぞれの藩がそれぞれの意見・考えを持ち、他の藩と話し合っていたらきりがない。日本という国を、外からも中からも良くするためには、まとまることが重要だったんじゃないかと思った。武士がリストラされてしまうのはかわいそうだけど、そんな個々の問題よりも、日本という大きなものの問題を解決するのが最優先だと思った。

■今日の授業はかなり頭をひねった。Aの考えもいいところがあるし、Bの考えにもいいところがあったので迷った。武士をクビにするのはかわいそうだし、廃藩置県をやらないとどうなるのだろうと思った。結局、廃藩置県は行われた。でも、やらないで武士をクビにしなかったらどんな日本になっていたのだろう。西洋の植民地だったのか。それがわからない。明治はおもしろいなと今日の授業でますます思えてきた。

■この授業は、今までは絶対にありえないぐらい平和に終わった大問題だった。みんなの考えがまとまらないかぎり、絶対にできないと思った。たぶん武士たちも、ここでバラバラになったら、西洋に支配されてしまうとわかったのだろう。廃藩置県で武士たちを失業させてしまったのだから、絶対に西洋には支配されないでほしいと思った。

■私はBを選んだ。なぜかというと、戦争になってしまうかもしれないからだ。だけど、日本の武士たちはちがった。日本が西洋と対等につきあえるなら、と言ってやめていった。これは、徳川幕府がほとんど戦わないでやめたのとよく似ていた。武士とは、国のためなら何でもできる人たちのことだった。私は日本の武士を誇りに思えた。
■廃藩置県をやるかやらないか。じっさい今、県があるのだから、やるとは思っていたものの、武士が活躍して日本が変われたのに、こんどは一つにまとまるから武士はもういらないなんて、あまりに勝手すぎると思ったから、私はBにした。しかし、武士もえらくて、国のためなら自分がリストラされてもいいなんて、本当におどろいた。こうやって今の日本ができていくんだなあと思っていた。この武士の中に、私のご先祖様はいるのかなあと、授業中ずっと思っていた。

■私は賛成しました。このままずっと藩のままでいくと、新しい国の政治ができないからです。でも、武士をクビにしないでそれができないのかと、ずっと考えていました。活躍した武士は国の軍隊に入れる、その他の武士は商人などになればいいのではないかと考えました。アメリカのグリフィスの話を聞いていると、日本は一つにまとまる面(団結する)
では西洋よりも上だなと思いました。

■廃藩置県がいやなのは武士、喜ぶのは平民だ。武士よりも平民のほうが多いのだから、多数決で決めたらきっと廃藩置県をすることになるだろう。だからといって、今日から殿様も武士もお給料なしっていうのもちょっとひどい。ここが難しかった。しばらく政府から給料が出ると知って安心できた。このことに成功すれば、日本はより近代国家に近づくと思う。 

■今日の授業もむずかしかった。最近討論をやる際に、日本が選んだ道とは反対の考えを選んでしまうことが多い。どうしてなのかはわからない。でも、自分の考えをしっかりもって発表できたし、役に立てたと思う。
 ペリーが来てからずっと、本当にまた聖徳太子や中大兄皇子の時代にもどったようだ。天皇中心に一つにまとまる、外国の文化を学ぶ、強い国と対等になるなど全く同じだ。ぼくたちは授業で、太子たちがどんな方針で国づくりをしたか知っていたけど、木戸・西郷・大久保は知らないはずなのに、同じことを考え、同じ事をやろうとする。これはすごいことだと思った。

明治日本の国づくりの大方針

明治日本の国づくりの大方針
■明治日本の国づくりの大目標を確認し、そこに到達するための政策を考えます。ここをしっかり考えておけば、日露戦争と不平等条約の完全改正までは、一つながりの大きな歩みとして理解できます。抽象的な平和主義や人権思想などで、先人の死にものぐるいの努力と苦闘の歩みを汚してはなりません。史実をありのままに受け止め、先人の歩みに共感させましょう。
この授業はグループ学習で進めましたが、一斉授業でも十分可能です。


1 明治の国づくりの大方針


『前の授業で○○が言ったように、すべてはペリーから始まりました。藩を越えて国を思う志士たちは、徳川幕府では日本はもたないと考え、15年の混乱を経て、明治の新政府をつくりました。でも、この新政府はまだまだ弱く心細い赤ちゃんの政府です。これから、しっかりと国づくりの目標を立てて、それをめざす政治を着実に進める必要があります。それは新しい日本をつくる大仕事です。そのためには、聖徳太子がつくったような国づくりの設計図、大方針が必要です。いいかげんなことをしていたら、江戸幕府のほうがましだったということにになってしまうでしょう。そう考えた多くのリーダーが「国づくりの大方針」を考えました。聖徳太子のときのように、それを考えた人を二人紹介します』

■木戸孝允と坂本龍馬の絵をはる。
木戸孝允
坂本龍馬


┌───────────────────────────────┐
│ 今日はこの2人が考えた「国づくりの大方針」に挑戦します │
└───────────────────────────────┘

2 「国づくりの目標」を考える

┌────────────────────────────────────┐
│ みなさんは明治維新を成し遂げた維新の志士たちです。まず始めに、みんなで
  「国づくりの目標」を考えましょう。 │
│ ペリーが大砲で脅して開国を迫ったことに始まった明治政府です。 │
│ キーワードは「西洋」です。「西洋」を使って、目標を書いてみましょう。 │
└────────────────────────────────────┘
■5分ほど与えて、書かせる。

◆列指名で発表させる。おもな意見を板書しながら、次のようにまとめる。

【板書】

「西洋と対等につき合える国をつくる(独立国)」

┌─────────────────────────┐
│ 西洋列強(独立国) │
│ │
│ 日本・中国など(西洋と不平等関係:半独立国)│
│ │
│ アジア・アフリカなど(西洋に支配されている:植民地)│
└─────────────────────────┘

『この上下関係をから乗り越え、西洋と対等になることが目標です』




3 6年○組の「国づくりの大方針」

┌───────────────────────────────┐
│ 次に、目標を実現するための方法を考えます。「そのために、 │
│ 何をやるべきか」です。これは班ごとに考えましょう。 │
└───────────────────────────────┘

◆生活席を班のかたちにして、話し合いながら書かせる。まず3分ほど個人で書かせ、その後班の中で発表させ、班長に記録させる。

◆10分ほど与えて、まとめさせる。

◆班ごとに、班の中で出た意見を発表させ、板書する。

*強い軍隊を作る、大砲や軍艦をつくる、工業を発展させる、法律を作る、鉄道をひく、国会を作る、学校を作る、国民が団結するようにする、不平等条約を平等に変える、欧米の科学や技術を取り入れる、天皇中心の国にするなど。

┌───────────────────────────────┐
│ 賛成意見、反対意見があれば、その理由を話してください。 │
└───────────────────────────────┘
■挙手指名で言わせ、話し合わせる。


4 五か条のご誓文と船中八策

『では、2つの大方針を読んでみましょう。ひとつは坂本龍馬が死ぬ前に書いた船中八策といわれる大方針です。もうひとつは、木戸孝允が原案を書いて、明治天皇の名で発表された、政府の大方針です』

┌────────────────────────────────────┐
│ これから、先生が読みますから、自分の考えたものと似ているのがあったら、│
│  丸印をつけなさい。 │
└────────────────────────────────────┘

■資料を配り、教師が読む。




五箇条のご誓文・・・・木戸孝允原案

 1 広くすぐれた人物を集めて会義を開き、
   国の政治は、国全体のことを考えて決めるべきだ。
 2 上の人も下の人も、心をひとつにして、
   産業をさかんにし、豊かな国をつくるべきだ。
 3 すべての人の志(こころざし)が実現できるような国にして、
   人々のやる気が出るような世の中にすることがだいじだ。
 4 江戸時代の古い習慣やしきたりにとらわれないで、
   国際法(西洋の国どうしのルール)にもとづいて
   国づくりを進めるべきだ。
 5 すぐれた知識や文化を世界から学んで、
   天皇中心の国日本をいっそう発展させていくべきだ。




坂本龍馬の「国づくりの大方針」「船中八策」

 ①幕府は政治権力を朝廷に返し、天皇中心の政治にする。
 ②議会を作り、議員を選び、国の政治は国全体のことを考えて
   決める。
 ③貴族・武士・一般国民という身分にとらわれず、能力のある人を
   リーダーにする。
 ④外国とのつきあいをすすめ、新しく正しい条約を結ぶ。
 ⑤古くからの法律を改め、新しい憲法をつくる。
 ⑥海軍を育て、強くする。
 ⑦国の軍隊をつくり、首都を守らせる。
 ⑧貿易における、西洋と日本の不公平をあらためる。

 ◆これを実行すれば、日本は国力をばんかいし、国の勢いを高め、
 「日本を、西洋と対等につきあえる国にする」という大目標を
  達成することができるのである




■板書と照らし合わせながら、同じことを考えられた児童をほめる。

5 まとめ

■今後の歴史で先人がどのような努力をしていくかを見ていこうと話す。また、それらが、聖徳太子の方針と大変よく似ていることを確認(天皇中心の国・外国の文化に学び伝統を守る・強い国とも対等につきあう独立国)して、授業を終える。

江戸無血開城

江戸無血開城

■西郷隆盛と勝海舟が、敵味方の立場を超えて新しい日本のために決断したことに共感できる。幕府派も反幕府派も「西洋に支配されない国をつくる」という大目標は同じだったことを理解する。


1 西郷隆盛

■大政奉還→王政復古→鳥羽・伏見の戦い→官軍は江戸へという流れを説明する。

 ●板書:1986年(明治元年) 王政復古の詔→天皇中心の国にもどす
官軍(5000)対徳川軍(1万5000)の戦いが始まる。

■西郷隆盛の写真を貼り、プリント「西郷隆盛」を配り、読む。



西郷隆盛の決断
隆盛西郷

 みなさんは上野公園にある、ゆかたを着て、ぞうりをはき、犬をつれている銅像を知っていますか? あれが「西郷さん」と親しみをもって呼ばれている幕末の英雄・西郷隆盛です。西郷さんは身長一七八センチ体重108キロの大男でした。
 西郷さんは薩摩藩の身分の低い武士の子として生まれました。
 子供のころの名前を小吉と言います。 小吉は勉強熱心で、毎朝一番に先生のところへ来て教えをうけました。しかも、体もずばぬけて大きく運動神経も抜群でした。小吉の家は貧しく、兄弟も多かったのでいつも弟や妹のめんどうをみるやさしい性格でした。あらしがやってきて大雨が降ったとき、小吉は流れてくる板の上のコオロギを見つけてそれを助けてやりました。あらしの中でコオロギを助けるとはよほど、きもっ玉がすわっている子だったのでしょう。
 西郷さんは、やがて実力を認められて薩摩藩のリーダーになっていきました。そして、他の志士たちと同じように「アジアの中で日本だけは西洋の植民地にしてはならない。西洋と対等につきあえる力と道徳をもったりっぱな国にしなくてはならない」と考るようになりました。
 西郷さんのえらいところは、ただ戦争が強い国にして、西洋と対等になれればいいとは思わなかった点です。強いだけではなく、勇気・愛情・思いやりなどの道徳の面でもりっぱな、誇り高い国にしたいと考えていたのです。
 さて、政権を朝廷に返して一大名にもどった将軍徳川慶喜でしたが、大政奉還の本当のねらいは、新しい朝廷の政府の中で最大の大名である徳川家を中心にすることでした。
 しかし、西郷さんや大久保利通(おおくぼとしみち)は、それでは新しい国づくりはできないと考え、あくまで徳川家を新政府からはずそうとしたのです。
 この方針の違いから、ついに戦いが起きることになったのです。西郷さんはその戦いの新政府側(官軍=朝廷の軍隊)のリーダーのなりました。
こうして、徳川VS反徳川(薩摩藩・長州藩など)との戦いが始まりました。
 もしこの戦争が本格的なものになれば、日本はまっぷたつに分かれて長い国内戦争が続くことになるでしょう。どちらが勝つのかまったくわかりません。
 このころ、西郷さんのもとにある情報が入りました。
 西洋の国・フランスが「幕府の味方をしよう」と話をもちかけているというのです。
その内容は、①600万ドルの軍資金を貸す ②戦艦七せき、弾薬。大量の兵器を送る、などです。
 これはたいへんです。
 西郷は考えました。われわれには、薩英戦争で仲よくなったイギリスがいるが。さて、どうすべきだろうか?

【A】 イギリスの救援を頼む      【B】 頼まない




┌───────────────────────────────────┐
│  西郷さんはどうすべきか?

│  A:イギリスの応援をたのむ。  B:たのまない │
└───────────────────────────────────┘
 *人数分布をとり、意見を言わせる。

 ■答えは、あとで伝えることにする。


2 勝海舟

 ■勝海舟の写真を貼り、プリント「勝海舟」を配り、読む。




勝海舟の決断
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勝海舟は、徳川幕府の下級武士の家に生まれました。子供時代は暴れん坊で、よくけんかをしていたようです。
 青年時代から剣術の修行と座禅(ざぜん)の修行にはげみ、ものに動じない強い心をもつ剣術の達人になりました。しかし、殺すことを好まず、暗殺者にねらわれるようになっても、自分の剣をぬけないようにしばっていた時代があったそうです。 また、すすんで蘭学(西洋の学問)を学び、学問の面でも幕府にこの人ありと知られるようになります。二五歳の時です。どうしてもオランダ語の辞書が必要になりましたが十両もの大金がはらえる家ではありません。そこで、持っている人をさがして、その人が夜寝ている間だけ貸してもらい、五十七巻もの辞書を全部、しかも二回も写したそうです。一冊分を売って、貧しい家の家計のたしにしたのです。
 勝海舟は、咸臨丸という船で、初めて太平洋を渡った日本人の一人です。
 帰国して、幕府のえらい人に感想を求められたとき、「わが国とちがって、上に立つものはみなりこうでした」と答えた話は有名です。
 昔ならその場で、切腹させられたかも知れませんね。
 また、反幕府の長州や薩摩の志士たちとも自由に交流し、坂本竜馬などたくさんの人物から先生として尊敬された人です。

 さて、その勝海舟がいま江戸城で大討論会に出ています。
 徳川家の未来を決める話し合いです。あっとうてきな多数派は、あくまで薩摩・長州軍と戦うべきだという考えでした。官軍とはいえ、明治天皇はまだ十七才の少年だ。大久保や西郷にだまされているだけだ。
 フランス軍の応援があれば、兵の数も多いのだから、関東で戦えば負けることはない。薩摩や長州をほろぼして「天皇中心の国」をわれわれ元幕府の武士たちで作ろうというわけです。

 ところが、勝海舟は、なんと、こんな意見を主張しました。
┌───────────────────────┐
│ われわれが、まずやるべきなのは、 │
│ フランスの応援をきっぱりとことわることだ! │
└───────────────────────┘
【理由・私の考え】




┌───────────────────────────────────┐
│ 勝海舟は、なぜフランスの応援をきっぱりと断れと言ったのでしょうか? │
│ ノートに書きなさい。 │
└───────────────────────────────────┘
 *書いたものを発表させる。
 
●発表させてから、1「西郷隆盛の決断」の答え(B)を教える。
二人は、列強に救援を頼めば、勝利しても必ず彼らが利権を要求してくることがわかっていた。場合によっては、それをきっかけに植民地化に至るかもしれないと考えた。だから、日本のことは日本人自身で解決しなければならないと考えたのである。

3 江戸無血開城と東京遷都

■勝は、徳川慶喜を江戸城から出し、上野の寛永寺というお寺で謹慎させた。そして、勝は、敵の大将西郷隆盛と面会した。西郷が江戸総攻撃を決めた日の、3日前だった。 

■こうして、
 *徳川慶喜は江戸と江戸城を新政府に渡す。
 *徳川家は今の静岡県の小さな藩にひきこむが、殺したり刑罰を与えたりはしない、
 などが決まり、江戸は火の海になることをまぬかれ、100万江戸市民は平和のうちに新しい時代を迎えた。

●勝海舟の証言を教える。

「西郷は、おれを上座に座らせ、礼儀正しかった。勝者が敗者をむかえるおごり高ぶったところがなく、攻撃を自分の責任で中止すると約束した。西郷でなければ無理だっただろう」

●なぜそういう結果になったか?
 それは勝も、西郷も、

 ①日本が西洋の植民地にされないようにする、
 ②天皇中心の立派な国になる


という戦いの目的が同じだったからである。

 それを誰がやるべきかと考えたとき、最後の将軍徳川慶喜は徳川家の立場よりも日本全体の立場に立って、勝の言うことを聞いたのだった。

板書:1868年4月:江戸城無血開城。
   1869年3月 天皇が江戸城にうつる。
           江戸は東京になり、明治政府ができた。       

坂本龍馬

坂本龍馬
■勝海舟の思想と坂本龍馬の行動を通して、日本人同士の戦いを避けて江戸幕府を終わらせ、新しい日本を創ろうとした人々がいたことを理解させる。この授業(龍馬の言葉を考える発問など)は安達弘先生の追試です。


1 坂本龍馬

■坂本龍馬の写真を貼る。
坂本龍馬


【板書】1835年 土佐藩に生まれた(郷士)

『○×クイズです』

①この人物は、剣術が強かった。
②この人物は、少年時代泣き虫だった。
③この人物は、18歳ぐらいまで寝小便をしていた。
④この人物は、日本で最初の貿易会社を作った。
⑤この人物は、ペリーの黒船を自分の目で見た。

【すべて○とする。それぞれかんたんに説明する】

■地図で土佐藩を示す。
*ペリーが来てからおよそ10年後。龍馬は28歳で土佐藩を脱藩。
*そのころ京都では、幕府派と反幕府派との殺し合いになっていた。長州藩VS幕府の戦争もあった。
『そういう大変な時期に、この若者も国のために何かしたいと考えて土佐藩を脱藩した』
*脱藩は大罪であったことを話す。

2 運命の出会い

『江戸に出た、反幕府派の龍馬は幕府のリーダー・勝海舟に会いに行った。斬りに行った、と言われる。』 

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■資料「勝海舟の話」を配る。



勝海舟は坂本龍馬にこう語った
●この語りは創作です。司馬遼太郎などを参照。

  勝海舟(かつかいしゅう)
幕府の軍艦奉行 1822 ~

 坂本さん、刀はもうちょっと、引きつけておきな。そうじゃないと、おれは斬(き)れないよ。まあ、おれを斬るのは、いつでもできるだろうから、今日は、アメリカの話でも聞いてお帰りよ。
 おれは二年前、咸臨丸(かんりんまる)に乗ってアメリカに行って来た。何がおどろいたって、あそこじゃ、国の政治は、選挙で選ばれた人物がやるという話だった。将軍家も、殿様(とのさま)もないんだ。だから、上に立つ者はみんな、ひとかどの人物だよ。バカでも身分や家柄がよいというだけで、リーダーになれるような国とは、いきおいがちがうというわけさ。
 おれたちはいま、そんな国を相手にしているんだ。今のように、国内で戦いあっているようじゃ、日本はあぶないよ。どっちが勝ったって、日本全体としてみりゃ、弱っていくばかりなのさ。そんなことをしていたら、西洋の植民地にされちまうかも知れないぜ。
 それでもいいのかい、坂本さん。
 西洋にやられないためには、軍艦だって大砲だっているんだよ。そいつを手に入れるには、西洋とつきあうしかないんだ。大砲も軍艦もない、サムライは藩に分かれていて、国としてまとまった海軍も陸軍もない。こんなことで、どうやって国を守れるっていうんだい。
 国が一つにまとまって、いざとなれば戦うという気力を見せれば、西洋にだって、そうかんたんには、やられやしないよ。
 幕府だ、長州だ、薩摩だと、日本人どうしで、けんかをしている場合ではないということさ。 
どうだい、人殺しなんかやめにして、おれといっしょに海軍をつくる仕事をやらないか。よかったら明日からでも、おれの海軍繰練所(かいぐんそうれんじょ)においで。





■読み終わってから、次の指示をする。

 龍馬は、勝の話を聞いて、体を電流が流れたように感動してしまったそうです。
 なるほど、自分が当時の武士だったら驚いただろうところに一ヶ所にだけ線を引きなさい。


*列指名で発表。同じ所に線を引いた者に挙手させる。
【よほどピントがはずれてなければすべて正解とする】


■龍馬の手紙を教える。「日本第一の先生の弟子になった。これからはこの先生について日本のために働く・・・」




3 薩長同盟

■『龍馬は勝先生に学んで、海軍の勉強をしたり、貿易会社をつくったりしながら、日本を変えるために働きました。その活躍ぶりを見ていきましょう』

①第1次長州征伐は幕府と薩摩が組んで、長州をたたいた。長州は薩摩を憎んだ。

②しかし、勝海舟も坂本龍馬は、日本はもう幕府ではもたないと考えていた。

③そこに、薩摩も方針を変えて「幕府はもうダメだから、長州と手を結びたい」と考え始 めているという情報が入ってきた。

④龍馬は「長州と薩摩のけんかをやめさせる」ことを考えた。龍馬は自由の身だから、あちこち飛び回れる。西郷さんと会ったり、桂小五郎(木戸孝允)さんと会ったりしながら、両方が手を結ぶ話を進めた。

西郷隆盛
隆盛西郷

木戸孝允
木戸孝允



⑤しかし、2人を会わせてもなかなか同盟の話が出ない。お互いに憎み合ってきた過去があるから、相手から前(さき)に言わせたいんだね。
 そこで、龍馬は二人にこうどなりつけたそうです。

「まだそんなちっぽけな、藩の体面や意地にこだわっちょるがか-!
    ○○のためでも、○○のためでもない。
    ○○のためだ!」

この○○に、どんな言葉が入るでしょうか?



*発表させる。
【薩摩のためでも、長州のためでもない。天下(日本、国など)のためだ-!】

【板書】1866年、薩長同盟成立。

『幕府は2回目の長州せいばつをやったが、薩摩はそれに参加せず、幕府側が負けてしまった(高杉晋作参照)』



4 戦わないで、江戸幕府を終わらせるアイディア

*こうして日本の対立は、「幕府VS(薩摩+長州)」となった。

■薩摩と長州が、幕府を倒す戦い。

そこで、坂本龍馬は、こんどはこのけんかをやめさせられないかを考えました。
それは、「戦わないで江戸幕府を終わらせる」という、驚くべきアイディアでした。
   それはどんな方法だったでしょう?



*近くの人と相談して考えさせる。発表させる。

【板書】1867年10月、大政奉還(第15代将軍徳川慶喜が、みずから政権を朝廷(天皇)にお返しした)
    江戸幕府が終わる。

『第15代将軍、徳川慶喜は、龍馬が考えたこの案を実行しました。これを大政奉還といいます。これからは、朝廷を中心に新しい国づくりをしていきましょう、というのが坂本龍間の考えだったのです。こうして、260年続いた徳川幕府が終わりました。1867年10月のことです。』

■プリントの勝の言葉「国内で戦ってはならぬ」を確認させる。
 


5 まとめ

『泣き虫で寝小便たれだった少年は、浪人の身軽さをフルに使ってとびまわり、薩長同盟と大政奉還という大仕事をやりとげました。この大仕事によって、江戸幕府は倒れ、新しい時代が幕を開けることになりました。
しかし、龍馬はその1ヶ月後に死んでしまいました。何者かによって暗殺されたのです。犯人は今もなおわかっていません』


薩英戦争

薩英戦争
●授業のねらい:生麦事件と薩英戦争のあらましを知り、日本人の尊厳をかけてイギリスと戦った武士がいたことを共感的に理解する。

1 生麦事件

■明治初期の生麦(横浜市鶴見区)の写真を示し問う。
生麦2

生麦1


 いまからおよそ150年前、ペリーの黒船が来てからおよそ10年後、通商条約を結んで5年後のことだ。
  この写真の場所である大事件が起きた。この道は当時の東海道。今の横浜市鶴見区にあたる。
  どんな事件が起きたでしょう?


★列指名で思いつきを言わせる。

■1862年八月の生麦事件の事実経過を物語る.できるだけ具体的に!(4人の英国人、1人死亡、1人負傷)。

■イギリスは幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(28万両)を要求した。薩摩藩には斬った武士の処刑と賠償金2万5000ポンドを要求した。幕府は言われるままに支払った。

 みなさんが薩摩のリーダーだったら、どうしますか?
A:斬った武士をイギリス側に渡し、ばいしょう金も払う。
B:ばいしょう金は払うが、斬った武士は渡さない。
C:賠償金も、斬った武士の引き渡しも断る。


★人数分布をとり、意見を言わせる。

■大久保利通の写真を貼り、その決断が【C】だったことっを教える。
 資料「大久保が藩主の代わりに書いた手紙」を読む。


  大名行列について、わが国法はきびしい。
  無礼な行為があれば、切り捨てるべきであると定めている。
  だから、薩摩の武士は国の法を守った者であり罪はない。
  彼らは犯罪者ではなく、薩摩藩が賠償金を払う義務はない。
  逆に、イギリス人が 日本にいて日本の法を守らず、罪を犯して切られたのである。
  西洋人といえども日本に来たのなら日本の法に従うべきなのはいうまでもない。
  その法は幕府が決めたものなのに、法を守らなかったイギリスに対してあやまり、賠償金を払うことこそまちがっているので ある。





2 薩英戦争

その結果、どうなったかを予想しなさい。

★列指名で、1列指名して言わせる。

■イギリスは幕府と交渉しても、薩摩に言うことをきかせる力がもう幕府にはないことを知った。鹿児島湾に7隻軍艦(89門)で押し寄せ、24時間以内の回答をせまった。

■大久保は「薩摩藩は、攘夷をさけぶ長州藩と、幕府を応援して戦ってきた。その開国派の薩摩藩が、日本の法を守ったせいで、いまイギリスから攻撃を受けようとしている。なんという運命だろうか!」と言ったそうです。

 薩摩藩は、イギリスのおどしに対して、どうしたでしょうか?
 A:戦って滅ぼされるよりも、ここはがまんしてイギリスに従う。
 B:ねばり強く交渉して、なんとかイギリスにあきらめさせる。
 C:だんことして戦う


*意見分布をとり、意見を言わせる。

■絵「薩英戦争」を見せ、戦ったことを告げる。

■資料:薩英戦争を読む。



3 薩英戦争の後始末

 戦いの後、薩摩藩の意見は2つに分裂しました。

 A:早く解決しよう派    B:あくまで戦う派

 戦争の後始末を任された大久保利通の意見は、どちらだったでしょう?


*意見分布をとるだけで正解を教える。

【正解はA】
武士としての意地を見せたことに満足し、イギリスと手をうつことにした。
大久保は、2万5000ポンド(7万両)を払うことにした。
しかし、賠償金ではなく遺族養育料とした。
しかも、それを幕府に払わせた。そのとき大久保がつかった手を教えよう。しぶる老中みこう言ったという。「もし7万両お貸し願えないのなら、やむをえない。やりたくはないがイギリス公使を斬って、自分も切腹する」。
幕府の老中はふるえあがって、金を出したという。



4 攘夷戦争を戦った長州と薩摩

 諸藩の中でいちばん力のあった長州藩と薩摩藩は西洋と戦った。

 戦った結果、両藩と西洋の関係はどうなったでしょうか?

A:さらに悪くなった   B:変わらなかった  C;仲良くなった


*意見分布をとり、理由を言わせる。

【正解はC】

■イギリス人は、堂々と戦う誇り高い武士の精神(長州藩と薩摩藩)を尊敬し、幕府よりも薩摩と長州を応援するようになった(軍艦を売ったり、鉄砲や弾薬を売るなど)。
イギリスは、これからの日本は、幕府ではなく、長州藩と薩摩藩を中心にまとまっていくのではないかと考え、自分たちの将来の利益を考えたのである。

プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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