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日清戦争

日清戦争


1 朝鮮半島は日本の「利益線」

『ここで、次の資料を読みましょう』
【資料】明治二十三年(一八九〇年)山県有朋首相の演説



明治二十三年(一八九〇年)
山県有朋首相の演説

 わが国の予算の中で最大の出費は、陸海軍の費用です。
 そもそも国の独立と安全を守るには二つの道があります。
 一つは国の主権線を守ること。主権線とは領土の境界(国境)を守ることです。
 二つは国の利益線を守ること。利益線とは国の主権線の安全または危険に密接に関係している地域を守ることです。
 さて、この利益線を考えない国はありません。
 とりわけ、西洋列強の進出するアジアにあって、わが国の独立を守るためには、ただ主権線を守るだけでは不十分なのです。
 利益線を守らなければ、日本の安全はありません。
 そのためにも、この予算案にあるように巨大な金額を陸海軍の費用にあてなくてはならないのです。

【発問】山県有朋の言う、明治日本の主権線(国境)は、左の図の通りです。では、利益線(国の安全にとって最も重要なところ)とは具体的にどこのことだと思いますか?

A 樺太
B 朝鮮半島
C 台湾

【蛍の光】4番
                       千島のおくも
おきなわも
やしまのうちの
まもりなり
いたらんくにに
いさおしく
つとめよわがせ
つつがなく




◆板書:主権線(国境)
◆明治日本の国境線を教える・・・資料の白地図に朱線を引かせる

山県有朋の言う利益線とは具体的にどこのことだと思いますか?
 A:樺太    B:朝鮮半島 C:台湾


*意見分布をとるだけで正解を教える。
◆正解はBの朝鮮半島・・・・南進するロシアの危険について簡単に説明する。
◆板書:利益線=朝鮮

『伊藤博文や山県有朋や陸奥宗光は、朝鮮にこうなってもらうことが、日本の安全にとって重要だと考えていました。
◆板書:朝鮮に対する日本の期待 
1 文明開化(近代化)
2 日本との協力

『しかし、そうは日本の思い通りにはなりません。明治政府ができてからずっと朝鮮にそう要求してきたのですが、朝鮮の李王朝は日本の言うことに耳を貸さない。実は朝鮮はある国と「親分子分の関係」にあったからです。その国は朝鮮を自分たちの子分の国だと考え、朝鮮はその国をご主人様だと考えていました。』

 さて、その国とは次のどちらでしょうか?
 A:清   B:ロシア


*意見分布をとり、理由を言わせる
『日本が聖徳太子の時にやめた関係を、朝鮮はなん大昔から今まで続けていた。朝鮮は厳しい環境に耐えてきた。また日本は朝鮮の弟分であるはずなのになんだと思っていた。ですから、朝鮮の近代化と日本との協力を実現するためには、朝鮮が中国のから独立することが必要でした。』


2 日清戦争

『朝鮮にも変化が来ました。日本と協力して李王朝を倒し朝鮮の明治維新をやろうという独立派と、中国派が争うようになりました。東学党の乱という朝鮮王朝への反乱が起きたとき、中国は軍隊を朝鮮に送りました。それを見た日本も朝鮮に軍隊を送り、戦争になりました。これを日清戦争といいます。日清戦争は、わが国をロシアの侵略から守るために朝鮮を独立させることが不可欠だったことから起こったのです』


◆板書:日清戦争(明治27年・1894年)
◆アメリカにいた松岡洋右(14歳)のエピソード
「日清戦争が始まると、ほとんどのアメリカ人は中国は知っていても日本は知らないのでこう言いました。「大国シナには日本という県があって、それが政府に反乱を起こしたらしい。また、日本を知っている人も「こんな小国がシナを相手に戦うなんて無茶だ。かわいそうに、いまにきっとひどい目にあうぞ」」


『当時、清国は眠れる獅子といわれた大国です。アジア最大の軍事力を持っていました。日本はそれにようやく追いつこうとしていました。厳しい戦いになるはずでした。しかし、日本はすべての政党、国民が戦争を支持しました。国家予算の2年半分の費用と10万人の兵隊を投入しました。全力を挙げて戦わなければ、西洋にやられる前に、シナにやられてしまうと考えたからです。その結果、陸の戦いも海の戦いも、日本の圧倒的な勝利に終わりました。それは、世界中が「アジアに日本あり」と知った日になりました。』

◆板書:国民のまとまりと愛国心、日本国民軍VS清王朝の傭兵


3 下関条約

『戦争は日本の圧倒的な勝利に終わり、下関で講和会議が開かれました。日本の全権大使は伊藤博文、外交官は陸奥宗光でした。そこで結ばれたのが下関講和条約といいます。講和条約とは平和条約のことで、ふつう戦争は戦った両国がこの条約を結んで終わります。条約が結ばれたら、もう戦争中のことでは絶対に争わないというのがルールでした。』

条約には次の3つがかかれましたが、条約の第一条には、日本がこの戦争に勝って一番重要だと考えたことが書かれていました。それは次のうちどれでしょうか?
■板書「下関条約」
 A:朝鮮を完全な独立国とする。
 B:台湾・遼東半島を日本の領土とする。
 C:賠償金(日本国家予算の4年分)


◆正解はAでした。

【説明】ところが、この条約を知ったロシアは、ドイツとフランスを見方にして日本に強い要求を突きつけました。

「遼東半島を清に返せ。さもなければ戦争だ」(三国干渉)
国民は、伊藤博文は、この要求に対して、どんな決断をしたでしょうか?

 国民(A:要求を受け入れる・B:拒否する)
  伊藤博文・陸奥宗光(A:要求を受け入れる・B:拒否する)


◆国民世論は断固拒否して西洋と戦おうとわきあがりました。

 伊藤博文や陸奥宗光は、いまロシアと戦えば国が滅びるしかない、国民よ我慢してくれと言い、遼東半島を清国に返しました。

『清の弱さが明らかになり、西洋列強はハイエナのように清に進出していった。3年後、ロシアは 遼東半島を清からうばいました。そこに軍隊を駐留させ、支配したのです。せっかく独立させた朝鮮はロシアに支配される可能性が大きくなりました。日本の厳しい状況が続きます。「結局は力が正義なのか」という気持ちが国民に広がり、臥薪嘗胆という言葉が国民の合い言葉になりました。今に見ていろつらい思いをがまんしても、日本をロシアに負けない強い国にするぞ、という意味です。』

◆板書:戦争の結果:清に西洋が進出、遼東半島はロシアのものになった。
       
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陸奥宗光と不平等条約改正の歩み

陸奥宗光と不平等条約改正の歩み
◆不平等条約改正の歩みをたどり、陸奥宗光の偉大な一歩を学ぶ。

1 ノルマントン号事件

◆絵を見せる
Normanton_Incident(1886).jpg


この絵を見て、疑問に思ったことをノートに書きなさい

*発表させる。

◆板書:明治18年;ノルマントン号事件
◆以下を説明する。
・1886年(明治18年)、ノルマントン号というイギリスの船が沈没した。
・横浜から神戸へ向かう途中、和歌山県沖で。
・救命ボートで助かったのはイギリス人だけ。日本人乗客23人は全員おぼれ死んだ。

日本人を助けず、見殺しにした船長ドレイクは裁判にかけられました。
 どんな判決が出たか予想してください。
 A:無期懲役  B:懲役10年  C:無罪


*意見分布をとり、発表させる。

◆無罪が正解です。
「私は早くこのボートに乗れと言ったのに、日本人は英語がわからず、ボートに乗ろうとしなかったのだ」という船長の言い訳を、裁判長が認めたためでした。

この裁判長に明治の日本国民はたいへん怒り、抗議しました。みなさん、ご先祖様になったつもりで話してみてください。

*発言させる。

その抗議が認められて、もう一度ドレイクは裁判にかけられ、3ヶ月の禁固刑、
ただし、賠償金はなしとなりました。それにしても、23人を見殺しにした罪
としてはあまりにも軽すぎました。
  どうしてこんな軽い刑罰ですんだのでしょう?


*発言させる。

◆板書:不平等条約・・・イギリスに治外法権がある(外人が日本で犯した犯罪は、日本の裁判所が裁けない)

◆このほかにも、「少女が暴行されて無罪(東京)」「衝突で船が沈められて74人が死んで、相手が悪いのに損害賠償1万ポンドを払わせられた(瀬戸内海)」「外人に杖でなぐり殺されても裁判できない(新潟)」などが起きたことを話す。



2 井上馨の欧化政策

◆鹿鳴館の絵を見せる。
鹿鳴館


これは東京の鹿鳴館という建物で行われていたパーティの絵です。
 井上馨が進めた「日本西洋化政策」で、条約改正を進めようと言うのです。


◆板書:「鹿鳴館」・・・日本のリーダーが西洋人のように行動して仲よくなれば、
条約改正ができるだろう

◆この政策を進めた井上馨は次のような案で、条約改正を進め、各国も認めようとしました。

・日本がつくる法律は外国に見せて承認を受ける
・日本の裁判所の裁判官の半分以上を外国人にし、英語で裁判する。

みなさんはこの案に賛成ですか、反対ですか?

*発言させ、理由を言わせる。

◆国民の反対にあい、井上馨は条約改正は失敗する。
これでは不平等条約よりももっと悪い、日本が外国にのっとられてしまったみたいだ、というわけです。



3 陸奥宗光の偉大な一歩

◆この条約改正をやりとげたのが、陸奥宗光です。写真を貼る。
陸奥宗光


◆プリントを配り、読む。



不平等条約の改正に成功した陸奥宗光

陸奥宗光は田辺藩(和歌山県)の武士の家に生まれました。ペリーが来たときは十才の少年でした。十五才で家を出て、二十才で勝海舟の海軍繰練所に入り、海軍や西洋の法律を学びました。このとき、坂本龍馬と出会い、龍馬の海援隊(貿易会社)にも参加しました。陸奥宗光は一人で読書にふけることが多く、仲間とわいわいやるタイプではありませんでしたが、坂本龍馬だけは陸奥をたいへんかわいがり、
「海援隊にはすぐれた人物がたくさんいるが、自分の考えをしっかり持ち、独立してやっていけるのは、私と陸奥宗光だけだろう」と言っていました。
 龍馬が暗殺されたとき、陸奥は、日本を西洋と対等につき合える近代国家にするために、坂本さんのバトンを受けつごうと心にちかいました。
 陸奥宗光は、国会ができて新しい内閣の外務大臣になり、不平等条約の改正に向けて努力をかさねました。それが、明治日本の最大の目標だったからです。
陸奥宗光はイギリスとの交渉に目標をしぼり、ねばりづよく交渉していきました。イギリスは当時世界一の大国でしたから、イギリスが改正すれば、他の西洋列強も改正するはずだと考えたからです。
 また、陸奥の工夫は「条約はすぐに改正するが、完全に実施するのは五年後にする」という交渉をして、相手を説得したことでした。
 陸奥宗光は国会で次のように演説しました。
「わが国はこれまで、開国して西洋から学び、発展してきました。貿易額は五倍になり、日本中に電線と鉄道がひかれ、海には大きな蒸気船がうかんでいます。軍隊も西洋にひけをとらないほどになりました。とくに、憲法と国会をつくり、重要な問題をこのように話し合ってすすめる国は、西洋以外では日本しかありません。この日本を、西洋の国々もおどろいて見ています。
 さて、国民の中には『外国人の国内の行動を制限して、日本人とふれあわないようにすべきだ』という意見がありますが、これはまちがいです。西洋人も日本の国内で自由に行動できるようにしてこそ、不平等条約の改正が前進するのです。」
 こうして、西洋人が日本のどこでも安全に自由に行動できるようにしたことによって、陸奥宗光はイギリスとの条約改正に成功しました。明治二十七年(一八九四年)のことです。他の西洋諸国もこれにならいました。
 陸奥宗光は、これからの外交で大事なのは、まず自国に誇りを持つこと、相手を恐れず勇気を持つこと、そして強い国の仲間入りをすることだと言っています。




◆明治27年(1894年) イギリスとの間で、不平等条約が一部改正改正され、外国の治外法権が撤廃された。関税自主権一部も改正されたが、完全な対等条約にはならなかった。

◆次は、日本の関税を西洋が決めるという貿易の不平等を完全になくすことが目標になった。

伊藤博文と大日本帝国憲法

伊藤博文と大日本帝国憲法
◆伊藤博文らの努力によって、日本は憲法と国会を持ち、アジア最初の立憲国家となったことを教える。本授業は横浜の安達弘先生の授業の追試です。


1 足りないものが二つ

岩倉使節団がアメリカに行って不平等条約を改正したいと言ったとき、
 アメリカの代表はこういいました。
「○○と○○がないような遅れた国とは対等につきあうわけにはいかない」

日本がまだ持っていないと言われた2つとは、いったい何と何でしょうか?

◆意見を出させる。
◆「今日の学習の主役はこの人です」と、伊藤の肖像をはってから、プリント「伊藤博文と明治憲法」を読み正解を知る。→タイトルを書く。プリントと同じ。

伊藤博文





伊藤博文と大日本帝国憲法

 伊藤博文は長州藩(今の山口県)の出身です。伊藤博文はもともとは名前を俊介と言い、武士ではなく農民の生まれでした。伊藤博文は吉田松陰の松下村塾に入り、ここで桂小五郎(のちの木戸孝允)や高杉晋作と知り合い、幕府を倒すための仕事にたずさわりました。明治政府ができると政府の中心として働くようになりました。
 大久保利通の死後、伊藤博文は政府の最高責任者の地位をひきつぎました。明治十一年にして、農民出身者が国のトップになったのですから、わが国の実力主義もたいしたものです。伊藤は、大久保のつくった土台の上に、りっぱに近代日本という国を建てる大きな仕事をなしとげていきました。
 大久保利通が世界を見てきた「岩倉使節団」にも、伊藤博文は同行しました。大久保はこの旅から「富国強兵」という大方針を打ち立てましたが、伊藤はこの旅から「不平等条約を改正するためのに何が必要なのか」を思い知らされることになりました。
 条約改正(平等にしてほしい)の交渉にのぞんだ伊藤たちを、アメリカはまったく相手にしなかったのです。その理由は、「国会と憲法がないような国とは対等につきあうわけにはいかない」というものでした。
 このときから、伊藤博文をはじめ日本のリーダーたちにとって、「国会と憲法」は、必ずやりとげなければならないもうひとつの大方針となったのです。
明治十四年、「十年後の国会開設」を国民に約束した伊藤博文は、いろいろな国の憲法を研究するためにヨーロッパの国々をまわりました。この中でとくにドイツの憲法を中心に研究しました。西洋の強国の中でも、ドイツがいちばん日本の手本になる国に見えたからです。博文はここで憲法学者のグナイストに先生になってもらい、いろいろと教えてもらいました。さらに、オーストリア、ベルギー、イギリス、フランス、ロシアなどをまわって約一年ぶりに帰国しました。
 伊藤は帰国後、ただちにいろいろな準備にかかりました。明治十八年に内閣のしくみをつくり、初代の内閣総理大臣になったこともその一つです。
 この後、博文は伊東巳代治(いとうみよじ)、井上毅(いのうえこわし)、金子堅太郎(かねこけんたろう)といっしょに神奈川県夏島の別荘で憲法を作るための合宿生活に入りました。 四人は朝起きると議論、ご飯を食べながらも議論という生活を一年間も続けました。伊藤は、他の三人に国のためにえんりょのない意見を言うように求め、他の三人もそれにこたえて、地位の上下にとらわれない討論をとことんやったのです。
伊藤たちのけんめいな努力が実って、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されたのは、明治二十二年二月十一日のことでした。その日は、大昔に神武天皇が初めて国をつくったといわれる日(紀元節)のことでした。
 そして、翌年の七月一日には第一回衆議院総選挙が行われ、わが国最初の国会(帝国議会)が開かれたのは、明治二十三年十一月二十九日のことでした。明治政府はみごとに国民への約束を果たし、日本は西洋人以外の国では初めて、憲法にもとづいて政治を行う国「立憲君主国」になったのです。




◆正解は、憲法と国会だったことを確認する。



2 グナイストの指導と伊藤の決断



(プリントの続き)

 さて、伊藤博文は憲法を作るときにドイツで憲法学者のグナイスト博士からいろいろなアドバイスを受けていました。
 その中の一つに「国会の力をどのぐらいにするのがよいか?」という問題がありました。
 グナイストは伊藤にこう教えました。
「政治は法律と予算(税金の使い道)にもとづいておこなうのが立憲政治です。西洋では、この法律も予算も国会が決めて政治を進めるのがふつうです。しかし、日本の場合は法律と予算は政府が決めるのがよいでしょう。憲法にそう書けばいいのです。
 そうしないと、政府がやろうとしたことに国会が反対したとき、国のために必要なことができなくなってしまうからです。西洋では、国会と政府が対立して政治が進まず、困ることが多いのです。国民はふつう税金は安ければ安い方がいいと考えますが、政府は富国強兵のためにやらなければならないことがたくさんあります。国民が選んだ議員の考えと、政府の考えが対立する場合が多いのです。法律も予算も国会の多数決で決めるようにしたら、国民のわがままばかりが通るようになり、きっと日本はほろびてしまうでしょう。国会は国民の代表者が話し合い、政府に意見を言う場にして、予算や法律を決める場にはしないほうがいいのです。無理をしてはいけません。国民が成長すれば、憲法を変えていくことはいつでもできるのですから。」



◆プリントの話題を受けて、次の発問をする。

グナイストの指導に対して、伊藤はどのような判断をしたでしょ
 うか?
A 法律も予算も政府(内閣)が決める。
B 法律か予算のどちらかだけを国会が決める。
C 法律も予算も国会が決める。


◆A、B、Cごとの人数分布をとり、話し合わせる。

◆正解はC

 伊藤は「西洋にできることは、日本にもできると証明しようとした」と話す。

◆森有礼との論争を教える。「臣民の権利について」
森は天皇陛下の臣民には権利はいらないのではないかと主張したが、伊藤は、国民の権利を守ることが憲法の重要な使命であると述べて、森らの意見を退けた。


3 明治憲法を知る

◆板書
 明治22年(1889) 2月11日 大日本帝国憲法発布
23年 7月1日  第一回衆議院議員総選挙
11月29日 国会(帝国議会)

◆プリント「憲法抜粋」を配り、おもな序文を読みながらかんたんに説明していく。

◆明治憲法には西洋に学ぶ面と、伝統を守る面とがあったことを教える。

(西洋に学ぶ)
*国民の権利・・・居住・移転の自由、職業の自由、裁判に訴える権利、宗教の自由
言論の自由、集会の自由
参政権(25歳以上の男子:税金15円以上)
国民の義務・・・教育、納税、兵役の三大義務

(伝統を守る)
*万世一系の天皇を君主とした。



◆日本は、アジア初の立憲制度の国になったことを教える。

◆天皇独裁のような見方があるこtを教え、次の発問をする。

天皇が、国会や裁判所や内閣が決めたことを否定したことが何回あったでしょうか?
A 一度もなかった、  B 数回あった    C 数十回あった。


◆正解はA.天皇は国民の決定に印を押して権威を与える役割だったこと、それが天皇が考えた立憲君主制であったことを教え、今日につながる民主主義の第一歩であったことを教える。



4 明治憲法の評価と教育勅語

◆自由民権派の評価「政府は約束を守った」を教える。




 板垣退助の言葉
「一たび憲法が発布されると、国中挙げてまるで戦争に勝って凱旋するような気分になり、皆、永年の望みがついにかなったことを喜び、お互いに慶賀しあい、一晩で藩閥政府対民権運動の抗争を忘れたようなありさまだった」
「前の日まで死を賭して争ってきた人々も、すべてを忘れて、和気真にあいあいたるものがあった」
(板垣退助「自由党史」)





◆世界の評価を教える。

 

*イギリス「タイムズ」
「アジア人である日本で、議会と憲法がつくられたのは何か夢のような話だ。これは偉大な一歩である」

*ハーバード・スペンサー(イギリス人)
「日本の憲法は、西洋に学びながら、たんなるまねでなく、日本の古くからの伝の津も忘れずに、少しずつ進歩していこうとしている。たいへんりっぱなことである。」

西洋諸国は、不平等条約を平等に改正してくれただろうか?
A:改正してくれた   B:改正してくれなかった


◆正解は、Bの改正してくれなかった。


◆最初の帝国議会が開かれるとき、天皇陛下から「教育に関する勅語」が出されたことを教える。
民主主義は国民の道徳によって支えられるという考え方のもとに、この勅語がつくられたことを教え、それが日本人の生き方の背骨をつくったと言われていることを教える。

◆「教育勅語」の言葉の現代語訳を読み、授業を終える。

*プリント「教育勅語」



「現代語訳:教育勅語」

 君主として私の考えを述べる。

 私のご先祖は、遠い昔にこの国を建国し、深く厚い徳をうち立ててきた。わが国民もまた、皇室には忠義つくし、両親には孝行をつくして、心を一つによい行いを積み重ねてきた。これはわが国の優れた美質であり、わが国の教育がめざすものはまさにここにある。

 したがって、あなた方国民は次のような徳を身につけなければならない。
 父母には孝行すること。兄弟にはやさしくすること。夫婦は仲良くすること。友だちは互いに信じ合うこと。
 慎み深く自分の心を引き締め、分けへだてなく人に愛情をそそぐこと。
 学問を修め、様々な技能を身につけ、知能を啓発して、立派な人格となること。
 すすんで公のためにつくし、世の努めを果たすこと。必ず憲法を守り、国の法律に従うこと。もし国家に危急の時があれば、正義にかなった勇気をふるいおこして、国のためにつくすこと。そして、天地に極まりのない天皇の国が発展することを助け支えること。

 このようなことは、ただ私に忠実な国民として価値があるだけでなく、それは、あなた方自身のご先祖が残した美風に感謝し、それをたたえることにもなるのだ。

 この道は、私のご先祖たちが残した教えであり、私の子孫と国民すべてが共に守っていくべき教えであり、昔から今に至るまで誤りのない教えである。この教えは、我が国ばかりでなく、諸外国においても十分道理にかなう教えとして通用するものである。

 私は、あなた方国民と共に、心をこめてこれらの教えを守り、皆がその徳を一つにすることを願うものである。

      明治二十三年年十月三十日    御名御璽

                     (教育勅語をもとに作成)

自由民権運動と明治政府

自由民権運動と明治政府

◆自由民権派は人権派で正義であり、明治政府はそれを弾圧した国家権力で悪だという物語が歴史教育を支配してきた。その誤りを正し、両者が「欧米と対等につき合える国になる」という目標を共有していたことをしっかり教えよう。

1 自由民権運動 

◆プリントを読む



 自由民権運動

 西南戦争が終わったとき、明治日本の偉大な三人のリーダーが、三人とも死んでしまいました。
 大久保利通(薩摩)、西郷隆盛(薩摩)、木戸孝允(長州)の三人です。
 その後を引き受けたのが、伊藤博文(長州)でした。

 伊藤は大久保利通の意志をひきついで「富国強兵」の政治を進めました。明治日本の大目標をなしとげるには、これ以外に進むべき道はありませんでした。西郷さんなきあと、この方針に反対する人はもう一人もいませんでした。

 しかし、ここに新しい意見が出てきました。板垣退助(土佐藩)や大隈重信(佐賀藩)たちが、政府に提案した意見です。彼らはこう言いました。
「明治政府のリーダーが、いつまでも長州藩と?摩藩の出身者だけなのはおかしい。西洋と同じように、国民の選挙によってリーダーを選ぶべきである。」

この意見を広めていった運動を、自由民権運動といいます。それは、今の日本と同じような「民主主義」の考え方の第一歩でした。
リーダーを選挙で選ぶようにするためには、次のことがひつようでした。

1 憲法(国の形や政治の進め方を決めた法律・・・国の基本になる法律)
2 国会(選挙で選ばれた国会議員が話し合って、法律や税金の使い方を決める)




【板書】
 タイトル「自由民権運動・・・民主主義の第一歩」
・国のリーダーは選挙で選べ→憲法と国会(議会)をつくる
 写真1「板垣退助」写真2「大隈重信」写真3「伊藤博文」
板垣退助
大隈重信
伊藤博文



明治政府のトップだった伊藤博文は、この意見に賛成だったでしょうか? 反対だったでしょうか?

 A 賛成     B 反対


◆AかBを選ばせ、ノートに理由を書かせる。
◆人数分布を板書し、理由を言わせる。

【正解はA】
*伊藤は岩倉使節団に加わっており、アメリカ政府が不平等条約改正の条件として挙げたのが「憲法と国会」であったことをよくわかっていたこと、伊藤が権力を引き継いだ大久保利通の目標も「立憲君主制」であったことを話す。



2 すぐにやるべきか? ゆっくりやるべきか?
 
◆なるほどそうだと思うところをマークしながら、プリントを読ませる。



板垣退助   大隈重信

・1837    ・1838
~1919     ~1922
・土佐藩出身   ・佐賀藩出身


A【「自由民権運動」側の意見】
  急いでやるべきだ。このままでは薩摩と長州出身の一部の者の独裁政治が
 続き国民の元気がおとろえてしまうだろう。四民平等ではなくなってしまう
 からだ。不公平なリーダーの決め方は、ぜったいによくない。
  だから、国会を開いて、国民が選挙で代表を選び、その代表が話し合いに 
 よって政治を進めるべきなのである。
  また、西洋列強は不平等条約の第一の理由に「憲法がなく国会もない」
 ことをあげている。日本を、西洋と対等な国にするためにも、一日も 早く
 やるべきである。



伊藤博文
・1841~1909
・長州藩出身

B【政府側の意見】
  国のリーダーを選挙で選ぶべきだという考えは、政府も賛成だ。
 しかし、今すぐそれをやるのは、たいへん危険である。急ぐべきなのは、
 富国強兵の政治であり、のんびり話し合って政治を進めるよゆうは、今の
 わが国にはないのである。
  また、国民はこれまで何百年も、武士の政治にだまって従ってきたので、
 政治がやるべき事がよくわかっていない。もしまちがったリーダーが選ばれた
 ら、日本の独立もあぶなくなる。国民の教育を進めて、国民が国や政治につい
 て理解できるようになってから、選挙を行うべきなのである。




みなさんが彼らの近くにいたとしたら、AとBのどちらを選びますか? 同時代を生きるリーダーとしてAかBを選び、その理由をノートに書きなさい。

◆人数分布をとり、話し合わせる。
*AもBもそれぞれの立場があり得たことを話し、明治政府は【Bで政治を進めた】ことを以下に学んでいく。


2 国会開設の勅諭 

◆明治天皇の写真を貼る
明治天皇



 板書:明治天皇の約束・・・明治14年(1881)
    「10年後の、明治23年に選挙を行い、国会を開きます」
 
◆国会開設の勅諭を読む。



 私は平安時代からゆるんでいた天皇の力をふるいおこし、国を一つにまとめると
共に、立憲政治を進めようと考えてきました。3年前に府県会を開いて選挙を始め
たのも、立憲政治の基礎をつくろうとしたからである。
 しかし、国の政治の仕組みをつくる仕事はそうかんたんにできるものではない。
今から10年間、政府も民間もしっかりと準備を進めるようにしなさい。そして、
10年後には、憲法を作り、選挙を行い、国会を開くなど、これまで考えてきたこ
とを必ず実現したいと思う。





自由民権派はどうしたでしょうか?

A:いますぐやれと反対運動を進めた。
B:約束に賛成し、それにしたがった。


◆挙手で意見分布を確認し、数名に意見を言わせる。

【正解はB】
◆全体としてはBだったが、一部に秩父事件などの一揆のようなこともおこったことを話す。

◆板垣退助の『自由党史』から、次を読んで聞かせる。



「自由民権運動の人々も、まるで雷にでも打たれたように言葉を失い、10年後には理想が実現することを喜んだ。そして、政党を作り、選挙のための準備を始めた」




3 まとめ

◆板垣は「自由党」を、大隈は「立憲改進党」を設立し、ただちに選挙の準備に入ったことを話す。
 
◆伊藤博文は、明治15年、憲法と国会開設(立憲君主制)の勉強をするためにドイツに留学したことを話して、政府側も、自由民権派も共通の目標に向かって大きく一歩を踏み出したことを教え、次の時間につなげる。

プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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