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大正時代の日本

大正時代の日本

1 明治の終わり

不平等条約の改正で明治日本の大目標が達成された翌年、日本中が悲しみに包まれる
出来事がありました。ある人物が亡くなったのです。その人はだれでしょうか


◆明治天皇崩御
◆板書:大正時代(1912~26:大正十五年=昭和元年)


2 世界の一流国になった日本

世界の一流国日本の、大正時代がどんな時代だったのかを見ていきましょう。


科学の発達
◆日本が西洋レベルになった一つの証拠・・・世界レベルの科学者の出現
◆板書:学問(科学)・・・野口英世、北里柴三郎、志賀潔など

工業と民主主義の発達
◆板書:産業・・・産業革命をなしとげ工業が発達した。足尾銅山の公害(田中正造)
政治・・・明治憲法の立憲主義がさらに発展した。
         普通選挙法(成人男性全員に選挙権)
 政党内閣(総理大臣を選挙で選ぶ)

生活の変化
◆電灯普及のグラフ、
◆板書:技術・・・電気と石油の時代が始まる。地下鉄、電話、飛行機、自動車、
生活文化・・・アメリカ文化の流入、スポーツ、映画、ファッション、雑誌、デパート

国際社会の変化
◆板書:1912:辛亥革命・・・清国が滅びて、近代国家をめざす中華民国が樹立。
                しかし中国はさらに分裂して、混乱を深めた。
     1914:第一次世界大戦・・・日本も参戦し戦勝国になった。
     1919:国際連盟設立
1917:ロシア革命・・・ロシアのロマノフ王朝が倒され、ソ連(共産党の独裁国家)になった。

◆資料「日本の勢力図」を見せ、日本の統治する範囲が中国や太平洋に拡大していることを確認する。

3 まとめ

『国づくりの目標が達成されて、欧米列強と対等になった日本の、新しい目標は

「世界の一等国としての日本の地位を守り、さらに発展させる」

になりました。
しかし、ここから日本はたいへん困難な運命の中にまきこまれていきます。国民やリーダーの意見も、明治時代のようにはまとまらなくなっていきます。
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6年生担任の先生方へ(おわび)

 11月までに歴史全単元と思って始めながら、最後までたどりつけず残念。
 もうみなさんは公民単元に入られてることでしょう。

 2学期はカリキュラムの進度よりも遅れてしまって、まことに申し訳ありませんでした。
 このあとまだ何時間かありますので、どうかおつきあいいただけたらうれしいです。

 一昨日は、Vinoでかつての仲間と会って楽しい時間を過ごしました。
 このメンバーとの学年は、たいへんなドラマに満ちた、スリルとサスペンスの1年でしたが、それだけに気合いも入り、緊張感のあるいい仕事ができた年でした。一晩ゆっくり飲み交わして、やっぱり、自分なりにいい仕事ができたなと思える年は、スタッフに恵まれていたんだとつくづく思いました。
 感謝!です。

 みなさま、学期末のお仕事に追われて、厳しい毎日をお送りのことでしょう。
 どうか、ご自愛ください。

日露戦争の勝利と不平等条約の改正

小村寿太郎:日露戦争の勝利と不平等条約の改正

1 戦争の終わらせ方

ロシアのような強大な国と戦争をすると決めたとき、日本のリーダーだった伊藤博文がまず最初に考えたことは、どうやってこの戦争を終わらせるかということでした。

伊藤博文はどんな手を打ったのでしょうか? これは、戦争を終わらせるにはどうしたらいいのかという問題です。

*アイディアを発表させる。
◆伊藤博文は、アメリカ大統領ルーズベルトに講和の仲介を頼んでおいた。ルーズベルトは、日本海海戦の勝利を見て感動し、ただちに仲介に乗り出した。日本はこれ以上戦い続ける力は残っていなかったので、まさにグッドタイミングだった。

◆アメリカの港町ポーツマスで、日本とロシアの代表団は戦争を終わらせるための話し合いを進めた。

◆板書:明治38年(1905)8月 ポーツマス講和会議
    日本代表(小村寿太郎)

◆小村の写真を貼る
小村寿太郎


政府は小村に対して、戦争を終わらせるために、これだけは絶対ロシアにイエス
と言わせるべきだという要求を指示しました。
それは次のどれでしょうか?
A:樺太を日本の領土にする。
B:賠償金をはらわせる。
C:韓国のことは日本にまかせ、口出ししないと約束させる。


*意見分布をとり、話し合わせる。

 
◆資料「小村寿太郎とポーツマス講和条約」を読んで、事実を知る。


 小村寿太郎とポーツマス講和条約
小村寿太郎はペリー来航の二年後、宮崎飫肥藩の武士の家に生まれました。明治七年イギリスに留学して法律を学び、四十六歳で外務大臣になりました。
小村は友人にこう話していました。
「貧乏に生まれたのが一つの楽しみ。
 国を愛するのが二つ目の楽しみ。
国のためにつくすのが三つ目の楽しみ」

 この言葉の通り、小村は外交官として偉大な仕事をしました。第一は日英同盟をむすんだことです。これがなければ日露戦争は戦えなかったでしょう。第二はポーツマス講和会議に日本代表として出席して、ポーツマス条約を結んだことです。

 ポーツマス会議に出席した小村に、政府は次のように指示していました。
「交渉は厳しいものになるだろうが、これだけはゆずってはいけない要求が一つある。それは、『①日露両軍が満州から引き上げ、韓国のことは日本にまかせる(ロシアが口出ししない)』と約束させることだ。
できれば、②賠償金を取る ②樺太を日本領土にする、などを勝ち取ってほしい」

 なぜ朝鮮半島と満州がいちばん重要なのでしょうか。小村寿太郎は言います。
「平和、平和と百万回となえても、平和を手にすることはできない。真に平和を望むのなら、国防を確立することだ。敵を一兵たりとも国内に入れないための備えをすることだ。そのためのたった一つの方法は、大陸に鉄条網をはることである」

 大国ロシアから日本を守るには、通り道である朝鮮半島を日本の防波堤にするしかないというのです。また、朝鮮とロシアの間にある満州も重要な場所になります。

 ロシアは、①は受け入れましたが、他のことは強く反対しました。まだロシアは完全に負けたわけではないからです。
 しかし、小村はかんたんには引き下がりません。ねばり強い交渉を続け、①だけでなく、②樺太は南半分を日本領土とする、③遼東半島の一部を日本の領土とする、④満州の鉄道を日本が経営する、をかちとりました。
 しかし、賠償金を取ることはできませんでした。
 イギリスから国家予算の何倍もの借金をして戦った日本にとって、これはきびしい結果でした。しかし、伊藤博文などリーダーたちは、小村のがんばりをほめました。
「戦争を続けてもいい」と言うロシアにここまでゆずらせた小村の努力がよくわかっていたからです。

 しかし、帰国した小村を待っていたのは、国民のはげしいブーイングでした。
国民は「二十万人もの血を流してこれだけか!」と怒り、東京では暴動が起きたほどです。国民は、日本にはもう戦う力がないことを知らなかったのです。

もし小村がポーツマス講和条約を結ぶのに失敗していたら、戦争は再開され、日本はこんどこそあやうかったというのが真実でした。政府も小村も、それを国民に言うことができず、国民の抗議にはだまってたえるしかありませんでした。



■板書:ポーツマス条約①韓国は日本に任せる 
           ②樺太の南半分、遼東半島、
           ③南満州鉄道の経営権
*賠償金は要求しない。

◆地図に、日本領土を赤く塗る。


2 戦争の結果

『その5年後、日本は決定的なある決断をしました。
 朝鮮を日本領土にしたのです。朝鮮に攻め込んで支配したのではなく、条約を結んで支配したのです。賛成した朝鮮人もたくさんいました。
 反対だった朝鮮人もたくさんいました。日本は朝鮮を独立させたままで、日本と協力関係を築く力がなかったともいえます。
 ロシアなら、迷わず支配したでしょう。あし、伊藤博文などは「同じアジア人としてつらい」という考えでした。しかし、その伊藤も朝鮮人に暗殺されてしまい、日本は「支配する」ことを決断します。
 日本は西洋とはちがってここにお金をつぎ込んで朝鮮の近代化を進めました。しかし、朝鮮人から見れば日本の軍事力に負けて、長い歴史のある祖国を他の国にうばわれたのです。日本と東アジアの安全のために、長い歴史のある同じアジア人の国を支配する立場を選んだということです。』

◆板書:明治43年(1911) 朝鮮併合(1945まで)
◆地図に、朝鮮を赤く塗る。

みなさんは、明治日本が日露戦争の後に、朝鮮を支配することになったことを、
 どう思いますか?当時の先祖の立場に立って考えてみましょう。

  A:まちがっていたのではないか   B:やむをえなかったのではないか


*意見分布をとり、話し合わせる。
【解説】
・Bの意見が大勢をしめる。児童の多くは日露戦争を「祖国防衛戦争」として共感的に理解しているので、戦争後またロシアに進出されたら今度こそアウトだという意見が出てくる。


◆ロシアを除く西洋諸国は、この日本の決断を当然のこととして受けとめ支持しました。日本が統治すれば、東アジアに安定と秩序が生まれるだろうというわけです。

その翌年、小村寿太郎は外交官として、ある偉大な仕事をしました。
それは何でしょうか?


◆板書:明治44年:関税自主権を回復した→不平等条約の完全改正
    「西洋列強と対等な国」が実現した
    
『日英同盟、日清・日露の戦い、そして朝鮮併合によって、ようやくペリー来航以来の日本人の夢がついにかなったのです。明治になって44年、ペリー来航から約60年、ご先祖たちの夢であった『西欧列強と対等についあえる国』という大目標が実現しました。リーダーたちと国民すべてが団結して、死にものぐるいの努力を続けた結果でした』

日露戦争

東郷平八郎:日本海海戦

1 戦争の原因

◆資料「明治日本が一番恐れた国・ロシア」を読む。


 明治日本がいちばん恐れた国・ロシア 

ペリーが日本に来たころクリミア戦争が起きた。ロシアがトルコに進出しようとしたのをイギリス・フランスなどがゆるさなかった戦争だ。ロシアが南に領地を広げようとしたのは、冬でもこおらない港がほしかったからだった。
 ロシアはこの戦争に負けて、西の海に出るのはあきらめた。そして東に出てきたのだ。日本海にウラジオストクというロシアの港があるが、それは「東方を征服する」という意味だった。
ロシアは日本が日清戦争で手に入れた遼東半島を清に返させ、そこを自分のものにした。そして半島の先の旅順港を軍港にした。
 さらに北清事変のあと満州に陸軍を配置し占領していた。朝鮮には日本派とロシア派がいて争っていたが、もうこうなっては強大なロシアの言うことを聞くしかない。朝鮮は半島の南の港をロシアに与えようとしていた。
 しかも、シベリア鉄道がウラジオストクまで延びてきた。いざというときに、大量の兵隊や武器や弾薬を運ぶためだった。
明治日本は、このロシアを心の底から恐れていた。多くの国民が苦しみにたえ、貧乏もがまんし、けんめいに努力して、ようやくここまできた国が、大風の前のロウソクの火のようにゆれていた。
 そのとき、明治日本のリーダーたちの前に、祖国日本を救うための二つの道が提案された。



◆地図(2枚)でロシアの進出をおさえる。
                 遼東半島、満州、ウラジオストク、シベリア鉄道
◆板書:A:日露協商 B:日英同盟
   伊藤と小村の写真を見せる。

伊藤博文
小村寿太郎


┌───────────────────────────────────┐
│ A:伊藤案「日露同盟」とB:小村寿太郎案「日英同盟」のどちらを │
│ 選ぶべきでしょうか? │
└───────────────────────────────────┘
*意見分布をとり、理由を言わせる。

◆明治35(1902年) 日英同盟(日本とイギリス)
◆日本は世界一の国に支えてもらう。イギリスは日本にロシアの南進を止めてもらう。

2 開戦の決断
◆地図でロシアの進出をおさえる。竜岩浦、栗九味。『ロシアがますます朝鮮半島に出てきた。ロシア討つべしという声が国中に満ちた。しかし、リーダー達は迷っていた。』

◆ロシアと日本の国力比較・・・60:1の領土
 ①国家予算 ロシア(20億円) 日本(2億円)
 ②兵隊    ロシア(200万人) 日本(2万人+?)
 ③戦艦    ロシア(十五隻) 日本(六隻)

『しかし、日本は戦うことを決断しました。すべての政党が賛成し、国民のほとんどがこ れは祖国防衛戦争だと考えて立ち上がりました。もちろん新聞や雑誌には一部の反対意見もありました。伊藤は負けることを覚悟しその時は一兵隊になって出ると言いました』

◆板書:明治37年(1904)2月 日露戦争始まる
◆イギリスの掛け率は、80%ロシアの勝ちと予想した。

3 運命の戦い

(1)陸の戦い
◆板書:ロシア25万人 VS 日本16万人、
◆「タイムズ」の記事を読む。

②海の戦い
◆東郷平八郎の絵、プリント「東郷平八郎と日本海海戦」を読む。


東郷平八郎(1847-1934)と日本海海戦

東郷平八郎

 
 東郷平八郎は幕末、鹿児島の加治屋町に生まれました。西郷や大久保が生まれたのと同じ町です。
 薩英戦争に十五歳で参戦してから、軍人の道を歩み、二十五歳で当時世界最強の海軍国イギリスに留学して学びました。慎重さと決断力をあわせもつ、たいへんな努力家でした。
 ロシアとの戦いを前にして、山本権兵衛海軍大臣は、東郷平八郎を大日本帝国海軍・連合艦隊の司令長官に任命しました。出世の順序からすると、まだまだ東郷の出番ではなかったのですが、その理由を聞かれた山本は「東郷は運の強い男だから」と答えたそうです。
こうして、東郷司令長官は、イギリスがつくった最新の戦艦三笠に乗りこみ、連合艦隊の指揮をとることになりました。
 日本が大陸で戦うには、日本海と黄海が安全であることが絶対の条件でした。なぜなら、兵士も弾薬も食料も、船で運ぶしかないからです。しかし、その輸送船が、ロシアの東洋艦隊によって十三せきも沈められていました。ロシアの軍艦は船を沈めるとすぐに、旅順港やウラジオストク港に逃げ込んでしまいます。そんなとき、「ロシアのバルチック艦隊が日本に向けて出発した」という情報が入ったのです。 バルチック艦隊が来ては、戦艦の数がロシア十五対日本六になり、どうやっても日本に勝ち目はありません。東郷平八郎は、バルチック艦隊がやってくる前に、ロシアの東洋艦隊をつぶすしかないと考えました。しかも、日本は旅順沖で戦艦二せきを事故で失い、戦艦の数は十五対四になってしまいました。(八十万トン対二五万トン)
 ある日、東洋艦隊が旅順港を出たという情報が入り、決戦の日が来ました。これが黄海海戦です。しかし、ロシアは一戦してすぐに旅順港に逃げ込んでしまいました。旅順港の東洋艦隊は、バルチック艦隊が到着するまで出てこないでしょう。そこで日本は、この旅順港を陸から攻撃することにしました。この戦いの司令官は乃木希典大将でした。旅順港を囲む山の上にはロシアの要塞がならび、大きな大砲がいくつもありました。山の下から何度攻め上っても、丸見えの日本軍は全部撃たれてしまいます。この二〇三高地の戦いはまことにむごたらしいありさまになりました。しかし、これに勝たなければ海はロシアのものになり、大陸にいる日本軍は補給ができずに全滅してしまうでしょう。そうなってはもう日本はほろびるしかありません。決死の突撃をくりかえし、日本軍はとうとうこの戦いに勝利しました。山の上からは港が丸見えでした。日本軍はロシアの大砲を使って港を撃ちました。こうして、乃木大将のおかげで旅順港のロシア東洋艦隊は沈み、東郷はバルチック艦隊とだけ戦えばよくなったのです。しかし、この戦いで日本軍は六万人が戦死しました。東郷は陸軍の働きに心から感謝し、バルチック艦隊は必ず沈めると心にちかいました。しかし、戦艦数八対四でもそうとうむずかしい戦いになるはずです。
バルチック艦隊との戦いに勝利しなければ日本はほろびてしまう。そう考えた東郷は、大砲の命中率を上げるためにもうれつな訓練を続けさせました。その訓練で、当時3%といわれた命中率を倍以上に高めたそうです。それは世界の海軍の常識をはるかにこえるものでした。
 また大砲の一斉撃ちという新戦術も訓練しました。それまでの世界の海戦では、それぞれの戦艦の大砲は、その船の艦長の指揮で撃っていました。しかし、東郷は最新式の戦艦に装備されていた無線で連絡でして、全艦が一斉に撃つという方法をあみだしました。まず一発撃って敵艦の位置をつかみ、それを無線ですべての戦艦に指示して、一斉にねらいを定めて撃つのです。一点集中攻撃です。
 この一斉撃ちを生かしたのがT字戦法という作戦でした。それまでの世界の海戦は艦隊がすれちがいながら戦うのがふつうでした。しかし、T字戦法とは大砲のとどく距離ぎりぎりのところで、ターンして敵の艦隊の前を横切りながら攻撃するのです。しかし、それはたいへん危険な作戦でした。なぜなら、敵の目の前で大きくターンするとき、敵は大砲を撃ってきますが、こちらはねらいを定めることができず、撃つことができないからです。またターンした後は、敵に腹を見せるかたちになるので、敵にとっては的が大きくなるわけです。しかし東郷は危険をわかったうえで、当たり前の戦術では大きな力の差はうちやぶれないと考えたのです。
 ではT字戦法のねらいは何でしょうか。それは、前に書いた一斉撃ちをやり、先頭の敵艦一点に集中砲撃して、確実にそして順番に沈めていくことなのです。まさにいちかばちかの挑戦でした。東郷平八郎は、この一斉ターンを何度も何度も訓練させながら、バルチック艦隊の到着を待ちました。
日英同盟のおかげで、アジアやアフリカに植民地を持つイギリスからは、「○月○日、アフリカの○○港を出た」など次々と情報が入り、いつごろ日本海に着くかは予想することができました。しかし、バルチック艦隊はマラッカ海峡を出てから行方がわからなくなってしまったのです。
 対馬海峡を来るのか、津軽海峡を来るのか、それが問題です。もし取り逃がして、ウラジオストクに入られたら、日本海はまた危険な海になってしまいます。やってくるところをとらえて、大海戦をやり、一挙に決着をつけるしかないのです。そうしなければ、大陸の日本軍は補給がとだえてしまいます。
 まず敵を見つけること。しかも、この海戦に完ぺきに勝利すること。明治日本のの運命を決するむずかしい二つの仕事が、東郷司令長官に与えられた使命でした。

一九〇五年(明治三八年)五月二十五日。すべての艦長が三笠に集められました。 もう対馬で待ち続けるのは限界でした。「いくらなんでもおそすぎる」「バルチック艦隊は、太平洋を通って津軽海峡に向かったのだ」こうして長い作戦会議は終わりました。しかし、東郷は「津軽海峡に行け」という命令をその場では出しませんでした。一日だけ待つことにしたのです。命令書を封筒に入れて艦長たちに渡し、こう言いました。「この命令書は、今から二四時間後に読みなさい」
 この一日待つという判断が的中しました。信濃丸という船から「敵艦見ゆ」の暗号が三笠にとどいたのは、まさに翌日の早朝のことだったからです。「運のいい男」東郷平八郎は、ただちに全艦に出撃を命じました。




◆T字戦法を図示する
◆板書・・・明治37(1905)5月・日本海海戦:バルチック艦隊VS日本連合艦隊
                        (戦艦15→8) (戦艦6→4)

◆電文1「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動。これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれども波高し」
◆Z旗を見せる。東郷の檄。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」

■ビデオ「日本海海戦」を見せ、日本の運命をかけた大海戦に劇的な勝利を収めたことを教えて、授業を終える。ビデオがないときは、日本海海戦の顛末をお話して授業を終える。
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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