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今村均中将とインドネシアの独立

今村均中将とインドネシアの独立

 インドネシアがオランダの植民地になったのは、1605年、わが国の江戸時代が始まったばかりの時だった。それから三百数十年間、インドネシアは、人口わずか0.5%のオランダ人に支配され続けた。
 オランダの支配は過酷だった。
 インドネシア人は全生産額の六五%をオランダ人に収奪され、イスラム教の信仰が禁止された。
 オランダはインドネシア人から物も心もすべてを奪ったのである。
 インドネシア人には教育の機会は与えられなかった。
 だから、ほとんどの人は読み書きができなかった。これを愚民化政策という。教育が独立心を育てることを恐れたのだ。

 また、オランダ人は奪っただけでなく、インドネシア人を下等階級として差別した。
 都市にはインドネシア人が入れない地区があった。スイミングプールの入り口には「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書いてあった。
 オランダだけでなく、イギリスやフランスも、白人たちはみなこれと同様のやり方でアジアを支配した。
 その情け容赦のない圧政は、アジア人にとって避けることのできない運命のように見えた。
 白人はアジア人を支配し、アジア人は白人に支配される。それが世界のゆるぎない現実だった。

 1941年12月、日本はこの世界史の運命をひっくり返す戦争に突入した。
 大東亜戦争である。日本は「自存自衛のために」やむなく立ち上がったのだが、日本人がアジア人であったために、この戦争はおのずから植民地解放戦争という意義を担うことになった。
 とりわけインドネシアの日本統治においては、その意志が明確に示されたのである。



 1942年3月1日、今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千でインドネシアのジャワ島上陸を敢行した。
 攻略は上陸後三ヶ月はかかるだろうと予想されていたが、わずか九日後に、オランダ軍司令官は全面降伏した。 インドネシア人が日本軍を歓迎し、オランダ軍が築いた障害物を撤去するなど、すすんで日本軍の進撃を助けたからである。
 進撃の途中に村の長老が今村中将にたずた。

「この国では何百年も昔から『いつか北方から同じ人種の強い軍団がやってきて、トウモロコシが実をつけるまでに我々の自由を取り戻してくれる』と言い伝えられていますが、あなた方は同じ人種でしょうか。言葉はちがっていますが」

 今村は答えた。
「われわれ日本民族の祖先には、この国から船で日本に渡ってきた人々もいます。みなさんと日本人は兄弟です。われわれは、みなさんに自由をもたらすために戦うのです」

 それはインドネシアに長く言い伝えられたジョヨボヨの予言のことだった。
 日本軍はこの予言を実現するためインドネシアにやって来たのだった。

 今村中将はバタビヤを占領し、そこを現地語のジャカルタに改名した。
 そして、投獄されていた独立運動の指導者スカルノとハッタを解放した。
 日本軍の司令部には過激な独立運動家を解放するのは危険だと反対する声が多かったが、今村は信念に従った。

「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。
 かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事である」

といい、スカルノとハッタに、よりよい政治と福祉を約束した。彼らは軍政に協力することを誓った。
 それから、今村の信念が次々と実行に移された。

 300近い言語をインドネシア語に統一し、民族として団結できる基盤がつくられた。
 イスラム教の信仰を回復し、彼らに誇りを取り戻させた。たくさんの学校をつくり教育に力を入れた。
 教育に対する日本の命令は「オランダ語の禁止、日本語・唱歌・教練を含むこと」だけで、あとはインドネシア人の自由に任された。
 現地人の担当者は、インドネシアの歴史を教えるなど、工夫してインドネシア国民の愛国心を育成した。
 州の長官、副長官など、行政の中枢にも現地人を登用した。州や市の参議会を作り議会運営も習得させた。
 こうしてインドネシア人の行政能力を育成していった。

 さらに極めつけはインドネシア義勇軍(PETA)を編成したことである。
 3万5千ものインドネシア人兵士と将校が育成され、これらの人々が後の対オランダ独立戦争の主役となっていったのである。



 1945年8月15日、日本は連合国に降伏した。
 二日後、スカルノとハッタはインドネシアの独立を宣言した。
 そして、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。
 ところが、オランダは、植民地の復活を図ってただちに行動を起こした。
 彼らは大東亜戦争後も、戦前と同様の植民地支配を続けようとしたのである。

 オランダは、降伏した日本軍に独立運動を阻止するよう命令してきた。
 しかし、今まで日本軍に協力してきた独立運動の幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。
 日本軍の将校や兵士たちはこの願いに協力した。進駐してきたオランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に兵器を渡したのである。
 こうして、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数が、独立軍のものになった。

 すすんでインドネシア軍に身を投じて、独立戦争をともに戦った日本人も多かった。
 インドネシア兵は、日本人によって義勇軍の訓練は受けたが戦闘の経験はなかった。
 実戦に慣れないインドネシア人を率いて、日本人は常に先頭に立って戦った。
 その数は千とも2千とも言われるが、そのうち4百名ほどが戦死し、インドネシアの国立英雄墓地に眠っている。

 オランダとの独立戦争は1949年12月まで、5年5ヶ月も続いた。
 兵士こそ200万人いたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心だった。
 オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、死者80万人、負傷者1千万人ともいわれている。
 長すぎた独立戦争に対して、インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会も撤兵勧告を行った。
 全世界の世論に押されてオランダはようやく再植民地化を諦めたのである。
 こうして、日本は白人たちとの戦争には敗れたが、
「彼らが独立を戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」
 という今村均中将の言葉は実ったのである。
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お話:満州事変

お話:満州事変 (一九三一・昭和六年~一九四〇・昭和十五年)

■日本は、第一次大戦の後、「イギリス。アメリカと仲良くする道」を選んでやっていこうとしました。
 明治・大正の政治をつくってきたおもな政治家も、昭和天皇もやはり、英米(イギリス・アメリカ)と仲良くするのが正しいと考えていました。
 列強の中でただひとつ白人国ではない日本は、やはり弱い立場ですから、世界で一番、二番に強く豊かな国と組む方が安全で有利だからです。
 この時期を代表する政治家が幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)です。
幣原喜重郎幣原喜重郎


外務大臣の幣原は、中国のことは中国にまかせよう、アメリカやイギリスの考え方が世界の流れなのだから彼らとはなるべくもめごとを起こさないようにしよう、もめごとが起きてもなるべくがまんしよう、そして、資源の少ない日本は世界と貿易さえできれば繁栄できるのだと考えて、政治を進めました。
このころから日本の経済の大部分はアメリカと貿易にたよるようになっていきました。
そして、戦艦の数を減らしたりするなど、軍事力を小さくしていきました。

■ところが、幣原の政治(外交)はしだいに人気がなくなっていきました。

 不景気がますますひどくなり、貿易をしたくても、アメリカもイギリスも日本の輸出を閉め出すようになりました。
植民地が少なく、資源のとぼしい日本は、貿易ができなくなると国の力が極端に下がっていくので、これは国の生き死ににかかわる大変なことだと考える人が多くなったからです。
とくに、農村の貧しさはぎりぎりのところまできていて、子供を売ったり、欠食児童のことが毎日のように新聞にのりました。そして、仲良くしようとしても、日本の商品をねらいうちにして閉め出すようなアメリカやイギリスをひどいと思う人がふえていきました。
 また、アメリカに渡った日本人に対する差別もひどく、そのことへの国民の怒りも広がりました。
また、幣原は、外国ともめごとがあってもできるだけ日本ががまんする道を選びました。イギリスやアメリカや中国を怒らせないことが日本にとってたいへん重要だと考えていたからです。しかし、このような外国とのつきあい方を、五大国のひとつになったと思っていた人々は、あまりにも弱虫すぎるんじゃないかと非難するようになったのです。

■そうした声の代表は軍人とふつうの国民でした。
 不景気がますますひどくなり、政治家は金持ちの味方をして貧しい人のことはあまり考えてくれないように見えました。
こうして政治家に対する不信感が広がっていきました。そして、こういう国になってしまったのは、そもそもイギリスのような自由主義・民主主義の考え方をまねしてきたからだという考え方も出てきました。
 若い軍人や若い政治家や若い役人たちの一部は、このままでは日本はほろびていくばかりだと考えました。
彼らは、もう一度明治維新のような大改革をやり直そうという考えに近づいていきます。
彼らを「革新派」といいます。この革新派の考えと、軍人たちによる政治批判がしだいに結びついていきました。

 この人たちの考えの中には、アジア主義とよばれるものがありました。
それは、それは次のような考えです。

「もうアメリカやイギリスなど西洋の国々をたよるのはやめよう。
彼らは、長い歴史の中でアジア人を差別し支配してきた。
日本は実力を付けてその差別をはねのけて彼らと対等になったのだ。
これからは、日本を中心にしてアジア全体を白人の支配から救い出して、それぞれの民族が独立できるようにしていこう。
そして西洋世界とは別のアジア世界を築いていこう。
西洋人の植民地をゆるしておいて、日本だけが彼らの仲間になるのはおかしい。
日本はアジアのリーダーとなって、アジアをまとめていこう。
それこそ誇り高い日本民族の生きる道ではないか。」

 この「アジアのリーダーとして生きよう」という考えと「イギリス・アメリカの仲間として生きよう」という考えが対立して、これからの日本の歩みがつくられていきます。

■日本の一部になっていた朝鮮の北側に、満州という広い土地がありました。
ここは、日露戦争以来の日本の利益が国際社会に認められている土地でした。
満州鉄道という鉄道の経営や炭坑の経営を日本がやり、一定の利益をあげていました。日本人もたくさん移り住んでいて、それらを守るための軍隊(関東軍)もそこにいました。
 この満州は、いまでは中国の一部ですが、当時はそうは考えられていませんでした。
中国自身が、いくつかのグループに分かれて戦争をし、国としてはまとまっていなかったからです。(国民党・共産党・軍閥)
 この満州の利益は、十万人の日本兵の血(日露戦争)を流して手に入れたものでした。
そして、そこには、石炭や鉄などの豊かな資源もあります。
不景気がひどくなり、政治への批判が高まるにつれて、鉄道や炭坑だけでなく、満州全体を日本のものにしようという考えがあらわれてきます。
そして、「満州は日本の生命線」だという考えがさけばれるようになりました。
「死にかけている日本の命を守るための土地」という意味です。

 また、そこでソ連(共産主義)の侵略から朝鮮・日本を守るという意味もありました。
 西洋列強が植民地どうしの貿易で栄え、日本の商品の輸出を閉め出している中で、「日本だけで自給自足する」ためには、満州だけは必要だということなのです。
 この考えに国民の多くが賛成するようになっていきました。

■ところが、そのころしだいに中国では反日行動が盛り上がってきました。
 そして、中国人の中には、満州にある日本の利益をじゃましたり、もめごとを起こしたりするグループが出てきました。
 満州鉄道の運行をぼうがいしたり、日本人の子どもが暴行を受けたり、日本の商品を買わない運動が起きたり、日本の軍人の殺されたりといった中国人による事件が数百件以上起こりました。
 なかには、共産主義者による破壊活動もありました。これはソ連(コミンテルン)の命令に従って、満州や中国に混乱と無秩序、できれば戦争を引き起こそうというたくらみでした。共産主義革命を引き起こすのが目的です。

 満州の日本の利益は、中国と条約を結んで約束した利益なので、当時の国際ルールからすれば、中国はそのじゃまをすべきではありません。
 じゃまどころか、これはテロを含む反日活動ですから明らかに違法です。

 しかし、中国の立場に立てば、昔日本の幕末にあった攘夷運動ににているかもしれません。イギリスや日本など中国に利益を持つ国(帝国主義)に反対する運動が起きてくるのも無理はありません。
 問題は中国政府がこれを取り締まらず、放置していたことです。
 また、イギリスなどの西洋の国よりも、まず日本を実力で追い出そうとしたことです。
 日本は中国の法律に違反する事件をなんとかしてほしいとアメリカにもたのみましたが、アメリカは中国のほうに味方して日本の正しい主張を受け入れません。
 アメリカは日本が中国で勢力を伸ばすのを警戒していたからです。

(こういう点では、明治日本は不平等条約を改正するために、テロのようなことは引き起こさず、我慢に我慢を重ねて、あくまで国家としての実力(富国強兵・日露戦争勝利)をつけた上で、話し合いで対等な関係を築いていきました。日本のえらいところです。)

 前にのべた幣原喜重郎は、そうした中国の動きを少しずつ認めて、いまはがまんするのが、最後には日本の利益になるという考えでした。政府はこれらの事件にきちんと対決して解決することができませんでした。
 しかし、国民が求めている現実は、いまのこのひどい状態をなんとかしろということでした。
 北からはソ連の共産主義が、南からは中国の排日運動がせまってきます。
 こうした中で、この満州の秩序と安全問題を解決することと、満州は日本の自給自足のために必要だという考えがむすびついていきました。

■一九三一年(昭和六年)九月十八日夜。満州鉄道の線路が爆発する事件が起きました。
 関東軍(満州にいた日本陸軍)は、これを中国軍のしわざだといって、ただちに奉天などを攻撃しました。
しかし、これは実は関東軍自身がやったことでした。
 「満州は日本の生命線」と考え、そのために日本が満州を手に入れるべきだと考えていた石原莞爾中佐や板垣征四郎大佐などが相談してやったことだったのです。
 そして、この事件を口実に、関東軍はあっというまに南満州を全体を占領してしまいました。
石原完爾石原完爾


■日本政府は、この計画をまったく知りませんでした。
 幣原外務大臣でさえ、新聞の朝刊で知るしまつです。
 陸軍の中央ははじめは反対でしたが、関東軍のいきおいに押されて賛成にまわりました。
 新聞も国民の意見もこれまでの我慢が爆発したように、賛成に動いていきました。
 政府は、これは日本の運命にとって正しいやり方ではないからやめるように命令しましたが、関東軍はこれを無視しました。
 ぎゃくに、内閣の中で意見が分かれて、若槻総理大臣も幣原外務大臣も内閣を総辞職するしかありませんでした。

■関東軍は、満州を日本の領土とはせず、一九三二年(昭和七年)三月、「満州国」という新しい国をつくりました。
満州国旗満州国旗

 そして、満州人・中国人・蒙古人・日本人・朝鮮人の五民族が仲良く暮らす理想の国(五族協和)を作るとうたいあげました。
 彼らは、日本政府の考えや命令にはもうまったく関係なく行動していました。
 国民の多くが賛成するだろうと考えていたからです。
 イギリスやフランスは日本と同じように中国に利益を持っていたので、どちらかといえばこれを認めるしかないと考えていました。
 まだ中国にまだ進出できていないアメリカは日本を強く非難しました。
 満州事変は、第一次大戦後にできた「パリ不戦条約」に違反するというのです。
 それはただ支配したいと言うだけで一方的に戦争をしかけるのはいけないという条約でした。

 しかし、軍人や国民の多くは、満州事変は「中国人の暴力から日本を守るため」と「アメリカやイギリスに輸出を閉め出された日本が生き残るため」という二つの理由で、自衛戦争(国を守るための戦争)だと思っていました。
 満州国を日本政府が認めれば、アメリカを敵にまわし日本が孤立してしまうと考えた犬養首相は、満州国を認めない方針を立てましたが、軍人たちに暗殺されてしまいました(五・一五事件)。
五一五事件五・一五事件の記事


■一九三二年(昭和七年)九月十五日、日本の斎藤内閣は、ついに満州国を国として認めることにしました。
 皇居前は、旗とちょうちんの波でうまり、たくさんの市民のお祝いの行列がくりだされました。
 内田康哉外務大臣は「たとえ日本が焼け野原になるとしても、満州国を認める」と演説しました。

■一九三三年二月、国際連盟で、満州国について話し合われました。
 その内容は次のようなものでした。

「満州国は、そこに住む人の自主的な独立運動でできた国ではないので、これは認めない。
 しかし、満州での日本の利益と、日本と満州の関係は認める。
 だから、国とはしないで、中国の一部だが日本と関係が深い「満州地方」としてやっていけるように、日本と中国で新しい条約を結びなさい。」

 それは満州における日本の利益は正当だと認めていましたが、満州国として中国から独立させることは認めないという考えでした。
 これに投票して、四二ヶ国が賛成しました。日本はあくまで「満州国」という独立国にこだわって反対しました。タイだけは、日本の気持ちも考えて棄権しました。つまり、四二対二で日本は負けたのです。

 「中国には安定した政府がなく、国家とはいえない。満州のためにも満州国が必要なのだ」と自信満々の演説をして負けた松岡洋右外務大臣が帰国したとき、国民は熱狂的な大歓迎でむかえました。
日露戦争の時の小村寿太郎の帰国のさびしさとはまったくちがっていました。こうして、三月、日本は国際連盟を脱退しました。

■その後、満州事変は終わり中国との間に停戦条約が結ばれ、しばらくの間平和が続きました。
 満州国は、その後大きく発展し、日本人・中国人・朝鮮人などが集まった新しい近代国家として大きく発展していきました。けれども、日本の立場が世界から十分に理解されることはありませんでした。

■一九三六年年二月二六日、二・二六事件が起きます。若い軍人たちが、自分たちの部下を使って反乱を起こし、「昭和維新」とよぶ国づくりに立ち上がったのです。
 彼らは、斎藤内大臣や高橋大蔵大臣などを殺して、首都東京の占領をはかりました。
 これに対しても、陸軍大臣は「気持ちはよくわかる」といってあまやかすしまつでした。
 ふだんは政治には口を出さない天皇もこのときばかりはうろうろして解決できない政治家たちを怒りました。
 昭和天皇が「法を守らない反乱軍を許してはならない」と言わなければ、この反乱は成功していたかも知れません。
 反乱軍は鎮圧されましたが、この事件で、ますます軍の中での上下関係はあやしくなり、さらに、政府と軍の上下関係もますますあやしくなり、政府が軍の考えをおさえて政治を進めることがむずかしくなっていきました。

■こうして、しだいに日本は、軍人たちやそれに賛成する政治家の考えで政治が進められるようになっていきました。軍隊の考えにさからうような政治家は総理大臣になれなくなり、総理大臣も軍隊に反対されると大臣をやめなくてはならなくなりました。
 国の政治の中心がバラバラになっていき、だれが本当のリーダーなのかわからなくなっていったように見えます。
 しかし、国民のほとんどは、むずかしい世界をわかりやすく説明し、元気良く日本の未来はこうだと、こうやっていくんだ言い切り、どんどん実行していく軍人たちをたのもしく思っていました。
 それにくらべて、イギリスやアメリカと仲良くするという方針は、しだいになさけなく見えるようになっていきました。
 なぜなら、日本に対してひどい仕打ちをする国を友人としてたよりながら裏切られ、中国の日本に対するいろいろな事件にもきちんと手を打たず、国民には「とにかくがまんしてくれ」というばかりなので、彼らが本当に日本や日本国民のことを考えているのかどうかあやしく思えるようになったからです。

■こうして日本人の多くは、満州国をつくったことは大成功だったと考えるようになりました。
 事実、東アジアのにおける日本に次ぐ近代国家として、満州国は繁栄していきました。
 たくさんの日本人開拓移民が満州に渡り、内戦が続く中国からは中国人が大量に移り住んできました。
 満州帝国は、1945年日本の大東亜戦争の敗戦と同時に滅びました。
 わずか13年間のまぼろしの帝国となったのです。
あじあ号南満州鉄道の特急アジア号

満州事変と満州国

満州事変と満州国
◆日本人と関東軍が満州で生活し活動することは条約によって結ばれた正当な権利だったが、中国人の迫害や共産党のテロがはげしくなった。政府はそのたびにこの問題の解決に努めたが協調外交には問題を解決する力がなかった。しかし日本人の安全と財産を守ろうとして決起した関東軍が国民の支持を得て、やがて「五族共和」をスローガンにした満州国が建国され発展していく。


1 昭和の始まり

●資料「第一次世界大戦後の日本の領土・租借地・委任統治・権益の東アジア地図」を見せ、第1次世界大戦後の日本の発展を解説する。

*世界中が不景気になった
 →欧米諸国は日本の貿易を閉め出して、植民地ともに自給自足で生き抜こうとした。
 →日本は資源も少なく、欧米との自由な貿易ができなければ食べていけない。  
  労働者の3人に1人が失業し、とくに農村は凶作の年もあって食べることもままならない貧しさになった。

人口増加問題
→アメリカは移民の国だが、日本人移民だけを禁止する人種差別政策を進めた(1924)。

【日本はどうすべきだろうか?】

A【政府】
 今ある領土のまま、がまんするしかない。国民は貧しさに耐えてほしい。日本は
 これからも、中国や欧米諸国と仲良くやっていこう。

B【反政府:おもに軍人】
 資源の豊富な満州を日本の領土にして、経済を立て直そう。そうすれば、日本も
 欧米諸国のように自給自足が出来るし、人口問題も解決する。


◎意見分布をとり、理由を言わせる。

◆国民の多くはBを支持するようになった。
 国民は、政府がやるべきことをやっていないと怒っていた。
 そのうえ、政治家がわいろをもらったり、自分の政党が選挙に勝つことしか考えていないことにも怒っていた。 国民は政治家を信用しなくなっていった。

◆総理大臣が軍人に暗殺されたり、陸軍がクーデターを起こしたりした。
 国民の多くがそういう法律違反の暴力さえ応援するようになった。
「やり方はまずいが、気持ちはわかる。どうか罪を軽くしてほしい」という手紙がたくさん届いた。
 政府はそういう軍人たちのテロもきびしく罰せなくなっていった。



2 満州の中国人によるテロ 
◆そのころ、南満州鉄道や満州に住んでいた日本国民(日本人や朝鮮人)へのテロやいじわるが頻発した。朝鮮人がまとめて殺されたり、日本スパイだった中村大尉が違法に殺されたりもした。中国にはまだまとまった政府がなく、国内が分裂していたので、そのような法律違反の暴力を取り締まる力がなかったのだ。

【どうすべきだろうか】

A【政府】中国人が意地悪をするのは、そこがもともと中国人の土地だからだ。
     彼らの気持ちを理解して、多少のテロはがまんする。そして、できるだけ
     中国人とも仲よくやっていく努力を続けよう。

B【反政府:軍人】満州の鉄道や鉱山は日露戦争で20万人の血を流してロシアを追
    い出して手に入れた正統な権利だ。中国と条約を結んで決めたことだ。
    それを暴力で追い出そうとするのは条約違反なのだから、軍隊を使ってでも
    政府は満州にいる日本人の財産と命を守るべきである。


●意見分布をとり、理由を言わせる。

◆国民の多くはBを支持していた。「日本人の生命と財産を守ることこそ国家の仕事ではないか」「政治家は自分の政党のことばかり考えて、国や国民のことを考ていない。軍人こそが日本のことを考えてくれているのではないか」など。



3 満州事変
◆写真柳条湖事件(昭和6年9月18日)

◆板書:昭和6年~8年(1931~33) 満州事変(日本軍が全満州を占領)

 【この戦争を計画し、実行を命令したのはだれでしょうか?】
 A:満州にいた関東軍のリーダー
 B:陸軍大臣
 C:総理大臣


◆正解はA。石原完爾と板垣征四郎の謀略について解説する。
石原完爾
板垣征四郎


◆総理大臣若槻礼次郎も外務大臣幣原喜重郎もこれに反対し、やめさせようとしましたが、連戦連勝で満州全土を 占領したことを、新聞が大々的に報道し、国民も大いに喜び支持した。

【新聞と国民の声】
「満州のテロ問題は解決し、満州の日本人が安全になってよかった」
「資源の豊富な満州が日本領土になれば日本はもっと発展できる」
「ソ連の進出もここで食い止められて日本も安全になるだろう」
●こうして内閣総理大臣は交替した。


4 満州国の独立

◆板書:昭和7年(1932)満州国独立(皇帝は清国最後の皇帝溥儀)

◆満州国は、関東軍の指導のもとに近代化し発展していった(~1945年、14年間)。
◆満州国の理想「五族協和・王道楽土」(日本人、満州人、蒙古人、朝鮮人、シナ人)

●写真「満州国建国・溥儀」「満州国国旗」
皇帝溥儀
満州国旗


●中国との間には停戦協定が結ばれた。

西洋諸国(国際連盟)は、日本の満州進出に対してどんな態度を取ったでしょうか?
A:日本の行動はぜったい許さない。
B:日本が満州に利権を持つのは当然だが、満州国は認めない。
C:自国民を守るために占領したのは正しい。しかも満州を植民地にしないで独立させたのもえらい。


◆正解はBだった。日本が満州を占領して平和的な秩序をつくることはいいが、形の上では、満州は中国の一部ということにしておけ、という意見だった。国際連盟は「満州国」を認めなかった。

◆昭和8年(1933)日本は国際連盟から脱退した。そして、しばらくの平和がおとずれた。


5 残された大きな問題

◆満州国は、日本と連携しながら急速に近代化し、発展した。日本人を苦しませてきた満州の問題は一応の解決を見ました。日本人は満州に移民したり、観光旅行に行ったりしました。
●写真「満鉄アジア号」「満州の絵はがき」「観光地図」
あじあ号
満州開拓団


今日勉強した出来事の中で、これは日本のその後に悪影響をおよぼすのではないかと思うことを
一つあげるとしたら何ですか?

A、謀略で戦争を始めたこと
B,満州事変を決断したのが、総理大臣ではなかったこと
C,満州国を実際は日本が支配したこと
D、国際連盟を脱退したこと
 E,とくに問題はない


●人数分布をとり、意見を言わせる。
 とくにどれが正解ということにはせず、「これからの駅史を見ていきましょう」として終わる。

プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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