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お話:大東亜戦争(太平洋戦争)

お話:大東亜戦争(太平洋戦争)
(1941年:昭和16年~1945年:昭和20年)

第二次世界大戦が始まった
 1939年(昭和14年)9月、日本が、日中戦争の泥沼でもがき苦しんでいたころ、とうとうヨーロッパ大陸でも戦争が始まりました。ヒトラーが独裁者になったドイツが、ポーランドを攻撃し、あっという間に占領してしまいました。
 翌年1940年4月、ヨーロッパの戦争は全面的なものになりました。4月にノルウエー・デンマークに進入したドイツ軍は、5月にはベルギー・オランダを占領し、6月にはフランスも降参しました。そして、いっしょに戦っていたイギリス軍は、ドイツ軍に負けて大陸から追い出されていきました。

ドイツの快進撃と「大東亜共栄圏」
 ドイツのものすごい勢いを見た日本の中に、ドイツファンがふえていきました。日中戦争は中国との戦いではなく、ほんとうは中国の後ろにいるアメリカやイギリスと戦っているのではないかという気持ちが国民の中にあったからです。
 もうヨーロッパの戦争は決まった。これからはドイツの時代だというわけです。しかし、そのとき最もパワーを持つ国になっていたのは、実はアメリカだったのですが。
 そのころ日本は、東南アジアに目を向けるようになります。そこには、ドイツに負けたオランダやフランスの植民地があり、もうすぐ負けそうに見えるイギリスの植民地もありました。そして、そこには石油や金属などの、たくさんの資源があるのです。西洋をアジアから追いはらうチャンスが来たように思えたのです。
 二度目に内閣総理大臣になっていた近衛文麿は、新しい方針を出しました。
 これまでは「中国・満州・日本(朝鮮を含む)」で自給自足グループを作ろうということでしたが、これに「東南アジアにあるヨーロッパの植民地を解放して、それらの国々もグループに入れよう」という考えがつけ加えられたのです。これが「大東亜共栄圏」という考えでした。大いなるアジアが共に栄えようという気持ちです。

日独伊三国同盟
 1940年(昭和15年)9月、日本は、ドイツの支配下にあったフランス政府と交渉して、その植民地だったベトナム北部に進出しました。これは、中国を応援する西洋の植民地からの道をたち切るためでした。
 そして日本は、ついに日独伊三国同盟(日本・ドイツ・イタリアの同盟)を結びます。ドイツ・イタリアと手を組むことにしたのです。イギリスやアメリカを敵にまわすことになるこの同盟には、反対する政治家や海軍軍人もいましたが、新聞や国民はこの同盟に賛成していました。松岡洋右外務大臣が、陸軍の応援を得て決めたことでした。
 これをきっかけに、アメリカは日本への屑鉄輸出を禁止にしました。イギリスは、日本と戦っている中国への援助を再開しました。
いま思うと、このドイツとの同盟がその後の日本の運命を決めた重大な選択になりました。

アメリカと和解し日中戦争を終わらせる案
 松岡洋右の計画は、日独伊三国同盟にソ連を加えて、アメリカ・イギリスグループと対決しようというものでした。そのため、日本とソ連は日ソ中立条約を結び、ドイツとソ連はおたがいに戦争をしないという約束をしていました。ところが、1941年(昭和16年)6月、ヒトラーのドイツは約束をやぶって、ソ連を攻撃し始めました。それは、ソ連をイギリスやアメリカの側につかせることになったのです。これでは日本立場はありません。そこで、アメリカやイギリスと和解する計画が立てられます。
①日独伊三国同盟の日本はアメリカを敵だとは考えていないと宣言する。
 ②日本軍は中国から引きあげ、中国は満州国を認める。
 ③右の条件で、アメリカが日本と中国の戦いを終わらせるように仲介する。
しかし、この計画は、松岡洋右の強い反対でつぶれてしまいました。
 アメリカが本気でこの案に乗ったかどうか、今となってはよくわかりません。しかし、ドイツとソ連の戦争が始まった以上、ここまでのやり方を見直すよいチャンスであったことはたしかです。
 これもまた、日本の大きな別れ道でした。

アメリカが日本に石油を売ることを禁止した
7月、日本はベトナムの南部まで進出しました。これが決定的にアメリカを怒らせることになりました。日本に輸出していた石油を全面的に禁止したのです。イギリス、オランダも、同じ決定をしました。
 日本は、石油なしでは生きられません。日本はなんとかアメリカと戦争を避けようと話し合いを進めましたが、アメリカは強い態度で日本の考えをまったく認めませんでした。そしてとうてい日本が受け入れられないような要求をつきつけて、話し合いをうち切ったのです。アメリカはすでに日本との戦争を決意していました。
 こうして、とうとう、アメリカと戦争をするしかないという考えが出てきて、これに反対した近衛内閣は総辞職(大臣が全員やめること)してしまいました。
このときのアメリカの要求は、モナコやのような小国であっても戦争を選んだだろうといわれるほど厳しいものでした。このまま、石油なしで日本がほろびるのか、それともアメリカやイギリスと戦争をしても日本の立場を主張し続けるのか、というぎりぎりの選択をせまられたのです。

アメリカ・イギリスなど(連合国)との戦いが始まった
 近衛文麿にかわって、東条英機陸軍大将が総理大臣になりました。昭和天皇は最後まで、戦争には反対でしたが、12月1日の御前会議で日米開戦が決定されます。石油のたくわえがあるうちに決着をつけ、日本に有利な解決をするという考えです。石油がなくなってからでは、日本はもう戦争どころか国としても生きられないからです。
こうして、1941年(昭和16年)12月8日、日本はアメリカとイギリスに宣戦を布告し、戦争を始めました。この戦争の目的は「自存自衛」でした。日本の国の独立と生き残りをかけた、自国を守るための戦いという意味です。
 その未明、大日本帝国海軍連合艦隊は、ハワイの真珠湾にいたアメリカの太平洋艦隊を総攻撃したのです。
 大勝利の知らせとともに、日本国民はついにアジアを支配してきた白人との戦いが始まったことを知りました。多くの日本人は、この新しく始まった西洋との戦いを、日本の運命として受け入れました。また東南アジアのイギリス海軍との戦いもこの日に始まりました。
 こうして、日本は、アメリカを中心とする連合国(28ヶ国)との大戦争に突入していったのでした。

 わが国は、この戦争を(これまでの日中戦争も含めて)「大東亜戦争」と命名しました。今日一般に使われている「太平洋戦争」は、アメリカが使った戦争名です。私たちの父たちが戦ったのは大東亜戦争であって、太平洋戦争ではありません。では、なぜ私たちはいま一般にはかつての敵が使った戦争名でこの戦争を教え、ほんとうの戦争名はあまり教えないのでしょうか。これはとても重要な問題なので、しばらくとっておきましょう。 

ルーズベルトの成功
 アメリカのルーズベルト大統領は、日本を追いつめて先に手を出させることに成功したことを喜びました。この真珠湾攻撃で、ようやくアメリカ国民も戦争に参加することを決意したからです。これまで、ヨーロッパの戦争に参加しようとしても、国民の多くが反対していたので、アメリカはドイツとの戦争に参加できませんでした。そこに、日本が攻めてきたのです。それも、開戦を伝える手紙が事務的なミスで遅れたため、ルーズベルトはこの真珠湾攻撃を「ひきょうなだましうち」と呼んでアメリカ国民の怒りをあおりました。その結果、アメリカ国民は団結し、戦争に賛成したのです。
 このことから、アメリカのここまでの政策には、日本を追いつめて先に手を出させるというねらいがあったのだといわれています。

勝ち続けた日本
 この戦争で、はじめの半年間、日本は勝ち続けました。シンガポールやビルマやインドネシアなど、これまで何百年も白人に支配されてきた国では、日本軍は大歓迎されました。日本の兵隊たちの中にも、白人からアジアを解放するのだという気持ちが強くありました。
 しかし、この戦争を続けるためには、東南アジアの資源が必要です。日本の戦争に協力する人をリーダーを立て、日本軍が彼らを支配することになりました。まずこの戦争に勝つことが重要だったのです。
 日本としては、「いまがまんして戦争に協力してくれれば、ヨーロッパ人の支配者を追い出して、東南アジア諸国を独立させることができる。そしてアジア人どうしで助け合っていこう」という考えでした。「戦わなければ、これから先もヨーロッパ人に支配されるのだから、共に戦おう」ということです。本気で祖国の独立を考えていた人々は、すすんで日本軍に協力しました。
 こうして、次の東南アジアから対へ用の島々にまで及ぶ広大な地域に、日の丸の旗がひるがえったのでした。 しかし、国力の強大なアメリカは、戦艦も戦闘機も次々に大量生産することができます。戦争が長引けば長引くほど、アメリカに有利な戦争になっていきました。
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お話:日中戦争

お話:日中戦争

◆1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校たちが1400名の兵を率いて反乱を起こしました。
 軍部による独裁政権を打ち立て、国家改造をめざしたのでした。
これを2・26事件といいます。
 陸軍中央はこの動きに同調しかけますが、昭和天皇が「無法を許すな、憲法を守れ」という明確な意志を示されたので、この反乱は鎮圧されました。
 これ以後、軍部が支持しない内閣は成立しなくなりました。

◆そのころ中国では、国民党軍(蒋介石)が共産党軍(毛沢東)を追いつめていました。この戦いを国共内戦いいます。
しかし、西安事件が起きて、国民党は共産党と手を組んで日本と戦うことになりました。これを国共合作といいます。
 この急変の背後には、ソ連(コミンテルン)の「日本を戦争に引きずり込み、国民党軍と戦わせろ。両方が疲弊した後に中国を共産主義国家にするのだ」という指令がありました。毛沢東はこの指令に従ったのです。
 国共合作によって、共産主義者が国民党に入り込み、日中戦争を引き起こすためのさまざまな工作を進めていきます。

◆1937(昭和12)年7月7日、北京郊外で演習していた日本軍(中国が条約で駐留を認めていた今日でいう平和維持軍)が、いきなり中国軍から銃撃をうけました。これを盧溝橋事件といいます。
 小競り合いになるが、日本は不拡大方針を堅持して、現地停戦協定が結ばれいったんは解決しました。
 しかし、そこから、中国軍による停戦協定違反の攻撃や挑発テロが頻発します。これらの多くは共産党員による計画的な挑発だろうと推測されます。なかでも、通州で日本人市民の200人以上が惨殺された通州事件は、殺害された人数だけでなく、その殺し方があまりにも残虐であったため、「シナを討つべし!」という世論が一気に高まりました。

◆それでも日本は平和を求めましたが、8月13日、中国軍による上海(日本人が多数住んでいた)への大規模な攻撃が起き、日本も陸軍を派兵して、本格的な戦争に突入していきました。これを第二次上海事件といいます。
 ここから日中戦争は本格化していきました。
 このように、日中戦争は日本が引き起こした戦争ではなく、中国共産党と国民党が意図的に日本を引きずり込んだ戦争だといってよいでしょう。

◆日本軍は12月に首都南京を占領し、これで戦争は終わると思われました。
 しかし、蒋介石は首都を重慶に移して「徹底抗戦」を宣言しました。
 戦闘のたびに日本は勝利しますが、広い中国をすべて占領することはできず、長い泥沼
にはまったような戦争になっていきました。
 毛沢東は戦略どおり、この長期戦を国民党軍と日本軍を戦わせて、共産党軍を温存する作戦です。

◆南京戦のとき、日本軍に不法行為があったとして南京事件とよばれています。
 中国は30万人虐殺などという虚偽の数字を出していまだに日本を非難していますが、この事件の事実関係については学説が大きく分かれ、現在も論争が続いています。近年では、ゲリラをふくむ戦闘員以外の、一般市民の不法殺害はほとんど無かったという説が有力になっています。

◆日中戦争がここまで長期化したのはなぜでしょうか?
 それは、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスなどの欧米諸国が、中国国民党や共産党に、経済的・軍事的な援助を続けたからでした。

◆欧米諸国が中国の戦争を援助した理由はそれぞれ異なります。
 イギリスとフランスは、すでに中国に持っていた利権を守り、拡大したいと考えていました。中国参入にやや後れを取っていたアメリカは、早く英仏に追いつきたいと考えていました。いずれも、日本が中国で中心的な勢力を持つような事態は避けたいのです。
 ソ連(コミンテルン)は、前述したように、日本と中国国民党を戦わせて、両方がつぶれたところで、中国革命を起こし、共産党が権力をにぎりたいのです。

◆日本国民は、日中戦争の真の敵は、欧米諸国、とりわけ英米であると考えるようになっていきました。

◆この戦争全体を日中戦争(シナ事変)といいます。
 日本は、泥沼に引きずり込まれたように、この戦争を続けざるを得ませんでした。
 これは、違法行為やテロや攻撃を繰り返した中国をこらしめるという戦いであり、中国を日本の領土にしようなどという意志はまったくありませんでした。
 日本は、何度も平和工作をしましたが実りませんでした。
 その後も、戦闘には勝ち続けるが、戦争には勝てない状態が、1945(昭和20)年8月15日の日本の敗戦まで続きました。

◆日本の敗戦後、共産党軍はいきなり国民党軍に襲いかかり、内戦は4年間続きました。日本軍との戦いで疲れ切っていた国民党軍(蒋介石)は台湾に逃れていき、1949年10月、内戦に勝利した毛沢東は共産党独裁の国家、中華人民共和国を樹立しました。コミンテルンの「日中戦争を革命へ」という作戦がついに実ったのです(蒋介石は台湾を占領し、中華民国を樹立しました)。

特攻隊員の遺書

今日は終戦外交と終戦の授業をやって、最後に特攻隊員の遺書を読みました。

生徒の感想をいくつか紹介します。



●私はこれらの戦争を本で読んだことがあります。その中でも特攻隊が取り上げられていました。その仕組みを知ったときは驚きましたが、祖国を守るため(愛国心)という気持ちが痛いほど伝わってきました。当時の状況が頭に浮かびました。日本人としてしっかり理解したいと思います。

●とても大きな戦争をしてしまったことはまちがいだと思います。ですが、日本のために死ぬことを誇りに思う人たちがいたことは、日本の誇りだと思います。私もあきらめない気持ちをみならいたいと思いました。また日本は自分の欲で戦争をしたわけではないと知ってうれしかったです。

●望んで死ぬ人たちはいませんでしたが、皆死に対して誇りを持っていました。そのことに、素晴らしい、美しいと感じると同時に、悲しいと思いました。

●みんな色々な思いで戦争に行ったのだとわかりました。自分のことより人のことを考えるような人々の優しさが伝わってきました。このような人たちの命がうばわれたなんておかしいと思います。

●みんな自分の命をかけて戦っていたということを改めて知りました。いままで日本を守ってきてくれた先祖の方々の分まで生きなければならないと思いました。

●ぼくは、戦争でたくさんの人が犠牲になったけれど、日本人は国のために自分の命をささげられるすごい民族なんだと思いました。これからも、日本人であることを誇りに思い、戦争の脅威をぼくの子孫に伝えて行きたいです。

●先祖の皆さんに、自分の身を犠牲にして戦ってくれた皆さんに感謝します。皆さんがいたからこそ今の自分がいるんだと思っています。

●長く苦しい戦争でとてもつらかったと思う。もし自分があの場にいたらどうしていたか。祖国のために死ぬことができたかは分からない。ただ一つ言えるのは、平和を信じなければならないと思った。

●先祖のおじいちゃん、おばあちゃんが頑張ってたからこそ、今の自分がいると思います。なので、精一杯、人生を生きていこうと思いました。日本は強い(精神面で)と思いました。戦争はよくないことだけど、あきらめなかった日本はカッコイイと思います。



年度が新しくなったら、中学校の授業も紹介していきたいと思っています。
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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