昭和の戦争ノート14

雑誌「WILL」6月号、藤岡信勝「南京大虐殺を教科書に載せるな」から引用します。




実際、1960年代から70年代に書けての歴史教科書には、
南京事件などどこにも書かれていなかった。

驚くなかれ、
あの教科書訴訟で悪名高い家永三郎の高校日本史教科書ですら、
南京事件はまったく書かれていないのだ。

だから、
南京事件を書かないと近現代史は成り立たない
などということはまったくない。

では、中学校教科書に南京事件はいつから登場したかというと、
昭和50年(1975年)使用開始の教育出版の歴史教科書に、

「4万2千の中国の住民を殺害するという事件が起こった」

という記事が載ったのが最初である。

その後、4社、5社と増え、
昭和57年(1982年)に「近隣諸国条項」ができてからは
前者に拡大した(小山常実『歴史教科書の歴史』草思社)。

   藤岡信勝「南京大虐殺を教科書に載せるな」




私もこの意見に賛成です。

なぜなら、
人道に反する戦争犯罪として教えられている「南京事件」というものは、
なかったからです。

中国も日本も1980年頃までは、
まったくそういう認識はありませんでした。
「南京事件」は、日本の知識人による歴史の書き換えでした。

それは一時の政治的な問題だと思います。


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昭和の戦争ノート13

昨日でようやく長かった1週間が終わりました。
へとへとで9時前には眠ってしまい、
おかげで今朝は早起きができました。

*******************************

佐藤卓己『言論統制~情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)を、
読み始めました。
おもしろくて、ついのめりこみます。

これは、戦時下言論ファッショの元凶としてありとある悪罵を投げつけられてきた、
鈴木庫三陸軍少佐の実像を探求した本です。

戦時中悪人だったことにされている人物の多くは、
戦後占領軍による言論統制によって「悪人にされた」人が多いのです。

そして、戦時中の悪を指弾した者も、
そのほとんど全員が戦争にすすんで協力していました。

それどころか、言論界だけでなく、
政治や行政や教育や、
あらゆる分野で率先して「ファシスト」だった者も少なくありません。

GHQに洗脳され、戦争に対する罪悪感から逃れようとして、
「ユダ」を探し自分の「罪」なすりつけようとした者もいた。

そのために、戦時中にも「反軍」反戦」があったかのような、
ウソもまかり通っていました。

現在の言論界も、
こうした占領下の言論の末裔であることをまぬかれない、
と思います。

「戦争に対する罪悪感」を乗り越えて、
歴史を「善悪の彼岸」でとらえないと、
いつまでも、「東京裁判の検察側意見=判決」から、
自由になれません。

本書から引用します。




戦争期の思想情勢を有効に取り扱うには、
まず思想そのものの国内的な対立に視点をおくことが必要であるが、
鈴木(庫三)・和辻(哲郎)論争は、
おのずからその対立の頂点があらわれたものと
みなさなければならない。

わたしは戦争期の思想に、
主戦と反戦の対立があったという見方を、
あまり重視しない。

もちろんあの時期に、
非戦・反戦の思想が伏在していた事実を
尊重するけれども、
しかし書かれるべき思想史としては、
戦争支持者の間における思想上の対立にこそ、
焦点がおかれるべきものと考える。
 
(大熊信行「大日本言論界の異常的性格」『文学』1961年8月号)




大熊信行は、
戦時中、言論報国会の理事として活躍した人物です。

ここでいう戦争支持者の思想対立軸とは、

「資本主義体制の擁護を念とするものと、
戦争体制の強化の過程をとおして社会主義体制への接近を志向するもの」

との対立軸のことを言っています。

この「資本主義体制の擁護を念とするもの」が、
当時の「財閥」やあらゆる「現状肯定派」であり、
自由主義的な政治家・言論人・軍人もここに入るでしょう。

「戦争体制の強化の過程をとおして社会主義体制への接近を志向するもの」
が、転向した共産主義者や国家社会主義者とその影響下にあった人々であり、
軍閥(皇道派・統制派)、革新官僚、から「多くの国民」まで。
もちろん当時右翼(とよばれた人々)や農本主義者たちもこちらに入れてよいでしょう。

鈴木庫三は陸軍にあって、
当時としてはかなり「批判的な知性」の持ち主でした。
日記には、時勢をリアルに観察し批判的に論評する文章がつづられていて、
たいへん勉強になります。

1960年代が終わろうとするころ、
吉本隆明の評論で、
よく大熊信行や竹内好が引用されているのを読みました。

やはり
当時としてはそうとう高いレベルのことを言っていたんだなあと、
なつかしく思い出しました。

******************************


今日は、昭和の日です。
雨の後の晴天で空気が透明な、
新緑の美しい日でした。







昭和の戦争ノート12

坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)から引用します。



第一次大戦後から1932(昭和7)年の5・15事件まではの10数年間の政治においては、政友会と憲政会(民政党)が外交において一長一短であった1920年前半の時代の方が、政治の安定と進歩に役だったように思われる。
両党のどちらが勝っても、「平和」か「民主主義化」の一つは担保されるからである。
反対に、憲政会(民政党)が勝てば「平和と民主主義」が、政友会が勝てば「侵略と天皇主義」が協調されるという1925年から32年にかけての二大政党制は、政党政治だけでなく、日本国家そのものを危機に導いた一因だったように思われる。
(「第6章 危機1925-1937」より)




政党と歴代の内閣が、何を主張し何を為したかを見ることが抜けていたように思います。
これまで、そういうアカデミックな(?)政治史をちゃんと読んでいませんでした。

また、自由主義史観研究会を立ち上げた頃は、石橋湛山や清沢きよし(さんずいに列)を読んでいたはずなのですが、このところすっかりごぶさたでした。

やはりしんどかったので、
わかりやすい話にしてしまいたかったのかもしれません。

ま、あせらないで、ゆっくりやっていきましょう。

昭和の戦争ノート11

関岡英之『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」』(祥伝社)を読みました。

引用します。



外務省外交資料館に所蔵される「新彊革新計画」の概要は以上のとおりである。
もし実現していれば、
東に愛新覚羅溥儀を皇帝とする満州帝国、
中央に徳王を首班とするモンゴル国家、
そして西にムハンマド・イミン・ボグラを首班とする東トルキスタン国家が、
ソ連を囲繞し、
林銑十郎、松室孝良らの先覚者が夢想した防共回廊が、
壮大な城壁として、ユーラシア大陸に屹立するのを、
目撃することができたであろう。




引用終わり。

本書は、陸軍の諜報機関が構想し工作を展開した、
親日防共国家独立運動について、
新資料を発掘して詳述しています。

チベットについてもこう書いています。
引用します。



日本とチベットは反共という価値観を共有し、
ソ連の脅威に対する安全保障という地政学的な利害が一致することを、
チベット側は鋭く認識していたが、
大正デモクラシー期の日本の当局者は、
日英同盟をひたすら護持するばかりで、
思考停止していたわけである。



これらはみな、中華人民共和国に支配されているいわゆる「自治区」です。

やはり、大正から昭和初期に至る日本の分裂について、
しっかり勉強しなければならないようです。
それは、日英同盟の日本という立場を守り続けていたらどうだったかを、
問うことでもあると思います。

内閣と政党についてあまり具体的に考えてこなかったなと、
いや、そもそもほとんどわかっていないなと、
気づきました。

昭和の戦争ノート10

今日も、三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』から、以下引用します。



この政府声明(国民政府を相手にせず)に呼応して、
同月(昭和13年1月)19日付読売新聞夕刊一日一題欄に、
「長期戦の覚悟」と題する三木清の論文があらわれたことは、
注目に値する。
彼はその中で、

「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。
それはもちろん、
新しいことではなく、
事変の当初から予想されていたことである。
今更、改めて悲壮な気持ちになることはない」

「長期戦の覚悟として必要なのは、
強靱性である。
長期戦となれば、いきおい局面は複雑化し、
思いがけないことの起こってくる可能性も増えるわけであるが、
これに処していくためには、
強靱な精神が必要である」

と言っている。
三木清が共産主義思想の把持者で、
そのために彼は、昭和17年治安維持法違反として検挙され、
獄中で悲惨な死をとげたことは周知の通りである。

終戦後彼は、
戦争に反対したがゆえに、
軍閥政治の犠牲になったかのごとく伝えられたが、
この論文でも明らかなように、
真っ先に長期戦を支持したのは、
かれら一連の共産主義者のグループであった。




以上引用終わり。

「真っ先に長期戦を支持したのは、
共産主義グループだった」
と言い切ってよいかどうか確かめたいと思います。

コミンテルン第6回大会決議は、
長すぎるうえに、記述内容にかなり矛盾があります。

一方で「帝国主義戦争に反対せよ」(この部分は三田村は引用していない)と言いながら、
「帝国主義戦争は必然」
「帝国主義戦争を内乱に」
「戦争が起きたら、自国が敗北するように工作せよ」
とも言っています。



昭和の戦争ノート9

近衛文麿の、国民政府相手にせずの声明は、
王兆銘政府の擁立が前提とされており、
それは、はじめから戦争の永続化と、
戦時体制という名の体制革新(擬社会主義体制化)が目指されていたというのは、
ほんとうでしょうか。

そして近衛側近のこの構想は、
尾崎秀実の敗戦革命構想と表裏一体だったというのは。

三田村武夫は、
皆が尾崎とコミンテルンにはめられたのだと言おうとしています。

しかし、それはないだろうと思います。

多くの軍人や政治家や言論人が、
日本の方途を考えたとき、
同じ構想に立ち至ったということは大いにありうることだと思えました。

昭和の戦争ノート8

陸軍中将土肥原賢二は、昭和14(1939)年6月号の『中央公論』に、
「新時代を戦う日本」と題する論文を書いているます。




「今次事変(支那事変)の聖戦の意義は、
単に国家が自己の生存上の問題や、
発展のためのみに戦っているのではなくして、
世界の正義と新秩序と、
新文化のために戦っておることである。
今次事変を契機に、
東亜の新秩序、
東亜の協同世界、
東亜の新文化、
戦争の世界史的意義等々が、
さかんに論議されるに至ったのは、
このためである」

「東亜協同体の理念は、
今次事変の血と硝煙と犠牲と死の中から、
われわれが得た貴重な理念である」

「東洋はわれわれの真理で支配するか、
それともわれわれ東洋人は、
欧米デモクラシーや、ソ連のボリシェビキの奴隷となるか、
われわれの理想か、
われわれの新文化か、
彼らの旧支配か、
われわれの新時代か、
彼等の旧時代か、
血の決意のみがこの結果に勝利する」

「ここに、われわれが今回提唱し、
実践しつつある、
東亜協同体の政治的意義の重大性がある」




三田村武夫は、
当時参謀本部にいた土肥原陸軍中将の論文が、
三木清や平貞蔵や尾崎秀実らの論文と、
内容も修辞も酷似していると指摘し、
「当時、軍閥とその背後に何があったかを物語る証拠」
と述べています。

昭和の戦争ノート7

昭和13年1月16日、蒋介石相手にせずの政府声明(近衛文麿)が出ます。

「帝国政府は、爾後国民政府を相手にせず、
帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、
これと両国国交を調整して、
新生支那の建設に協力せんとす」


同年11月3日、東亜新秩序宣言が出ます。

「帝国の中国に求むるものは、
この東亜新秩序の任務を分担せんことにあり。
帝国は中国国民がよくわが真意を理解し、
もって指導政策を一擲し、
その人的構成を解体して、
更正の実を挙げ、
新秩序の建設に来たり参ぜるにおいては、
あえてこれを拒否するにはあらず。」

これは、このとき工作が進んでいた、
王兆銘の南京政府を想定した声明です。

12月22日、重慶を脱出した王兆銘はハノイに到着します。
この日、いわゆる近衛三原則声明が出されました。

「政府は、終始一貫、国民政府の武力掃討を期するとともに、
支那における、同憂具眼の士と携えて、
亜新秩序の建設に向かって邁進せんとす」

「日満支三国は、
東亜新秩序の建設を協同の目的として結合し、
相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである。

「日本があえて大群を動かせる真意に徹するならば、
日本の支那に求めるものが、
区々たる領土にあらず、
また戦費の賠償に非ざることは明らかである。
日本は実に、
支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要な、
最小限度の保証を要求するものである」


この東亜新秩序の構想も、
三原則声明の文案も、
共産主義者尾崎秀実が書いたと三田村武夫は書いています。

尾崎はいう。

「帝国主義政策の限りなき悪循環を断ち切る道は、
国内における搾取・被搾取の関係、
国外においても同様の関係を清算した、
新たなる世界体制を確立する以外道はありません。
すなわち、世界資本主義にかわる共産主義的新秩序が、
唯一の帰結として求められるのであります。」

「この意味において、
日本は戦争のはじめから、
米英に抑圧されつつある南方諸民族の自己開放を、
東亜新秩序の絶対要件であると、
しきりに主張しておりましたのは、
かかるふくみをこめてのことであります。
この点は、
日本の国粋的南進主義者とも、
ほとんど矛盾することなく主張できたのであります。」


(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』による)

昭和の戦争ノート6

コミンテルン第6回大会決議によれば、
国際共産主義運動の軍隊に関する認識は次の通りでした。


共産主義者は、
その国の軍隊がいかなる階級の武器であるかを十分検討して、
その態度を決めなければならない。
その場合決定的な意義を有するものは、
その軍隊の性格が帝国主義的であるか、
または、
プロレタリア的であるかにある。



労働者を軍国主義化する帝国主義は、
内乱戦に際して、
プロレタリアの勝利をもたらす素地を作るものであるから、
平和主義者の主張する反軍国主義とは立場を異にする。
われわれの立場は、
労働者が武器を取ることに反対せず、
ブルジョアのための帝国主義敵意軍国主義化を、
プロレタリアートの武器におきかえるのである。



では2/26事件の日本の軍隊はどのような性格をもっていたのでしょうか。
2/26事件被告の新井勲元陸軍中尉は、
次のように証言している。



政党政治が崩壊しても、
それだけで青年将校の国家改造運動はおさまるはずはなかった。
昭和3年以来全国を襲った深刻な不景気、
特に中小商工業者や、
農山漁村の困窮を最も敏感に感じ取ったのは、
兵と直接接触する将校である。
腐敗した政党とどん欲な財閥を打倒し、
下層階級を救おうというのが、
彼らをつらぬく思想であった。
陛下の赤子といわれるのに、
一面では栄耀栄華に暮らす者があるかと思えば、
働けど働けどその日の生活にあえぐ者があった。
中でも東北地方の冷害で、
満州に出征した兵士の家庭では、
姉妹が娼妓に売られる悲劇さえ起きていた。
この社会矛盾の解決なしには、
青年将校の間に広まった国家改造の機運は、
おさまる道理がなかった。



日本の軍隊の一部は、
まぎれもなく反ブルジョア的な、
プロレタリア的な性格を持つに至っていたといってよいでしょう。

この性格は、
やがて軍部全体に、
共産主義者から天皇制共産主義者(ファッショ)に転向した官僚たちに、
さらに言論界全体に広がり、
共産主義者尾崎秀実の運動とも、
ぴったり一致することになります。

(この記事は、三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』による)


昭和の戦争ノート5

第一次世界大戦で山東半島の利権と南洋諸島の統治権を得たとき、
日本は欧米帝国主義列強と同じ流儀で生きようとしていました。

対華21箇条の要求はまさにその現れでした。

しかし、日本は戦後、彼らの流儀による世界分割はすでに終わっていることに気づきます。

世界はアングロサクソンが支配していて、世界のルールを決めるのも彼らです。

日本が遅れてきた帝国主義国として彼らと覇権を争うためには、
総力戦に耐える力量がありません。

これが満州事変の動機の一つでした。
(しかし、満州には石油が出ない!)






遅れてきた帝国主義国家としてどう生きるか。

資源のない日本は総力戦には耐えられない。
したがって、何かと日本に難癖をつけてくる米英と協調しながら、
共産主義の脅威と戦う。
しかも支那の動きにも対応しながら、大陸の利権も守る。

これが日本の選択でした。

幣原喜重郎らが模索した道です。





この道が閉じられていくのは、
いくつかの要因がありました。

ひとつは、明治以来の大アジア主義です。
ひとつは、世界資本主義の行き詰まりと、日本における反資本主義の流れです。
これは、議会政治・政党政治・自由主義への批判になります。
ひとつは、民族自決主義のアジアへの伝染です(これは日本自身がみごとなお手本でした)。
ひとつは、共産主義(コミンテルン)=左翼です。
ひとつは、天皇を戴く共産主義(社会主義・ファシズム)=右翼・革新官僚です。
ひとつは、欧米中心の世界が示す態度です。
ひとつは・・・

これらが、からまりあって日本を導いていきました。
戦争の継続は、戦時体制という名の反資本主義・社会主義化でもありました。





私は、日露戦争以後の日本の歩みの必然性(運命)を共感的に理解したい。
現状では、いくつもひっかかるところ、わからないところがあるのです。

ま、あせらないでゆっくり勉強します。
プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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