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中学歴史2年5「尊王攘夷3 生麦事件と薩英戦争」の授業

1 生麦事件

*前回、長州藩の攘夷戦争を学習しましたが、同じ時期の薩摩藩です。
薩摩は「公武合体運動」を推進していました。朝廷と幕府を合体させる。具体的には孝明天皇の妹和宮と将軍家茂の結婚です。
そして幕政を改革して(外様の雄藩の力も導入して)この日本の危機を乗り切ろうという考えです。
つまり、長州藩とは違って、薩摩藩はこの時期徳川幕府の存続を支持していました。
とうよりも、文久4年までは、幕府・会津と組んで長州をつぶそうとしています。

*その薩摩藩の島津義久が軍を率いて江戸に向かいました。朝廷の意志を背景に幕政改革の実を挙げることがねらいでしたが、当時の攘夷派はこれを「倒幕か?」「攘夷の実行か?」などと誤解していたところがありました。

*その誤解が、まるで正解だったかのようになる事件が起き、こんときの薩摩の行動が過激な攘夷運動の先駆けになってしまいます。

■明治初期の生麦村の写真を見せます。
生麦1

『いまからおよそ150年前、ペリーの黒船が来てからおよそ10年後、通商条約を結んで5年後のことです。
 この写真の場所である大事件が起きました。この道は当時の東海道。今の横浜市鶴見区生麦にあたります。
  どんな事件が起きたでしょう?』

・生麦事件

■文久2(1862)年8月21日の生麦事件の事実経過を物語ります。島津義久の大名行列が江戸を出発して東海道を京に上っていく。向こうから馬が4頭やってくる。乗っていたのは開港した横浜に住んでいたイギリス人の貿易商とその友人。そして彼らを訪ねて母国からやってきた友人夫婦の4人。ピクニックの途中だった。4人は薩摩の武士の制止も聞かずにどんどん行列の中に入ってきて、あれよあれよという間に殿様のかご近くまで来てしまった。護衛の藩士はんちもなみちのな抜刀してイギリス人に斬りつけた。一人は即死で落馬した。二人は深手だったが、かろうじて持ちこたえて逃げた。4人目の女性は斬らなかった。3人は横浜に逃げ帰った。(4人の英国人、1人死亡、2人負傷)。

■イギリス領事は香港にいた東洋艦隊を江戸湾に呼び寄せ臨戦態勢を取った。そして、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(28万両)を要求した。千両箱を280箱である。
薩摩藩には斬りつけた武士の引き渡し(処刑する)と賠償金2万5000ポンドを要求した。

■幕府は言われるままに支払った。薩摩藩は次の宿場でどうするか話し合った。

『みなさんが薩摩のリーダーだったら、どうしますか?』

A:要求に従う。
B:賠償金は払うが、斬った武士は渡さない。
C:要求に従わない。


*立場を決めさせ理由をノートに書かせる。
*人数分布をとり、数名に意見を言わせる。

【生徒の意見】
A(6名)
・世界のトップイギリスに逆らってしまうと、いくら日本の雄藩薩摩でも軍事力が圧倒的に違う。断ったら仕返しが来そう。よって、ここはおとなしくきいておいたほうがよいと思います。

・両方断ったら確実に戦争になってしまうのでダメだ。Bかと迷ったが、班員である仲間を渡さず戦争になれば、その何倍何十倍の犠牲者が出てしまう。犠牲がしょうがないというわけではないが、Aが確実に戦争を避ける方法だと思う。

B(13名)
・両方言うことを聞くとイギリスにスキを見せることになる。両方断ると完敗して日本が滅ぼされることになる。金は払うが、やむなく斬ってしまっただけだから、犯人は渡さない。

・お金はきちんと払い相手への敬意をしめす。でも仲間を見殺しには出来ないから引き渡さない。犯人は日本の法律で裁いたと伝える。日本で起きた事件だから。無罪になると思う。


C(8名)
・なぜなら、幕府がもう10万ポンド払っている。謝罪もしている。だからこれ以上賠償金は払わないで良い。犯人といっているが、英人が行列に入ってきて殿様の駕籠の近くまで来たから、殿様を守るために斬った。間違ったことはしていないから罪人呼ばわりされる必要はない。

・行列の中に入って、日本の要人の近くに来て止まりもしないので、藩主の命を守るためにやむなく斬った。忠告したし制止もしたのに、止まらなかったではないか。犯人を引き渡すのは条約とはちがう(日本人は日本の法で裁く)。郷に入れば郷に従えだ。

・仲間を裏切るようなことをする人が、みんなをまとめて明治の日本をきちんとつくれるとは思はない。ずっとイギリスなど外国の言うことを聞いていたら、日本なのに日本じゃなくなってしまうから。

■大久保利通の写真を貼り、その決断が【C】だったことを教える。
gazo-Ookubotosimiti0.jpg

*資料「大久保が藩主の代わりに書いた手紙」を読む。

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大名行列について、わが国法はきびしい。
無礼な行為があれば、切り捨てるべきであると定めている。
だから、薩摩の武士は国の法を守った者であり罪はない。
彼らは犯罪者ではなく、薩摩藩が賠償金を払う義務はない。
逆に、イギリス人が 日本にいて日本の法を守らず、罪を犯して切られたのである。
西洋人といえども日本に来たのなら日本の法に従うべきなのはいうまでもない。
その法は幕府が決めたものなのに、法を守らなかったイギリスに対してあやまり、賠償金を払うことこそまちがっているのである。

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*「考え方はいいと思うが、戦争になってやられることは考えなかったのか?」という質問が出る。
薩摩藩は戦争を覚悟して薩摩に帰りました。世界の超大国だから大砲戦は負けると城下が焼かれることは覚悟していたようだ。しかし、いくら強いといっても海軍だけでは上陸され占領されることはないと見ていた。戦争の勝ち負けよりも、ここはサムライとしての筋を通すことが後々のためにも重要だと考えたのでしょう。


2 薩英戦争

■イギリスは幕府と交渉しても、薩摩に言うことをきかせる力がもう幕府にはないことを知った。鹿児島湾に7隻軍艦(89門)で押し寄せ、24時間以内の回答をせまった。

■大久保は「薩摩藩は、攘夷をさけぶ長州藩と、幕府を応援して戦ってきた。その薩摩藩が、幕府の法を守ったせいで、いまイギリスから攻撃を受けようとしている。なんという運命だろうか!」と言ったそうです。

■お話をプリントして配り、読む。


薩英戦争(さつえいせんそう) 文久3年(7/2) 1863年(8/15)

世界の海を支配するイギリス艦隊は、世界最強の海軍であった。軍艦7せき、大砲の数は全部で89門だった。薩摩の蒸気船は3せきともイギリス艦隊にとらえられてしまった。

 大久保利通は、公武合体派で長州と対立する薩摩が攘夷戦争をやることになった運命の不思議を思った。しかも敵は世界最強の海軍であり、こちらは日本の九州の南端の一つの藩に過ぎないのだ。しかし、もはやしりぞくわけにはいかなかった。

 城下の人々を避難させ、沿岸の十数カ所につくった砲台の準備も整った。
 7月2日。おりから、台風が近づき、暴風雨の中で戦争が始まった。

 薩摩藩の大砲は旧式だったが、ふだんからの訓練がものをいって、命中率が高かった。その一発はみごと敵の旗艦(指揮官の乗っている船)に命中して、イギリス軍艦の艦長と副艦長が戦死した。

 しかし、薩摩藩の砲台はつぎつぎと集中砲火を浴びた。イギリスの大砲は、最新式のアームストロング砲だった。鹿児島の城下町は炎につつまれ、砲台も次々と攻撃力を失っていった。

 戦争は3日間続き、指揮官を失ったイギリス艦隊は、鹿児島から出ていった。

結果はこうだった。
 イギリス軍の戦死13名、負傷者50名。
 薩摩軍の戦死10名、負傷者11名。
 鹿児島城下の五百戸が焼かれ、蒸気船3せきを失い、薩摩藩の西洋式の工場もこわれてしまった。

 どちらが勝ち、どちらが負けたのか、わからない戦争だったが、大久保たち薩摩藩のサムライたちは、この戦争で西洋の真の実力を体験できたのである。

イギリスの新聞は次のように書いた。
「鹿児島は戦争のうまさは日本第一である。 薩摩藩の兵士の勇かんさは、これまで見たアジア人の中で、ぬきんでている。すみやかにもう一度攻撃しなければ、英国のはじとなろう。二人の指揮官を失ったことは大英帝国のはじだからだ。しかし再び攻撃するには、軍艦十二せき、千名の陸軍がいる。準備には八ヶ月が必要だが、その間に、薩摩もじゅうぶんに用意しているだろう」
薩英戦争


3 戦争の後

『戦いの後、薩摩藩の意見は2つに分裂しました。

 A:早く解決しよう派    B:あくまで戦う派

 戦争の後始末を任された大久保利通の意見は、どちらだったでしょう?』


*挙手で意見分布をとるだけにして、すぐに正解を教え、授業のまとめをする。

【正解はA】
■武士としての意地を見せたことに満足し、イギリスと講和することにした。
大久保は、2万5000ポンド(7万両)を払うことにした。
しかし、賠償金ではなく遺族養育料という名目にさせた。
しかも、それを幕府に払わせた。

■そのとき大久保が使った手を教えよう。しぶる老中にこう言ったという。「もし7万両お貸し願えないのなら、やむをえない。やりたくはないがイギリス公使を斬って自分も切腹する」。
幕府の老中はふるえあがって金を出したという。

■長州藩と薩摩藩だけが西洋列強と戦争をした。両方とも、彼らの実力を身をもって知った。そして、真の尊王攘夷というのは「天皇中心にまとまる組を作り、日本を実力を蓄えて、西洋列強に支配されない強い国を作ることだ」という、前時の高杉晋作の方針で固まっていく。

■では、イギリス側はどうだったか。彼らは、戦った薩長を憎まなかった。それどころか、正々堂々と戦う誇り高い武士の精神(長州藩と薩摩藩)を尊敬し、幕府よりも薩摩と長州を応援するようになった(軍艦を売ったり、鉄砲や弾薬を売るなど)。

■そのほうがイギリスの利益になると考えたからだ。
これからの日本は、幕府ではなく、長州藩と薩摩藩を中心にまとまっていくのではないかと考え、自分たちの将来の利益を考えたのである。
イギリスの幕府離れは、競争相手のフランスが幕府の応援を始めたことも原因だった。
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中学歴史2年4「尊王攘夷2 高杉晋作と功山寺決起」の授業


1 高杉晋作の紹介

*高杉晋作の写真を貼る。
高杉晋作

*かんたんに以下を説明します。
1839年、長州藩の萩に生まれる。
黒船来航は15歳。19歳で松下村塾に入る。
21歳で、松陰が死刑になる。亡骸を世田谷の毛利別邸に運んで弔い墓を建立、明治になって松蔭神社が祀られた。
22歳で結婚(新婦まさは防長一の美人といわれた女性)


2 上海行きと攘夷運動

*高杉晋作の行動を危ぶんだ長州藩は、幕府の派遣船に乗せて、上海に見聞に行かせた(文久2年)。
*資料「高杉晋作の見た清国」を配る。
****************************************

高杉晋作の見た清国
 
 高杉晋作は23歳のときに、長州藩の命令で、清国に行きました。
日本より前に、アヘン戦争によって開国させられた清国の様子を見るためです。

 上海(シャンハイ)につくと、晋作はおどろきました。
清国に来たはずなのにそこはまるで西洋の国のようだったからです。
たくさんの西洋の船や軍艦が港をふさいぐようにとまっています。
港町には西洋風の建物がならび、屋根には西洋の国旗をなびかせています。

 さらに町の中を歩いてみるともっと驚くことが見られました。
お金をはらわなければ通れない有料の橋があり、しかも、お金をはらっているのは清国人だけで、西洋人はただで通れるのです。
アジア第一の大国である清国が、西洋の国に支配されたような国になってしまっていたのです。

 晋作は、日記にこう書いています。

「中国人はまるで西洋人のめしつかいのようだ。
イギリス人やフランス人が道を歩いてくると、中国人ははじに寄って彼らに道をゆずっている。
上海は中国の領土だが、これではイギリスやフランスの植民地になってしまったのと同じことだ。」

 こうして、晋作は日本の危機の本当の意味がわかったのです。
 清国のひさんな現実を見た晋作はこう考えました。

「世界は弱肉強食の時代になっている。
西洋は軍事力にものをいわせて、アジアを支配している。
まちがったつきあい方をすると西洋人の思うがままにされてしまうのだ。
西洋のめしつかいのような清国のひさんな姿は、明日の日本の姿になりかねない。
このままではいけない!」   

*******************************************

*この上海行きは高杉に大きな影響を与えました。
帰国した高杉を迎えた長州藩は、尊王攘夷派が実権を握っていました。
高杉もこの大きな流れの先頭に立って、弟分の伊藤俊輔(博文)らと外国公使暗殺計画(未遂)や第一次東禅寺事件(品川御殿山に新築中だったイギリス公使館焼き討ち)などを行いました。


3 攘夷決行と草莽崛起

*将軍家茂は朝廷に通商条約の勅許をを求めるが、逆に「文久3年5月10日をもって攘夷を実行する」という約束をさせられてします。
*幕府は攘夷令を発布するが、外国公使らには「実行の意志はない」ことを伝えた。諸藩も幕府が本気ではないことを理解していた。
*しかし、藩として尊王攘夷を実行しようとしていた長州藩だけは違った。5月10日(1863年6月24日)、下関を通過する各国商船に砲撃を加えた(下関戦争)。
*翌月、アメリカやフランスに相次いで報復攻撃を受け、フランス軍は上陸して砲台を破壊した。

下関砲台占拠


『このとき、高杉晋作は藩主に提案して日本はつん軍隊を作りました。』
*奇兵隊・・・日本初の西洋式軍隊・志願制で身分は問わない。
*これは、吉田松陰の教えの中のひとつ、「草莽崛起(そうもうくっき)」という考え方によるも のです。 「草莽崛起」とは、すべての人が身分に関係なく世の中をよくするために立ち上がろうという思想です。

*翌文久4年8月、英仏蘭米四国連合艦隊が下関を一斉攻撃(馬関戦争)し、長州藩は大敗北を喫した。高杉晋作は講和会議の藩代表にかり出され、伊藤俊輔が通訳を務めた。賠償金300万ドルは「幕府の攘夷令に従ったまでだ」とつっぱね、結局幕府に払わせた。また、彦島租借要求には、イザナキ・イザナミから延々と神話を語り続けて断ったというエピソードは有名。英国の通訳アーネスト・サトウに「魔王のようだった」と言わしめたタフなネゴシエーターだった。


4 長州征伐と功山寺決起

*文久4年は長州とってさんざんな年になった。
7月:禁門の変に敗れ、朝敵とされた。
8月:馬関戦争に敗北
11月:第一次長州征伐、幕府と薩摩の連合軍に攻め入られ、参謀西郷隆盛の妥協案に戦わずして恭順し、「今後は幕府にすべて従いますのでお許しください」という俗論派が長州藩を牛耳ることになった。

12月、24歳の高杉晋作は大きな岐路に立たされた。
*高杉は、藩政を覆すべく奇兵隊や諸隊に挙兵を呼びかけ、下関の功山寺に結集するようにふれを回しました。
しかし、集まってきたの弟分伊藤俊輔の指揮する力士隊ともう一隊だけ。総勢80名に過ぎません。
長州藩兵3000名と戦うにはあまりにも少なすぎました。
山県有朋をふくめ、ほとんどの隊長たちは無理だと判断したのです。

『彼の心には、師吉田松陰の遺言となった次の手紙がよみがえっていたのだと思います。』
********************************************

吉田松陰の手紙

高杉晋作君
かつて君は私に質問した。
「男子の死ぬべき所はどこか」と。
私も昨年の冬、投獄されて以来、考え続けてきた。
死は好むべきものではないが、また憎むべきものでもない。

世の中には、身は生きていても、心は死んだのと同じという人がいる。
反対に、身はほろびても、たましいは生き続けている人もいる。

死んで、不朽(ふきゅう:永遠にほろびない)のことが残せるみこみがあれば、いつ死んでもよい。
また、生きて大業(たいぎょう:大きな仕事)をなしとげるみこみがあれば、
どこまでも生きる努力を続けなくてはいけない。


人間というものは、生死のことなど度外視(どがいし)(考えに入れないこと)して、いまじぶんがやるべきことをやるという心がまえが大切なのだ。

***********************************

功山寺決起


*高杉はこれこそが「不朽の大業」だと決断し、たった80名の先頭に立って萩に向かって進軍しました。
伊藤博文は「これはいかにも危ないが、高杉さんについていこう」と思ったそうです。
しかし、たくさんの声なき声が高杉の決起を知って駆けつけてきて、萩を攻撃するときには1000名の軍にふくれあがっていました。それでも3:1ですが、圧倒的な志の差が大逆転劇を生み出します。
功山寺の挙兵は成功し、高杉晋作らが長州の藩政を握ることになったのです。
まさに、功山寺決起こそ維新回天の偉業と言っていいでしょう。
ここで長州藩がひっくり返らなければ、薩長同盟もなく、3年後の明治元年はあり得ない話でした。


5 国づくりの大方針と高杉晋作の死

*西洋列強の圧倒的な軍事力を体験した高杉晋作率いる長州藩は、それ以前から練ってきた「国づくりの大方針」をこのあたりで確立したと思われます。最後にそれを考えましょう。

『次の、(A)(B)(C)に当てはまる言葉を書きなさい。』

************************************

国づくりの大方針

1 日本を(  A   )と対等につきあうことのできる、強い国にする。

2 (  B  )を倒し、(  C  )中心に一つにまとまる国をつくる。

************************************ 

*意見を発表させて、評価する。
Aは「西洋」「欧米」などが正解だが、ここで「西洋(欧米)列強」という用語を身につける。
Bは「幕府」、Cは「天皇」でほとんどが正解する。

国づくりの大方針
1 日本を西洋列強と対等につきあうことのできる、強い国にする。
2 幕府を倒し、天皇中心に一つにまとまる国をつくる。


*この大方針は、やがて維新の志士たちが共有する目標に、また明治の国づくりを貫通する目標になるので、しっかり覚えさせるようにする。

*2については、「天皇中心の中央集権国家」であり、それは古代の日本に戻すことだと意識されていた。だから、維新(これ新たなり)がすなわち、「王政復古」になっていく。

*慶応2年 第二次長州征伐(四境戦争)には薩摩が加わらず、将軍家茂が死去し、幕府は長州をつぶすことはできなかった。

*やがて、長州と薩摩という二大雄藩(ひたすら憎み合ってきた)が連合し、幕末の動乱は一気に動き出すことになった。

*しかし、慶応3年4月14日(1867年5月17日)、大政奉還のちょうど半年前に、高杉晋作は労咳(肺結核)で死去した。享年(満)27歳。

*辞世の句は

 おもしろきこともなき世をおもしろく

中学歴史2年3「尊王攘夷1 吉田松陰と松下村塾」の授業

【授業のねらい】
・吉田松陰の思いと行動を知り、維新の志士とは何か、尊王と攘夷の意義などについて理解を深める。



1 吉田松陰登場

吉田松陰

*肖像を見せ、以下を説明する。
・1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた。
・5歳、藩の軍学の先生の家、吉田家の養子になる
・11歳、藩主の前で講義をする。
・19歳、藩校の教授になる。
・23歳、江戸で遊学中に、ペリーの黒船事件にあう。



2 藩の政策に反論
『黒船が来たとき、長州藩では「江戸のことは幕府にまかせればいい。わが国には責任がないことだ」という意見がほとんどでした。松陰はこの意見に強く反対した人です。どんな反論をしたのでしょう?』

*松蔭の反論はこうでした。

「外国が日本を困らせているときは、幕府も諸藩もない。日本のすべての武士が力を合わせて外国に立ち向かうべきである。いまこそ、みなが日本国に忠義をつくすべき時である」
『当時「わが国」といえば自分の藩のことでした。250年もの泰平の世をまったく外国を意識しないできた多くの武士にとって、自分が忠義をつくすべき国とは自分の藩であり、その殿様のことでした。
全国に藩は300もありました。
だから、多くの武士は自分の藩については責任感がありましたが、日本全体のことは幕府の責任だと考えていました。
吉田松陰は、日本の武士ならばだれもが日本全体に責任がある考えた最初の武士の一人でした。
このような考えを持った武士のことを、「志士」といいます。
明治維新ために働いた武士ですから、維新の志士ですね』→板書

*ここで、武士道の授業を振り返らせ、藩の殿様への忠義とは、殿様個人につくすことではなく、藩(国)という共同体、ひいてはその大多数を占める農民(大御宝)への忠義を含むものだったことにふれる。
この「志士」の武士道とは、日本という国家への忠義ということになる。そうすると、忠義の具体的対象はもはや殿様でも将軍でもなく、天皇だということになる。
これが幕末の武士を動かした「尊王精神」であり、武士道の原理からすればそれは、日本という共同体への忠義であり、ひいてはその大多数である農民(国民)への忠義を含むものでした。

ここで
『志士は、藩の殿様ではなく、だれに忠義を尽くすのが日本のために尽くすことになるのですか?』
と問えば、
生徒全員が「天皇です」と答えられなければならないと思う。
これまで何を教えてきたのかということになる。

*嘉永から安政に移る頃には、各藩の武士も幕臣も、この「尊王」が強弱の差はあっても、共通の精神になっていく。あの井伊直弼でさえ、自分は尊王精神を持っている自信を持っていたのです。



3 黒船に行ったわけ

『翌年、2度目にペリーの黒船が来たとき、松陰は小舟に乗ってペリーの軍艦に近づきました。午前2時頃のことです。松陰は何をしようとしたのでしょう? 』
A:暗殺する   B:説得   C:密航

『正解はCです。日本とアメリカの軍事力の差はどうしようもないくらい差がある。だから、自らアメリカに行って敵のすべてを研究し、その知識を日本に持ち帰って、日本を西洋に立ち向かえる国にするために働こう。それが松蔭の考えでした。』

『失敗した松陰は、その足で役人のところに行き、これこれしかじか、国法を破ろうとしたが失敗したといさぎよく自首しました。死罪を免れないかもしれないことは百も承知でしたが、そこが松蔭の恐ろしいまでに正直なところです。松蔭の世間の常識でははかれない行動を「狂」と評する人もいます。結局、松蔭は牢屋に入れられました。そのときつくった和歌を教えます』


  かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂  

*大意を教え、生徒達と大きな声で朗誦します。



4 野山獄の変化

江戸から長州に帰され、松陰は長州藩の野山獄という牢屋に入りました。松陰が入ると、牢屋の中におもしろい変化が起きました。次のどれでが始まったのでしょうか。
   A:勉強   B:勤労   C:遊び

『正解はAです。生きる希望を失って病人か亡霊のようになっていた罪人たちに、道徳や学問、いま日本が迎えている危機と日本人ならどうすべきか等々を教え、やがて共に日本のために尽くすときが来ると説きました。また、彼ら自身にも得意なこと(習字、俳句など)の先生をやらせ、牢屋を生き生きした学校に変えてしまったそうです。生まれながらの熱血教育者なのです。』



5 松下村塾
『やがて、松陰は牢を出され家に帰されました。しかし、罪が許されたわけではなく、家の外には出られず、どこへも行けません。そこで、家の離れで松下村塾という塾を始めました。そして、藩の武士だけでなく、足軽や町人や農民など、身分に関係なく学ぶ意欲があれば塾生にし、月謝も取りませんでした。』

『松陰はこの塾で自分のことを「A」とよばせ、塾生のことを「B」とよばせました。AとBに言葉を入れなさい』

【A=「ぼく」 B=「きみ」】


『武士の塾生は「拙者」「それがし」「貴殿」、農民の塾生は「おら」「おまえ」「あなたさま」などと話します。これでは松蔭の理想はかないません。そこで、塾生は皆「ぼく」「きみ」と呼び合うようにさせたそうです。志士として身分差のない言い方は塾生のあいだにすぐに広まり、やがて全国の志士に使われ、いまも続いていまも使われています』

『この松下村塾から、日本の新しい国づくりを進めた維新の志士たちがたくさん育ちました。』

*高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、伊藤博文、山県有朋、井上馨などを教える。


5 通商条約

『松陰が松下村塾で教えているころ、ハリスとの通商条約の交渉が進められてました。松蔭は、攘夷決行を求める朝廷に
次のような意見書を出しました』

「鎖国を守るという考えは、一時的には無事のように見えるが、一時しのぎのやり方でとうてい日本の今後を考える大方針とはいえない。国内でも自分の藩に閉じこもっているのと全国を歩いているのでは、知識に大きな差が出る。ましてや、いまは世界が相手になっている。日本のリーダーなら、世界をよく見て知識を広め、西洋と対等につき合える国にするべきだ」


『では、松陰は幕府が独断で締結した修好通商条約(開国)に、どんな意見を持ったでしょうか?』
A:賛成   B:反対

【正解はC】
「この条約では、日本はアメリカの思うままだ。いずれ条約を結ぶことは必要だが、それは日本の力を強くしてからでなければならない。強いものにへつらい、まるで西洋の家来になったような態度で結ばれた条約には絶対に反対である」

*条約締結前の考えと矛盾するようですが、西洋と対等につきあえる日本にならなければならないという考えが吉田松陰の攘夷論でした。

『こうして、長州藩は幕府が天皇の許しを得ずに結んだこの条約に反対するという大方針に立って動き始めます。』



6 吉田松陰の辞世

『吉田松陰は、老中暗殺計画を立てたという罪で、幕府によって死刑にされました(安政の大獄)。1867年、江戸時代が終わる1年前のことでした。享年29歳。あまりにも若すぎる!』

*辞世を教え、みんなで朗唱して授業を終えます。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂




【生徒の感想文】

●吉田松陰がとても好きになりました。正直さ、日本を思う心に感動しました。正直な人でありたいと思いました。

●やはり日本の歴史を動かすような人は、普通の人とどこか違っていると思いました。日本全体のことを考えることが大事だと思いました。

●正直で少し狂っている人物だけど、そういう人は何かしらの才能を持っていると思いました。何事も自分らしく、本当に思ったことを実行し続ける意味を教わりました。大和魂を受け継いで!!

●吉田松陰は他の武士と違いおても日本という国に忠義を持っていることがわかりました。また、大和魂を貫くことをすごいと思いました。

●歴史上に名を残す人物は大和魂があった人だと思った。吉田松陰は頭も良くて自分に正直だから、真面目な人だと思う。生き方について教わった気がします。

●吉田松陰は、自分の意志を強く持ってぶつけていき、実行することが出来る素晴らしい人だと思いました。

●吉田松陰を尊敬しました。今までは阿倍仲麻呂が一番でしたが、今日、吉田松陰に変わりました! 松陰の生き方や和歌に感動しました。私も松下村塾に通いたいです。

●吉田松陰は自分の国のことだけでなく、日本全体のことを考えられる、常識などにとらわれないすごい人だった。密航のことを自首したなんて驚きました。

●正直に生きて失敗することもあったけど、日本のために生きる姿に感動しました。どんな立場におかれても、自分の信念を貫くことの大切さを学ぶことが出来ました。

中学2年「不平等条約の締結」の開国か攘夷かの意見集

【2年生】
国史のしおり 3 「不平等条約の締結」         平成26.4.

開国(条約)か攘夷(条約破棄)か

【開国派】14名

・もし戦っても負けることは必至で、戦争に負けたらすぐに植民地にされてしまう。そうなるくらいならば開国し貿易を行って国の力をつけた方が良いと考える。できれば、条約は白紙にもどして、再び結び直したい。

・外国にあらがえば、植民地化し、「日本」という今までずっと守り抜いてきた国が無くなってしまうと思ったからです。無理に開国したくはないが、戦争になってたくさんの命がなくなるなら、平和的な解決策を求めないといけない。いきなり攻められてしまうかもしれない。時間をかけて力をつけていこう!!

・いつまでも貿易をせずに鎖国状態だったら、いつかは滅びるだろう。もし開国しなかった攻撃されるだろう。もし戦っても鎖国していた日本はすぐに負ける。

・けんかして植民地にされたくない。

・いま攻めても勝てるほしょうはないから、とりあえず従って、自分たちに力がついたら攻める。

・日本と西洋が支配されるかも知れないというときに、幕府と朝廷が対立している場合じゃない。とりあえず安全重視で支配を避けるのがいい。

・朝廷にいちいち許しを得ていたらその間に日本がつぶされてしまうかも知れない。このまま鎖国を続けていたら、外国からの文化も技術も入ってこないので、いい機会だから開国しよう。日本と西洋の軍事力や技術の差が激しいので、このまま鎖国を続けて、彼らを敵に回したらやられる。

・他の国と交流を持った方が日本の未来につながると思う。

・尊王はみな認識しているし、攘夷をうたうのもよいと思うが、いまアメリカとまともにぶつかったら空砲ごときではすまない。日本は植民地にされると思う。だとしたら、日本を守るためにここは条約を守るべきだと思います。

・開国してしまったのだから、貿易で技術を取り入れて、その後各藩の軍備が整ったら戦争開始へ。全国の城を根拠にして戦えば、アメリカは補給が続かない。そこをついて講和を結び、平等条約に直す。

・鎖国はこの時代の常識に合わないし、江戸幕府の力もおとろえてきている。そろそろ民主主義を取り入れた方がいいと思った。


【攘夷】11名

・この条約はあまりにも日本に不利だ。植民地にはされたくない。

・今決まっている条約は日本にとって不利な内容で、このまま続けたらいつ植民地にされるか分からないと思ったからです。そして、天皇の許しが出ていないというのも、いままでやってきた政治を壊すということになるのではないかと思いました。

・日本は昔から天皇中心で政治を進めていたのに、天皇(朝廷)が許可していないのに、貿易しようという開港や条約を結んで、不平等関係になってしまった。このまま植民地にされてからでは遅い。条約のせいで国をのっとられるかもしれないから。

・ズルズルのみこまれて行くのがA(開国)で、サムライの気持ちになったらB(攘夷)だと思ったからです。

・アメリカに日本を侵食されるとアメリカの思うままになってしまう。関税だってアメリカの好きなようにさせたら、日本の産業がなくなってしまう。日本の文化をふまえた上で今の状態があるのだから、今の日本を発展させていくのが良いと思う。鎖国といってもオランダとのつきあいはあるのだから、このつながりを生かして、その間に国の意識を高めて強くなってから戦えばいいと思う。

・開国しても、この不平等条約では、関税のことはアメリカと相談しなくてはいけなくて、拒否されたらもうけるどころか国の力がおとろえていくから。

・今現在の日本は西洋列強に狙われているため、幕府自体の力が少しずつおとろえている。その幕府の指示に従ってしまえば、日本はますますおとろえてしまうと思ったから。

中学歴史2年2「不平等条約の締結」の授業

1 ペリーは日本をどう見たか

『新しい歴史教科書』(自由社)P155に、ペリーの『日本遠征日記』の抜粋が載っています。これを読んで、ペリーもなかなか見る目があったことを確認する。
ペリーは日本をどう見たか


2 領事ハリスと日米通商航海条約

安政3年(1856年)に、ハリスが下田に開設されたアメリカ領事館に着任しました。
ハリス
ハリスはしばしば江戸城に出向いて通商条約の締結を要求し続けました。
このときの将軍は13代徳川家定。老中首座は堀田正睦でした。
孝明天皇は攘夷論者で、どうしても朝廷の勅許は得られません。
国内は、開国(条約)派と攘夷派に分裂して喧々がくがくの争いが巻き起こり、幕府や各藩の内部でも対立が起きました。
この決められない混乱状況に決着を付けるべく登場してきたのが、彦根藩主の井伊直弼でした。
安政5年(1858年)、非常時の臨時職だった大老職を設けて、これに井伊直弼が就任します。
大老は老中首座とは異なり、強い決定権を持ちました。
井伊直弼

井伊直弼は、朝廷の許しが得られないまま、通商条約の締結を決断します。
朝廷から国政を委任されている幕府には、その責任と権限があるという判断です。
尊王攘夷運動といいますから、井伊直弼ら開国派は「尊王」ではないと思うかも知れませんが、そんなことはありません。当時「尊王」は武士の常識になっています。
朝廷を取るか、幕府を取るかで争うような歴史は日本にはないのです。
井伊直弼は国政を預かる責任者として、それが日本を救う道であると決断したのです。

安政5年(1858年) 日米修好通商条約締結
・函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎が開港され、外国人居留地をつくり、貿易を行うことになった。(下田は閉鎖)

すると、ただちに英仏をはじめとする列強がやってきて、同内容の条約が結ばれました。
これを安政の五ヶ国条約といいます(日英・日露・日仏・日蘭)。


3 不平等条約

幕府が朝廷の許しを得ずに独断で開国条約を結んだことに攘夷派は憤激し、尊王攘夷運動の嵐が巻き起こりました。
またこの通商条約は、2つの不平等な内容があって、日本を主権国家とは認めていないことが明らかになります。

・日本に関税自主権がない
 幕府は関税を自主的には決められず、相手国と協議して決めなければならない。

・相手国に領事裁判権(治外法権)がある
 日本における外国人の犯罪を日本側で裁くことができない。

*関税自主権がないと、自国の産業を守れなくなることを図示するなどして説明する。
*領事がその国の法で裁くとどうなるか、具体的に説明する。

こうして、日本は西洋列強中心の国際社会に巻き込まれていきました。白人の数カ国(列強)が有色人種地域を植民地として支配し、列強同士は主権国家として対等に交際する。
日本はまだ植民地にはされていないが、列強とは不平等な国として国家主権が制限された。
手をこまねいていれば、他の有色人種地域のように植民地という境遇に落ちていってしまうかもしれない。

条約は結ばれ、名実共に開国したが、危うし日本!は変わりません。


4 開国か攘夷か

通商条約が結ばれて、開国派と攘夷派の対立がより明確になりました。
『みなさんは幕末日本の武士になりましょう。日本の未来のために考えてください。開国か攘夷か、どちらかの立場を選んで、その理由をノートに書きなさい。時間は3分です。』
A 開国派(条約を守る)
B 攘夷派(条約を破棄して攘夷を実行する)

*それぞれ数人に発表してもらいました。

【開国派】
・外国にあらがえば、植民地化し、「日本」という今までずっと守り抜いてきた国が無くなってしまうと思ったからです。無理に開国したくはないが、戦争になってたくさんの命がなくなるなら、平和的な解決策を求めないといけない。いきなり攻められてしまうかもしれない。時間をかけて力をつけていこう!!

・朝廷にいちいち許しを得ていたらその間に日本がつぶされてしまうかも知れない。このまま鎖国を続けていたら、外国からの文化も技術も入ってこないので、いい機会だから開国しよう。日本と西洋の軍事力や技術の差が激しいので、このまま鎖国を続けて、彼らを敵に回したらやられる。

【攘夷派】
・本は昔から天皇中心で政治を進めていたのに、天皇(朝廷)が許可していないのに、貿易しようという開港や条約を結んで、不平等関係になってしまった。このまま植民地にされてからでは遅い。条約のせいで国をのっとられるかもしれないから。

・アメリカに日本を侵食されるとアメリカの思うままになってしまう。関税だってアメリカの好きなようにさせたら、日本の産業がなくなってしまう。日本の文化をふまえた上で今の状態があるのだから、今の日本を発展させていくのが良いと思う。鎖国といってもオランダとのつきあいはあるのだから、このつながりを生かして、その間に国の意識を高めて強くなってから戦えばいいと思う。

・ズルズルのみこまれて行くのがA(開国)で、サムライの気持ちになったらB(攘夷)だと思ったからです。


5 弾圧と反撃

通商条約締結後から翌年(安政6年)にかけて、井伊直弼の主導する尊王攘夷派の弾圧が吹き荒れました。
罰せられた者は浪人(志士)から御三家の前藩主まで多数。
これを安政の大獄といいます。

・吉田松陰(長州藩)死刑
吉田松陰

前水戸藩主徳川斉昭は閉門蟄居
徳川斉昭

しかし、またその翌年には井伊直弼が水戸藩の脱藩浪士や薩摩藩士によって暗殺されてしまいます。

万延元年(1860年) 桜田門外の変

江戸城の桜田門の外で白昼堂々と幕府のトップリーダーが殺害されてしまいました。やったのは尊王攘夷派で、まさに昨年まで吹き荒れた安政の大獄の報復でした。
まさに幕府の政治的な権威が地に落ちた事件でした。

中学2年「黒船来航と開国」の感想文

国史のしおり  2 「ペリー来航と開国」         平成26.4.
────────────────────────────────────────
*ペリーが来航していろいろ言われ、それに立ち向かった阿部正弘はすごいと思った。日米和親条約が結ばれ、阿部正弘も若くして死んでしまい、このあと日本がどうなってしまうのか気になる。

*今回の授業で、日本が外国をどう思っていたのか、世界がどうなっていたのか分かりました。西洋の強さがすごい改めて実感しました。阿部正弘は短い生涯でしたがごいがんばっていたなと思いました。

*見たこともない黒船が来たとき、私がその場にいたらどうしていただろう。わからない。だけど、幕府は知っていたのなら、もっと対策をとれなかったのだろうか。でも阿部さんはすごい。幕府の権威を気にするより、国全体を気にした方がよいはず。今の日本があるのはこのときがんばったひとたちのおかげだと思う。

*ペリー来航や阿部正弘の話がとても面白くわくわくしました。日本とアメリカの技術の差が具体的に出てきたので、このころの世界と日本の差もだいたいわかってきました。


*ペリーが来てしまった。白旗は「負け」という意味だとわざわざ教えに来ました。私はアメリカってデリカシ-がないというか、なんか不快な気持です。阿部さん、おつかれさまです!

*今日はペリーが来て、私たちの先祖達ががんばっていたことがよくわかりました。多分、日本が植民地になっていたら、今私はここにいなかったかもしれません。ちゃんと勉強して立派になりたいと思いました。

*日本の開国は思っていたより、ずいぶん強引にやられたんだと思いました。やっぱり、武力が大事なんだと知りました。

*国は開きたくはなかった。けれど武力の差は目に見えているので、仕方のないことだったと感じていた。

*30代の若さでここまでできる、頑張れる人はすごいと思いました。今この時代でもそのような人材が増えてくれれば、日本はとても発展できると思いました。阿部正弘は尊敬すべき人物です。

*ヨーロッパの文明や技術は発達していくのに対し、日本は危機感は持っていたものの、対策としては不十分だったと思う。オランダとの貿易を発展させればよかったのだと思う。

*ペリーの強引さにイラつきました。しかし、アメリカはまだ5大国に入っていないのに驚きました。

*植民地が多くなった理由がよくわかりました。最後の最後まで粘った阿部正弘に驚きました。ロシアとイギリスが超大国で、日本は平和ぼけという中、日本はよく頑張ったと自分は思います。この弱肉強食の時代に、日本はどのような行動をとるか楽しみです。

*ペリーが白旗と手紙を日本に渡して、その手紙の内容がちょっとむかつきました。でも日本はそれだけ弱かったのかなと思いました。日本はそれにさからわずに条約を結んでえらいと思いました。

*アメリカの日本に対する交渉の姿勢がバカにしていると思いました。特に白旗のところが。しかし戦争をすればおそらく日本が負けていたので、阿部さんの考えはとてもよかったと思います。


*阿部正弘は若くして逝ってしまいました。もし私が阿部正弘の立場だったら・・・とてもつらい気持でした。親に泣きついて助けてもらうかもしれません。

*黒船というのは見た目もすごく強そうでこわいと思いました。白旗を持ってきて降伏させるというのは少しむかつきますが、日本は平和なので爆弾を落とされたらこまります。選択は間違っていませんが、やはりくやしい。くやしいと思います。

中学歴史2年1「黒船来航と開国」の授業

1 春休みをはさんだので復習から

・長い江戸時代の平和と豊かさが、西洋人によってやぶられようとしていた。

・西洋は三十年戦争と七年戦争、市民革命と産業革命の時代。
 宗教戦争では、「敵は悪魔だから女子供老人まで皆殺しにすること」「なるべく苦しませて殺すこと」が正義だった。
 戦争技術の発達し、スペイン・ポルトガルに替わって、英・蘭・仏・露などが世界を侵略し植民地を奪い合った。
アメリカ・カナダ・オーストラリアなどの現地人(黄色人)はほとんど皆殺しにされて、いまは西洋人(白人)の国になってしまったね。

・東南アジアの植民地と宗主国の小テストをやる。
 インド・・・・・・(イギリス)
 ビルマ・・・・・・(イギリス)
 ベトナム・・・・・(フランス)
 インドネシア・・・(オランダ)
 フィリピン・・・・(スペインやがてアメリカ)

『西洋は市民革命を経て、人間は皆自由で平等だ」という基本的人権の思想を編み出したのに、どうして世界中を奴隷のように支配しているのですか?』
・白人だけが「人間」で、アジア人やアフリカ人(黄色人や黒人)は「人間じゃない」という思想だからです。

・そして、最後に残った東アジアにも西洋列強はやってきた。日本近海にも外国船が出没、千島や樺太には押しあせんがやってくる。長崎ではイギリス軍艦が乱暴狼藉。千島は一時ロシアに取られ、イギリスに頼んで取り返してもらうなど・・・。

・清ではアヘン戦争が起きた。あの大国清がイギリスの軍艦にこてんぱんいやられ、香港が取られた。
 危うし日本!
ということでしたね。



2 黒船来航

嘉永6年(1853年)6月2日早朝、伊豆半島の海で漁をしていた漁民が突然の大波に驚いた。真っ黒い巨大な船が4隻が近づいてくる。2隻からはモクモクと煙が立っち、両脇の大きな水車が回転してしぶきを上げていた。
彼らは漁をとりやめて急いで下田の港に戻り役人に知らせた。
「これこれしかじか・・・黒船は江戸に向かっているようです」
役人はただちに馬にまたがって江戸城の老中に知らせようと街道をひた走った。

黒船


4隻の船は江戸湾「異国船打ち沈め線」の手前、浦賀の沖合で船を止めた。
新興国アメリカ海軍の東インド艦隊。司令官はペリー提督。
黒船は和戦のおよそ20倍の巨大さ、炸裂弾を発射できる大砲は全部で64門だった(江戸湾の砲台は全部で19門)。

当時幕府の老中首座は35歳の阿部正弘だった。

ペリーと航路
阿部正弘

ペリーは将軍に大統領フィルモアの国書を渡したいと要求した。
幕府は拒否し、長崎でなら受け取ってもよいと言った。
何度か押し問答を繰り返すと、ペリーは包みを出して「これを将軍に渡せ」と言った。

*袱紗で包んだ運動会応援団の白旗を見せて問う。
『包みの品は何だったでしょうか?』
・鉄砲。
・何かの設計図
・なにか脅しになる物
など。

*白旗を見せる。
『なぜ白旗を見せたのでしょうか?』
・降参しろということ。

幕府の役人や老中たちは首をかしげた。
『日本では白旗というのはどんな意味だったでしょうか?』
・源氏の旗です。

その通りですね。紅白合戦の白にその意味が残っています。このとき初めて日本人は西洋諸国にとっての白旗の意味(降参のしるし)を知りました。

*白旗についていた手紙を読む。
**********************************
もし日本が、われわれアメリカと貿易しないというなら、われわれは、
あなたがた日本のまちがいを何がなんでも正してやらなければならない。
力づくでもそうするつもりなのでこの場合は戦争になるだろう。
日本は、自分たちがまちがっていないというのなら、われわれと戦いたまえ。
戦争になれば、私たちアメリカは必ず勝つ。
日本が負けるのはまちがいないので、きっとそのときは
「降伏(こうふく)するので話し合いをさせて下さい」
とわれわれに言ってきたくなるにちがいない。
そのときのために、この2本の白旗を渡しておくのである。
降伏したくなったらこの白旗を、われわれの見えるところに立てるがいい
白旗は、降伏(こうふく)するという印なのだ。
旗があがれば、われわれアメリカは、ただちに大砲による攻撃をやめてやろう。
************************************

翌日、4隻の黒船は打ち沈め線を突破して江戸湾の奥(江戸城の真下)まで進み、いきなり空砲をぶっ放して脅した。
砲声は江戸の市街と城をゆるがした。

このように軍事力で脅して言うことを聞かせる野蛮な外交のことを「砲艦外交」といいます。
西洋の帝国主義とは、都合のいいときは「国際法」、都合が悪くなると「武力」という二本立て外交で、それは今も変わりません。

阿部正弘は国書を受け取り、返事は1年後にするとねばりました。
ペリーはそれに従って、日本から出て行きました。
フィルモアの国書には「日本は開国して通商せよ」と書いてありました。
*資料集で確認。



3 日米和親条約

阿部はただちに防衛を強化しました。江戸湾に多数の大砲(お台場)を設置し、各藩の防衛分担を決めるなど。
また、前例を破って、朝廷(天皇)や外様大名の意見も聞きました。
これは、阿部の尊王の思いであり、また日本の運命に関わるという思いでもあった。
しかし、これが結果的に幕府の権威を下げていった。
尊王思想は武士達の常識であり、幕府のサムライ達も同様だったので、この後朝廷の意志が政局を動かすようになっていきます。

しかし、結論が出ないまま時が動いて、ペリーは一年を待たず半年で戻ってきました。
翌年2月12日、ペリーの艦隊は最来航した。
こんどは約2倍、全7隻の大艦隊になってもどってきた。
そして、いきなり江戸湾深くまで入ってきて、空砲をぶっ放した。

阿部正弘はついに決断した。
ペリーを神奈川(横浜)に上陸させて条約を結ばせた。

嘉永7年(1854年)2月
日米和親条約締結

*資料集で内容を確認する。
・函館と下田の開港
・薪水食料などを売る。
・漂流民の保護など

ペリー神奈川上陸

*当時国際社会の主潮はグレートウォーとよばれる英露二超大国の抗争だった。10年前からロシアからも開国要求をつきつけられていた幕府は、まだ小国だったアメリカと先に結ぶことによって、いきなりグレートウォーに巻き込まれるのを避けたとも考えられる。

*同様の条約を、当時の大国、英・露・仏・蘭とも結んだ。
「アメリカとつきあって何でわしらとつきあわんのじゃい!?」

こうしてわが国は、およそ200年続いた鎖国体制を破って、開国に乗り出したと言えます。しかし、阿部正弘は最後の最後でも粘り腰を発揮しています。この条約は、フィルモアの要求にあった通商(貿易)については、継続審議として準備の時間を稼ごうとしたのです。

その後、阿部正弘は勝海舟や高島秋帆などを登用して海防の強化に努めました。また講武所(帝国陸軍の始め)や長崎海軍伝習所(帝国海軍の始め)、洋学所(東大の始め)などを創設し、西洋砲術の導入や大船建造の禁のゆるめるなど、国防の遅れを取り戻そうとがんばりました。
しかし、和親条約の3年後、安政4年(1857年)江戸で急死しました。享年39。



プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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