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改訂版5「高杉晋作の国づくりの大方針」

尊皇攘夷運動2高杉晋作の国づくりの大方針

1 高杉晋作の紹介
■高杉晋作の写真を貼る。
高杉晋作

【板書】1839年、長州藩の萩に生まれる。
【説明】黒船=15歳。19歳で松下村塾に入る。
    21歳で、松陰が死刑になる。→幕府に対する怒り。
    22歳で結婚(雅子)

2 晋作の国づくりの大方針
■24歳で清国に行く。
■資料「高杉晋作の清国行き」を配る。
*************************************************************

高杉晋作の見た清国

 高杉晋作は二十四歳のときに、長州藩の命令で、清国に行きました。日本より前に、西洋によって開国させられた清国の様子を見るためです。
 上海(シャンハイ)につくと、晋作はおどろきました。清国に来たはずなのにそこはまるで西洋の国のようだったからです。たくさんの西洋の船や軍艦が港をふさぐようにとまっています。港町には西洋風の建物がならび、屋根には西洋の国旗をなびかせています。
 さらに町の中を歩いてみるともっと驚くことが見られました。お金をはらわなければ通れない有料の橋があり、しかも、お金をはらっているのは清国人だけで、西洋人はただで通れるのです。アジア第一の大国である清国が、西洋の国に支配されたような国になってしまっていたのです。
 晋作は、日記にこう書いています。
「中国人はまるで西洋人のめしつかいのようだ。イギリス人やフランス人が道を歩いてくると、中国人ははじに寄って彼らに道をゆずっている。上海は中国の領土だが、これではイギリスやフランスの植民地になってしまったのと同じことだ。」
 こうして、晋作は日本の危機の本当の意味がわかったのです。

 清国のひさんな現実を見た晋作はこう考えました。
「世界は弱肉強食の時代になっている。西洋は軍事力にものをいわせて、アジアを支配している。まちがったつきあい方をすると西洋人の思うがままにされてしまうのだ。西洋のめしつかいのような清国のひさんな姿は、明日の日本の姿になりかねない。このままではいけない!」   
****************************************************
なるほどそうだなあと思うところに線を引きなさい。*線を引いたところを発表させる。列指名。
帰国した高杉晋作は、国づくりの二大方針を考えました。高杉が考えた方針の
(   )に言葉を入れなさい。
【板書】
①開国し、日本を(   )と対等につきあえる強い国にする。
②(    )を倒し、日本を(    )を中心に一つにまとまる国にする。

3 大方針の①を検討する

■①について、意見を発表させる。正解は「西洋」→用語「西洋列強」を教える。
①の方針の中で、当時の長州藩の中で、高杉晋作だけがもっていた考えがあり
ます。それは、どの部分でしょうか? 線を引きなさい。*線を引いたところを発表させる。
■正解は「開国し」の部分。長州藩は攘夷を主張していた。

説明と板書】1863年5月、下関戦争(長州藩VS英・米・仏・蘭)
 このとき、高杉晋作は西洋との戦いには反対だったが、こうなった以上や るだけのことはやろうと考え、藩主に新しい軍隊をつくる提案をしました。

 「奇兵隊」です。これは高杉晋作らしい新しい考えの軍隊でした。
  この奇兵隊にはどんな特徴があったと思いますか?
 ●ヒントは松下村塾です。*挙手指名で発表させる。
・身分に関わらず志があれば参加できた。

【板書】新しい軍隊「奇兵隊」
【説明】戦争の結果は完璧な敗戦。→写真:砲台を占領された長州藩(資料集P61)
   初めて、西洋軍隊の上陸をゆるした。
【説明】講和会議の長州藩代表は、高杉晋作。通訳は伊藤博文。彦島要求を日本書紀の神話を語り続けて断る。

4 大方針の②を検討する

次に、②の(  )に入った言葉を発表してください。*列指名で発表させる。
■正解は、前が「幕府」、後ろが「天皇(朝廷)」
多くの維新の志士たちは、①の大目標を実現するには、「天皇中心の国」にしなければならないと考えました。武士の時代が700年、江戸幕府が250年 続いてきたのに、武士達はどうしてこんな方針を立てたのでしょうか?*時間があれば、ノートに書かせて発表させる。

■日本が統一国家ではなく、諸藩に分裂した状態を変えるには、聖徳太子の大方針だった「天皇中心の国づくり」にもどるのがいちばんいい。鎌倉幕府・室町幕府・信長と秀吉・江戸幕府が、武力で朝廷を滅ぼさなかったことが生きてきた。考えてみると、日本は聖徳太子からずっと天皇を中心にやってきた。それをまたはっきりさせるということで、この方針は、日本中のすべての武士が賛成したのです(幕府も)。

しかし、方針②の中で、意見が一致しない部分があった。
 そこに線を引きなさい。*発表させ、正解に挙手させる。

■正解は「幕府を倒し」の部分。
【説明】1864年、第一次長州征伐。幕府軍・薩摩藩など15000人VS長州藩3000人。戦わずして降参。「幕府を倒す」方針をやめ幕府に恭順した。
 しかし高杉は長州藩を変えるために立ち上がった。
 24歳の高杉は奇兵隊に藩を変える戦いに立ち上がることをよびかけました。
 しかし、長州藩3000の正規軍と戦おうとする者はほとんどいなかった。
 集まった兵はわずか80人(伊藤博文の力士隊ともう一つ)。大砲わずか一台。
長州藩3000人 対 騎兵隊80人の戦いである。

晋作はどうしたでしょうか?
A:戦った B:やめた

*列指名で発表させる。
■正解はA.
高杉はわずか80人で決起した。騎兵隊で駆けつけたのは伊藤博文の力士隊のみ。
これを功山寺決起という。
萩に向かう途中で武士や農民が高すぎのために駆けつけ、だんだん増えていった。奇跡は起こった。決起は成功し、高杉たちは長州藩の政権を握った。
長州藩は高杉の指導の下に再び「大方針②」にもどった。
この戦いを通して新たなリーダー桂小五郎(木戸孝允)が登場する。
 その2年後、長州藩は幕府による第二次長州征伐に勝利した。
歴史を変えた勇気ある決起だった。

【板書】1867年、高杉晋作死す。29歳。
『幕府との戦いに勝って半年後でした。新しい時代は、1年後に迫っていました』


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感想文「不平等条約の締結」

感想文集:不平等条約の締結

★良い質問を紹介して、それに答えます。また、たいへんすぐれた感想を紹介します。内容は中学生レベルです。また、ご先祖たちの苦しみを自分のことのように考えた り心配したりできるのは、歴史を学ぶいちばん大切な学力です。学びましょう。

■イギリスは英、フランスは仏、ロシアは露で、オランダは蘭で、アメリカは「亜米利加」の中の米だと、初めて知りました。日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)や日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)など、むずしい言葉だと思いました。その中で、下田に領事館をつくるなどをきめました。(利根川)

★「条約」というのは、国と国の間で結ぶやくそく(法律)のことです。「和親」は仲良くすることですから、この条約は、日本とアメリカが「つきあい」をするやくそくをしたことになります。「修好」も国と国の交流をすることで、「通商」は貿易をすることですから、こちらの条約は、日本とアメリカが貿易を始めるやくそくをしたことになります。でも、この条約には、アメリカに有利で、日本に不利な不平等なやくそくがふくまれていました。これからは、日本は西洋の国々と上下関係のある交流を進めなくてはなりません。

■今日はむずかしくて、あんまりよくわからなかった。アメリカはなんで日本が開国してあげたのに、日本のほうが下の立場なのかと思った。「関税自主権」がイマイチ(イマニくらい)よくわからなかった。(山中)

★関税自主権(かんぜいじしゅけん)について、もう一度書きます。
 国と国が自由に貿易するのは両方が豊かになるためです。でも、貿易にはおそろしいところがあります。たとえばの話をしましょう。
 西洋は機械と工場で安いもめん糸ををつくります。日本やアジアの国は昔ながらの手作りなので、そんなにたくさん安くはつくれません。貿易をしなければ、日本は日本の中で必要なだけつくっていればよかったので、手作りでもよかったのですが、西洋は自分たちが使う量の何十倍も何百倍もつくってしまいますから、これを売ってもうけたいのです。
 大量生産した安い西洋のもめん糸が日本に大量に入ってきます。ふつう消費者は同じ品質なら安い方を買います。日本人が西洋のもめん糸ばかり買って、日本産のもめん糸を買わなくなったらどうでしょう。とうぜん、日本の糸をつくる産業も、糸の原料を作る農業も、糸を売る商業も、つぶれてしまいます。いろいろな輸入品で同じことが起こったら、たいへんなことになりますね。
もし対等な国どうしだったら、自分の国の産業を守るために、輸入したもめん糸に関税という税金をかけるのが西洋のルールです。そうすると、もとのねだんに関税ぶんのねだんをたして売るしかありません。そうしないともうけられないからです。そうやって、輸入品のねだんを国産品のねだんよりも高くしてしまうのです。そうすれば、国内の産業がほろびることはありません。また、税金は政府の収入にもなり、政治を進めるのにも役に立つから一石二鳥(いっせきにちょう)です。このように、西洋の国どうしは、おたがいに関税をかけあって、貿易をしながらも自国の産業を守れるようにしていたのです。
 でも、日本の幕府はアメリカの軍事力(ぐんじりょく)に負けて、条約を結びました。軍事力の強い方が自分の有利になるようにルールを作ったのです。だから、日本にとって不利な条約になり、日本は「関税を自主的に決める権利」をもてなかったのです。
ペリーのような大砲でおどしてやる外交を砲艦外交(ほうかんがいこう)といいます。世界は弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)の西洋のルールで動き始めています。力が対等なら、不利な条約にはならず、関税も自分の国で決めるという条約を結べたことでしょう。しかし、そうはなりませんでした。アジアの国々はみな、西洋の工業と軍事力にやぶれていき、植民地にされてしまったわけです。しかし、私たの先祖である武士たちは、このピンチに立ち向かっていきました。

■阿部正弘は開国した。でも戦いたいという気持ちは、私と同じだった。不平等条約はひどすぎる。それにアメリカと貿易し始めたら、イギリス、「オランダ、フランス、ロシアまで、「貿易しろ!!」と来てしまった。これからの日本がどうなるか心配だ。(守屋)

■不平等条約はずるい。昔の中国と日本みたいにまた上下関係が始まってしまった。西洋人が悪いことをしても、日本の裁判が信じられないなんて、そっちはやりたいほうだいじゃないかと思った。関税自主権が認められないのもくやしい。西洋の物がたくさん売れて、日本の物が売れなかったら、いまの会社みたいなのが商品が売れなくてとうさんしてしまうからだ。開国という選択(せんたく)がまちがっていたのだろうか?(阿久根)

■今日の授業で、やっぱり日本は不利な立場にいることがわかった。アジアの国々は、手も足も出なくて、植民地になったところも少なくない。日本もひとつ選択をまちがえたら、支配されてしまうだろう。このころ生きていた将軍、朝廷、武士たちは、さんざん頭をなやませただろう。日本はどっちを選択しても、有利な立場にはなれないと思う。それだけ、経済力も、戦力もなくなってしまったからだ。通商条約は、日本を馬鹿にしたような条約だと思った。「おまえたちは、力がないのだから、従え!」と言われているようで、くやしかった。でも、この時の日本は、何も抵抗できなかったのだと思う「日本」という国がほろびないために、なんとかこのピンチをのりこえてほしい。(高橋)

■日本は開国したが、開国しなければやられてしまったと思う(攻撃されて)。しかし、開国しても、けっきょく不平等条約を結んでしまった。本当にどうすればよかったのだろう。阿部正弘は大変だった。すごく大変なことに、にほんがぶつかっ他のだと思う。 ぼくは、幕府のせいでこうなってしまっているので、幕府をたおす運動を始めてみればいいと思う。(根本)

■日本が修好通商条約を結んだら、それは不平等条約だった。日本は関税を自分たちで決まられなくなってしまい、危ないじょうきょうです。それに外国人が犯罪をおかしても、その犯人の国の政府がさばくことになってしまいました。これは、あまりにもひどいと思います。これで支配されたら、日本どころか、世界中が支配されて、世界は西洋のもになっていたかもしれません。でも、いま日本があるから、何かが起こったのだなと思いました。(佐藤り)


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改訂版4 吉田松陰と松下村塾

尊皇攘夷運動①吉田松陰と松下村塾

★長州の爆発の原点となった人物。高杉晋作はこの人なくしてはありえない。松下村塾といくつかの歌は覚えさせよう。日本人になるための基礎基本だ。

1 吉田松陰の肖像
■吉田松陰の肖像を見せる
吉田松陰

【説明】・1830年、長州藩の下級武士の家に生まれた。
・5歳、藩の軍学の先生の家、吉田家の養子になる
・10歳、藩主の前で講義をする。
・19歳、藩校の教授「山鹿流兵学」になる。
・1853年(23歳)江戸で遊学中に、ペリーの黒船事件にあう。
┌────────────────────────────────────┐
│ 黒船が来たとき、長州藩には「江戸のことは幕府にまかせればいい。わが国には│
│ 責任がないことだ」という意見がありました。松陰はこの意見に強く反対した人│
│ です。どんな反論をしたのでしょう? │
└────────────────────────────────────┘
●「外国が日本を困らせているときは、幕府も諸藩もない。すべての武士が力を合わせて
  外国に立ち向かうべきである」

◆当時「わが国」といえば自分の藩のことだった。250年も外国を意識しないできた
 多くの武士にとって、自分が責任を持つべき国は藩だったのです。全国に藩は約300
 もありました。だから、多くの武士は自分の藩については責任感がありましたが、日本全体のことは幕府の責任だと考えていました。
吉田松陰は、武士ならばだれもが、日本全体に責任がある考えた最初の武士の一人でした。このような考えを持った武士のことを、「志士」といいます。(忠義をつくすべきは藩ではなく、幕府でもなく、天下=国家=天皇)

→板書【志士】
┌────────────────────────────────────┐
│ 翌年、2度目の黒船が来たとき、松陰は小舟に乗ってペリーの軍艦に近づきま│
│ した。午前2時頃のことです。松陰は何をしようとしたのでしょう? │
│    A:暗殺     B:抗議      C:留学 │
└────────────────────────────────────┘
●正解はC、日本とアメリカの軍事力の差はいかんともしがたい。自らアメリカに行って 研究し、その知識を持ち帰って、日本を西洋に立ち向かえる国にするために働こう。

┌─────────────────────────────────────┐
│ 失敗した24歳の松陰はどうしたでしょう? │
│  A 自首した     B 長崎に行った     C 長州藩の改革 │
└─────────────────────────────────────┘
●正解はA。いさぎよく自首して牢屋に入れられました。そのときつくった和歌です。
 →板書し大きな声で読む。
 【かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

┌───────────────────────────────────┐
│  江戸から長州に帰され、松陰は長州藩の牢屋に入りました。松陰が入ると、│
│  牢屋の中におもしろい変化が起きました。次のどれでしょう。 │
│    A:学問      B:労働     C:遊び │
└───────────────────────────────────┘
●正解はA。生きる希望を失っていた罪人たちに、道徳や学問を教え、得意なことの
 先生をやらせ、牢屋を生き生きした学校に変えてしまった。

■やがて、松陰は牢を出され家に帰されました。しかし、罪が許されたわけではない。
 謹慎といって家の外には出られない。そこで、松下村塾という塾を始めました。そして、 藩の武士だけでなく、足軽や町人や農民など、身分に関係なく学ぶ意欲があれば塾生に した。月謝も取らなかった。

┌───────────────────────────────────┐
│ 松陰はこの塾で自分のことを「A」とよび、塾生のことを「B」とよびまし│。
│ た。 AとBに言葉を入れなさい。 │
└───────────────────────────────────┘
●A=「ぼく」 B=「きみ」、身分で差別しないこの言い方は塾生のあいだに広まりました。男の子が自分を「僕」というのは、松蔭の松下村塾から始まったものです。

■この松下村塾から、新しい日本の国づくりを進めた英雄がたくさん育ちました。
┌───────────────────────────────────┐
│  松陰が松下村塾で教えているころ、ハリスとの通商条約の交渉が進められて│
│  ました。松陰はどちらの意見だったでしょうか? │
│      A:開国      B:攘夷 │
└───────────────────────────────────┘
●正解はAまたは後の「大攘夷」。松陰は攘夷を支持する朝廷に次のような意見を出しました。
「鎖国を守るという考えは、一時的には無事のように見えるが、一時しのぎのやり方で
 とうてい日本の今後を考える大方針とはいえない。国内でも自分の藩に閉じこもってい るのと全国を歩いているのでは、知識に大きな差が出る。ましてや、いまは世界が相手 になっている。日本のリーダーなら、世界をよく見て知識を広め、西洋とつき合っても あなどられないようにするべきだ」 →板書

┌────────────────────────────────────┐
│  松陰は幕府が決定した通商条約に、どんな意見を持ったでしょうか? │
│    A:賛成     B:中立     C:反対 │
└────────────────────────────────────┘
●正解はC。「いまのまま、条約を結べば、日本はアメリカの思うままだ。いずれ条約を 結ぶことは必要だが、それは日本の力を強くしてからにするべきだ。強いものにへつら い、まるで西洋の家来になったような態度で結ばれた条約には絶対に反対である」

■当時の長州藩全体の方針は「尊皇攘夷」でした。
┌────────────────────────────────────┐
│  通商条約反対=攘夷→幕府を倒して尊皇の国づくり

└────────────────────────────────────┘

■1859年(安政6年)、幕府は安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令する。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。
 獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残す。
 その冒頭に記された辞世は

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された

親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらむ

も辞世として知られている。 享年29歳
◆両方とも大きな声で読む。

■死の前に、高杉晋作に宛てた手紙(プリント)を読んで授業を終える。
*****************************
吉田松陰の手紙

高杉晋作君
君は質問した。「男子の死ぬべき所はどこか」と。
私も昨年の冬、投獄(とうごく)されて以来、考え続けてきた。
死は好(この)むべきものではないが、また憎(にく)むべきものでもない。
世の中には、身は生きていても、心は死んだのと同じという人がいる。
反対に、身はほろびても、たましいは生き続けている人もいる。
死んで、不朽(ふきゅう)(永遠にほろびない)のことが残せるみこみがあれば、いつ死んでもよい。
また、生きて大業(たいぎょう)(大きな仕事)をなしとげるみこみがあれば、
どこまでも生きる努力を続けなくてはいけない。
人間というものは、生死のことなど度外視(どがいし)(考えに入れないこと)して、いまじぶんがやるべきことをやるという心がまえが大切なのだ。
******************************


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改訂版3 不平等条約の締結

★砲艦外交の前で阿部正弘は条約の締結を選択した。日米和親条約である。開港して漂流民の救助などには応じたが通商関係は決めなかった。しかし、この条約で伊豆下田に領事として乗り込んで来たハリスとの交渉が続く。この条約に孝明天皇は反対し勅許は得られなかった。しかし大老井伊直弼は朝廷の勅許がないまま日米修好通商条約を結ぶ。この条約は日本を対等な主権国家とは認めない不平等条約だった。こうして幕末の動乱が始まる。

1 日米和親条約
■板書:一八五四年二月十三日 ペリーと7せきの黒船
 こんどは、七せきの黒船が江戸湾に入ってきた。幕府の返事を開きに来たのである。
 こんどは、いきなり江戸湾の奥まで入ってきて、空砲を打ち続けた。おどしだった。
■資料:黒船来航の図(台場の武士たちも描いたもの)、ペリー肖像、阿部正弘肖像
阿部正弘
ペリーと航路


*阿部正弘の対策を話す。
 ・江戸湾の防備、台場の建設、各藩の防衛分担など
┌─────────────────────────────────────────┐
│  いよいよ最後の決断をしなくてはなりません。今日は、阿部正弘を議長とする幕府の │
│  リーダーたちの意志決定会議に参加してもらいます。 │
│  次の、A、B、どちらかの立場を選び、その理由も書きなさい。 │
│   A:開国する    B:鎖国の法を守る(戦争もやむなし)。 │
└─────────────────────────────────────────┘
*5分間与え、ノートに書かせる。
 *真剣に討論させる。

■結論を教える。
【板書】◆一八五四年、日米和親条約を結ぶ(開国へ)
    ・長崎の他に下田と函館を開港する。
    ・まき・水・食糧などの補給
    ・下田に、アメリカの領事館を置く。
*オランダ、イギリス、ロシア、フランスとも。

◆一八五五年、条約調印の翌年に阿部正弘は死んだ。二十五歳の若さで江戸幕府の中心に立ち、ペリー来航のピンチに必死で取り組み、日本の運命を背負った大仕事のかたがつき、責任を果たして一年後だった。まだ三十四歳の若さだった。

2 不平等条約
■条約によって伊豆の下田にはアメリカ政府の領事館が置かれ、領事ハリスと幕府の間で交渉が持たれました。その結果、次のような条約が結ばれました。
井伊直弼
ハリス

【板書】一八五八年 日米通商条約 
◆横浜港、神戸港を開き西洋人が住む町を作る。日・米(アメリカ)が交流し、貿易を進める。
◎イギリス(日英)・フランス(日仏)・オランダ(日蘭)・ロシア(日露)とも同じ条約を結ぶ。
┌──────────────────────────────────────────┐
 │ この条約で、西洋諸国とつきあいが始まり、貿易が始められることになりました。 │
 │ みなさんは、これで安心と思うかも知れません。けれども、この条約によって日本の危機は │
 │ さらに深まりました。 │
│ それはなぜでしょうか、どんなピンチなのか予想してみましょう。 │
└──────────────────────────────────────────┘
■資料「不平等条約」
**********************************
不平等条約

徳川幕府が西洋列強と結んだ「修好通商条約」はたいへん不平等なものでした。(日米・日英・日仏・日蘭・日露)
 不平等とは次のことです。
 ②西洋人の治外法権(領事裁判権)をみとめる。
【①について】
 「関税」とは、貿易の輸入品にかける税金のことです。
 対等な関係の国どうしだったら、関税は自分の国の判断で自由にかけられます。それは、どの国にも、関税をかけないとつぶれてしまうような弱い産業があるからです。
 しかし、この条約では、日本には「関税を自主的に決める権利」が認められませんでした。
 西洋の安い値段の商品に負けて日本の産業がおとろえれば、貿易でもうけるどころか、国の力がおとろえていき、いつかは西洋に支配されてしまうかも知れません。

【②について】
開国すると、たくさんの西洋人が日本に入ってきます。なかには日本の法をおかす人もいます。外国人が日本で犯罪をおかしたとき、日本にはそのを裁判する権利がないのです。このように、西洋人には日本の法律をあてはめないという約束のことを「治外法権(領事裁判権)を認める」といいます。
*****************************
★この二つの不利な条件を日本にだけはあてはめたので、これらの通商条約を不平等条約とよびます。
 開国して貿易を始めた日本と西洋の強国とのつきあいは、大昔の中国と日本の関係と似たような国どうしの上下関係ができ、日本は西洋より低い(弱い)立場に置かれたのです。
この条約で、日本は欧米中心の力と力がぶつかりあう世界に国を開くことになりましたが、聖徳太子以来の国の独立が危うくなり、武士の国としての誇りも深く傷つきました。

■板書:不平等条約
┌───────────────┐
│ ①日本に関税自主権がない。
│ ②西洋人の治外法権をみとめる。│
└───────────────┘

■説明
 日本は西洋の植民地になったわけではありませんが、この条約で西洋列強との間に上下関係ができ、日本は半独立国という立場になってしまいました。
 日本中の武士たちの多くが、この条約には反対でした。戦わずして負けてしまったのと同じようなものだったからです。日本中の武士たちに、幕府の弱腰を批判する声があふれました。
日本は次の2つの意見に分裂してしまいました。

■A:開国派・・・条約を守り、新しい国づくりを進める。
B:攘夷派・・・条約をいったん白紙にもどして、攘夷を決行し、新しい国づくりを進める。

■国内の分裂は、西洋の思うつぼです。日本人同士が戦うようになれば、その戦いに西洋が入ってきて、日本が支配されてしまう可能性があるからです。
 条約によって、日本はますますピンチになってきました。次回から、このピンチに活躍した何人かの人物を取り上げます。



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改訂版2「西洋はなぜ開国をせまるのか」

西洋はなぜ日本に開国をせまるのか?
★西洋の世界侵略は15世紀の大航海時代から始まります。スペイン・ポルトガルとの対決はいわゆる「鎖国」で乗り切りました。こんどはその2回戦です。しかし、産業革命と市民革命で状況は一変していました。もうひといきで西洋列強は世界支配を完成するところまで来ていました。有色人種でまだ西洋の植民地になっていないのは日本とその周辺だけでした。彼らがやってきた意味を幕末の武士たちは知っていました。祖国の存亡がかかっていることを。
子供たちもそれを知らなければなりません。明治維新を理解するために。

1 清(中国)がイギリスに負けた
『前時に、ペリーがやってきて大砲で脅して開国を迫りました。早く結果を知りたいでしょうが、ここで、なぜ西洋列強(世界を支配する西洋の強国*白人)はわざわざ地球の裏側までやってきて、そんなむちゃくちゃなお節介をするのかを考えておきます。』
■アヘン戦争の絵を見せる。
アヘン戦争

┌──────────────────────────────────┐
│これはペリーの黒船が日本に来る10年前に起こったある事件の絵です。 │
│ 気づくことを発表しましょう。 │
└──────────────────────────────────┘
*発表させる。
・爆発、遠くに蒸気船、近くにジャンク船(中国人)、戦争、西洋と中国、
■板書:1840~1842 アヘン戦争(イギリス対清国)

『日本に大きなショックを与えたアヘン戦争とはどんな戦争だったのか、それを勉強しておきます』
■児童とやりとりしながら次のことを教える。
①戦争の原因・・・イギリスが清国に大量に麻薬(アヘン)を密輸したこと。
清国に麻薬中毒患者が増え、国内の銀がどんどんイギリスに出て行く。
②戦争の経過・・・愛国者林則徐はイギリス商人から、麻薬2万箱を没収して燃やした。
         イギリスは、軍艦16隻、兵隊14000人を送り、清国を攻撃した。
清国の皇帝は、戦うことをおそれて林則徐をクビにしたが、イギリス         は清国がこうさんするまで、攻撃をやめなかった。
③戦争の結果・・・南京条約:香港をとられた。5つの港を開き鎖国をやめさせられた。              賠償金。
フランスやアメリカも、中国に圧力をかけて同じような協約を結んだ。
■板書:清国は戦争に負けて開国した(イギリス・フランス・アメリカなど)。
    賠償金や領土をとられた。
『このように、そのころの西洋諸国の言う「貿易」は今私たちが考える、平和な商売のイメージとはだいぶ違いました。中国や日本は、そういう西洋人の危険を知っていたからこそ鎖国を続け平和な国を築いてきたのです。しかし、この時代になると、中国や日本を大砲でおどかしてでも、開国させ、無理矢理にでも貿易をさせようとしました。』
┌────────────────────────────────────┐
│ 西洋諸国は、どうしてこれほどまでに、世界中と貿易をしたがるようになって │
│ いたのでしょうか? │
└────────────────────────────────────┘
*意見を発表させる。
■板書をしながら、説明する。
■板書:産業革命・・・機械の発明→工場で大量生産
    「やすい原料を買って、大量につくり、世界中に売って、たくさんもうけて、国     を豊かにしたい!(ぜいたく病の始まり)」

2 西洋諸国はアジア・アメリカ・アフリカを征服してきた。
『5年生の時、日本は貿易をして豊かになってきたことを学びました』
┌───────────────────────────────────┐
│ 西洋諸国と貿易をした国は、アジアの国はみな豊かになったのだろうか? │
│ A 豊かになった   B 貧しくなった C 支配されてしまった │
└───────────────────────────────────┘
*人数分布をとり、意見を発表させる。
■資料「ヨーロッパ諸国のアジアの植民地」を見せ、説明文を読む。

********************************
19世紀の東南アジア
《注意》この地図は日清戦争後で、この頃台湾はまだ帰属不明です。

■植民地(しょくみんち)とは?
イギリス領(りょう)インドにはインド人が、フランス領インドシナにはベトナム人が、オランダ領東インドにはインドネシア人が、スペイン領フィリピンにはフィリピン人が住んでいた。国もあれば、王様もいた。
そこに西洋人が貿易をしに入ってきた。しかし、いろいろな理由で、さいごは国がのっとられてしまった(植民地)。インドはイギリスの植民地になったが、インド人がイギリス国民になったわけではない。ベトナム人がフランス国民になれたわけでもない。西洋人が大きな農場を経営し、原住民はそこで働くどれいのような立場になった。西洋人が支配者としてよい職業を独占して、原住民は貧しい職業にしかつけなくなった。西洋の文化は入ってきたが、それを学んだり、楽しんだりする立場にはなれなかった。他国に支配されるということは、長い伝統のある国を失い、歴史を失い、人としての誇(ほこ)りを失うことだった。
******************************

『植民地がどういう意味かわかりましたか? いま、東南アジアはすべて植民地になってしまいました。アジア諸国が西洋の植民地になったのは、いくつもの原因がありました』

■板書:貿易の競争に負けて植民地になる・・・・工業がない
    戦争に負けて植民地になる・・・・・・・強い武力がない
国がまとまっていない

3 まとめ:黒船が来たことの意味をたしかめる
■阿部正弘の写真を貼る。
『ペリーが来たとき、阿部正弘たちはアジアが支配されていることも、アヘン戦争のこともみな知っていました。しかし、250年の平和を築いてきた日本の生き方をすぐに変えることはとても難しいことでした。その阿部正弘は、ペリーがやってくる来年の春までになんとか結論を出さなければなりません。夜も寝られない日々が続きました。』
『前回の授業で、戦って鎖国を守ろうという人もいれば、開国して貿易をすすめようという人もいました。今日わかったことは、どちらの道をとってもも、西洋列強に支配される可能性があるということです。』
┌────────────────────────────────┐
│ もう一度ききます。みなさんが江戸時代の武士だったら、 │
│  阿部正弘にどんな助言をしますか? │
└────────────────────────────────┘
*発表させる。
『今から150年前、みなさんの5代前のご先祖は、まさに日本が滅びるかもしれないというたいへんな危機の時代を生きていました。次回は、二度目にやってきたペリーと阿部正弘の対決、そしてその後のお話です』


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改訂版1「黒船来航」

★ペリーが黒船に乗って江戸湾に乗り込み、大砲で脅して幕府に開国を迫ります。このように軍艦の大砲で要求を実現していく外交を砲艦外交と言います。江戸の長い平和が破られ、日本は存亡の危機を迎えます。幕末の武士たちとともに「悔しさ」を感じたい。

1 江戸湾に現れた黒船
■黒船来航の絵を黒板に貼り、「一八五三年七月八日午前四時」と板書する。
『午前4時頃、伊豆半島の漁師が見つけて番所に届けた。その後目撃情報が続き、幕府は江戸湾に向かっていると判断した』

これを見た当時の日本人は、大変驚いたそうです。
いったい、この船のどんなところに驚いたのでしょうか?


*発表させる。
 ・船の大きさ(和船の20倍)・黒い鉄の船・大砲 ・煙を上げて蒸気の力で進む

『黒船4隻は、夕方5時頃江戸湾の入り口にやってきて、浦賀沖に碇を降ろしました』
■地図で停泊した浦賀を示す。                          
■ペリーの絵を貼る。「ペリー、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官」を板書。
■アメリカはイギリスの植民地から独立した建国70年の若い国。原住民を殺戮しながら大陸を大西洋岸まで征服して、ついに太平洋に乗り出してきた。

2 砲艦外交                                       
【説明】
『長崎に行けと言うために黒船をたずねた幕府の役人に、ペリー側は、大統領から将軍にあてた手紙(国書)を、きちんとした幕府の代表者に渡したいと言った。幕府の役人は「国書は受け取れない。わが国の法は、異国とのつきあいはオランダとだけ、長崎で行うとしている」と断ったが、ペリー側は聞き入れません。押し問答をしていると、ペリーの副官は役人に言うことをきかせようとして、手紙付きのあるものを渡し「これを将軍に渡せ」と言いました。なんだと思いますか?』
*数人に発表させる。
■二本の白旗を見せる。

ペリー側は、なぜ白い旗を将軍に渡せと言ったのでしょうか?

*発表させる。
■資料「白旗を渡す理由」を読む。
*******************************
白旗を渡す理由
 ここ何年も、ヨーロッパの国々は日本の幕府に
「貿易をしましょう」
と言い続けてきたが、日本は
「私たちの国にはオランダとだけつき合うというきまりがある」と言って、これを受け入れようとしなかった。
 しかし、それは天の考えにそむくことであり、大きいなる罪なのである。
 だから、もし日本が、わたしたちアメリカと「貿易しない」というなら、われわれは、あなたがた日本のまちがいを、何がなんでも正してやらなければならない。
 力づくでもそうするつもりなのでこの場合は戦争になるだろう。日本は、自分たちがまちがっていないというのなら、われわれと戦いたまえ。
 戦争になれば、私たちアメリカは必ず勝つ。
 日本が負けるのはまちがいないので、きっとそのときは
「降伏(こうふく)するので話し合いをさせて下さい」
とわれわれに言ってきたくなるにちがいない。
 そのときのために、この二本の白旗を渡しておくのである。
 降伏したくなったらこの白旗を、われわれの見えるところに立てるがいい
 白旗は、降伏(こうふく)するという印なのだ。
 白旗があがれば、われわれアメリカは、ただちに大砲による攻撃をやめてやろう。
*******************************

・わが国の伝統の中では、白旗は源氏の旗であり降伏の意味はありません。このとき西洋が支配する国際社会では、白旗はこうふくのしるしであることを初めて知りました。
【説明】
 その後、七月十一日、艦隊は「うち沈め線」を突破して、江戸湾の奥に進んだ。そして、空砲を十数発発射した。砲声の雷鳴のようなのとどろきが、江戸の町をゆるがし、それは江戸城で会義を開いていた幕府の老中たちの耳にもとどいた。ついにいくさが始まると、江戸中がおおさわぎになった。家財道具を荷車に積んで、江戸を逃げ出す者も出た。

3 阿部正弘の決断
■老中阿部正弘の絵。「阿部正弘、老中首座、33歳、」を板書

阿部正広は、江戸城で対策会議を開いていました。みなさんはこの会議に出席していた誇り高い武士の一人です。阿部さんに意見を求められて、どう答えますか? どちらかを選び、理由も書きなさい。』
 A 法を守り、ペリーに会うべきではない(国書は受け取らない)。
 B 法を破り、ペリーに会うべきだ(国書を受け取る)。


*AとBの人数分布をとり、数名ずつ理由を発表させる。

■久里浜の会見の図を貼る。
『阿部正弘は、7月14日浦賀の近くの久里浜で、幕府は大統領の国書を受け取りました』

■大統領の国書を読む。
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アメリカ大統領から将軍にあてた国書

 私がペリーに命令して日本の将軍に伝えたかったのは、アメリカの目的は日本とアメリカがお互いに利益を得ることだということである。

 私たちアメリカではカリフォルニアから中国に行く船が多く、とくに日本の近くで捕鯨(クジラを取る仕事)をする船がたくさんある。この船が台風のために日本の岸に漂着してしまうことが起こる。もし、これからそんなことがあったときはいろいろと手助けしてほしい。

 また、あなたがた日本は、石炭や食料が豊富だ。じつは私たちアメリカの船は太平洋を渡るときたいへん多くの石炭を使う。アメリカから積み込む量だけでは足りない。ぜひ、アメリカの船を日本にとめることを許可してほしい。そして、石炭・食料・飲み水を売ってほしい。そして、アメリカの船が泊まっていい港を決めてもらいたい。

 私がペリーに命令し、強力な艦隊をあなたがた日本にさしむけた理由は、このように

①日本とアメリカの友好                     
②お互いの貿易など商売に関すること
③石炭と食料の補給
④漂着してしまったアメリカ人を助けること

などについてである。
**************************

■【板書】日本は開国して、アメリカとも貿易しろ。
『阿部正弘は、国書を受け取りましたが、幕府のなかでも意見が分かれていて、すぐには結論を出せません。そこでペリーに、1年後に返事をするからもう一度出直してほしいと頼みました。七月十七日、「来春、返事を開きにもう一度やってくる」と言い残して、ペリーの艦隊は江戸湾を去っていきました』



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感想文「なぜ西洋は開国を迫るのだろう」

島小学校時代の授業実践の記録です。
10年前くらいかな。もうちょっと前か。
6年生(12歳)がほんとうによく考えていると思います。
またそれぞれの考えが少しずつ違っているのも私の授業のいいところ(笑)だと思います。
ただし、全員に健康な愛国心というベースはできていますね。
できれば、全員分を読んでみてください。
ひょっとしたらこれはエリート小学校なんじゃないかと思えてきてしまいますよ。
(今日はちょっと謙虚さが足りません。反省!)
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感想文集「39 なぜ西洋の国はそんなに貿易をしたいのだろう」

■開国か戦争か。どっちを選んでも日本はあぶない。でも、どっちかを選ばなくてはいけない。しんちょうに選ばなくてはいけない。だって、その選択によって、日本の運命が決まるからだ。(池田)

■今回はアヘン戦争などについて勉強した。いきなり絵を見た。それはアヘン戦争の絵だった。清とイギリスの戦いだった。清が負けた。でも、麻薬を売るような国となら、戦争をしてもいいと思った。西洋と貿易した国が、支配されてしまったなんてびっくりした。(増見)

■いままでは、貿易はやってそんをすることはないと思ってきたけど、生産する力がちがえば、西洋は国を支配するまで追いこんでしまうんだなと思った。イギリスと清が貿易のことで戦争をして、西洋のおそろしさを知ったから、日本は開国した方がいいんではないかなと思った。(渡邉)

■貿易は、いままで貿易をした両方の国が豊かになるものだと思っていました。でも今回の授業で、貿易をしたアジアの国が貧しくなり、支配されてしまったことを初めて知りました。日本がアメリカとの貿易をなやむ理由がわかりました。(福田)

■ぼくは、なんでわざわざ地球の裏側まで行って、むりやりにでも貿易したいのか、最初はまったくわからなかった。でもアジアに商品を売って、最後はのっとってしまうなんてすごいと思った。(福永)

■まさか、大国の清がちっぽけな国のイギリスに戦争で負けるとは思わなかった。
イギリスが支配している国が半分ぐらいもあるのでおどろいた。蒸気の機械は、いまの機械の先祖なんだと思った。西洋の人間はとんでもない考えで貿易したり、アジアを支配したりしたんだと思った。白人(西洋人)がいちばんえらいと主張しているみたいだ。(浦)

■アジアの日本、中国、朝鮮以外の国はぜんぶ西洋の国に支配されていたなんて知らなかった。アメリカは強そうだけど、陸に上がれば大砲がないから弱いと思う。だから、戦うのもいいと思ったけど、陸に上がってこないかもしれないから、やめた方がいいと思った。でそんなにお金がほしいのかと思った。アジアはほとんどつぶされたけど、なんとかがんばって日本を守ってほしい。(阿久根)

■いま日本があるのは、五代前くらいのご先祖様たちががんばってくれたおかげだと私は思う。もしまちがった答えを出していたら、日本も支配されていただろう。イギリスはひどい国だと思った。清を貧しくさせ、自分らの国を豊かにし、ばいしょう金までとった。私はやりすぎだと思った。(守屋)

■西洋と戦うか、開国して貿易するかという問題で、開国すれば国はくずれずに、外国との貿易で豊かになれると思っていた。しかし、今日の勉強で、開国しても最後には支配されてしまう可能性が強くなった。どちらを選んでも支配されるのなら、戦って、少しでも支配される可能性を下げたいです。(斉藤ゆ)

■西洋はすごいもうけかたをするなと思った。原料を安く買って、機械で大量に作って、安いねだんで売る。せこいなと思った。それじゃ、ほかの国は支配されるのもわけないと思った。イギリスが麻薬を売りつけて中国を苦しめたのは、ひどいなと思った。日本はいったいどうなるのだろう。(川村)

■西洋の国々はいろいろな所を支配している。アジアにもとうとうやってきて、「アジアもせいふくしてやる」みたいなメッセージも、アヘン戦争にはあったのではないか。阿部正弘はとてもなやんだと思う。戦えば負ける。開国しても支配されるかもしれない。いままでの歴史の中で、いちばん頭をひねらなければいけない。(根本)

■西洋は自己中心的な国が多いなと思った。ここで日本が支配されていたら、どうなっていたのだろう。そんなに機械で大量生産して、材料はなくならないのかと思った。清のほうが人数が多いのに、イギリスが勝つというのは、すごく強いんだなと思った。昔のイギリスはすごくこわい国だったんだなと思った。(大北)

■西洋は「世界中と貿易してもっともうける」といっても、やり方がひどすぎると思う。日本が清のようにならないようにするには、開国しないで戦争した方がいいと思う。だまされて、麻薬で死者を出すよりはいい。あと、なぜ天皇や将軍が決めないで、老中首座の阿部正弘が決断するのかがわからない。(角田)【いまの総理大臣です】

■ぼくの前の考えはまちがっていた。貿易して損をすることは一つもないと思っていたけど、貿易しても支配されるかもしれないからだ。だからといって、貿易をせず、戦争になったら、日本は滅びてしまうかもしれない。でも、ぼくは何もせずに支配されるよりも、できるだけ戦ってみればいいと思う。(小野寺)

■最初の絵を見てイギリスが清に勝ったと聞いて、それじゃあ日本がアメリカにとられるのも時間の問題だと思った。貿易しても、戦ってもとられてしまうと思ったので戦うほうを選んだ。どうせとられるんだったら、いちかばちか戦った方がいい。(斎田)

■西洋と貿易すると支配されてしまう。しかし、戦っても負ける可能性が高いが、貿易して支配されるよりは、戦ったほうがいい。負けると決まったわけでもない。でも西洋はむりやりにでも支配するような感じがする。(佐藤)

■西洋はあまりにも欲張りすぎだ。自分たちの好き勝手にやって、アジアの国を支配して・・・。でも、もし貿易しなければ、外国の文化も取り入れず、江戸時代の自給自足の国を続けることになってしまう。こんどペリーが来たとき、私は「開国する」と宣言すると思う。もし戦うことになったら、日本は負けてしまうだろう。でも、開国を選択したのなら、何かやれることがあるだろう!(高橋)

■私は開国した方がいいと思う。国が貧しくなり、植民地にされるかもしれないが、それは日本があってのことだ。戦争をすれば、夢(対等につきあえる)もなくなってしまうからだ。戦争に負ければ、結局開国させられることになるからだ。(石原)

■イギリスはひどいと思った。アジアの国が支配されてしまった。日本の選択がひとつちがったら、日本という国がほかの国になるかもしれないと思った。(大野)



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朝日新聞について 2

朝日新聞はたんに虚報・誤報を流してきたメディアというだけではありません。
中国共産党や北朝鮮(韓国左翼)と協力して日本を攻撃するプロパガンダを展開してきたメディアなのです。
戦前は戦争をあおり続けて利益を上げ、戦後はGHQの占領政策と共産主義勢力の反日工作に協力して利益をあげてきました。
報道機関ではなくプロパガンダ組織だととらえたほうが、この新聞の一生は合理的に理解できると考えています。

明日は

明日は久しぶりにミキの会。
頼まれて「日本を好きになる・・・」という講座名でやってきたんですが、このところ主催者と私の意図がいまひとつかみ合っていません。
ホントは出雲神話をやる予定でしたが、昨晩無理を言って「拉致と慰安婦」を取り上げさせてもらうことにしました。
拉致問題は教室でやる授業ではなく、来月9月に起きることに国民として心の準備をしておこうという話。
慰安婦問題は教室では取り上げたことがないので、勉強してきたことを紹介するだけですが、この機会に改めて朝日新聞と反日日本人の大罪を知っていただきたいと思います。
いつも参加者は少ないのですが熱心に聞いていただけるのやりがいあります。
これから資料の準備。がんばろ。


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朝日新聞のこと

帰国して朝日新聞が慰安婦報道についての訂正記事(というか言い逃れ記事)を載せたことを知った。
藤岡信勝氏の産経新聞コメントによれば、次の3点だ。

1 慰安婦を強制連行したという吉田清治証言をウソだったと認め、関連記事を取り消した。

2 女性を戦時勤労動員した女子挺身隊と慰安婦を同一視した記事の誤りを認めた。

3 軍が組織的に人さらいのように連行した資料は見つかっていないと認めた。

これで慰安婦とは「戦地にも遊郭があった」というだけの話になった。

それなのに「帝国陸軍によって女性の尊厳と名誉が傷つけられた」という「本質」は変わらないと言っている。
売春婦を連れない軍隊が何をしたか?
満州やドイツに侵攻したソ連軍、ノルマンディーに上陸したアメリカ軍を見ればよい。
暴行・強姦の山である。

戦時にも平時にも慰安婦はいた。
いまも世界中にいる(その多くが韓国人だという)。
いまも世界中で「女性の人権と名誉は傷つけられている」。
なぜ朝日は昭和10年代の日本の軍についてだけそれを言うのだろうか?

どなたか朝日新聞のウソをすべて、洗いざらい暴いてほしい。

この訂正記事もウソだともう。
朝日新聞自体が日本をおとしめる話題なら何でもよかった確信犯だったのである。
南京事件の報道も裏付け取材なし、伝聞(創作?)の垂れ流しは、まったく同じだ。
ウソを書いて、正義と人権を振りかざし日本と日本人を断罪し続ける。
今回とまったく同じだ。
それですべてが合理的に説明できるだろう。

これがもし新聞だというなら、こんな全体主義的な新聞はつぶすべきだ。
支那や北朝鮮や韓国の新聞と変わらない。


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プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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