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改訂版16「陸奥宗光と領事裁判権の撤廃」


★領事裁判権(治外法権)の撤廃をめざした苦闘の歩みを学ぶ。陸奥宗光がその第一歩を達成した。陸奥の偉大さは教えるが、しかし、それはたんに一外交官の手柄ではなく、名に日本の官民一体の団結と努力が成し遂げたことであることを教えよう。ようやく、明治の目標{列強と対等につきあえる国}の半分が達成できた。後の半分は、戦争の実力を見せなければ達成できなかった。明治日本が置かれた過酷な運命を思いたい。

1 ノルマントン号事件

◆ビゴーの絵「ノルマントン号事件」を見せる
t02200147_0653043610769961073.jpg
┌───────────────────────────────┐
│ この絵を見て、疑問に思ったことをノートに書きなさい │
└───────────────────────────────┘
*発表させる。
◆板書:明治18年;ノルマントン号事件
◆事件の概要を説明する。
①1886年(明治18年)、ノルマントン号というイギリスの船が沈没した。
②横浜から神戸へ向かう途中、和歌山県沖で。
③救命ボートで助かったのはイギリス人だけ。日本人乗客23人は全員おぼれ死んだ。
┌────────────────────────────────────┐
│ 日本人を助けず、見殺しにした船長ドレイクは裁判にかけられました。 │
│ どんな判決が出たか予想してください。 │
│  A:無期懲役    B:懲役10年    C:無罪 │
└────────────────────────────────────┘
*発表させる。
◆無罪が正解です。「私は早くこのボートに乗れと言ったのに、日本人は英語がわからず、ボートに乗ろうとしなかったのだ」という言い訳を、裁判長が認めたためでした。
┌────────────────────────────────────┐
│ この裁判長に明治の日本国民はたいへん怒り、抗議しました。 │
│ みなさん、ご先祖様になったつもりで話してみてください。 │
└────────────────────────────────────┘
*発言させる。
┌────────────────────────────────────┐
│ その抗議が認められて、もう一度ドレイクは裁判にかけられ、3ヶ月の禁固刑、│
│ ただし、賠償金はなしとなりました。それにしても、23人を見殺しにした罪 │
│ としてはあまりにも軽すぎました。 │
│  どうしてこんな軽い刑罰ですんだのでしょう? │
└────────────────────────────────────┘
*発言させる。
◆板書:不平等条約①外人が日本で犯した犯罪は、日本の裁判所が裁けない。

◆このほかにも、
・少女が暴行されて無罪(東京)、
・衝突で船が沈められて74人が死んで、相手が悪いのに損害賠償1万ポンドを払わせられた(瀬戸内海)。
・外人に杖でなぐられて殺されても無罪(新潟)
などが起き、新聞報道で国民の多くが疑問と怒りを持つようになった。
政府も条約改正にいっそう取り組むようになった。

2 井上馨の欧化政策

◆絵「鹿鳴館のダンスパーティ」を見せる。
鹿鳴館

┌────────────────────────────────────┐
│ これは東京の鹿鳴館という建物で行われていたパーティの絵です。 │
│  井上馨が進めた「日本西洋化政策」で、条約改正を進めようと言うのです。 │
└────────────────────────────────────┘
◆板書:「鹿鳴館」・・・日本のリーダーが西洋人のように行動して仲よくなれば、
条約改正ができるだろう

◆この際策を進めた井上馨は次のような案で、条約改正を進め、各国も認めようとしました。①日本がつくる法律は外国に見せて承認を受ける
②日本の裁判所の裁判官の半分以上を外国人にし、英語で裁判する。
┌─────────────────────────┐
│ みなさんはこの案に賛成ですか、反対ですか? │
└─────────────────────────┘
*発言させ、理由を言わせる。
◆国民の反対にあい、条約改正は失敗する。これでは不平等条約よりももっと悪い。日本が外国にのっとられてしまったみたいだというわけです。

3 陸奥宗光の偉大な一歩

◆この条約改正をやりとげたのが、陸奥宗光です。写真を貼る。
陸奥宗光


◆プリント「陸奥宗光」を配り、読む。
*********************************

不平等条約の改正に成功した陸奥宗光

陸奥宗光は田辺藩(たなべはん)(和歌山県)の武士の家に生まれました。ペリーが来たときは十才の少年でした。十五才で家を出て、二十才で勝海舟の海軍繰練所(かいぐんそうれんじょ)に入り、海軍や西洋の法律を学びました。このとき、坂本龍馬と出会い、龍馬の海援隊(かいえんたい)(貿易会社)にも参加しました。陸奥宗光は一人で読書にふけることが多く、仲間とわいわいやるタイプではありませんでしたが、坂本龍馬だけは陸奥をたいへんかわいがり、
「海援隊にはすぐれた人物がたくさんいるが、自分の考えをしっかり持ち、独立してやっていけるのは、私と陸奥宗光だけだろう」と言っていました。
 龍馬が暗殺されたとき、陸奥は、日本を西洋と対等につき合える近代国家にするために、坂本さんのバトンを受けつごうと心にちかいました。
 陸奥宗光は、国会ができて新しい内閣の外務大臣(がいむだいじん)になり、不平等条約の改正に向けて努力をかさねました。それが、明治日本の最大の目標だったからです。
陸奥宗光はイギリスとの交渉(こうしょう)に目標をしぼり、ねばりづよく交渉していきました。イギリスは当時世界一の大国でしたから、イギリスが改正すれば、他の西洋列強(せいようれっきょう)も改正するはずだと考えたからです。
 また、陸奥の工夫は「条約はすぐに改正するが、完全に実施(じっし)するのは五年後にする」という交渉をして、相手を説得したことでした。
 陸奥宗光は国会で次のように演説しました。
「わが国はこれまで、開国して西洋から学び、発展してきました。貿易額(ぼうえきがく)は五倍になり、日本中に電線と鉄道がひかれ、海には大きな蒸気船(じょうきせん)がうかんでいます。軍隊も西洋にひけをとらないほどになりました。とくに、憲法と国会をつくり、重要な問題をこのように国民の代表が話し合ってすすめる国は、西洋以外では日本しかありません。この日本を、西洋の国々もおどろいて見ています。
 さて、国民の中には『外国人の国内の行動を制限して、日本人とふれあわないようにすべきだ』という意見がありますが、これはまちがいです。西洋人も日本の国内で自由に行動できるようにしてこそ、不平等条約の改正が前進するのです。」
 こうして、西洋人が日本のどこでも安全に自由に行動できるようにしたことによって、陸奥宗光はイギリスとの条約改正に成功しました。明治二十七年(一八九四年)のことです。他の西洋諸国もこれにならいました。
 陸奥宗光は、これからの外交で大事なのは、まず自国に誇(ほこ)りを持つこと、相手を恐れず勇気を持つこと、そして強い国の仲間入りをすることだと言っています。
*******************************

◆明治27年(1894年) 不平等条約の一部改正(治外法権の廃止)
*外国人の裁判も日本の裁判所ができるようになった。
◆しかし、完全に対等にはならなかった。
◆板書:次は、日本の関税を西洋が決めるという貿易の不平等をなくすことが目標だ!


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改訂版15「伊藤博文と大日本帝国憲法」

★大日本帝国憲法が日本人の正しい憲法だと教える。
真実、当時の国際社会でも最高の評価を得ている。
内容としても、現在のGHQが起草した占領憲法よりも絶対的にすばらしいものだ。
伊藤博文を主人公に、自分の考えを持ちながら学習させ、明治の先人の努力と愛国心に強く共感できるようにしたい。
この憲法でも国会が予算と法律を決める。今の憲法と同じだ。
政治というのは「法律+予算」なのだから選挙で選ばれた国会議員が政治を決めたのであり、これはまさに民主主義だ。大日本帝国憲法は「天皇主権」だという誤り(天皇独裁というイメージ)を正す。日本の憲法は君民共治が正しい。
また、教育勅語は憲法とセットだからここで教えよう。
情報量が多いので2時間かかるかもしれない。

1 近代政体とは
◆西洋列強の政治の仕組みには3種類ありました。
A 君主専制・・・皇帝(王)の独裁政治、ロシアなど
B 共和政治・・・王が初めからいない(アメリカ)、王を殺してしまった(フランス)
C: 立憲君主制・・・王が憲法に基づいて統治するが、実際の政治は選挙で選ばれた国会が決定権を持っている。イギリスなど
◆大久保・伊藤ら政府のリーダーたちも、板垣・大隈ら自由民権派も、Cの立憲君主制が日本の憲法だと考えていました。


2 日本の憲法をつくる

◆伊藤はイギリスに学ぼうとしましたが、イギリスには憲法典(書かれた憲法)がありません。そこで日本の実態に近いドイツに留学しました。ドイツは同じ立憲君主制ですが、イギリスよりも皇帝の力が強い政治の仕組みです。安定した政府が「富国強兵」の政治をぐんぐん進めなければならなかった日本の実態に近いからです。
そこで、シュタイン先生に学びました。

●資料「シュタイン先生の教え」を読む。
*******************************
シュタイン先生の教え
「伊藤さん、憲法というのは国のかたちを表すものです。私たちもイギリスの立憲政治に学んで憲法を作りましたが、丸写しにしたわけではありません。西洋に学ぶのもいいですが、日本には日本にふさわしい立憲政治があるはずです。どうか、古い歴史のある日本に誇りを持って、お国の歴史と伝統にもとづいたりっぱな憲法をつくってください」
*******************************

◆伊藤は感動して、この教えを憲法作りの大きな柱にしました。
伊藤は数人のグループで憲法草案を作りましたが、井上毅はとくに『古事記』や『日本書紀』から江戸時代の『大日本史』までに学び、西洋の考え方よりも日本の政治には優れた伝統があったことに気づき、それを憲法に生かしました。

●資料「日本の政治の伝統」を読む。
**********************************
日本の政治の伝統

1 古代からずっと、日本は天皇中心に国民が一つにまとまり、天皇の前では国民は平等だという考え方(一君万民という)があった。
2 国民(庶民)を大御宝(おおみたから)とよび、古代から江戸時代まで、日本の政治には「国民の幸福が政治の目的だ」という考え方があった。西洋の「人権」「国民のための政治」という民主主義の考え方が、日本には昔からあったことがわかる。
3 古代の朝廷の政治も、中世からの幕府の政治も、天皇や将軍の独裁政治ではなく、天皇の臣下である実力者たちが集まり、話し合って決めていた。 「議会政治」の伝統が日本には昔からあったことがわかる。
*************************************

◆伊藤や井上は、西洋列強が「近代」「近代的」と自慢していた政治を日本は昔からやってきたではないかという強い自信を持ち、この自信が憲法を単なる西洋のマネではないりっぱなものにしました。


3 グナイストの教え(安達弘先生の追試)

◆次に、伊藤はグナイスト先生に学びました。
●資料「グナイスト先生の教え」を読む。
**********************************
グナイスト先生の教え

「日本の憲法では、国会の力を弱くした方がいいでしょう。
法律を決めるのも予算を決めるのも内閣がやり、国会は話し合って参考になる意見を言えるだけということににするのです。
そうすれば、内閣が考えた政治をじゃまされないでぐんぐん進めることができますよ。
国会議員は国民の代表です。国民は国のためではなく自分たちの利益のために議員を選びますから、内閣がやろうとすること(たとえば増税とか)には必ず反対するものなのですよ」

***********************************

『みなさんが伊藤博文だったら、この教えに従いますか?』
A 従う。
B 従わない。

◆人数分布をとり、話し合わせる。
◆伊藤はBを選びました。
「予算も法律も国会(国民の代表)が話し合って決めること」にした。こうして、日本の憲法はドイツよりもイギリスに近い進歩的なものになりました。

伊藤は、イギリスにできることは日本にもできると証明しようとしたといわれています。
ただし、総理大臣を決めるのは天皇(元老たちが決めて天皇が任命する)にして、国民が立憲政治に慣れてきたら少しずつ、イギリス式に総理大臣も選挙で決める仕組みしていこうと考えました。これは大正時代に実現します。

 伊藤は、日本人はきっと利己主義だけでは動かない、国のために考えてふさわしい国会議員を選べるようになる、と信じていたのでしょう。


4 国民の権利論争

◆ついに伊藤たちの書いた憲法案がリーダーたちによって検討される段階まで来ました。そこでは有名な臣民の権利論争が行われました。
●資料「森有礼と伊藤博文の臣民の権利論争」を読む。
**********************************
森有礼と伊藤博文の権利論争

森「伊藤さん・この案には『臣民(国民)の権利と義務』が決められているが、国民が天皇と国に対して責任があるのは当然だが、権利などはないほうがいいんじやないですか!」

伊藤「いやそうではない。憲法に国民の権利を定めないようでは、とうてい世界の一流国にはなれません。
憲法をつくるというのは、君主の権力を法律で制限し、国民の権利を守るためなのです。
それが、憲法によって進める政治なのです。
私たちは、日本の伝統に立って天皇中心の憲法を作りますが、それは、天皇陛下を中心に国民がまとまっていこうということです。
憲法から『臣民(国民)の権利と義務』とってしまつたら、憲法が国民を守ることはできなくなります。
また、わが国は大昔から国民を大御宝(おおみたから)とよび、政治は国民の安心のために行うのだという伝統があります。
国民の権利を定めることは、わが国古来の伝統(すなわち日本の憲法)を守ることなのです!」

**************************************

◆伊藤のつくった憲法が西洋列強にも賞賛された模範的な憲法になったわけが、この論争からもよくわかるでしょう。実際は、西洋諸国が「日本はこんなに権利を認めていいのか?」と驚いたほどなのです。


4 大日本帝国憲法

◆こうして藩閥政府は国民との約束を守り、日本にアジア初の立憲政治を打ち立てたのです。
◆板書
 明治22年(1889) 2月11日 大日本帝国憲法発布(この日は紀元節です!)
   23年   7月1日 第一回衆議院議員総選挙
    11月29日 国会(帝国議会)
*アジア初の立憲政治が確立した。

◆大日本帝国憲法については、第一条を黒板に書き、ノートに写させ、暗唱させる。

第一条 大日本帝国憲法は万世一系の天皇これを統治す。

◆これは、大昔から続いてきた「天皇中心の国」を守るという、日本国のかたちを明確に示した条文です。
◆一般にこれは「天皇主権」を定めたものとして、まるで「天皇独裁政治」のように教えられていますが、それは悪意あるまちがいです。この点を明らかにする発問をします。

『大日本帝国憲法の下で、明治・大正・昭和の天皇陛下が内閣・議会・裁判所の決めたことを変えさせたことは何回会ったでしょうか?』

A 一度もなかった、   B 数回あった    C 数十回あった。

◆正解はA.

 「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」とあるように、天皇陛下は国会や政府が決めたことを国家の決定という権威を与える(判を押す)役割でした。その意味では、平時の時は現在の地位とほとんど変わりません。
ただし、現憲法は「有事(非常時)」の権力規定がまったくない欠陥憲法ですが、この憲法は、有事には天皇が非常大権を行使できることを定めています。だからこそ第一条の「統治す(ほんとうは「しらす」)」が立憲君主制の肝なのです。

◆次のことも教えたい。

*国民の権利・・・居住・移転の自由、職業の自由、裁判に訴える権利、宗教の自由、言論の自由、集会の自由
   参政権(25歳以上の男子:税金15円以上)
*国民の義務・・・納税、兵役の義務


5 明治憲法の評価と教育勅語

◆自由民権派の評価を教える

板垣退助「自由党史」より

「一たび憲法が発布されると、国中挙げてまるで戦争に勝って凱旋するような気分になり、皆、永年の望みがついにかなったことを喜び、お互いに慶賀しあい、一晩で藩閥政府対民権運動の抗争を忘れたようなありさまだった」

「前の日まで死を賭して争ってきた人々も、すべてを忘れて、和気真にあいあいたるものがあった」

◆世界の評価を教える 
イギリス「タイムズ」紙記事
「アジア人である日本で、議会と憲法がつくられたのは何か夢のような話だ。これは偉大な一歩である」
ハーバード・スペンサー(イギリス人)
「日本の憲法は、西洋に学びながら、たんなるまねでなく、日本の古くからの伝統も忘れずに、少しずつ進歩していこうとしている。たいへんりっぱなことである」

『さて、憲法と議会ができました。約束通り、西洋諸国は、不平等条約を平等に改正してくれただろうか?』

A:改正してくれた
B:改正してくれなかった

◆残念ながら改正してはくれなかった。ビスマルクの言うとおりである。
***********************************
ビスマルクの言葉

「ついこのいあだまで、ドイツは、たくさんの小さな国に分かれた弱々しい国でした。だから、フランスやイギリスにばかにされ、おどかされていました。表では礼儀正しく国際法に従うように見せて、世界を動かしているのは、実は弱肉強食というルールなのです」
「彼らは、自分に有利なときは国際法や条約を持ち出しますが、いったん不利だとわかれば、法律を無視して、軍事力にたよるのです。そして強い国が有利になるルールをつくります。だから、小国が独立を守るためには国が一つに団結し、強い軍隊を持つしかないのです。」

◆帝国議会が開かれるとき、天皇陛下から「教育に関する勅語」が出された。
立憲主義は国民の道徳によって支えられるという考えの下に、憲法と同時に明治天皇のお言葉として発表された。書いたのは井上毅(こわし)
●日本人の背骨をつくったと言われる教育勅語の現代語訳を読み、若干の解説をして授業を終える。
●プリント「教育勅語」
**************************************
【資料】「現代語訳:教育勅語」

 君主として私の考えを述べる。

 私のご先祖は、遠い昔にこの国を建国し、深く厚い徳をうち立ててきた。わが国民もまた、皇室には忠義つくし、両親には孝行をつくして、心を一つによい行いを積み重ねてきた。これはわが国の優れた美質であり、わが国の教育がめざすものはまさにここにある。

 したがって、あなた方国民は次のような徳を身につけなければならない。
 父母には孝行すること。兄弟にはやさしくすること。夫婦は仲良くすること。友だちは互いに信じ合うこと。
 慎み深く自分の心を引き締め、分けへだてなく人に愛情をそそぐこと。
 学問を修め、様々な技能を身につけ、知能を啓発して、立派な人格となること。
 すすんで公のためにつくし、世の努めを果たすこと。必ず憲法を守り、国の法律に従うこと。もし国家に危急の時があれば、正義にかなった勇気をふるいおこして、国のためにつくすこと。そして、天地に極まりのない天皇の国が発展することを助け支えること。

 このようなことは、ただ私に忠実な国民として価値があるだけでなく、それは、あなた方自身のご先祖が残した美風に感謝し、それをたたえることにもなるのだ。

 この道は、私のご先祖たちが残した教えであり、私の子孫と国民すべてが共に守っていくべき教えであり、昔から今に至るまで誤りのない教えである。この教えは、我が国ばかりでなく、諸外国においても十分道理にかなう教えとして通用するものである。

 私は、あなた方国民と共に、心をこめてこれらの教えを守り、皆がその徳を一つにすることを願うものである。

      明治二十三年年十月三十日    御名御璽

 (教育勅語をもとに作成)



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改訂版14「藩閥政府と自由民権運動」

★自由民権運動は人権派で善、藩閥政府は反動的で悪、という教え方がふつうです。これは、日本国憲法を善とするために、大日本帝国憲法を悪い憲法と教えなければならないからです。しかし真実はちがいます。目標は同じ、対立は急ぐかゆっくりかの違いに過ぎませんでした。人権派と藩閥政府の国家間はまったく同じだったといっていいと思います。
日本共和国がいいという主張はありませんでした。子供には真実を教えましょう。


1 自由民権運動

◆プリント「自由民権運動」を読む
****************************
 自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)

 西南戦争が終わったとき、明治日本の偉大な三人のリーダーが、三人とも死んでしまいました。
 大久保利通(おおくぼとしみち)(薩摩(さつま))、西郷隆盛(さいごうたかもり)(薩摩)、木戸孝允(きどたかよし)(長州)の三人です。
 その後を引き受けたのが、伊藤博文(いとうひろふみ)(長州)です。

 伊藤は大久保利通の意志をひきついで「富国強兵(ふこくきょうへい)」の政治を進めました。明治日本の大目標をなしとげるには、これ以外に進むべき道はありませんでした。西郷さんなきあと、この方針に反対する人はもう一人もいませんでした。

 しかし、ここに新しい意見が出てきました。板垣退助(いたがきたいすけ)(土佐藩(とさはん))や大隈重信(おおくましげのぶ)(佐賀藩(さがはん))たちが、政府に提案した意見です。彼らはこう言いました。
「明治政府のリーダーが、いつまでも長州藩と薩摩藩の出身者だけ(藩閥政府(はんばつせいふ))なのはおかしい。西洋と同じように、国民の選挙(せんきょ)によってリーダーを選ぶべきである。」

この意見を広めていった運動を、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)といいます。それは、今の日本と同じような「民主主義(みんしゅしゅぎ)」の考え方の第一歩でした。
リーダーを選挙で選ぶようにするためには、次のことが必要でした。

①憲法(国の形や政治の進め方を決めた法律・・・国の基本になる法律)
②議会(国会・・・選挙で選ばれた議員が話し合って、法律や税金の使い方を決める)

┌────────────────────────────────┐
│■明治政府のトップだった伊藤博文は、この意見に賛成だったでしょう│
│ か? 反対だったでしょうか? │
│    A 賛成     B 反対 │
└────────────────────────────────┘
********************************

【板書】
 タイトル「自由民権運動・・・民主主義の第一歩」
・国のリーダーは選挙で選べ→憲法と国会(議会)をつくる
 写真①「板垣退助」写真②「大隈重信」写真③「伊藤博文」

『AかBを選びなさい』

・人数分布を板書し、理由を言わせる。
◆伊藤博文はもちろん賛成でした。五箇条のご誓文に「広く会議を起こし万機公論に決すべし」とあるとおりです。
◆国家目標である不平等条約改正にとっても、「憲法と議会」は日本が平等条約を結ぶための条件とされていた。これは既習事項なので生かせるといい。
◆大久保利通は「政体に関する建白書」で、君主専制、共和制、君民共治の三つがあるが、日本の伝統には君民共治(立憲君主制)が最もふさわしいと書いている。

2 藩閥政府と自由民権派の対立点

『政府も自由民権派と同じで、憲法と議会をつくりたいのなら、何が対立点だったのでしょうか?』
◆マークしながら、プリント「自由民権派の意見と政府側の意見」を読ませる。
*******************************
┌───────────────────────────────────┐
A 【「自由民権運動」側の意見】 板垣退助・大隈重信
│  急いでやるべきだ。このままでは薩摩と長州出身の一部の者の独裁政治(どくさいせいじ)が│
│ 続き国民の元気がおとろえてしまうだろう。四民平等(しみんびょうどう)ではなくなってしまう│
│ からだ。不公平なリーダーの決め方は、ぜったいによくない。 │
│  だから、国会(こっかい)を開いて、国民が選挙(せんきょ)で代表を選び、その代表が話し合いに │
│ よって政治を進めるべきなのである。 │
│  また、西洋列強(せいようれっきょう)は不平等条約(ふびょうどうじょうやく)の第一の理由に「憲法(けんぽう)がなく国    会もない」│
│ ことをあげている。日本を、西洋と対等(たいとう)な国にするためにも、一日も早く│
│ やるべきである。 │
└──────────────────────────────────────────────┐
B 【政府側の意見】 伊藤博文

│  国のリーダーを選挙で選ぶべきだという考えは、政府も賛成だ。 │
│ しかし、今すぐそれをやるのは、たいへん危険(きけん)である。急ぐべきなのは、│
│ 富国強兵の政治であり、のんびり話し合って政治を進めるよゆうは、今の │
│ わが国にはないのである。 │
│  また、国民はこれまで何百年も、武士の政治にだまって従(したが)ってきたので、│
│ 政治がやるべき事がよくわかっていない。もしまちがったリーダーが選ばれた│
│ ら、日本の独立(どくりつ)もあぶなくなる。国民の教育を進めて、国民が国や政治につい│
│ て理解できるようになってから、選挙を行うべきなのである。 │
└───────────────────────────────────┘
『対立点は、今すぐやるか、時間をかけてやるか、だったことがわかりました。 あなたが当時の国民だったら、どちらの意見に賛成しますか。
 AかBを選び、その理由をノートに書きなさい』

◆人数分布をとり、話し合わせる。


3 国会開設を約束する

『こうした議論の結果、政府は9年後に議会政治を始める約束をしました』
◆明治天皇の写真を貼る
板書:明治天皇の約束・・・明治14年(1881)
    「9年後の、明治23年に選挙を行い、国会を開きます」

◆プリント「国会開設の勅諭」を読む。
******************************
国会開設の勅諭

 私は平安時代からゆるんでいた天皇の力をふるいおこし、国を一つにまとめると共に、立憲政治を進めようと考えてきました。
 3年前に府県会(地方議会のこと)を開いて選挙を始めたのも、立憲政治の基礎をつくろうとしたからです。
 しかし、国の政治の仕組みをつくる仕事はそうかんたんにできるものではありません。
 今から9年間、政府も民間もしっかりと準備を進めるようにしなさい。
 そして、9年後には、憲法を作り、選挙を行い、国会を開くなど、これまで目標としてきたことを必ず実現することを約束します。
************************************

『自由民権派はどうしたでしょうか?』

A:いますぐやれと、さらに反対運動を進めた。
B:約束に賛成し、それにしたがった。

◆大隈も板垣もっこの約束を喜んだ。自分たちも憲法案を作ったり、政党を結成したり、その日までに準備することがあったからだ。
◆自由民権派全体としてはBだったが、一部の過激派は暴力的な事件を起こした。(秩父事件など)
◆これは板垣退助『自由党史』から。
「自由民権運動の人々も、まるで雷にでも打たれたように言葉を失い、10年後には理想が実現することを喜んだ。そして、政党を作り、選挙のための準備を始めた」

4 政党ができた

板書:板垣退助「自由党」、大隈重信「立憲改進党」
   伊藤博文・・・・明治15年、憲法の勉強をするためにドイツに行った。

『官軍と幕府軍の目標が同じだったように、藩閥政府と自由民権運動の目標も一つでした。彼らは戦いながらも、しっかり協力して日本の次のステップを目指したのです。明治の日本人はっこのように明治天皇の下、しっかり団結していたことをわすれてはなりません。こうして政府と国民は、アジア初の立憲政治の実現に向けて準備を進めていきました』


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中学「日露戦争後の日本の目標を考える」

★教科書とは離れて、明治の目標達成した日本はどんな新しい目標を持つべきか。
それを生徒に考えてもらい、話し合っててみる授業をやりました。
これは以前ご批判を受けた授業ですが、わたしはやはりこれをどうしてもやりたかった。
完成した近代日本は列強がルールを作った国際社会でどう生きていけばよいのかという難問である。


1 列強と対等につきあえるようになった日本

・これまでの授業を振り返り、日本の現状を整理した。

ポイントは、
①列強との不平等関係はなくなり、日本は列強の一員となった。
②軍事的にも世界第2位の超大国を破り、帝国陸海軍にちょっかいを出せる国はなくなった。
③列強と同じように、台湾と朝鮮半島を領土とした。
*日本は植民地ではなく、支配する側に立っている。

しかし、日本はこれまで列強に奴隷化されたアジア人や黒人に「独立への希望」を与えた国だった。努力すればできると。
インド・インドネシア・ベトナム・フィリピンなどからは独立運動家が留学してきて、日本の援助を期待する。

2 日本の進路を考えよう

 みなさんはこの日本生リーダーとなって、日露戦争後の日本の進路を考えてください。
 いつものようにのーとにその理由を書きます。

選択肢は2つに単純化します。

A 帝国主義列強の一員として、日英同盟を基本として友好を保ちながら生きていく。
B 植民地アジアの独立運動を助け、国際社会における人種平等の実現をめざして生きていく。

*2クラスでやり、結果は、
 A:20名、
 B:34名、でした。

3 主張を発表する

A 自分が決断を迫られたらきっとBを選んじゃいそうだけど、ここはぐっと冷静になってAです。
 せっかく列強と対等な実力を得たのに、アジアの独立運動を援助したら、そこを支配している列強は必ず日本に侵略してくる。前列強を相手に戦ったら日本は負けます。

A Bにしたら西洋列強すべてを敵に回してしまい、孤立してします。どんなにロシアに勝っても英露仏米を一気に相手にはできない。帝国主義の立場を貫いても、自分の支配地はやつらとちがって近代化を進める。そうすれば、さらに強くなって、いずれはBの可能性も出てくる。

A まず自分たちがもっと強くなってからアジアを助けるべきだと思います。自分のこともままならない状態で、他国人の心配をしてはいられません。

A 理由はせっかく築き上げたこの地位が落ちてしまうし、同じ有色人種とはいえ別の国だから、努力して上り詰めた日本を見習って、亜細亜もアフリカも自力で支配から抜け出すべきだと思った。これから独立戦争があっても、有色人種側についていたら白人を敵に回すことになる。白人とはこれからも対等につきあっていくべきだと思った。

B 日本は不平等条約を改正して、有色人種で日本だけが列強になった。だから、有色人種の立場がわかるのは日本史かない。だから日本にはBをやる指名がある。

B日本が帝国主義列強に入ってしまったら、今まで支配から逃れてここまでやってきたのに、外道にやられたことを同じ有色人種にやり返すことになってしまう。日本人と同じ立場だった人たちを助けるのは日本人だったら絶対だと思います。日本人の心を変えちゃダメです。

B 日本は自分たちの国を支配され、下に見られるのがイヤで、ここまで自力で這い上がってきたから権力を得た。今こそ、世界に平等を教えたら良いと思う。Aではその先の世界は何も変わらない。世界の人種差別を変えることこそ日本の新しい目標だと思う。

B 日本はアジアの独立を目指すべきです。奴隷をあたりまえに思っている白人西洋列強と同じ道に進むのは、西郷さんも言っていましたがおかしいです。日本は相当な努力をしてここまで来たけれど、他の国を助けてあげないと、列強と対等になったとは言えないと思います。日本だからこそ、アジアの人々の苦しみをわかってあげることができます。独立を目指すアジア民族を支えるのが、新しい日本の指名だと思いました。西洋と一緒になってはダメだと思いました。

B 私はBに賛成です。なぜなら、列強の仲間入りをして、全世界を列強が支配したら、今度は列強同士の戦いが始まってしまいます。そのとき最初にたたかれるのは日本です。日本は黄色人種だから、いくらがんばっても結局はなめられると思うからです。もしそうなるなら、はじめからみんなで独立を目指した方がいい。

B 私はAのほうが立場が固められるし、お金とかだってsれほどこまらないと思うけど、白人のように植民地をひどく扱うことはとても日本にはできないことだと思うので、Bにしました。Bはいまの韓国みたいに恩を仇で返さあれるようなことがあるかもしれないけど、アジアの人々を助けること、世界の平等と平和を望むことは、日本人の大和魂だと思いました。

★なかなか濃厚な話し合いになりました。よく考えています。
世界の大国になった日本が、国際社会にある人種差別の中で、きわめてアンビバレントな立場に立たされていることが、生徒たちにはなんとなくですが、理解できました。

第一次世界大戦から大東亜戦争までこの両義的な立場が日本を縛りました。
これは頭が狂いそうなほど非常に困難な立場ですね。
しかし、日本はここで生き抜かなければなりません。
まさにそれが世界史的宿命でした。

台湾・朝鮮を徹底的に収奪せず、国民として認めて近代化を進めたことが、まずそのあらわれでした。

しかし自ら努力しないアジア人の中には日本を裏切り者呼ばわりする者も出てきます。

インドやベトナムの闘士が日本行きますが、もちろん政府は彼らを表立って援助することはできません。列強の政府から逮捕・強制送還を求めてくるからです。
彼らを助けたのは民間の言論人やアジア解放運動家たちでした。

日本の中に、さまざまな分裂が現れてきます。
次回は第一次世界大戦を見てみましょう。


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改訂版9「明治新政府の国づくりの大方針」

★明治日本の国づくりの大目標を確認し、そこに到達するための政策を考えます。ここをしっかり自発的に考えておけば、日露戦争と不平等条約の完全改正までは、一つながりの大きな歩みとして理解できます。抽象的な平和主義や人権思想などで、先人の死にものぐるいの努力と苦闘の歩みを汚してはなりません。史実をありのままに受け止め、先人の歩みに共感していきたいと思います。また、聖徳太子の政策との1000年を超えたつながりに気づかせます。当然のことですが子供はたいへん感動します!


1 明治の国づくりの大方針
『すべてはペリーから始まりました。藩をこえて国を思う志士たちは、徳川幕府では日本はもたないと考え、15年の混乱を経て、明治新政府をつくりました。でも、この新政府はまだまだ弱く心細い赤ちゃんの政府です。これから、しっかりと国づくりの目標を立てて、それをめざす政治を着実に進める必要があります。それは新しい日本をつくる大仕事です。そのためには、聖徳太子がつくったような国づくりの設計図、大方針が必要です。いいかげんなことをしていたら、江戸幕府よりもダメな政府になってしまうでしょう。そう考えた多くのリーダーが「国づくりの大方針」を考えました。それを考えた人を二人紹介します』

■木戸孝允と坂本龍馬の絵をはる。

今日はこの2人が考えた「国づくりの大方針(政策)」に挑戦します


2 まず「国づくりの目標」を確認する
みなさんは明治維新を成し遂げた維新の志士たちです。まず始めに、みんなで「国づくりの目標」を考えましょう。
 キーワードは「西洋列強」です。「西洋列強」を使って、目標を書いてみましょう。

■5分ほど与えて、書かせる。
◆列指名で発表させる。おもな意見を板書する。高杉晋作の授業を想起させ、次のようにまとめる。

明治新政府の国作りの目標(ゴール)
    →「西洋と対等につき合える国(独立国)をつくる」


*プリントにていねいに清書させる
*説明のための【板書】をする。
上:西洋列強(独立国:植民地を支配している)
中: 日本(西洋と不平等関係:半独立国)
下:アジア・アフリカなど(西洋に支配されている植民地)
*支配被支配関係を図示する。

『この上下関係をやめて、西洋と対等になることが目標です』

3 班の「国づくりの大方針」(一斉授業ですすめても可)

今日はみなさん全員が明治維新の志士として、目標を実現するための方法・政策を考えます。
「目標を実現するために政府は何をやるべきか」です。
当時のリーダーになったつもりで国のために真剣に考えてください。

 これは班ごとにまとめてみましょう。
◆席を班のかたちにする。
◆5分ほど与えて、各自自分で書かせる(箇条書きにすること)。
◆班のなかで司会者を決め一人ずつ発表させる。司会者はメモを取る。
司会者「他の人は賛成意見、反対意見、その理由を話してください」
◆司会者は賛成が多かった意見を班の考えとしてまとめる。
◆席を一斉授業のかたちにもどし、班の代表にそれを発表させる。おもなものを板書する。

4 五か条のご誓文と船中八策
『では、はじめに紹介した2つの大方針を読んでみましょう。ひとつは坂本龍馬が死ぬ前に書いた「船中八策」といわれる大方針です。もうひとつは、木戸孝允が書いて、明治天皇の名で発表された、政府の大方針です。「五箇条のご誓文」といいます。』
『みんなの考えたものの中に同じ考えがあるかもしれません。注意して読みましょう』

■資料を配り、読みあげながら黒板の中に同じ内容のものや近い考えがあればマークして賞賛する。また、班の中で消されていた考えがあるかもしれないので、そういう場合は必ず言わせるようにする。

******************************

五箇条のご誓文(ごかじょうのごせいもん)=木戸孝允
┌───────────────────────────────┐
│ 1 広くすぐれた人物を集めて会義を開き、 │
│   国の政治は、国全体のことを考えて決めるべきだ。 │
│ 2 上の人も下の人も、心をひとつにして、 │
│   産業をさかんにし、豊かな国をつくるべきだ。 │
│ 3 すべての人の志(こころざし)が実現できるような国にして、 │
│   人々のやる気が出るような世の中にすることがだいじだ。 │
│ 4 江戸時代の古い習慣やしきたりにとらわれないで、 │
│   国際法(西洋の国どうしのルール)にもとづいて │
│   国づくりを進めるべきだ。 │
│ 5 すぐれた知識や文化を世界から学んで、 │
│   天皇中心の国日本をいっそう発展させていくべきだ。 │
└───────────────────────────────┘

坂本龍馬の「国づくりの大方針」(船中八策)
┌───────────────────────────────┐
│  ①幕府は政治権力を朝廷に返し、天皇中心の政治にする。 │
│  ②議会を作り、議員を選び、国の政治は国全体のことを考えて │
│   決める。 │
│  ③貴族・武士・一般国民という身分にとらわれず、能力のある人を│
│   リーダーにする。 │
│  ④外国とのつきあいをすすめ、新しく正しい条約を結ぶ。 │
│  ⑤古くからの法律を改め、新しい憲法をつくる。 │
│  ⑥海軍を育て、強くする。 │
│  ⑦国の軍隊をつくり、首都を守らせる。 │
│  ⑧貿易における、西洋と日本の不公平をあらためる。 │
│ │
│ ◆これを実行すれば、日本は国力をばんかいし、国の勢いを高め、 │
│ 「日本を、西洋と対等につきあえる国にする」という大目標を │
│  達成することができるのである │
└───────────────────────────────┘
***********************************

5 まとめ・・・聖徳太子の国作りの大方針

昔これと同じような「国づくりの大方針」を考えた偉大な人物がいました。
明治政府はそれとほとんど一緒、同じことをやろうとしたと言えるのですが、それは誰でしょうか?

*聖徳太子

◆1学期のノートを見て確認させる。
*************************
聖徳太子の国づくりの大方針
1 中国の文化を取り入れるが、日本の伝統も守る。
2 天皇中心にまとまる国をつくる。
3 中国に支配されない、独立国をつくる。
************************

『外国が「中国(シナ)」から「西洋列強」に変わっただけですね。
維新の志士たちが聖徳太子に学んだという直接の証拠はありませんが、中国中心の世界の中で国作りをして独立した古代の日本と、西洋中心の世界の中で国作りをした幕末から明治とは、まるで同じことがくりかえされているように見えます。
これが日本人の心であり、伝統であり、日本人の賢さであり、強さであると言えると思います。さてこれから明治の日本人の血のにじむような努力を一歩一歩たしかめていきましょう』


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感想文(小6)「王政復古と江戸城無血開城」

感想文集  西郷隆盛と勝海舟「西洋の応援をことわったわけ」

■・・・その時、幕府はフランスを味方につけるといううわさが入ってきた。反徳川にはイギリスがいる。イギリスを味方につけるかという討論を行った。自分はイギリスを味方につけたくなかった。日本がイギリスの下にに立つのがとてもいやだったし、植民地にはなりたくなかったからだ。・・・勝と西郷が江戸城無血開城を行ってくれて、本当にありがたかった。・・・日本が二つに分かれないでよかった。(根本駿)

■もし勝海舟が、フランスと手を組むのを取り消していなかったら、日本は戦争をして弱くなり、支配されたり、植民地にされていたかもしれないので、フランスと手を組むのを止めてよかったです。(野場麻未)

■勝海舟は、西郷隆盛に江戸にせめこまないでほしいと説得したり、フランスの応援で戦うのをやめるように幕府の人たちを説得したりして、説得力があると思った。幕府がフランスの応援をことわるのは、日本だけの問題に外国がかかわるのがいやだったのかと思った。でも、実際は、日本がフランスの下になってしまったり、日本が弱くなって植民地にされてしまうのを防ぐためだと知りました。(福田千紘)

■・・・しかし、フランスには「日本はフランスの力が無いと、戦争できないほど弱い国だったのか」と思われてしまい、フランスの植民地になってしまうこともありえないことではない。(高橋美里)

■・・・勝海舟は、戦った後のことも考えて、植民地にされないように、戦いをやめた。西郷もそれに賛成していた。自分もそれに賛成だ。・・・(阿久根敦)

■・・・このとき、幕軍にはフランスが、薩長にはイギリスがつくといった。でも、勝海舟と西郷は反対した。理由は、フランスやイギリスがいないとだめなんだとみとめているようだったからだ。これには僕も賛成だ。いい国ができるようにがんばってもらいたい。(小野寺大樹)

■・・もしこの戦争が本格的になっていたら、日本はまっぷたつに分かれて、国内戦争が続いてしまうと思った。しかし、勝海舟(幕府側)は、戦争には反対だった。そして自分たちがやることは「フランスの応援をきっぱりとことわることだ!」と言った。日本が植民地になるのを防ぐためだ。勝海舟はかしこい人だと思った。(松戸利樹)

■勝海舟のすごさがわかった。勝海舟はいままでの幕府の人の中で、いちばん日本人としてのプライドがあると思う。フランスを味方につけないで、自分たちのことは自分たちで解決しようという考えがすばらしい。西郷もイギリスを味方につけなかった所がかっこいいと思った。それで、龍馬の時と同じように、戦争をしないで解決したところがすばらしいと思った。(高岡あずさ)

■西郷隆盛と勝海舟が同じ藩の人だったら、日本はもっと早く西洋と対等な国としてやっていたのかなあと思った。フランスは幕府(徳川)の応援をして、日本の上に立とうとしたのかもしれないが、イギリスは薩長と仲よくなったのに同じような考え方をしていたのに、びっくりした。

■勝海舟と西郷隆盛は、二人とも日本が日本であるようにとがんばったんだなあと思った。でも、話し合っただけで、戦いがなくなったのは、勝海舟と西郷隆盛の二人じゃないとありえないんじゃないかと思った。(山中裕子)

■・・・西郷さんはえらいと思った。あいてのほうがもしかしたらフランスと組むかもしれないのに、自分たちはイギリスと組まなかった。勝海舟もフランスと組まなかった。人数が多いから、もっとふえればぜったいに勝てるのに、手を組まなかった。そして江戸無血開城で、だれも血を流さずに終わった。・・・(大野雅子)

■・・・もし植民地になっていたら、私たちはいなかったかもしれない。いたとしても、今のように豊かではないのはかくじつだと思った。(増見幸恵)

■・・・今日の問題で、西郷さんはどうすべきかで、私はBの「イギリスの応援はたのまない」だと思いました。理由は、なんか自力でやるって感じの人だからです。今日は理由がつけられてよかったです。(利根川弥生)


●授業の中心のテーマを少しでもとらえていたのは、上の人たちでした。私の教え方が不十分だったためです。反省! だから、少しだけ、下に解説してみます。

●前にあった、佐伯さんのように「もし」の話をしてみましょう。
もし幕府にフランスが応援し、薩長にイギリスが応援して、本気で戦ったら、おそらく日本人どうしの血みどろの戦いが何年も、あるいは何十年も続いていたことでしょう。
 戦いが続けば、それは、しだいに幕府や薩長よりもあっとうてきに強い軍事力を持った西洋どうしの戦争になっていくことでしょう。
たんなる応援ではなく、いずれはイギリス対フランスの戦争が日本の上で行われることでしょう。それは、世界で一、二を争う強国どうしの戦いです。
そうなったら、たとえどちらが勝っても、日本の力は弱まり、すぐれた日本の人物の多くがは死んでいくでしょう。幕府側が勝っても、それは幕府が勝ったのではなくフランスが勝ったことになります。薩長が勝っても、それはイギリスが勝ったことになるのです。
そのときはもう、日本は日本人の国ではなくなっていたでしょう。たんにボランティアで応援する国はないのです。

●インドがまさにその通りになりました。
イギリス対フランスの戦争が起きて、勝ったイギリスがインドを植民地にしてしまったからです。勝海舟も、徳川慶喜も、西郷隆盛も、それをさけるために西洋の応援をことわり、戦いをやめたのです。
この三人の人物が、西洋のわなにはまらずに、「幕府のためでもない、薩長のためでもない、日本のためだ!」と考えてくれたおかげで助かったことに、私は感動します。
山中さんの、「日本が日本であるようにがんばった」という言葉が、とてもとても心に残りました。


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改訂版8「王政復古と江戸城無血開城」

★幕府が倒れてしまったが日本には天皇中心の国だったので、中国や韓国と異なり、すぐに天皇中心の政府ができて、国家の統一を守ることができたことに感動する。
★西郷隆盛と勝海舟が、敵味方の立場を超えて新しい「日本」のために決断したことに共感し、幕府も反幕府も「西洋に支配されない」という大目標は同じだったことを理解する。



1 王政復古

■大政奉還後の政治については2つの立場がありました。
A 徳川氏を新しい政府に参加させる(徳川慶喜は議長になれると考えていた)。
B 徳川氏は新しい政府からはずす(薩摩藩や長州藩はこう考えた。

■御所で会議が開かれ、岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛がこれを仕切って、次のことが決まった。
「辞官納地」・・・・徳川慶喜は朝廷の官位(内大臣)も最高であり、領地の規模も最大         だった。その官位と領地のすべてを天皇(新政府)に返させること。

■そこまでやるか!と怒った徳川方が暴発して、鳥羽伏見の戦いが起きた。
これが戊辰戦争(明治元年が戊申の年)の始まりで、明治2年まで続きます。

●板書:1986年(明治元年) 王政復古の詔→名実ともに天皇中心の国にもどす
『日本以外の国では、中心政府が倒されたら国は滅びていまいます。果てしない内乱が何年も続き新しい国が作られます。しかし日本は天皇中心で国で、幕府は政治を委任されていただけでした。だから幕府が倒れても明治天皇の下にすぐに新しい政府が作られ、日本という国は連続していくことができたのです。2000年続いた「天皇中心の国」の伝統のすばらしさですね』

2 西郷隆盛

■西郷隆盛の写真を貼り、プリント「西郷隆盛」を配り、読む。
********************************
日本一好かれた男・西郷隆盛

 みなさんは上野公園にある、ゆかたを着て、ぞうりをはき、犬をつれている銅像を知っていますか? あれが「西郷さん」と親しみをもって呼ばれている幕末の英雄・西郷隆盛です。西郷さんは身長一七八センチ・体重一〇八キロの大男でした。
 西郷さんは薩摩藩の身分の低い武士の子として生まれました。
 子供のころの名前を小吉と言います。 小吉は勉強熱心で、毎朝一番に先生のところへ来て教えをうけました。しかも、体もずばぬけて大きく運動神経も抜群でした。小吉の家は貧しく、兄弟も多かったのでいつも弟や妹のめんどうをみるやさしい性格でした。あらしがやってきて大雨が降ったとき、小吉は流れてくる板の上のコオロギを見つけてそれを助けてやりました。あらしの中でコオロギを助けるとはよほど、きもっ玉がすわっている子だったのでしょう。
 西郷さんは、やがて実力を認められて薩摩藩のリーダーになっていきました。そして、他の志士たちと同じように「アジアの中で日本だけは西洋の植民地にしてはならない。西洋と対等につきあえる力と道徳をもったりっぱな国にしなくてはならない」と考るようになりました。
 西郷さんのえらいところは、ただ戦争が強い国にして、西洋と対等になれればいいとは思わなかった点です。強いだけではなく、勇気・愛情・思いやりなどの道徳の面でもりっぱな、誇り高い国にしたいと考えていたのです。
 さて、政権を朝廷に返して一大名にもどった将軍徳川慶喜でしたが、大政奉還の本当のねらいは、新しい朝廷の政府の中で最大の大名である徳川家を中心にすることでした。
 しかし、西郷さんや大久保利通(おおくぼとしみち)は、それでは新しい国づくりはできないと考え、あくまで徳川家を新政府からはずそうとしたのです。
 この方針の違いから、ついに戦いが起きることになったのです。西郷さんはその戦いの新政府側(官軍=朝廷の軍隊)のリーダーのなりました。
こうして、徳川VS反徳川(薩摩藩・長州藩など)との戦いが始まりました。
 もしこの戦争が本格的なものになれば、日本はまっぷたつに分かれて長い国内戦争が続くことになるでしょう。どちらが勝つのかまったくわかりません。
 このころ、西郷さんのもとにある情報が入りました。
 西洋の国・フランスが「幕府の味方をしよう」と話をもちかけているというのです。その内容は、①六〇〇〇〇〇〇ドルの軍資金を貸す ②戦艦七せき、弾薬。大量の兵器を送る、などです。これはたいへんです。
 西郷は考えました。われわれには、薩英戦争で仲よくなったイギリスがいるが。さて、どうすべきだろうか?

【A】 イギリスの救援を頼む      【B】 頼まない

**********************************
 
みなさんが西郷さんだったらどうしますか?
 A:イギリスの応援をたのむ。  B:たのまない *人数分布をとり、意見を言わせる。

■答えは、あとで。


3 勝海舟

■勝海舟の写真を貼り、プリント「勝海舟」を配り、読む。

******************************
幕府側の最も優れたリーダー 勝海舟

 勝海舟は、徳川幕府の下級武士の家に生まれました。子供時代は暴れん坊で、よくけんかをしていたようです。
 青年時代から剣術の修行と座禅(ざぜん)の修行にはげみ、ものに動じない強い心をもつ剣術の達人になりました。しかし、殺すことを好まず、暗殺者にねらわれるようになっても、自分の剣をぬけないようにしばっていた時代があったそうです。 また、すすんで蘭学(西洋の学問)を学び、学問の面でも幕府にこの人ありと知られるようになります。二五歳の時です。どうしてもオランダ語の辞書が必要になりましたが十両もの大金がはらえる家ではありません。そこで、持っている人をさがして、その人が夜寝ている間だけ貸してもらい、五十七巻もの辞書を全部、しかも二回も写したそうです。一冊分を売って、貧しい家の家計のたしにしたのです。
 勝海舟は、咸臨丸という船で、初めて太平洋を渡った日本人の一人です。
 帰国して、幕府のえらい人に感想を求められたとき、「わが国とちがって、上に立つものはみなりこうでした」と答えた話は有名です。
 ふつうならその場で切腹ですが、勝の実力はそれをさせませんでした。
 また、反幕府の長州や薩摩の志士たちとも自由に交流し、坂本竜馬などたくさんの人物から先生として尊敬された人です。

 さて、その勝海舟がいま江戸城で大討論会に出ています。
 徳川家の未来を決める話し合いです。あっとうてきな多数派は、あくまで薩摩・長州軍と戦うべきだという考えでした。官軍とはいえ、明治天皇はまだ十七才の少年だ。大久保や西郷にだまされているだけだ。
 フランス軍の応援があれば、兵の数も幕府側の方が多いのだから、関東で戦えば負けることはない。薩摩や長州をほろぼして「天皇中心の国」をわれわれ元幕府の武士たちで作ろうというわけです。

 ところが、勝海舟は、なんと、こんな意見を主張しました。
┌───────────────────────┐
│ われわれが、まずやるべきなのは、 │
│ フランスの応援をきっぱりとことわることだ! │
└───────────────────────┘
********************************

勝海舟は、なぜフランスの応援をきっぱりと断れと言ったのでしょうか?
ノートに書きなさい。

*書いたものを発表させる。(坂本龍馬の授業「国内で戦ってはならない」を生かした児童をとくにほめる)
 ●ここで、1の答え(B)を教える。


4 江戸城無血開城と新しい首都東京

■勝は、徳川慶喜を江戸城から出し上野の寛永寺というお寺で謹慎させた。そして、敵の大将西郷隆盛と面会した。官軍が江戸総攻撃を決めた日の、3日前だった。 

■こうして、
 *徳川慶喜は江戸と江戸城を新政府に渡す。
 *徳川家は今の静岡県の小さな藩にひきこむが、殺したり刑罰を与えたりはしない、
 などが決まり、江戸は火の海になることをまぬかれた。
《エピソード》
勝「西郷は、おれを上座に座らせ、礼儀正しかった。勝者が敗者をむかえるおごり高ぶっ  たところがなく、攻撃を自分の責任で中止すると約束した。西郷でなければ無理だっ  ただろう」

■勝も、西郷も、次の目的は同じだった。
 
①日本が西洋の植民地にされない強い国になる。
②天皇中心の立派な国になる。

 それを誰がやるべきかと考えたとき、徳川慶喜は国のために勝海舟の言うことを聞いたのだった。

板書:1868年4月:江戸城無血開城。
   1869年3月 明治天皇が京都御所から江戸城(皇居ですね)にうつる。
           江戸は東京になり、明治政府ができた。       

■奥羽列藩同盟ができ、東北諸藩は最後まで官軍と戦った。会津藩の白虎隊の話は教えたい。戦争は明治2年(1869年5月)まで続き、函館の五稜郭の戦いで終わった。
この箱館戦争で、新撰組の土方歳三が戦死している。
女子にはけっこう土方ファンがいるので、話してやると喜びます。


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感想文(小6)「坂本龍馬と大政奉還」

*これは「まほろば2代目」の感想文集です。なつかしい。ほぼクラス全員分だと思う。

■★薩長同盟で幕府をたおそうとしていたけど、勝海舟が最初にいっていた★「国内で戦いあっているようじゃ、日本は・・・~植民地にされる」を、坂本龍馬は目標として、進めていたことがわかった。イギリスが薩摩藩たちをおうえんするのは前回の授業でわかったけど、●なぜフランスが幕府と協力したいのかを知りたい。(角田幸子)

■坂本龍馬は、★戦争をしないで幕府を終わらせようとしたところに、感動しました。昔は泣き虫だったのに、すごい人になるなんてすごいと思いました。坂本龍馬を殺した人は、本当に許せないと思いました。★国内で争っている場合ではないというのが良いと思いました。(斎藤琴乃)

■私は、ふつうは西洋とつき合えばやられるといっていたのに対して、●西洋とつき合わなければやられるといった勝海舟の言葉がすごいと思いました。★でも「常に国内で戦争をすると弱くなる」ということをもとにして、龍馬は戦いを止めたのですごいと思います。とにかく●15代目の将軍だったよしのぶがものわかりのいい人でよかったと思います。
(石原桃子)

■りょうまや、勝海舟は、●本当に日本のことを思っているんだなあって思った。さいごうたかもりや、桂こごろうとかは、藩のことを一番に考えていたと思うから、だから、りょうまは、本当に強い力があるんだなあって思った。★●あと、幕府は、政治の中心をちょうていにもどすことをよくすんなりOKしたなあって思った。(山中裕子)

■★龍馬は薩長同盟を成功させ、★大政奉還を成功させた。●徳川慶喜はえらいと思った。とても国のことを考えたんだ。(秋本航)

■もし坂本龍馬がいなかったら、★きっとイギリスかフランスにとられたろうし、★日本どうしで争ってたら、つぶれたかもしれません。龍馬がいたから、こういうことにはなりませんでした。(竹迫和貴)

■坂本龍馬は、★薩摩と長州をつないで、幕府をつぶそうとするなんてやばいと思いました。★薩長にはイギリスで、幕府にはフランスがついて、戦争をおこしたら、日本がまっ二つになるかと心配になりました。でも、★戦争をしないで、幕府を終わらせる方法があるなんてすごいと思った。1867年に大政奉還で江戸幕府が終わってよかったです。
(加藤聡)

■坂本龍馬は最初は剣の達人で●人殺しをしていたけど、勝海舟の話を聞いたおかげで、見事、★薩摩と長州を同盟させた。しかし、薩長VS幕府の戦争が始まりそうになったが、それも、龍馬が解決した。★その解決法がすばらしかった。「武士から天皇にリーダーを変える」ものだった。こうすれば、幕府は倒幕してしまう。坂本龍馬は本当に頭がよいと思った。まさに龍馬は、日本を助けた大救命士だと思った。(松戸利樹)

■私は、今日の授業がある前から、坂本龍馬のことは少しだけ知っていました。でも今日の授業で、龍馬が勝海舟の弟子になったことや、★龍馬が薩摩と長州が同盟をむすぶことにかかわったことが、わかりました。★龍馬が幕府の政治をするけんりを朝廷に返す時に、龍馬が考えたあんでもどってしまうなんてすごいなと思った。(竹前真莉菜)

■坂本りょうまは、写真を見て、ものすごくかっこいい人物だなあと思いました。でも「18才までねしょんべんをしていた」ときいて、びっくりしました。でも、★長州とさつまを仲よくさせたことは、すごいことだなと思いました。★それに戦そうをしないで幕府をたおせたこともすごいと思いました。(守屋美咲)

■龍馬はある意味、★かげで幕府を倒すことに協力し、そして、新政府ができるころには、暗殺者によって殺されてしまった。龍馬は名前からしてこわそうだし、剣もすごかったのに、なぜ暗殺されてしまったのだろうと思った。★薩長同盟は幕末の日本でかなり大きな意味があると思う。(深澤美葉)

■坂本龍馬は、★仲の悪い長州藩と薩摩藩を結ばせたのである。そして、幕府対薩長との戦争が起こりそうになってしまった。イギリスは薩長に、フランスは幕府におうえんした。けど、★このまま戦争になったら、また戦国時代にもどってしまうので、政けんを天皇に返した。それで幕府はなくなり、新しい政治がすすめられる。(佐藤遼太郎)

■坂本龍馬は下級武士なのに、★さつまと長州のつなげ役や★大政奉還など、とても下級武士のやることとは思えないことをしている。●まさに下克上の世の中みたいに、実力のある人が上に行き、日本を支えていく世の中だと思う。坂本龍馬もその一人だと思う。しかし、それにしても、あの龍馬が18才ぐらいまでだらしなくて泣き虫だったとは思わなかった。(浦弘毅)

■今日はまた日本が一つ変わったと思う。★それは何百年続いた幕府の政治が終わったからだ。これをやったのが坂本龍馬だ。この人は18才ぐらいまでねしょんべんをしていたぐらいなのに、日本を動かすなんてすごい人だなと思った。でも龍馬は一ヶ月後に暗殺されてしまい、次の政治の中に龍馬の名前はなかった。●もし生きていたら、政治を龍馬はやることができたのか?(小野寺大樹)

■ぼくは前回の感想文で、★長州と薩摩の仲をよくする人が必要だと書いた。まさに今日その人が出てきてくれて本当によかった。坂本龍馬という人物がこのようなことを行っていた事は知らなかった。坂本が考えた、★戦わずにすむ方法を考えたのはよかった。●自分は戦争をしてほしかったけど・・・。夜もねないで色々な事を考えている人がたくさんいる事がわかった。(根本駿)

■坂本龍馬はすごいと思う。★薩摩と長州をむすんだし、★戦争はやらなくてすんだ。もし、坂本龍馬がいないと、日本はなくなっていたと思う。でも、●フランスもイギリスも、日本のことがきにかかっているのかなと思う。(斎田明也)

■私は坂本龍馬はすごいと思いました。だって、てじなみたいな方法で、★幕府と薩長の戦争をしそうになったところを、あっさりと止めてしまったからです。●でも、幕府が終わってしまって、おうえんしようとしていたフランスはどう思ったのかなと思いました。
(神林沙織)

■今日は待ちに待った坂本の勉強をした。あまり発言することができなかったが、いつもよりスラスラ勉強をすることができた。また、坂本の計画もすごいと思った。★戦争をしないで解決するなんて。●けっきょく幕府が終わってしまって、なんとなく気がぬけた気がする。(高岡あずさ)

■龍馬が説得して★薩長同盟を結んで、薩長と幕府が戦争しそうになった時に、薩長はイギリス、幕府はフランスを味方につけたと知って、●両方とも負けないように強い国を味方につけたなあと思いました。あと、★戦争をせず幕府を終わらせる方法を考えた龍馬はすごいなあと思いました。(福田千紘)

■龍馬が勝海舟のことを変なやつだったらころそうとしていたのに、勝海舟の話を聞いたら、ころすのをやめただけでなく。弟子になってしまった。勝海舟はそれだけすごい人なのかなあと思った。★龍馬は薩長同盟を結ばせ、★幕府から朝廷に実権を移させた。明治時代が楽しみだ。(渡辺祥太郎)

■今日は僕の好きな坂本龍馬だった。ぼくは家で伝きなどもよんでよくわかった。そしてあらためて、すごさを知った。★長州と薩摩に同めいを組ませた。★幕府に政治をやるけんりをちょうていにゆずらせた。(福永龍)

■坂本龍馬は29才の時いろいろといわれて龍馬はすごく感動した。そしてこんどは、★長州と薩摩を仲よくした。これが薩長同盟で、こんどはばく府をたおそうとしたが、りょうほうに西洋が入るといううわさで、★龍馬は徳川よしのぶにばく府を終わらせろということで、江戸時代は終わった。(平田悟)

■ぼくは、きょうこのべんきょうをやって、坂本龍馬は勝海舟と出会って、★長州と薩摩のたいけつを一つにまとめたら、2つの藩が幕府をたおそうとして、イギリスが2つの藩のなかまになって、フランスが幕府のなかまになって、★龍馬が幕府と戦争をさせないようにどうにかして幕府をたおさせないでたおせるかというので、●いまのリーダーのぶしを天皇にさせてふせぐなんてすごいとおもいました。龍馬はすごいとおもいました。
(北里博之)

■坂本は、★長州と薩摩が仲直りさせるように努力していた。私は、どちらかが言うまで、どちらがいわずで、仲直りさせるのはとても難しかった事だと思う。それなのに、よく上手にまとめたと思う。長州藩と薩摩藩が一つになったことだったので、すごく強くなったけど、●幕府にフランスがついていたため戦争ができなかった。とても残念だった。坂本が殺されたのにはおどろいた。剣のうでもよく説とく力もあるのに、どうして殺されたのかと思っていた。めいじ時代では、坂本のような人にかつやくしてもらいたいなと思いました。(佐伯未央)

■坂本龍馬は、★長州とさつまのけんかをやめさせたのがすごいなと思った。明治をみるめの前に死んでしまった坂本龍馬がすこしかわいそうに思えた。もし、下手人が見つかったら、ぼくはかんぷなきまでに、下手人をたたきのめすと思う。坂本龍馬はいだいな人物だと思った。(川村航也)

■坂本龍馬は、★長州藩と薩摩藩を手をくませた。そして、薩摩藩が幕府をうらぎり幕府をたおした。が、坂本龍馬は殺されてしまった。自分ががんばったことをさいごまでみとどけられなくて、かわいそうだと思った。(大野雅子)

■私は今日の授業で、プリントをもらって、どこがでんりゅうがながれるくらい心にきた文は・・・。の所で、●「国が一つにまとめって気力を出せば、やられやしないよ」の所が、私は心にきました。ほかにも、★「日本どうしでたたかっている(けんかをしている)場合ではない」のところも心にきました。(利根川弥生)

■坂本龍馬は、薩摩と長州の仲をふかめるために会わせたが、二人とも手をつなごうとしないで(くまないかと言う話をしない!)ので、坂本龍馬が★「まだそんなちっぽけな藩の体面や意地にこだわっちょるがか-・・・」とどなっただけなのに、仲よくなってしまって、それから幕府をたおすとこまでいくのはすごいと思った。(瀬田ひとみ)

■★長州藩と薩摩藩をむすぶために坂本龍馬がうごいたことを知りました。どちらの藩からも同盟をくもうといわないけれど、●どうしていわなかったのかがしりたいです。
(大澤拓人)

■今回は、坂本龍馬について勉強した。今回は、一番心にのこっている事は、★薩長同盟についてです。薩摩は長州と薩摩をつなげる事をしていていました。あくしゅをすることになっていたけど、ずっとあくしゅをしませんでした。そのとき龍馬が「この同盟は、長州のためでも薩摩のためでもない、日本のためじゃ!!」といった。本当にこれに感動した。自分のことじゃなく、日本が大切だといっているようだった。(増見幸恵)

■今日は坂本龍馬のことをやった。★薩摩と長州を仲直りさせてしまうなんてよほどいだいな人物だったのだなと思いました。どうしてこんなすごい人なのに暗殺されてしまうなんてと思いました。(岩野詩織)

■今日の授業もやはりわかりにくかった。勝海舟の弟子になって、その後が気になった。★長州藩と薩摩藩がいっしょになって、イギリスが手をかしてくれるのはわかるけど、●なんで幕府にフランスがついたのかな-と思った。●最後の大政奉還の意味もよくわからなかった。(阿久根敦)

■今日の授業で一つ疑問ができました。●長州と薩摩にイギリスがつく理由はわかったけど、幕府にフランスがついたことがあまりよくわからなかったです。(斎藤有輝)

■最後のクイズで「幕府をおわらせるにはどうするでしょうか?」の問題で、私は発言しなかったけど、●私はおどしたのではないかと思った。このあいだの授業でやったときに、だれかがおどして、お金を幕府にはらわせたときみたいに、やったのではないかと思った。(野場麻未)

■坂本龍馬はすごい。小さいころはねしょんべんをしたりしていたのに、あんな考えるのはすごいと思った。坂本龍馬がいなければ今の日本はなかったのかなと思った。坂本龍馬をあんさつした人は、坂本龍馬にうらみがある人だと思う。(大北弥生)

■今日は東大の人たちがきたけどあんまりきんちょうしなかった。坂本りょうまは、せっとくの力もあるんだな-と思った。りょうまは、なきむしで弱かったけど、努力したからすごい人になった。努力は大切だと思った。(池田裕一)

■●どうして幕府はフランス、長州藩と薩摩藩はイギリスについたのか。龍馬は何さいで死んだのだろうか。(山崎裕喜)

■龍馬は、すごくかんじんな所でみんなをまとめた。龍馬は自分のことよりも、国のためにつくしていた。こんな人がいるから日本がまとまるわけで、龍馬みたいな人がいなければ、薩摩と長州はまっぷたつに分かれていたかもしれない。幕府と薩長が対立していたとき、西洋(フランス・イギリス)も応援についていた。もしそこで、戦争が始まっていたら、日本は大きく二つにわかれてしまっていただろう。戦国時代のように・・・。そのころの日本は国内の戦争に夢中で、西洋がせめてきても対応できなかったんじゃないかと思った。(高橋美里)


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改訂版7「坂本龍馬と大政奉還」

★勝海舟の思想と坂本龍馬の行動を教える。薩長同盟と大政奉還が龍馬の2大業績だろう。

1 坂本龍馬
■坂本龍馬の写真を貼る。
坂本龍馬


【板書】1835年 土佐藩に生まれた(郷士)。
○×クイズ
①この人物は、剣術が強かった。
②この人物は、少年時代泣き虫だった。
③この人物は、18歳ぐらいまで寝小便をしていた。
④この人物は、日本で最初の貿易会社を作った人だ。
⑤この人物は、ペリーの黒船を自分の目で見た。*正解はすべて○
■地図で土佐藩を示す。
*ペリーが来てからおよそ十年後。龍馬は28歳。土佐藩を脱藩。
*そのころ京都では、幕府派と反幕府派の殺し合い。長州藩VS幕府の戦争もあった。
『そういう大変な時期に、この若者も国のために何かしたいと考えて土佐藩を出て行った』

2 運命の出会い
(●写真「勝海舟」)
katukaisyu.jpg

『江戸に出た、尊皇攘夷派の龍馬は幕府のリーダーに会いに行った。斬りに行ったといわれている。』 
■資料「勝海舟の話」を配る。
*******************************
勝海舟は坂本龍馬にこう語った
┌────────────────┐
│ 勝海舟(かつかいしゅう) │
│*幕府の軍艦奉行 一八二三~ │
└────────────────┘
 坂本さん、刀はもうちょっと、引きつけておきな。そうじゃないと、おれは斬(き)れないよ。まあ、おれを斬るのは、いつでもできるだろうから、今日は、アメリカの話でも聞いてお帰りよ。
 おれは二年前、咸臨丸(かんりんまる)に乗ってアメリカに行って来
た。何がおどろいたって、あそこじゃ、国の政治は、選挙で選ばれた人物がやるという話だった。将軍家も、殿様(とのさま)もないんだ。だから、上に立つ者はみんな、ひとかどの人物だよ。バカでも身分や家柄がよいというだけで、リーダーになれるような国とは、いきおいがちがうというわけさ。
 おれたちはいま、そんな国を相手にしているんだ。今のように、国内で戦いあっているようじゃ、日本はあぶないよ。どっちが勝ったって、日本全体としてみりゃ、弱っていくばかりなのさ。そんなことをしていたら、西洋の植民地にされちまうかも知れないぜ。
 それでもいいのかい、坂本さん。
 西洋にやられないためには、軍艦だって大砲だっているんだよ。そいつを手に入れるには、西洋とつきあうしかないんだ。大砲も軍艦もない、サムライは藩に分かれていて、国としてまとまった海軍も陸軍もない。こんなことで、どうやって国を守れるっていうんだい。
 国が一つにまとまって、いざとなれば戦うという気力を見せれば、西洋にだって、そうかんたんには、やられやしないよ。
 幕府だ、長州だ、薩摩だと、日本人どうしで、けんかをしている場合ではないということさ。 
どうだい、人殺しなんかやめにして、おれといっしょに海軍をつくる仕事をやらないか。よかったら明日からでも、おれの海軍繰練所(かいぐんそうれんじょ)においで。

*******************************
読み終わってから、次の指示をする。
 龍馬は、勝の話を聞いて、体を電流が流れたように感動してしまった。
 なるほど、自分が当時の武士だったら驚いただろうところに一ヶ所にだけ
 線を引きなさい。*列指名で発表。同じ所に線を引いた者に挙手させる。(とくに正解はない。ほめる)
■龍馬の手紙を教える。「日本第一の先生の弟子になった。これからはこの先生について、 日本のために働く・・・」

3 薩長同盟
(●写真「西郷隆盛」「桂小五郎」)
隆盛西郷
木戸孝允


■『龍馬は勝先生に学んで、海軍の勉強をしたり、貿易会社をつくったりしながら、日本を変えるために働きました。その活躍ぶりを見ていきましょう』
①第1次長州征伐は幕府と薩摩が組んで長州をたたいた。長州は薩摩を憎んだ。長州藩士は草履の裏に「薩摩」と書いて踏みつけて歩いた。それくらい憎んでいた。
②しかし、勝海舟も坂本龍馬は、日本はもう幕府ではもたないと考えていた。
③そこに、薩摩も方針を変えて「幕府はもうダメだ」と考え始 めているという情報が入ってきた。
④龍馬は「長州と薩摩のけんかをやめさせる」ことを考えた。龍馬は自由の身だから、あ ちこち飛び回れる。西郷さんと会ったり、桂小五郎さんと会ったりしながら、両方が手 を結ぶ話を進めた。
⑤しかし、2人を会わせてもなかなか同盟の話が出ない。お互いに憎み合ってきた過去が あるから、相手から先に言わせたいんだね。

★プリントのマンガを見せる。
話を進めない西郷と木戸の間に入った坂本龍馬の台詞を考える。
「 ○○のためでも、○○のためでもない。 ○○のためだ!」
 ○○にどんな言葉が入るでしょうか?

*発表させる。正解は「薩摩のためでも、長州のためでもない。天下(日本)のためだ」

【板書】1866年、薩長同盟成立。
『幕府は2回目の長州征伐をやったが、薩摩はそれに参加せず、幕府側が負けてしまった(高杉晋作の授業を想起)』

4 戦わないで、江戸幕府を終わらせるアイディア
*こうして日本の対立は、「幕府VS薩摩+長州」となった。
■薩摩と長州が、幕府を倒す戦い。
そこで、坂本龍馬は、こんどはこのけんかをやめさせられないかを考えました。
それは、「戦わないで江戸幕府を終わらせる」という、驚くべきアイディアで
 した。それはどんな方法だったでしょう?*近くの人と相談して考えさせる。発表させる。
【板書】「徳川家が、みずから政権を朝廷にお返しする」

『第15代将軍、徳川慶喜は、龍馬が考えたこの案を実行しました。これを大政奉還といいます。これからは、朝廷を中心に新しい国づくりをしていきましょう、というのが坂本龍馬の考えだったのです。こうして、260年続いた徳川幕府が終わりました。1867年10月のことです。』
【板書】1867年10月、大政奉還(朝廷に政権をお返しした)江戸幕府が終わる
■プリントの勝の言葉「国内で戦ってはならぬ」を確認させる。

5 まとめ
『泣き虫で寝小便たれだった少年は、浪人の身軽さをフルに使ってとびまわり、薩長同盟、と大政奉還という大仕事をやりとげました。しかし、龍馬はそのわずか1ヶ月後に死んでしまいました。京都で暗殺されてしまったのです。犯人については諸説あります(幕府の見回り組が本命らしい)が、幕府の見回り組だったようです。吉田松蔭・高杉晋作・坂本龍馬、みな明治を迎える前に死んでいきました。』

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改訂版6「生麦事件と薩英戦争」


★生麦事件と薩英戦争のあらましを知り、国の尊厳をかけてイギリスと戦った藩があったこと(武士がいたこと)に共感できるようにしよう。この戦争の結果、イギリスは幕府に見切りをつけて薩長に敬意を払った。薩長の志士の「攘夷」が、開国て富国強兵を進め実力をつけてから攘夷を実行する(大攘夷)に変わった。


1 生麦事件

■明治初期の生麦(横浜市鶴見区)の写真を示し問う。
生麦

┌──────────────────────────────────────┐
│  いまからおよそ150年前、ペリーの黒船が来てからおよそ10年後、通商条約を│
│ 結んで5年後のことだ。 │
│  この写真の場所である大事件が起きた。この道は当時の東海道。今の横浜市鶴見区│
│ にあたる。 │
│  どんな事件が起きたでしょう? │
└──────────────────────────────────────┘
★列指名で思いつきを言わせる。3列ほど指名し最後に評価する。思いつきも既習を生かせていること。

◆1862年八月の生麦事件の事実経過を話す(4人の英国人、1人死亡、2人負傷)。
 薩摩藩の大名行列が通りかかった。むこうから馬に乗った人が4人やってきた。横浜に住むイギリス人の貿易商とその友人がピクニックに出かけて帰るところだった。行列の薩摩の武士たちは4人がどんどん近づいてくるのをあやしんだ。かれらは騎乗したまま行列に乗り込んで来た。制止したが止まらなかった。あれよあれよという間に4人は殿様のかごに近づく。かご周りの武士は剣の達人である。いきなり先頭のイギリス人を斬った。即死だった。2人は斬られたが横浜に逃げ帰って一命を取り留めた。4人目は女性だった。彼女は斬られなかった。
 薩摩藩は行進し次の宿場で沙汰を待った。イギリスはただちに香港の東洋艦隊に連絡した。横浜にはイギリスの東洋艦隊だけでなく、仏・蘭・米の艦隊がそろった。戦争が始まるかもしれなかった。

■イギリスは幕府に謝罪と賠償金10万ポンド(28万両)を要求した。幕府は西洋列強の海軍が終結した横浜を見て恐れおののき、イギリス側の言われるままに謝罪し賠償金を支払った。千両箱が280箱である。
■イギリスは薩摩藩にも、犯人のイギリス人による処刑と賠償金2万5000ポンドを要求した。7万両である。
┌──────────────────────────────────────┐
│  みなさんが薩摩のリーダーだったら、どうしますか? │
│ A:犯人をイギリス側に渡し、ばいしょう金を払う。 │
│ B:ばいしょう金は払うが犯人は渡さない。 │
│ C:両方とも拒否する。 │
└──────────────────────────────────────┘
★ノートに書かせる。人数分布をとり、意見を言わせる。

■大久保利通の写真を貼る。
 資料「大久保が藩主の代わりに書いた手紙」を読み上げて、リーダーの判断を知る。
┌────────────────────────────────────┐
│ 大名行列について、わが国法はきびしい。無礼な行為があれば、切り捨てるべき│
│ であると定めている。だから、薩摩の武士は国の法を守った者であり罪はない。│
│ 彼らは犯罪者ではなく、薩摩藩が賠償金を払う義務はない。逆に、イギリス人が│
│ 日本にいて日本の法を守らず、罪を犯して切られたのである。西洋人といえども│
│ 日本に来たのなら日本の法に従うべきなのはいうまでもない。その法は幕府が決│
│ めたものなのに、法を守らなかったイギリスに対してあやまり、賠償金を払うこ│
│ とこそまちがっているのである。 │
└────────────────────────────────────┘
*薩摩藩はCを選んだことになる。


2 薩英戦争

■イギリスは幕府と交渉しても、薩摩に言うことをきかせる力がもう幕府にはないことを知った。鹿児島湾に7隻軍艦(89門)で押し寄せ、24時間以内の回答をせまった。
■大久保は「薩摩藩は、攘夷をさけぶ長州藩と、幕府を応援して戦ってきた。その開国派の薩摩藩が、日本の法を守ったせいで、いまイギリスから攻撃を受けようとしている。なんという運命だろうか!」と言ったそうです。
*意見分布をとり、意見を言わせる。
■絵「薩英戦争」を見せ、戦ったことを告げる。
■資料:薩英戦争を読む。
*******************************

薩英戦争 一八六三年七月二日

世界の海を支配するイギリス艦隊は、世界最強の海軍であった。軍艦七せき、大砲の数は全部で八十九門だった。薩摩の蒸気船は三せきともイギリス艦隊にとらえられてしまった。
 大久保利通は、幕府と同じ開国派の薩摩が戦わなければならない運命の不思議を思った。しかも敵は世界一の海軍であり、こちらは日本の九州の南端の一つの藩に過ぎないのだ。しかし、もはやしりぞくわけにはいかなかった。
 城下の人々をひなんさせ、沿岸の十数カ所につくった砲台の準備もととのった。
 七月二日。おりから、台風が近づき、暴風雨の中で戦争が始まった。
大久保利通は、各砲台にイギリス艦隊への砲撃を命じた。
 薩摩藩の大砲は旧式だったが、ふだんからの訓練がものをいって、命中率が高かった。その一発はみごと敵の旗艦(きかん・・・指揮官の乗っている船)に命中して、イギリス軍艦の艦長と副艦長が戦死した。
 しかし、薩摩藩の砲台はつぎつぎと集中砲火を浴びた。イギリスの大砲は、最新式のアームストロング砲だった。鹿児島の城下町は炎につつまれ、砲台も次々と攻撃力を失っていった。
 戦争は三日間続き、指揮官を失ったイギリス艦隊は、鹿児島から出ていった。
結果はこうだった。
 イギリス軍の戦死十三名、負傷者五十名。
 薩摩軍の戦死十名、負傷者十一名。鹿児島城下の五百戸が焼かれ、蒸気船三せきを失い、薩摩藩の西洋式の工場もこわれてしまった。
 どちらが勝ち、どちらが負けたのか、わからない戦争だったが、大久保たち薩摩藩のサムライたちは、この戦争で西洋の真の実力を体験できたのである。
イギリスの新聞は次のように書いた。
「鹿児島は戦争のうまさは日本第一である。 薩摩藩の兵士の勇かんさは、これまで見たアジア人の中で、ぬきんでている。すみやかにもう一度攻撃しなければ、英国のはじとなろう。二人の指揮官を失ったことは大英帝国のはじだからだ。しかし再び攻撃するには、軍艦十二せき、千名の陸軍がいる。準備には八ヶ月が必要だが、その間に、薩摩もじゅうぶんに用意しているだろう」
       

3 薩英戦争の後始末

┌───────────────────────────────────┐
│  戦いの後、薩摩藩の意見は2つに分裂しました。 │
│  A:早く解決しよう派    B:あくまで戦う派 │
│  戦争の後始末を任された大久保利通の意見は、どちらだったでしょう? │
└───────────────────────────────────┘
*意見分布をとるだけで正解を教える。
■大久保の考えはAでした。
サムライとしての意地を見せたことに満足し、イギリスと手をうつことにした。大久保は、2万5000ポンド(7万両)を払うことにした。しかし、賠償金ではなく遺族養育料とした。しかも、それを幕府に払わせた。そのとき大久保がつかった手を教えよう。しぶる老中にこう言ったという。「もし7万両お貸し願えないのなら、やむをえない。やりたくはないがイギリス公使を斬って、自分も自殺する」幕府の老中はふるえあがって、金を出したという。
しかし、大久保は「犯人」とはかんがえていないので、斬った薩摩武士を渡すつもりはなかった。そして最後まで渡さなかった。

4 攘夷戦争を戦った長州と薩摩

┌───────────────────────────────────┐
│ 諸藩の中でいちばん力のあった長州藩と薩摩藩は西洋と戦った。 │
│ 戦った結果、両藩と西洋の関係はどうなったでしょうか? │
│ A:さらに悪くなった  B:変わらなかった  C;仲良くなった │
└───────────────────────────────────┘
*意見分布をとり、理由を言わせる。
■正解はC。
■イギリス人は、堂々と戦う誇り高い武士の精神を尊敬し、幕府よりも薩摩を応援するようになった。(軍艦を売ったり、鉄砲や弾薬を売るなど)。イギリスは、これからの日本は、幕府ではなく、長州藩と薩摩藩を中心にまとまっていくのではないかと考え、自分たちの将来の利益を考えていたのである。

■最後に重要なことを一つ。
それは「攘夷」という政策の意味が変わったことです。かつて攘夷は、鎖国を守って外人を追い払うことでした。
この2つの戦争によって、志士たちにとって真の攘夷とは何か。その意味が変わりました。それは、
┌──────────────────────────────────────┐
│ 開国して、西洋の文化技術を取り入れ、日本の実力を高め(新しい国作り)、 │
│ 西洋列強に負けない、彼らと対等につきあえる、強い国を作ること。 │
└──────────────────────────────────────┘
これを大攘夷といい、鎖国を守り外人を追い払うだけの攘夷は、小攘夷と言うようになります。
吉田松陰の攘夷は「大攘夷」だったことがわかります。


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プロフィール

授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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