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武士の誕生と平清盛

武士の誕生と平清盛
●武士を新しい日本人と呼んで、その誕生のあらましと平清盛を教える授業です。


1 新しい日本人:武士(侍・もののふ)
●絵「武士の館」を読む。
武士の館


『今日は絵を読みます。この絵は10世紀頃の日本のある地方の風景です。よく見て、気付くこと、わかること、思ったことなど、どんなことでもいいですから発表してください。』

●①風景 ②家 ③人 に分けて発表する。

①寺、神社、農村、広がる水田、田植え、馬を洗う、
②板葺き、板敷きの質素なつくり、農民の家よりも大きい、深い堀、高い塀、物見櫓、馬小屋、縁側、
③武器(刀・弓)、よろい、見張り、客、牧狩り、流鏑馬、武芸の訓練、農民に指図する人
『ここに描かれている人々を武士といいいます。今から1000年ほど前、貴族でも農民でもない新しい日本人が現れてきます』
【解説】以前は農民が武装して武士になったと考えられていたが、現在は武士の出自は貴族であるという説の方が有力である。

『この人達は、なぜ武装しているのでしょうか?』

・自分の土地を自分で守るため。
・泥棒や強盗が増えた。
・政府が安全を守れなくなったから、

『8世紀に国が完成して、奈良の大仏を全国の力で作るほどまとまっていた国が、わずか100年から200年でもう崩れてきて、このころの政府は国民の安全と平和な秩序を守れなくなっていたのですね。 どうしてこんなふうなてしまったのでしょうか?』

*貴族が自分の楽しみばかり考えて、国民のための政治を行わなかったから。
*上品な貴族にとって戦いは野蛮なことだからやりたくないと思った。
*血は汚れているから、命をかけて戦うなど、上品な貴族のやることではない。

『盗賊、強盗、海賊、放火など、犯罪が増えて、平和な秩序が失われてしまったので、農民達や、役人として地方にやってきた貴族たちが、自分たちの平和は自分たちで守ると、そのために自ら武器を持ち、武芸に励み、いざという時にそなえるようになったとい うわけです。このようにして、みなさんのご先祖様の中から、貴族でも、農民でもない新しい日本人、武士が生まれてきたのです。平和と安全は戦って守るという考えですね。』

●貴族の館の絵を見せ、都と地方を対比してみせる。


2 武士団の形成

『この時代の地方の風景とちょっと似た風景を、これ以前の時代に見たことがあるのですが何時代だったでしょうか?』

*弥生時代

●環濠集落の絵を見せる。
『高い塀(柵)と堀で囲み、戦う姿勢を見せているムラです。この絵と今日考えた絵のいちばん大きな違いは「国家」があるかないかです。弥生の村は少しずつまとまっていって、やがて統一国家日本が誕生しました。
 いま、国はあるんだが、平安京の中央政府が国内の平和と安全を守れなくなっていると考えればいい。そこで、数百年前と似た風景になっているわけです。でも歴史の流れには似ている所があって、この武士達がしだいに大きなグループを作っていく。このグループを武士団といいます。まとまっていこうとするんだね。そうして、国内の武士達は二つの大きなグループにまとまっていきました』

●この二つの大武士団が「源氏と平氏」です。
 源氏は56代清和天皇の子孫、平氏は50代桓武天皇の子孫を名乗ったグループです。


3 貴族と武士

『さて、いよいよ国が乱れて、国のリーダーである貴族の家にも泥棒が入ったり、政府の役所が海賊に襲われり、武士団の反乱が起きたりしました。貴族たちはどうしたでしょうか?』

*武士を使って守らせた。 
●絵「さぶらう者」を見せる。貴族を護衛するさむらい(『法然上人絵伝』)
File0170.jpg

『この武士が、いつまでも貴族に使われる身分のままでいられるでしょうか』

*939年 源純友の乱:反乱を起こした武士と反乱をおさえようとして戦う武士。
File0168.jpg

*939年平将門の乱:藤原秀郷が反乱をおさえ、平将門の首をかかげて都に帰ったところ。
File0169.jpg


『やがて武士が、貴族を押しのけて、政治の実権を握るようになっていきます』

●最初の人が平清盛
*平清盛の肖像を黒板に貼る。
●プリント「平治の乱と平清盛」を読む。


平治の乱と平清盛
貴族の政治によって国が乱れていくなかで、しだいに武士なしでは国が成り立たなくなっていきました。
 けれども、武士がどんなに働いて貴族の財産や命を守ってやっても、貴族たちは彼らをバカにしていました。血を流して戦うような人は、身分の低い下品な人たちだというわけです。武士たちも、くやしいけれどこの身分のちがいにはなかなかさからえませんでした。
その力関係がついにひっくり返るときがきました。それは京の都(平安京)で起こった戦争がきっかけでした。1159年(平治元年)の平治の乱です。
それは貴族どうしの争いが原因でした。結果は次のようになりました。

貴族のリーダー  武士のリーダー  

【勝者】 藤原信西(戦死) 平清盛  
 
【敗者】 藤原信頼(死刑) 源義朝(死)  
 

「戦いになるとひざががくがくふるえ、顔は真っ青になり、馬にも乗りそこね、顔をすりむき、鼻血を出した」「負けてからは命だけは助けてくれとたのんだ」

 貴族のおくびょうで情けない態度は味方の武士にまで笑われるありさまでした。
 こうして、貴族たちはもう、武士を単なる自分たちの「道具」としてバカにしていられなくなったのです。
 平治の乱の後、平清盛は朝廷の重い役につき、数年後には太政大臣(今の総理大臣)にまで出世しました。低い身分だった武士が、日本のトップの地位になったのです。
そればかりか、平清盛は自分の一族をみな朝廷の高い地位につけ、もはやだれも平氏にはさからえなくなりました。「平氏でなければ人ではない」というくらい、平清盛の一族がおごりたかぶる世の中になったそうです。
 平清盛は中国(宋)との貿易を始め、外国とのつきあいを再開しようとしました。このように、今までの貴族にはない新しいことをやろうとはしたものの、清盛の一番の願いは「朝廷の中で、自分の一族(平氏)が、かつての藤原氏と同じような大きな権力をもつ」ということだったようです。
 またもや、自分の娘を天皇のおきさきにして、自分のまごを天皇にしたのです。藤原道長方式のまねでした。これは武士という「新しい人」をやめて、貴族という「古い人」にもどってしまったのと同じことでした。武士がトップに立ったけれど、やったことは貴族と変わらない。それが平清盛の限界でした。
さて、平治の乱は源氏VS平氏の戦いの一回戦目でした。平清盛は源義朝の一族をみな殺しにはしないで助けました。それが源頼朝と源義経です。頼朝13才(伊豆の蛭が小島)義経1才(鞍馬寺)。この二人の少年がやがて新たな歴史を切り開きます。成長した二人は、源氏VS平氏の戦いの2回戦目を始めることになるからです。



4 まとめ
『平安貴族は日本の伝統文化と天皇制度を守りましたが、国政のリーダーとしては失格だったかもしれません。平安時代の後半は世の中が大きく乱れ、治安も悪化していたからです。しかし、それでも平安時代は400年も続きました。そして、世の乱れと治安の悪化から武士という新しい日本人が生まれ、国づくりは新しい段階に進んでいきます。天皇制度と武士という両輪が、日本の歴史をいっそう独自性のある、世界に誇れる姿にしていくことになります』
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授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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