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伊能忠敬

伊能忠敬
●伊能忠敬の「全日本沿海輿地全図」作成の偉業を知り、その生き方に共感する授業です。できれば、武揚堂の「伊能中図」(21000円) http://www.buyodoshop.com/products/detail2134.html を見せて下さい。大きな感動があります。


1 江戸時代の地図と今の地図
*古地図(元禄時代の日本地図)といまの日本地図を見せる。

2つの地図を比べて、気付いたことや思ったことを発表しなさい

*古地図は、形や距離や方位が不正確であることをおさえる。

いまの正確な地図はどうやって作っているのでしょうか?

*航空写真や人工衛星で写した写真をもとに作っている。距離と方位を実測した地図であることをおさえる。

2 伊能忠敬の夢
*伊能忠敬の肖像を貼る。
伊能忠敬

【板書】伊能忠敬、日本列島を実際に測量し、日本地図を作った人

*忠敬の略年譜を黒板にはる。


1745生まれる




1800(55歳)測量を始める
1816(71歳)すべての測量が終わり地図が完成する
1818(73歳)死去



『忠敬が歴史に名を残す仕事をしたのは、50歳から死ぬまでの23年間でした。50歳といえば江戸時代ではもう高齢です。伊能忠敬をよく知るためにはこの50歳までの生き方、歴史人物としては無名だった50年間を知っておいたほうがいい。』

*資料「第一の人生と第二の人生」を読む


伊能忠敬「第一の人生と第二の人生」
 忠敬は、一七四五年いまの千葉県九十九里町の商人の家に生まれました。
忠敬は学問好きな少年でした。
とくに、算数や宇宙のことに興味を持ち、いろいろな計算をしたり、星の動きを観察したりしていたそうです。

 忠敬は、十八歳のとき、佐原村の名主である伊能家に婿入りしました。伊能家は昔から酒問屋を営む名家でしたが、この頃は家運がかたむき始めていたといいいます。
忠敬は、新しい事業を始めたり、関西から米を運んで江戸で売りさばくなど、商人としての才能を大いに発揮して仕事に打ち込んでいきました。
 
 忠敬は、伊能家をもり返しただけでなく、佐原村の名主(リーダー)としてもまじめに働きました。
水害が多い地域だったのですが、忠敬は堤防工事を指導してその被害を減らしました。
また、天明のききんの時は、農民達に米を安く与えて、佐原村からは一人の死者も出さなかったそうです。

このように「私は本当は学問がやりたいのだ」などということは心の中にしまい続けて、自分に与えられた三つの仕事「商人として伊能家を立て直す」「家族を幸せにする」「村のリーダーとしての責任を果たす」に心をこめてうちこんだのです。
そして気がついたら五十歳になっていました。
伊能家は昔の数倍に発展し、子供たちはりっぱに成長しました。
十八歳の自分をとらえた運命に立ち向かい、その責任をりっぱに果たしたのです。
五十歳といえば当時の日本人の平均寿命です。しかし、老人忠敬は、こうつぶやいたのです。

「これでよし。ようやく本当に自分がやりたかったことができるぞ」

 決断した忠敬は、息子に家を継がせて江戸に出ました。
めざすは、当時日本一の天文学者・高橋至時先生です。
高橋先生は当時三十一歳。忠敬は、自分よりも十九歳も若い先生に深々と頭を下げて入門を願い出ました。
高橋先生は始め「お金持ちの老人の気まぐれか」と思ったのですが、あまりの熱心さに負けて入門を許しました。こうして、毎日、計算と星の観察に明け暮れる忠敬の第二の人生が始まりました。その老人の目に光る少年のような輝きに心を打たれた高橋は、忠敬のことを推歩先生(計算先生)とよぶようになります。
二人は心から学問を愛する友人となり、年の差を乗り越えてお互いを尊敬し合うようになりました。


*2,3人に感想を発表させよう。


3 忠敬が知りたかったことは?

伊能忠敬が高橋先生の門人になったのは、知りたいことがあったからでした。それは何でしょうか?

A 日本列島の正しい形。
B 地球の大きさ
C 太陽系の中の星の位置関係


【B】忠敬の夢は「緯度1度の長さを測り、地球の大きさ(円周)を知ること」だった。
*江戸の町で観測するが、すべて失敗。実測できる距離が短いため、誤差が大きかった。

4 高橋先生のアイディア・・・天文学から地図作りへ
*高橋先生はの蝦夷地(北海道)測量計画を幕府に出して、忠敬の夢を実らせることにした。

高橋先生はどうして、江戸幕府が蝦夷地の測量(地図)を許すと考えたのでしょうか?

*ロシアの船が出没、蝦夷地(北海道)危うし。
 *北海道や日本全体の海岸線を守るために、江戸幕府は日本全体の正確な地図を作りたいと考えていた。
*1800年(55歳)。江戸幕府の許可が出て第一次測量蝦夷に出発。

*ビデオ「その時歴史は動いた(伊能忠敬)」で、測量の様子を見る。動画がない場合は、測量の仕方を図示して説明しましょう。

蝦夷地測量の費用1億円は幕府と伊能忠敬個人が出しました。幕府はいくら出したでしょうか?

【8000万忠敬が負担した

*第1の人生がここでも生きている!

*最初の夢、地球の大きさを知りたいはどうなったか。伊能忠敬の計算では、緯度1度は28.2里(約110キロメートル)と出た。これは当時の天文学の最高峰だったフランス人天文学者ラランドの計算と同じだったことが後に分かった(誤差0.02%)。

*忠敬は、蝦夷地測量で学問の夢がかないました。その後は、国を守るために正確な日本地図をつくるとい大仕事に生涯をかけました。


5 伊能の死と地図の完成

*第1次(蝦夷地~東北)から第10次測量(江戸府内)までのおよその経路を白地図にマジックで書いて黒板にはり簡単に説明する。全部でほぼ地球1周歩いて測量したことになる。
*北海道の北辺は歩いていない。ここは弟子である間宮林蔵の探検によって最終的に完成したことを話す。
*中国地方や九州地方は内陸部も詳細に歩いている。
*伊能忠敬の手紙(娘宛て)を読む。
「(70を過ぎて)このごろは、歯もすっかりなくなって、奈良漬けを食べるのも容易ではないが、この仕事をやり遂げるために今日も夢中で歩いています」


*1816年 忠敬の全国測量が終わった。72歳だった。
*計算結果を全て地図にかき終えてみると思いがけないことが起こった。東日本と西日本の部分図のつなぎ目が  合わない。6ミリの誤差がった。球面の測量を平面に写す場合の計算上の誤差だった。忠敬は、この6ミリのためにただちに全地図の描き直しの作業に入る。その作業の途中、1818年、伊能忠敬は肺炎にかかって死去した。55歳から73歳まで18年間、日本列島を歩き続けた第二の人生がこうして終わった。

その後3年間も弟子達は忠敬先生の死を秘密にしました。なぜでしょうか?

【地図が完成したとき、それをすべて先生の仕事にしたかった】

*その後忠敬の死を伏せて、3年かけて弟子たちが大日本沿海與地図を完成し、第11代将軍家斉にに伊能忠敬の地図として献上された。

ではその日の江戸城大広間に、みなさんをおつれしましょう。家斉になったつもりで心をこめて見てください。

*机を後ろに下げさせて、武揚堂の「伊能中図」8枚を広げていく。
伊能中図




将軍家斉はどんな感想を持ったでしょうか?想像してみましょう。

*数人に発表させる。

6 まとめ

*人工衛星で作った今の地図とほとんど違わない、当時の世界レベルの正確な地図であり、明治以後半世紀以上の間、日本の政治や軍事や教育のために使われ続けた。

*明治時代にこの地図を見た欧米人は、その正確さだけでなく、その表現の美しさにも感銘を覚えたという。

*その仕事を忠敬は50歳から73歳までの23年間でやった。商人という運命を受け入れ、地図作りという運命も受け入れて、一人の宇宙好きの老人が歴史に残る偉人になった。

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授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

Author:授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫
戦後70年間日本の教育は根無し草の「世界市民」を育ててきました。そのため小中学校の歴史教育はウソとタブーによって大事な内容が教えられていません。また誤って教えられています。
「授業づくりJAPAN」は、日本の教育のウソとタブーを排し、真実とフェアネスを取り戻していきます。
かつてGHQに禁じられた教育は現在も禁じられたままです。私たちは「日本人を育てる教育」を取り戻します。そのために、命ある限り授業づくりとその普及につとめます。私たちは「誇りある日本人」こそが「真の国際人」になれると信じています。

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