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南北朝正閏論ノート

南北朝正閏論ノート
 小山常実先生「南北朝正閏論の教育史的意義」に基づく


1  何か?

明治41年(1911)1月 尋常小学校教科書、教師用教科書の南北朝の記述が、南朝正統論者によって問題にされた事件。

その結果、政府および皇室によって南朝の正統が決定された。
中学校教科書などで、時代名が南北朝から「吉野の朝廷」に変わり、小学校歴史教科書などで、北朝の存在が抹殺された。敗戦まで。

しかし、学界や宮中では閏位(正統ではない位)の天皇も「天皇」として扱われ続けた。
明治天皇は「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては、尊崇の思し召しにより尊号・御陵・御祭典等すべて従来のままたるべき旨を命じ給ふ」たため、宮内省は南朝とひ北朝に軽重をつけない方針を維持した。
◆教育と学問の分離


2 立場と結果

①北朝抹殺論
「吉野の朝廷」時代とし、南北朝時代とはしない。北朝は朝廷ではないという立場。
北条高時の擁立した光厳天皇や足利尊氏の光明天皇は天皇とは認めず、「院」「親王」などとする。北朝の天皇は歴代表にも載せない。北朝側を「賊軍」とする。

②南正北閏論
南北朝の存在を認め、南朝を「正位」、北朝を 「閏位」とする。歴代表には両方載せるが南朝天皇で歴代数を数える。しかし、北朝を低く見て天皇と呼ばずに「帝」とし、北朝軍を「賊軍」としたりする。

③南北朝両立論
両朝並立した時代があったとして、室町幕府の意義を認める。光厳・光明も「天皇」とし、北朝軍を「賊軍」とは書かない。ただし歴代数は南朝天皇で数える。

④北朝正統論
時代の趨勢(統治の実力)や世論の支持のある朝廷を正統と考える。ただし南朝抹殺とまではしない。

【結果】
改訂小学校教科書には①北朝抹殺論が採用された。
(注)明治天皇の先祖は北朝の天皇である。


3 問題の背景

前年の明治43年までの、教師用教科書は要約するとこうだった。
「南北朝の対立はわが国歴史の一変態である。持明院統と大覚寺統がたまたま並立して対立した一時の現象であって、正閏軽重を論ずべきものではない」(両立論)
国定教科書の記述も明治36年の第一期以来この立場で書かれたていた。

(明治維新と明治新政府の思想的背景)
・『大日本史』以来の南朝正統論
・明治維新を「天皇親政」の「建武の新政」になぞらえていた。
 明治天皇=後醍醐天皇、維新の志士たち=楠木正成等の忠臣
・明治国家のリーダーたちは南朝正統論が優勢だった(岩倉具視・山形有朋など)
・明治35年(1902)ごろまでは小中学校歴史教科書は南正北閏論で書かれていた。
 光厳天皇は「光厳帝」、光明天皇は「光明帝」、北朝軍は「賊軍」
・宮内省は現皇室が北朝系であることから明言を避け続けた。
・伊藤博文『皇室典範義解』で明言を避けた・・・・立憲君主制、政党政治主義
・山形有朋『大政紀要』は北朝抹殺的な南朝正統論・・・天皇親政論、超然主義

(明治33年の転機)
・明治33年(1900)伊藤博文を総裁として立憲政友会が結成、政友会内閣誕生。
・これと軌を一にして、東京帝大などの学界が南北朝両立論を打ち出す。「大日本史料」編纂で北朝を書かないことはできなかった。
・明治36年第一期国定小学校歴史教科書が南北朝両立論で書かれ、中学校教科書もほぼそれに倣った。北朝天皇も「天皇」書き、北朝軍を「賊軍」とはしない。ただし、歴代数は南朝で数えているので「ゆるい南正北閏論」である。
・これがおよそ7年間続いた。


4 事実経過
 明治43年(1910)大逆事件
  明治44年(1911)1月読売新聞社説「南北朝正閏問題(国定教科書の失態)」
2月藤沢元造の国会質問書が政府の圧力で撤回になり、藤沢は議員辞職。これによって議会内外で議論が沸騰した。
3月山県有朋の影響力の下で桂太郎内閣・文部省が「北朝抹殺論」の方向を示す。
教科書調査委員会のメンバーが帝大系から師範系に入れ替える人事。
5月~6月教科用図書調査委員会歴史部会で議論
7月総会で議論し決議
①高時は量仁親王を擁立して天皇と称せり。これを光厳天皇とす。
②尊氏は賊名を避けんがために豊仁親王を擁立して天皇とせり。これを光明天皇とす。
③「これより世に吉野の朝廷を南朝といい、京都の朝廷を北朝という」
④時代名は「吉野の朝廷」
⑤「尊氏が幕府を開き・・・」の節の小見出しは「賊軍の有様」を改め「京都の有様」とする。ただし本文には「賊軍」という表現がある。
 この決議案は南西北閏論であり「読売新聞「万朝報」「東京日々」など広く支持された。

  しかし、文部省は総会決議を無視して北朝抹殺論を採用した。
 光厳天皇ではなく光厳帝とし、光明天皇ではなく光明帝とし、北朝の天皇を抹殺した。時代名は「吉野の朝廷」とし、幕府側を総括して「賊軍」とした。山県有朋のと海軍人脈の指示によると考えられている。
以後、小中学校の国定教科書はこの方針を採用することになった。


5 教科書改訂論議の思想的立場

①忠君愛国教育と国体論の重視(南正北閏論)
  前出の読売新聞社説も立憲民政党の政府弾劾決議案も、大逆事件と歴史教科書の南北朝両立論をひとつながりの問題として提起していた。
  『万朝報』社説はその問題点を2つ書いている。
 「近ごろ志尊に危害を加えんとする逆徒あるを見たり。・・・この逆徒は何の思想の産物なるや。今の文部省は二君両正の説が、忠君思想の本拠を覆すにもあたるべきことを知らざるや」
 一つ目は大逆事件が南北朝両立(天皇が二人いたと書いている)を教えている教科書が、忠君思想を破壊したからではないか、という忠君教育の必要である。
「わが国には現在の天皇のほかに、同時に別の天皇あるべからず。もしこれありとすれば、わが国体を為さず、一国変じて二敵国となる。また建国以来、永遠無窮の後にまで貫かれるべき、忠君道徳の根本も破壊せん」
 二つ目は万世一系の国体法の重視だった。あってはならない国体の変則を教科書に示すなという主張である。(この点は正反対の立場である北朝正統論と意見が一致する)
  2月の「歴史部会」では両立論の歴史主義と対立して、「忠君愛国教育」の主張が全面に出ていた。しかし、5月の総会になって、南朝正統北朝抹殺論と対立するようになると、この立場は「歴史事実重視」を打ち出すようになった。
(南正北閏論の黒板勝美『日本及び日本人』)
「歴史を教育に応用するにあたっては、取捨は可なり、事実を枉ぐるははなはだ不可である。それは教育の根本を誤るのではあるまいか。学生児童に嘘を言ってもさしつかえないと教えるようなものではあるまいか。教育上その根本たるべき修身倫理は誠実というところにある。この誠実の心が発動してここに君に忠、父母には孝となり、すべての美徳がここに生まれる。誠を離れて善はない」
これが大多数派の南正北閏論であった。

②歴史事実の重視(南北朝両立論・北朝正統論)
 「歴史を以て道徳を説くのははなはだ必要なことである。けれどもそれは歴史上の事実を曲げざる限りにおいてある。事実を知らずもしくは誤解し曲解しこれに基づいて道徳を説くようなことがあっては、それは一時に有力ではあっても、早晩その権威を失墜するのである」(南北朝両立論の立場『時事新報』)
「我輩の意見では、自国の歴史での外国の歴史でも事実を主として、児童には児童の心にわかるだけ誠実に事実を教えればよいと思う。虚偽の教育は偉大なる国民を養成するの道ではない。国史の教育は、事実を主とし事実について断定を下す場合には、その一事実のみならず、すべての他の事実をも一貫する判断の標準を与ふべきである。しからざれば教育の効果は単に信仰にとどまり感情に過ぎずして、思想浅薄なるがために、歴史の高等批評にあへばたちまち懐疑の念起こり、大煩悶に陥り道徳上の信念も失うに至るの恐れがある」(北朝正統論の浮田和民『太陽』)

③委任統治の重視(北朝正統論・南北朝両立論)
「正統の皇系であり先帝の譲位があったとしても、実際その政治に人心帰服せざれば、正統の天子と申すことはできぬ。古来実際において政党の皇系に属したまい、天下の民心帰服するときは、全部の通じて正統の天子であると申し奉ることができる」
「中古以来世の中は武家政治でなくては治まらぬ時勢となった。しかるに朝廷みだりに武家を倒さんとせられたのは承久のあやまりである。天皇親政といへばその名は美であるが、実は公家専制といふことに帰着する。蒙古襲来の時武家がなかったら日本はどうなったであらうか。思ひやらるるではないか。建武の中興の御政治は承久の目的を達せんとして失敗に終わったものである。武家政治でなければ治まらぬ世の中には公家政治は悪政となる政治の内容を見ずして南朝を正位とし北朝を不正いとする今日の議論は理論上性格といふことは出来ぬ」(北朝正統論の浮田和民『太陽』)

「世論政治の精神を以て南北朝のことを顧みよ。南朝方の主張する公家政治は当時の与論なりしや。尊氏の執れる武将政治主義は与論ならざりしや。・・・もしそれ多数の是認に戻るも、理はすなわち理なりと云はん乎。学術上ならイザ知らず、政治と不可分なる歴史上の事実に評論としては、甚だ首肯しがたき見也。もしこの見にして是ならば、与論政治なるものは永久生存を全たうすべきに非ず。専制政治、独裁政治が最上の政治ならざるべからざるものとならん。果然、立憲政治は無用に帰すべし」(南正北閏論『貿易新聞』)

「頼朝が武家政治を創めしも尊氏がこれを再興せしも家康がこれに倣ひしも畢竟時勢の所致なり。当時のわが国家にありてはその安寧秩序を保持促進するにおいて武家政治はまったくやむをえざりしなり。頼朝や家康を不忠の臣と認めざるにのみならず・・・・独り従来尊氏を責めしは兵力を以て天皇に対抗せしをもってなり。」
(南正北閏論の中心人物だった菊池謙二郎『日本及び日本人』)

◆天皇が武家に統治を委任し、それが民心の支持を得た事実を重視する。政治的には伊藤博文の立憲政治・政党政治への流れを肯定的にみている。
④天皇親政主義の重視(南朝正統論・北朝抹殺論)
「高時は量仁親王を擁立して天皇と称せり。これを光厳員とす」「尊氏は賊名を避けんがために豊仁親王を擁立して天皇と称せり。これを光明院とす」とすべきだとした。要するに京都は朝廷でも天皇でもないという立場。したがって「南朝」「北朝」という用語もありえないことになる。もちろん尊氏の京都は「賊軍」である。
(憲法学者の穂積八束の歴史部会での発言)

◆穂積の憲法理解は伊藤と比べて天皇親政的であり、反政党的だった。そして「万世一系の天皇は一人でなければならない」という理念が歴史の中にも事実として貫かれていると教えたほうが、より忠君愛国的な児童生徒が育てられるという考えだった。だから「京都」はあっても「北朝」ではなく天皇でもない。時代名は「吉野の朝廷時代」であり京都は4「賊軍」であるという主張になる。これが、軍や山県有朋らの「反伊藤・反政党政治」グループの支持を得た。


6 教育史的意義

南北朝正閏論は穂積八束ら少数派の「南正北閏・北朝抹殺論」で決着した2つの意義
①国民教育(国定教科書)において、忠君愛国主義が歴史主義(帝大系)に勝利した。
②国民教育において、山県有朋らの天皇親政主義的思想が伊藤博文らの政党政治主義的・委任政治主義的な思想に勝利した。

◆しかし学界や宮中では「南北朝両立論」または「両立論的南正北閏論」が維持された。
 南北朝時代をめぐって教育と歴史学が分離したとらえられている。久野収はこれを天皇理解に関する「顕教・密教」体制とよんだ。

◆さらに建武の中興の失政は大義名分を理解しない武士のために失敗したとされ、蘇我氏による崇峻天皇殺害の叙述も消え、天皇は無謬の神聖な存在と描かれていく。

◆穂積八束の忠君教育主義は弟子の上杉慎吉に受け継がれ、明治45年(1912)の上杉・美濃部達吉の「天皇機関説」論争になった。これをきっかけに中学校法制経済科の教科書が改められて、国民教育においては「天皇機関説」はタブーになっていった。教育と憲法学の分離である。

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