FC2ブログ

「ことば」だけであれこれ言っている教育の話はダメという話

日本史ランキング


社会科教育ランキング



たとえばこういう言説がある。

----------------------------------
Educationを「教育」と大誤訳し、教育にすり替えてしまったのは致命的失敗である。教育はTeachingに該当し、教えることで、才能をひき出すEducateは一切していないといっても過言ではなさそうである。
 教えるということは他人の頭を利用して考えさせることで、これでは自分で考える力の養成にはならない。真のEducationに対する適語として、本来の才能をひき出すという意味から、啓発教育をつめて啓育(心をひらく)としてはどうか。
-------------------------------------

実におかしい。
そもそもわが国の教育が明治に「Education」という英語が入ってから始まったことのように考えているのがおかしいが、いまはその話ではない。
それでそれは「才能を引き出す」という意味なのに、教育と翻訳してしまった。
それが間違いのもとだという。
だからこれからは教育と言わないで「啓育」としたらどうかというわけだ。

戦後の教育研究はたいがいこういう頭でっかちの議論ばかりが続いている。
それでますます泥沼にはまってしまった。

一年ほど前ぼくの講座に参加した中堅の男性教師(社会科教育の研究者だそうだが)が、
斎藤の授業は発問(子供に問題を出すこと)を教師が子供に押し付けてるからダメだと言った。
彼によれば、問題は子供たちが自分で考えて、それに自力で答えを出していく。「ぼくはそういう児童中心の教育」をやりたいんです!」

これもまた言葉だけ、口先だけのただのお話であって、彼は現実に触れていないことにまったく気づいていない。

ぼくは「教育は現場で起きているんだよ」と言うだけにしておいたがキョトンとしていた。「頑張っていい先生になってね!」と激励して別れたが、それきりになった。たぶんダメだと思う。教室の事実が見えず、言葉を転がしているだけの人をたくさん見てきた。

それで結論だが、「教育」「啓育」に変更しても教室の現実は何も変わらない。
そういう理屈が先に立ってもけしていい結果にはつながらないのだ。
そうではなくて教室で子供と向き合っている教師が「引き出す」授業をやることだろう。ただ、ぼくは教え込む(もし教え込めるなら)授業も場合によっては必要だと考えている。

同じように「子供が問題をつくって、自ら解決する」とうたった授業をいっぱい見てきたが感心させられたことは一度もない。
そもそも授業のプランに子供がつくるはずの問題が書いてある。教師にはその時間の「目標」があるからだ。
それでああでもないこうでもないしながら「子供に問題をつくらせる」までがたいへんで、それが解決したのかどうかは授業研究会ではほとんど扱われなかった。
そう理屈は「子供がつくった問題」というが、ほとんどの教室の現実は「教師がつくらせている問題」なのだ。
これは二重にまちがっている。

まず大事な問題は教師が用意しているのにそれを隠して嘘をついていること。
第二は最悪なんだけど、この用意した問題に子供を連れて行こうとする教授行為がクソなんだ。
教師はそうとは言わずに子供を誘導!していくのです。
子供たちは「先生は何を言わせたいんだろうか?」と考えているのだ。
実はこれが学校で行われている教授行為の中で最悪なのです。
思考は事実や資料に即した岩盤を掘削するような行為であるべきなのに、子供たちは目の前の権力者ひたすらおもねり忖度する訓練をさせられているのだ。

というわけで教育研究は現場の教員が事実に即して進めるのが最も正しいと考えている。
教師のどんな働きかけがあり、
子供がどんな顔をしているか?
子供がどんがことを考え話すか?
子供が一時間の授業で得たものは何か?
子供がこの教師の前で1年間かけてどう変容したか?
子供は授業を受けて成長したのか劣化したのか?

そういう事実の検証なくして教育研究はないのだ。
教育は教室という現場で起きているのfである。












関連記事
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック