今村均中将とインドネシアの独立

今村均中将とインドネシアの独立

 インドネシアがオランダの植民地になったのは、1605年、わが国の江戸時代が始まったばかりの時だった。それから三百数十年間、インドネシアは、人口わずか0.5%のオランダ人に支配され続けた。
 オランダの支配は過酷だった。
 インドネシア人は全生産額の六五%をオランダ人に収奪され、イスラム教の信仰が禁止された。
 オランダはインドネシア人から物も心もすべてを奪ったのである。
 インドネシア人には教育の機会は与えられなかった。
 だから、ほとんどの人は読み書きができなかった。これを愚民化政策という。教育が独立心を育てることを恐れたのだ。

 また、オランダ人は奪っただけでなく、インドネシア人を下等階級として差別した。
 都市にはインドネシア人が入れない地区があった。スイミングプールの入り口には「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書いてあった。
 オランダだけでなく、イギリスやフランスも、白人たちはみなこれと同様のやり方でアジアを支配した。
 その情け容赦のない圧政は、アジア人にとって避けることのできない運命のように見えた。
 白人はアジア人を支配し、アジア人は白人に支配される。それが世界のゆるぎない現実だった。

 1941年12月、日本はこの世界史の運命をひっくり返す戦争に突入した。
 大東亜戦争である。日本は「自存自衛のために」やむなく立ち上がったのだが、日本人がアジア人であったために、この戦争はおのずから植民地解放戦争という意義を担うことになった。
 とりわけインドネシアの日本統治においては、その意志が明確に示されたのである。



 1942年3月1日、今村均中将率いる第16軍は、総兵力5万5千でインドネシアのジャワ島上陸を敢行した。
 攻略は上陸後三ヶ月はかかるだろうと予想されていたが、わずか九日後に、オランダ軍司令官は全面降伏した。 インドネシア人が日本軍を歓迎し、オランダ軍が築いた障害物を撤去するなど、すすんで日本軍の進撃を助けたからである。
 進撃の途中に村の長老が今村中将にたずた。

「この国では何百年も昔から『いつか北方から同じ人種の強い軍団がやってきて、トウモロコシが実をつけるまでに我々の自由を取り戻してくれる』と言い伝えられていますが、あなた方は同じ人種でしょうか。言葉はちがっていますが」

 今村は答えた。
「われわれ日本民族の祖先には、この国から船で日本に渡ってきた人々もいます。みなさんと日本人は兄弟です。われわれは、みなさんに自由をもたらすために戦うのです」

 それはインドネシアに長く言い伝えられたジョヨボヨの予言のことだった。
 日本軍はこの予言を実現するためインドネシアにやって来たのだった。

 今村中将はバタビヤを占領し、そこを現地語のジャカルタに改名した。
 そして、投獄されていた独立運動の指導者スカルノとハッタを解放した。
 日本軍の司令部には過激な独立運動家を解放するのは危険だと反対する声が多かったが、今村は信念に従った。

「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。
 かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事である」

といい、スカルノとハッタに、よりよい政治と福祉を約束した。彼らは軍政に協力することを誓った。
 それから、今村の信念が次々と実行に移された。

 300近い言語をインドネシア語に統一し、民族として団結できる基盤がつくられた。
 イスラム教の信仰を回復し、彼らに誇りを取り戻させた。たくさんの学校をつくり教育に力を入れた。
 教育に対する日本の命令は「オランダ語の禁止、日本語・唱歌・教練を含むこと」だけで、あとはインドネシア人の自由に任された。
 現地人の担当者は、インドネシアの歴史を教えるなど、工夫してインドネシア国民の愛国心を育成した。
 州の長官、副長官など、行政の中枢にも現地人を登用した。州や市の参議会を作り議会運営も習得させた。
 こうしてインドネシア人の行政能力を育成していった。

 さらに極めつけはインドネシア義勇軍(PETA)を編成したことである。
 3万5千ものインドネシア人兵士と将校が育成され、これらの人々が後の対オランダ独立戦争の主役となっていったのである。



 1945年8月15日、日本は連合国に降伏した。
 二日後、スカルノとハッタはインドネシアの独立を宣言した。
 そして、インドネシア共和国憲法を採択し、それぞれ大統領、副大統領に就任した。
 ところが、オランダは、植民地の復活を図ってただちに行動を起こした。
 彼らは大東亜戦争後も、戦前と同様の植民地支配を続けようとしたのである。

 オランダは、降伏した日本軍に独立運動を阻止するよう命令してきた。
 しかし、今まで日本軍に協力してきた独立運動の幹部達は、必死に日本軍に支援を訴えた。
 日本軍の将校や兵士たちはこの願いに協力した。進駐してきたオランダ軍の目を盗んで、インドネシア側に兵器を渡したのである。
 こうして、小銃3万5千挺、戦車、装甲車、自動車など200台、中小口径砲など多数が、独立軍のものになった。

 すすんでインドネシア軍に身を投じて、独立戦争をともに戦った日本人も多かった。
 インドネシア兵は、日本人によって義勇軍の訓練は受けたが戦闘の経験はなかった。
 実戦に慣れないインドネシア人を率いて、日本人は常に先頭に立って戦った。
 その数は千とも2千とも言われるが、そのうち4百名ほどが戦死し、インドネシアの国立英雄墓地に眠っている。

 オランダとの独立戦争は1949年12月まで、5年5ヶ月も続いた。
 兵士こそ200万人いたが、武器は日本軍から手渡された数万挺の小銃が中心だった。
 オランダ軍は都市への無差別爆撃なども行い、死者80万人、負傷者1千万人ともいわれている。
 長すぎた独立戦争に対して、インドを始めとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理事会も撤兵勧告を行った。
 全世界の世論に押されてオランダはようやく再植民地化を諦めたのである。
 こうして、日本は白人たちとの戦争には敗れたが、
「彼らが独立を戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ」
 という今村均中将の言葉は実ったのである。
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授業づくりJAPANさいたま代表:齋藤武夫

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